伊勢物語 8段:浅間の嶽 あらすじ・原文・現代語訳

第7段
かへる浪
伊勢物語
第一部
第8段
浅間の嶽
第9段
東下り

 
 目次
 
 ・あらすじ(大意)
 
 ・原文対照 ・現代語訳(逐語解説)
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男が、京をもの憂く思い、東の方にいった際、浅間の嶽が見えて歌う。
 その火で煙が立っても、誰も咎めないなと。話はここまで。
 

 その思いのタケは、その非はどこからくるのかと(京から来ている)。
 誰も見てないのに吹きたてられた話が3~6段。膨れに膨れ、ボンボンの夜這い話になり、二条の后にケチがついた(咎めその1)。
 もう一つは、京で仕事していたら24段の梓弓の話になってしまった(咎めその2)。それで奥さんへの親への面目なさにかけて「嶽」。
 

 その京の思い(悔やみ・お悔やみの思い出)から離れて、咎めから、少しは離れられたのかと。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第8段 浅間の嶽
   
 むかし、男ありけり。  むかし、おとこありけり。 むかし男ありけり。そのおとこ。
      身はようなきものに思ひなして。
  京や住み憂かりけむ、 京やすみうかりけむ、 京にはをらじ。
  あづまのかたにゆきて あづまのかたにゆきて、 あづまのかたに
  住み所もとむとて、 すみ所もとむとて、 すむべき所もとめにとてゆきけり。
  ともとする人、ひとりふたりしてゆきけり。 ともとする人ひとりふたりしてゆきけり。  
  信濃の国、浅間の嶽に、 しなのゝくに、あさまのたけに しなののくにあさまのたけに。
  けぶりの立つを見て、 けぶりのたつを見て、 けぶりたつを見て。
       
♪9  信濃なる
 浅間の嶽にたつ煙
 しなのなる
 あさまのたけにたつけぶり
 しなのなる
 淺間のたけに立煙
  をちこち人の
  見やはとがめぬ
  をちこちびとの
  みやはとがめぬ
  をちかた人の
  見やはとかめぬ
   

現代語訳

 

むかし、男ありけり。
京や住み憂かりけむ、
あづまのかたにゆきて住み所もとむとて、
ともとする人、ひとりふたりしてゆきけり。

 
むかし、男ありけり
 むかし、男がいた。
 
 

身はようなきものに思ひなして
 
(塗籠特有の記述。つまり、
「その身を用ないものと思いなして」とは書いていない。だからそういう訳ではない。こういう安易な決めつけ的解釈・訳が、憂かりけむ理由。)
 
 

京や住み憂かりけむ
 京に住むのが、もの憂く思われたので、
(や=強調。で、ものすごい憂い。「にや(には)」を一字に縮め強調を強調。一つならよく目に入るだろうと。「これやこの」の「や」。

 憂い(うい・うれい):思うようにならなくて、つらい。せつない。悲しみ。嘆き。

 一つには、6段の芥河で、二条の忍びの五条へのお偲びの話が安いゴシップになったこと、もう一つは、24段の梓弓。)
 
 

あづまのかたにゆきて
 東の方に行って。
(「ゆきて」とあるから、初段で狩りに「往にけり」などとするのは、一字一句意味をもたせていると。これは大事)
 
 

住み所もとむとて
 住む所を求めようと(いって)
 
 

ともとする人、ひとりふたりしてゆきけり
 共とする人、一人二人と一緒に行った。
 
(ここは塗籠本にはない。だから注意。逆に大きな意味がある。
 表現を抽象化するのは、俗な意味がある(つまびらかにすることはそぐわないが、書く必要があった)から。)
 

 ともとする人:友と供、明言していない。つまり友と子供。とも見れる。
 なぜなら、①ここでは家を探していること、②次段では「友だちども」と明言しているため。
 この著者は一度書いたことは意味がないと繰り返さない。表現を変えるなら違う意味がある。
 

 ひとりふたりして; 特に意味があることは上述。
 前段では、陸路ではなく船(伊勢ー尾張間)に乗っている。だからまず子供がいる。そしてここから導かれるのは、女子供。
 

 ここで、この「ひとりふたり」という表現は、古今和歌集の仮名序・六歌仙評の冒頭にも見られる表現(歌の心、古のことをも知る者)。
 そして、一人の六歌仙が、三河の任の際、小町を誘った記録がある。実際はわからない。そして小町も不能だ何だと騒がれている(小町針。当然憂かり)。
 この符合からも、仮名序にいう「ひとりふたり」とはこの二人。本来の意味は違っても、こう見て良い。なぜなら、この二人は一人と同じだから。
 一人は前者。これは確実な根拠がある。またそうでなければ説明できない。仮名序の「ひとりふたり」の本来の意味は、業平を含めるか不明だったと。
 
 そしてさらにひるがえると、子供づれで赴任する時、家も探しやすいよう、物見遊山がてら小町を誘ったとも見れる(だから山を見ている)。
 なおその子の母親はいない。それが梓弓。これが一番大きな憂い。それに加えて、ある美女が偉そうな男達を断り続け、最後に煙立ち昇る話が竹取。
 つまり伊勢はこの男の物語で、竹取は彼女に捧げた物語。だから小野という人も出てくる(小野房盛とふさ子。かぐやと唯一会話する女子)。
 
 

信濃の国、浅間の嶽に、けぶりの立つを見て、
 
信濃なる 浅間の嶽に たつ煙
をちこち人の 見やはとがめぬ

 
信濃の国、浅間の嶽に
 信濃(長野)の国、浅間山に、
 

けぶりの立つを見て
 煙が立つのを見て、
 

信濃なる 浅間の嶽に たつ煙
 信濃にある、浅間のたけに たつ煙
:大きな、高い山。妻の父母の敬称。上述した子の母親にかけた文脈。しなので梓弓の子。それで自分を咎める気持ち。
 あさまやま、というのが素直なのに、あえて嶽にして、しかも繰り返す)
 

をちこち人の
 あちらこちらの人が
(塗籠は「をちかた人の」で都落に単純化させるが違う。こういう微妙に安易な改変の積み重ねで変になる。)
 

見やはとがめぬ
 見ても誰もとがめない。
(火のないところに煙はたたないとかけ、煙が立とう立たまいが、そんなことはここでは誰も気にしない。知りもしない。
 咎める:①自動詞(自分):悪いことをしたと心苦しくなる ②他動詞(他人):非難する、怪しく思い尋ねる)
 
 
※この歌の心は、京では咎めたという対比で、その内容は「京や憂かりけむ」で上述した2つの内容。

 1つは、二条の子は嫁入り前に変な話で②騒ぎ(芥河)になり(ケチがついて①)、もう1つは、①仕事ばかりで奥さんに悪いことしたと(梓弓)。

 さらに、をちこちが見ても咎めないと言っているので、京の②喧騒から離れて、①そこにまつわる悔やみからも離れた場所だな、と。
 しかし、誰も咎めぬが、自分は咎める。
 

 しかし、誰も咎めないと言っていることから、小町が来てくれたのかもしれない。
 つまり、仮に子供を連れていても、親子三人とみれば自然だから。でなければ、②人さらいとかで咎められかねない(それを暗示する挿入話が12段)。
 それに、さすがの小町なら、心も晴れるというもの。だからこの話の後で「さすが」が連発される。
 でも奥さんのかわりとかいう安易な気持ちじゃない。その証が竹取。5人の男と1人の美しい女性の話。
 こういう口実でもないと、日頃からの親しみ・大切にしている気持ちを表すことが、社会的にもできない。それでせめてもの償いと。