紫式部集2 鳴きよわる:原文対訳・逐語分析

1めぐり逢ひて 紫式部集
第一部
若かりし頃

2鳴きよわる
3露しげき
原文
(実践女子大本)
現代語訳
(渋谷栄一)
注釈
【渋谷栄一】
〈適宜当サイトで補注〉
その人、  その人は、 その人】-第一段の「はやうよりわらは友だちなりし人」〈後述〉
とほき所へ 遠い国へ

【とほき】-実践本「とをし」は定家の仮名遣い。

とほき所:19番「筑紫に肥前といふ所(九州の佐賀長崎)」と解する。後述。源氏物語の準主人公扱いで筑紫行きから始まる幼い玉鬘とも符合〉

行くなりけり。 下って行くというのであった。

【行くなりけり】-「なり」は断定の助動詞とも伝聞推定の助動詞とも解しうる。竹内美千代『紫式部集評釈』に従って後者の意で解す。

〈しかし文法分類は文意を直感的にとれない未熟者用の補助輪で、プロにはめこむのは本末転倒の極み。読者には安心かもしれないが、著者にはむしろ危険(ニュアンスの矮小無効化)。多重の意味=掛かりが古文最大の特徴の一つ〉

     
秋の果つる日きたる 秋の終わりの日が来た、 秋の果つる日】〈渋谷結論:982年10月12日(式部13歳)頃か。後掲〉
あかつき、 その早暁に、  
虫の声あはれなり。 虫の声がしみじみと鳴いていた。  
 
鳴きよわる 鳴き弱った

〈当然、鳴きを泣きと掛ける(新大系同旨)。本文「泣き」とする本もあるが、虫は泣かないし、ぼかした謙抑的表現で一貫しているので本来ではない〉

【よわる】-「よはる」は平安の仮名遣い。

まがきの虫も 垣根の虫も  
とめがたき 行く秋を止めがたいようにわたしもあなたが遠い国へ下って行くのを止められません 【とめがたき】-行く秋の止めがたさと人の行くことの止めがたさを懸ける。
秋の別れや 秋の別れは  
悲しかるらむ 何と悲しいことなのでしょう  
 

参考異本=後世の二次資料

*「とほき所へまかりける人のまうできてあか月かへりけるに、九月つくる日、むしのねもあはれなりければよめる 紫式部
 なきよわるまがきの虫もとめがたき秋のわかれやかなしかるらん」(陽明文庫本「千載集」離別 四七八)
*「なきよわるまがきの虫もとめがたき秋の別やかなしかるらん」(書陵部蔵本「時代不同歌合」一一二)
*「なきよわるまがきのむしもとめがたき秋のわかれやかなしかるらむ」(「女房三十六人歌合」六二)

秋の果つる日≠九月つくる日

 

【秋の果つる日】-別本に「九月つくる日」とある。「千載集」によった異文である。

〈しかし〉「秋果つる日」が旧暦九月の「尽日」また「晦日」とは限らない。「立冬」前日の意もある。「十月十日」以後に「秋果つる日」(立冬の前日)が来た年として、九七〇年から一〇一五年までの間に、天延二年(九七四)「十月十四日」、天元五年(九八二)「十月十二日」、正暦四年(九九三)「十月十四日」、長保三年(一〇〇一)「十月十三日」、寛弘六年(一〇〇九)「十月十一日」、長和元年(一〇一二)「十月十三日」がある。

 そのうちもっとも蓋然性が高いのは、天元五年(九八二)の「十月十二日」の紫式部十三歳(今井源衛『紫式部』人物叢書、九七〇年出生説)頃か。その年の正月二十八日、二十九日、三十日と続いた地方官の除目が翌二月一日朝に終了した。

 

 その時、「遠き所へ行く」ことが決まった者のうち名前のわかるのは、大江斉光(伊予守)、藤原佐理(伊予権守)、藤原時光(周防権守)、藤原義懐(備前権守)、藤原懐忠(備後権守)、源扶義(安芸権守)、伴義忠(伯耆権介)等である。

 

~以上渋谷注釈~色づけ太字は当サイト

 

とほき所→18番

 

 しかるに本2番詞書の「とほき所」は、18番詞書の「筑紫に肥前といふ所(より文おこせたる)」と解する。

 根拠は式部集の中で多角的にあり、

  1. 18番紫式部への返答歌19番枕詞「行きめぐり逢ふを松」が、本2番歌前提の1番歌枕詞「めぐり逢」と本歌集中で唯一符合すること
  2. 1番・19番の「めぐり逢」は式部の歌風を象徴する極めて特別な歌詞で、遠い距離(時間と空間)を隔てやっと会えた念願成就的歌詞であること
  3. さらに19番歌は越前下向の一連の話題に変わる直前の歌で、これと1番歌は言わば第一部の最初と最後の歌として対をなすこと

 以上から、1-2番と18-19番はその文言と配置により相応の符合があると見るべきである。

 

その人→19→16番

 

 上記1番「めぐり逢」・19番「行きめぐり逢」(相手)の対応から、16番「行きめぐり誰も都に」の「西の海の人」(通説は女とするがそれは1番の「人」も同様)も一体として解することができる。

 かつこの人は歌集序盤の夫の死後、遠く隔てて歌集終盤に出てくる月影の人(当然1番と符合)天の川の歌の人と無関係には見れない。

 

 この点、通説は恋歌とみなした歌は夫との贈答(終盤の月影も夫とし)、それ以外の歌は女の歌と脊髄反射的にみなすが、それは男本位の短絡的恋愛観を投影している。そもそもレールに乗って大真面目さが評価されてきた学者達が、なぜ稀代の多情な恋愛小説家の歌詞解釈に相応しいのか。源氏と明石のような「めぐり逢」と対極の男女関係で生きて来た人達ではないか。その意味では与謝野晶子が適任だったが、そのような彼女が和歌の解釈を明示しなかったのは相応の理由があると見るべきではないか(ただし、与謝野晶子の人生は式部に比べて型破り過ぎる)。

 

 前半の夫との一連の贈答はロマンスを全く感じさせず(「二心なしなど常に言ひわたりければ、うるさくて」29番)、暴言も吐かれているのに(「絶えば絶えなむ」33番)、その調子で一貫した冒頭部の歌と、歌集後半のロマンス調の歌詞の人を同じとみなすのはギャップが甚だしい。

 なぜこの時代の男は多妻・多子が普通としつつ、女だけは男はたった一人で男の死後すらなお一途と何を根拠にみなすのか。まして親父ほどの年の夫の死後、紫式部は若い美男子の物語を延々書いた。そのように都合の悪いことを都合よく無関係と思う現状の解釈は、はじめより一方的男本位の感性で構築されている。

 これと同じ論理で一部が常識と称する道長の愛人・特別な関係・ソウルメイト説が出現し、無知な人々に流布し構築された砂上の楼閣的な集団的認識によって既成事実化する循環論法が通用してきた。これが業平認定以来の古文の伝統で、解釈と称して文言をアクロバティックに曲げる読者本位の空想の注入。自身の作品を持つ人しか分からない感覚かもしれないが、著者本人的にはかなり苦痛でしばしば失笑や憤りを覚える。最近のニュースでも明らかなように、それを著者側の身勝手で傲慢の問題とおしこめてきた風土がこの集団主義的な国にはある。

 なお本項は全て独自説で、新大系・集成・岩波文庫等に類説はない。