大和物語 成立・著者:900~930頃・伊勢の御

概要 大和物語
成立・著者
和歌一覧

 
 大和物語、その成立は一般には951年以降・作者は未詳とされるが、成立は900年~930年頃、伊勢の御(872頃-938)と。

 

 著者の根拠は、最初の段が宇多帝と伊勢の御の話から始まること(伊勢の御は宇多帝の御息所=今でいう不倫相手で、彼の話を暴露するつまり関係性を強める強い個人的動機があり、また宇多帝の出来事を多く知りうる客観的立場にある)、最初の和歌が伊勢の御であること(女性の歌から始まる主要作品は女性作品のみ。源氏物語・紫式部日記・和泉式部日記。ここから分かる著者像は極めて先進的で気の強い女性。ちなみに蜻蛉日記は夫の歌から始まる)、初段で伊勢の御が落書きした弘徽殿は最高の後宮で伊勢の御が仕えた中宮藤原温子の居所とされること(伊勢の御は極めて気が強く、強い方法で間接的自己表現をする性格と言える証拠)、宇多帝の話が物語に一貫して頻繁であること(宇多帝至近かつ女房目線)、女性の下の毛(下草)が長いと揶揄した、こやしくそ(くそ中のくそ)という男の短小さを揶揄する138段があること(素直に見れば女性目線)、295首と際立ち和歌が多作であること(905年の古今集で女性突出最多が伊勢の御で、同列の女流歌人は同時代にいない)。295首を超える同列以上の作品は源氏物語795首しかない(これも女性性を裏付ける)。

 

 成立は951年以降とされるが、それは大和物語が参照した伊勢物語の成立を遅らせたことによる(古今の昔男業平認定にお墨付きを与えた957年後撰集の撰者達の時代)。しかし伊勢物語成立論の根拠にある昔男業平想定は、諸々の筋を無視し、思い込みで伊勢物語を在五歌集と丸ごとみなした以上の根拠は今も昔もない。それを理論的に正当化するために、後の認定に基づき成立を無理に遅らせてきた。業平認定をリセットすると、伊勢物語は885年頃に成立(最後の帝が宇多帝先代の父・光孝天皇)、大和物語はその伝説を受けて伊勢の御存命の930年までの成立と見れば、宇多帝の譲位(897年)から始まる内容的にも、主観的描写からも、全て一貫して何の無理もなく通る。

 上記大和の成立年代は、登場人物など精読すれば多少狭められるかもしれないが、少なくとも伊勢の御以外の候補想定に多角的論理的根拠はなく、950年以降の成立とは言えない。またその直後に、夫の愚痴を綴る蜻蛉日記(954-975年)が出てくることも時間軸として急すぎる(上述した138段で男性機能をくさす女性の記述参照)。加えて蜻蛉日記の20年以上の執筆期間も、上記大和の執筆期間想定が妥当であることを裏付ける。

 

 以下では、この点につき細かい論拠を示す。

 

現状の理解

 
 
 まず現状の理解をWikipedia『大和物語』作者から引用する。

 作者について、古くは在原滋春や花山院が擬せられたが、現在に至るまで未詳である。内容が宇多天皇や周辺の人物の話題になることが多く、その成立には宇多天皇の身辺に侍っていた女房が関わっているといわれる。以下作者ではないかとされる人物を列挙する。

  • 説 (1):在原滋春(『伊勢物語』では在原業平が関係している点で。上覚『和歌色葉集』、一条兼良『伊勢物語愚見抄』)
  • 説 (2):在原滋春作・花山院加筆(北村季吟『大和物語抄』)
  • 説 (3):花山院(釈由阿『詞林采葉抄』、一条兼良『歌林良材集』、宮内省書陵部蔵一本甘露寺親長本、御巫本注記、林恕『本朝通鑑』続編)
  • 説 (4):伊勢(宇多天皇との関係から。伝源経信『伊勢物語知顕抄』、高橋正治『大和物語』(塙選書))
  • 説 (5):敦慶親王侍女大和(林恕『本朝通鑑』続編、木崎雅興『大和物語虚静抄』)
  • 説 (6):源順(阿部俊子『校注大和物語』)
  • 節 (7):伊予(宮内省書陵部蔵石沢久吉献納本の奥書)
  • 説 (8):清原元輔(妹尾好信『平安朝歌物語の研究:大和物語篇』)

 

大和物語の記述の特徴

 
 
 次に、大和物語の記述の特徴を見てみよう。
 個別の記述の解釈で左右されることではなく、なるべく外形それ自体から判明する特徴や、全体の客観的構造を見る。
 
 

最初の登場人物が宇多帝と伊勢の御

 
 まず最初の行為者が女性かつ伊勢の御、最初の歌も伊勢の御。ここで伊勢の御が出て来た理由は、著者性を示すものという以外に理由があるだろうか。何となくだろうか。
 
 土佐日記で最初に出てくるのは著者たる貫之で「やまとうたあるじの守」。
 伊勢物語の最初は、むかし男でこれが著者とみなされている。
 

歌物語(=物語相応の歌人)であること

 
 また大和物語は、1つの不自然な欠落を除き、全ての段で歌を持つ歌物語である。
 したがって、歌の構成が非常に重要である(だから上記の内容も極めて意味がある)。
 そして物書きというより、歌人の性格が極めて強い。
 
 これは、
 伊勢物語125段・209首
 大和物語173段・295首
 土佐日記  55日・60首
 宇治拾遺197話・19首
 徒然草 244段・5首
 奥の細道  44段・66首
 という比較からも明らかだろう。
 

 短い1話(1段)に1つ以上歌を入れるのは、相当多作の歌人、かつ歴代最高クラスの歌の実力者である(貫之・芭蕉より一段下がるが並びうる)。
 徒然の兼好も「為世門の四天王」とされてはいるが、同列の人々の知名度はほぼない。
 

 そしてこのような厚みの歌物語を記した者が、実生活で何らの片鱗も残していないことは、和歌隆盛の当時において事実上ありえない。
 大和はネームバリューは十分だが、記述年代でやや遅れるの土佐日記より一段下がるという所。だからそういう人が著者。まして後宮中枢の話がある。
 「侍女大和」や「伊予」加えて「花山院」は、この時点でない。これらの人々は貫之と並ぶほどではない。
 
 そして伊勢の御と貫之は、源氏物語で並び称されている。
 「亭子院の描かせたまひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる」(桐壺)。
 

特有の歌詞を持つこと

 
 歌詞に「ものにぞありける」が295首中9回も出てる(3.0%)。
 

 この詞は、古今では1111首中6首(0.5%)。不知3(うち1首・伊勢98段=昔男の代作)、貫之1、伊勢1、大江千里1である。
 後撰では1425首中13首(0.9%)。不知7、右大臣1、兼輔1、本院のくら1、源よしの朝臣1、武蔵1、せかゐのきみ1である。
 加えて、源氏物語では795首中2首(0.25%)。
 だからここで、この特に意味のなさそうな詞の歌が9首もあるのは、有意な偏りといえるだろう。
 
 また古今の人々は十分なネームバリューがあるが、後撰ではあっても数段下がる。
 大和物語の知名度と相応なのは古今の人々であり、後撰の人々はそこに及ばない。それらの人々が作者というのは役不足。
 大和物語の著者も、貫之や伊勢の御のような古今中核世代で、かつ百人一首レベルの人物と見るのが、順当な見方である。
 

伊勢の影響と「在中将」「在次君」呼称=非在原

 
 1段1段が基本的に短く、かつそこに歌を入れること、また終盤伊勢物語の複数参照から、伊勢の影響を極めて強く受けている。
 だから真っ先に在原息子(滋春)説があるのだろう。なぜ棟梁でなく滋春なのかは知らないが。
 
 しかしそもそも伊勢は業平の物ではありえない。
 伊勢63段の「在五中将」とせず、大和では「在中将」やその子を「在次君」としたのは、在五が蔑称という意識くらいはあるのだろう。
 

 それでも「在原」としていない点で、在原著者説はない。
 なぜなら、業平がとある藤原の者の面前で藤氏と言って(侮辱し)、周囲を閉口させた描写(みな人そし(誹)らずになりけり)が伊勢101段(藤の花)にあるからである。
 
 自分の名字で考えて欲しい。こういう名称をどう思うか。
 自分の親にそういう呼称をするだろうか。兄弟あるいは自分を「在次君」とするだろうか。
 親しみを込めた愛称と言われたらそう思えるか。まして伊勢63段では「在五」で「けぢめ見せぬ心」。
 

無記名=中枢に近い卑官の独自性

 
 上述した「在」呼称は、書き手が在原より上ということを意味しない。
 であれば、帝をかしこしと思わずとした竹取の著者は、院か何かか。無理だろう。
 帝の私生活に近く、そういう視点でものを見ているとは言える。
 共通しているのは、女の心情を、言寄られる女の立場の側から描いているということである。
 なぜ無名か。立場上出せないから。相応しくないから。しかしそれを上回るほど表現の動機がある。
 
 古来多作の文豪は、一般とかけ離れたレベルの頭脳を持っていることが普通。
 当時の文豪達はどうだったか。無名で地下で女官で女房。だからそういう属性の者で、かつ実力評が伝わっている者が本命。
 例外的に、確実かつ多角的な根拠があれば、地位が高い者の作ということもあるだろうが、そんな根拠はあったためしがない。
 
 

検討

 
 
 以上であげた要素をシンプルに満たすのは、冒頭のリストでは伊勢の御しかいない。
 侍女大和などは、どこから見つけてくるのか感心するが、名称以外に根拠はあるだろうか。歴史に残った歌物語の作者として。
 171段の「かの宮に大和といふ人さぶらひけるを」という表現は、伊勢の御の「弘徽殿の壁に、伊勢の御の書きつけける」(1段)「伊勢の御息所、男の心にて」(147段)と比較し、明らかに他人目線である。
 
 竹取も伊勢も、この時代の物語は当初、最初の登場人物で呼称されていたことがあった(竹取の翁の物語、昔男の物語)。
 したがって、これらを受けて一番最初の人物を伊勢の御とすること自体が、間接的なサインとも言える。
 

 伊勢の御は、1段における最初の行為者で歌手なのに、その後は147段以外言及がない。
 しかしこの147段(生田川)こそ、物語で最も歌が多い部分なのである。当然ながら、歌物語で歌が最も厚い所は、最重要の部分。
 このピンポイントの要所の配置と、無記名の謙抑さ・記述者の存在を全く消している記述と合わせ、冒頭は著者のサイン代わりと見ることができる。
 
 他人目線の描写は、まず伊勢のむかし男を受けているだろう。
 そして歌が最も厚い147段冒頭で「伊勢の御息所、男の心にて」とあることもそれをうかがわせる。
 この時代に女子がこの分量を書いたなら驚嘆に値するが、それでもも古今で小町を上回り女子第一であった伊勢なら、それでもおかしくないと思わせる。
 
 なお、大和物語は、伊勢物語の後を受けて、主に後宮周辺の女達向けに書かれたものと思う。