平家物語 巻第三 医師問答/小松殿死去:概要と原文

颷/辻風 平家物語
巻第三
医師問答
いしもんどう
異:小松殿死去
無文

〔概要〕
 
 小松殿こと平重盛(清盛の長男)は、先の災害に未来を案じ熊野詣。清盛の悪心を和らげるか、自らの運命を縮めることで安泰を祈ったところ、灯篭の火のようなものが身からぱっと出て消え、さらに部下の薄い色の衣が水に濡れ喪服のようになるしるしが起こり、自らの運命を悟った。その数日後、病にかかる。

 そこに清盛から宋国の名医が訪れていると使いがきたが、重盛はこう言って使いを返した。この病の意味を考えると天心(天命)であり、定業は治癒するもしないも天心である。定業が治癒できるなら釈迦は入滅するかいやしない。まして私は仏でもない。もしその医術にかかるなら日本の医療はないがごとしで国の恥になる、と滔滔と語って断り(医師問答)、出家し、その四日後に亡くなった。享年四十三歳。

 この重盛は、平家物語では一貫して横暴な清盛に心を痛め諫める人格者として描かれ、その一環としてこの死も描かれる。そしてこれで良識を持つ者が中枢に失われ、前章の旋風とも相まって、平家滅亡が間もなく始まる象徴的意味合いがある。

 


 
 小松の大臣、かやうの事どもを伝へ聞き給ひて、よろづ心細くや思はれけん、その頃熊野参詣の事ありけり。
 

 本宮証誠殿の御前にて、しづかに法施参らせて、夜もすがら敬白せられけるは、

 

 「親父入道相国の体を見るに、悪逆無道にして、ややもすれば君を悩まし奉る。重盛長子として、しきりに諫めを致すといへども、身不肖の間、彼もつて服膺せず。その振舞を見るに、一期の栄華なほ危し。枝葉連続して、親を顕し、名を上げん事難し。
 この時に当たつて、重盛いやしくも思へり。なまじひに列して、世に浮沈せん事、あへて良民孝子の法にあらず。如かじ、名を遁れ身を退いて、今生の名望を投げ捨てて、来世の菩提を求めんには。ただし凡夫薄地、是非に惑へるが故に、心ざしをなほ恣にせず、南無権現金剛童子、願はくは、子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷に交はるべくんば、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。
 栄耀また一期を限つて、後昆恥に及ぶべくんば、重盛が運命を縮めて、来世の苦輪を助け給へ。両箇の求願、ひとへに冥助を仰ぐ」

 

 と、肝胆をくだきて祈念せられければ、灯篭の火のやうなる物の、大臣の御身より出でて、ばつと消ゆるがごとくして失せにけり。
 人あまた見奉りけれども、恐れてこれを申さず。
 

 大臣下向の時、岩田川を渡られけるに、嫡子権亮少将維盛以下の公達、浄衣の下に薄色の衣を着て、夏の事なれば、何となく川の水に戯れ給ふほどに、浄衣の濡れて衣に移つたるが、ひとへに色のごとくに見えけるを、筑後守貞能これを見とがめて、「何と候ふやらん、あの御浄衣の、世にいまはしきやうに見えさせましまし候ふ。急ぎ召し替へらるべくや候ふらん」と申しければ、大臣、「我が所願すでに成就しにけり。あへてその浄衣改むべからず」とて、岩田川より別して熊野へ喜びの奉幣をぞたてられける。人あやしと思へども、なほその心をば得ざりけり。
 しかるにこの公達、ほどなくやがて、まことの色を着給ひけるこそ不思議なれ。
 

 大臣また下向の時、幾ばくの日数を経ずして、病つき給ひぬ。権現すでに御納受あるにこそとて、療治をもし給はず。祈祷をもいたされず。
 その頃宋朝よりすぐれたる名医渡つて、本朝にやすらふ事ありけり。折節入道相国は、福原の別業におはしけるが、越中前司盛俊を使者で、小松殿へ宣ひ遣はされけるは、「所労いよいよ大事なる由、その聞こえあり。かねてはまた宋朝よりすぐれたる名医渡れり。折節これを喜びとす。よつて彼を召し請じて、医療を加へしめ給へ」とぞ宣ひ遣はされたりける。
 

 小松殿助け起こされ、盛俊を御前へ召して対面あり。
 「まづ『医療の事、かしこまつて承り候ひぬ』と申すべし。ただし汝も承れ。延喜の帝は、さばかんの賢王にて渡らせ給ひしかども、異国の相人を都のうちへ入れられたりしことをば、末代までも賢王の御誤り、本朝の恥とこそ見えたれ。況んや重盛ほどの凡人が、異国の医師を王城へ入れん事、国の恥にあらずや。
 漢の高祖は、三尺の剣をひつ提げて天下を治めしかども、淮南の黥布を討つし時、流矢に当つて傷をかうぶる。后呂大后、良医を迎へて見せしむるに、医のいはく、『この傷治すべし。ただし五十斤の金を与へば治せん』といふ。高祖宣はく、『我まもりのつよかつしほどは、多くの戦ひに逢うて傷をかうぶりしかども、その痛みなし。運すでに尽きぬ。命はすなはち天に在り、扁鵲と雖も、何の益かあらん。しからばまた金を惜しむに似たり』とて、五十斤の金を医師に与へながら、遂に治せざりき。
 先言耳に在り、今もつて甘心す。重盛いやしくも九卿に列して三台に昇る。その運命を謀るに、もつて天心にあり。何ぞ天心を察せずして、愚かに医療を労しうせんや。所労もし定業たらば、医療を加ふるとも益なからんか。また非業たらば、療治を加へずとも、助かる事を得べし。
 かの耆婆が医術及ばずして、大覚世尊、滅度を跋提河の辺に唱ふ。これすなはち定業の病、療さざることを示さんがためなり。治するは仏体なり。療するは耆婆なり。定業なほ医療に拘るべう候はば、豈に釈尊入滅あらんや。定業また治すること堪へざる旨明らけし。
 しかれば重盛が身、仏体にあらず、名医また耆婆に及ぶべからず。たとひ四部の書を鑑みて、百療に長ずといふとも、いかでか有待の穢身を救療せん。たとひ五経の説を詳かにして、衆病を療すといふとも、いかでか豈に先世の業病を治せんや。もしかの医術によつて存命せば、本朝の医道なきに似たり。医術効験なくんば、面謁所詮なし。なかんづく本朝鼎臣の外相をもつて、異朝浮遊の来客にまみえん事、かつうは国の恥、かつうは道の凌遅なり。たとひ重盛命は亡ずといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらん。この由を申せ」とこそ宣ひけれ。
 

 盛俊泣く泣く福原へ馳せ下り、この由を申しければ、入道相国、「国の恥を思ふ大臣、上古にもいまだ聞かず。まして末代にあるべしともおぼえず。日本に相応せぬ大臣なれば、いかさまにも今度失せなんず」とて、急ぎ都へのぼられけり。
 

 七月二十八日、小松殿出家し給ひぬ。法名は浄蓮とこそつき給へ。やがて八月一日、臨終正念に住して失せ給ひぬ。御歳四十三。
 世は盛りとこそ見えつるに、あはれなりし事どもなり。
 「さしも入道相国の、横紙を破られつるも、この人のやうやうになだめ宣ひつればこそ、世も穏しかりつれ。今より後、天下にいかばかりの事か出で来んずらん」とて、上下みな嘆きあひ、悲しみあはれけり。
 

 また前右大将宗盛卿の方ざまの人々は、「世はただ今大将殿へ参りなんず」とて、勇み喜び合はれけり。
 

 人の親の子を思ふならひは、おろかなるが、先立つだにもかなしきぞかし。況んやこれは当家の棟梁、当世の賢人にておはしければ、恩愛の別れ、家の衰微、悲しんでもなほ余りあり。されば世には良臣を失ひつる事を歎き、家には武略の廃れぬることを悲しむ。
 

 およそはこの大臣、文章麗しうして、心に忠を存じ、才芸優れて、言葉に徳くを兼ね給へり。
 

颷/辻風 平家物語
巻第三
医師問答
いしもんどう
異:小松殿死去
無文