平家物語 巻第四 橋合戦:概要と原文

大衆揃 平家物語
巻第四
橋合戦
はしがっせん
宮御最期

〔概要〕
 
 以仁王らは途中、宇治平等院で休息。そこを平知盛重衡軍が攻める(『玉葉』によれば重衡・維盛軍)。源頼政宇治橋の橋板をはずす。平家軍は「先陣が、橋をひいたぞ、あやまちすな、とどよみけれども、後陣はこれを聞きつけず、われさきにとすすむほどに、先陣二百余騎、おしおとされ、水におぼれて流れけり」となった。(Wikipedia『平家物語の内容』)

 


 
 さるほどに、宮は宇治と寺との間にて、六度まで御落馬ありけり。これは去んぬる夜、御寝のならざりしゆゑなりとて、宇治橋三間引きはづし、平等院に入れ奉て、しばらく御休息ありけり。
 

 都には、「すはや、高倉宮こそ南都へ落ちさせ給ふなれ。追つかけて討ち奉れ」とて、大将軍には、左兵衛督知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍大将には、上総守忠清、その子上総太郎判官忠綱、飛騨守景家、その子飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、都合その勢二万八千余騎、木幡山うち越えて、宇治橋の爪にぞ押し寄せたる。
 

 敵平等院にと見てんげれば、鬨をつくること三箇度なり。宮の御方にも同じう鬨の声をぞ合はせたる。
 先陣が、「橋を引いたぞ、過ちすな。橋を引いたぞ、謬ちすな」とどよみけれども、後陣はこれを聞きつけず、我先にと進むほどに、先陣二百余騎押し落とされ、水に溺れて失せにけり。
 

 橋の両方の爪にうつ立つて矢合はせす。宮の御方には、大矢俊長、五智院但馬、渡辺省、授、続源太が射ける矢ぞ、鎧もかけず、楯もたまらず通りける。源三位入道頼政は、長絹の鎧直垂に、科皮縅の鎧なり。今日を最後とや思はれけん、わざと甲は着給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧なり。弓を強う引かんがために、これも甲は着ざりけり。
 

 ここに五智院但馬、大長刀の鞘をはづいて、ただ一人橋の上にぞ進んだる。平家の方にはこれを見て、「あれ射とれや」とて、差しつめ引きつめ散々に射けれども、但馬少しも騒がず、上がる矢をばついくぐり、下がる矢をば跳り越え、向かつて来るをば長刀で切つて落とす。敵も味方も見物す。それよりしてこそ、『矢切りの但馬』とは言はれけれ。
 

 堂衆の中に、筒井浄妙明秀は、褐の直垂に黒皮縅の鎧着て、五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀をはき、二十四差いたる黒ぼろの矢負ひ、塗籠籐の弓に、好む白柄の大長刀取りそへて、橋の上にぞ進んだる。大音声を揚げて、「遠からん者は音にも聞き、近からん人は目にも見給へ。三井寺には隠れなし。堂衆の中に筒井浄妙明秀といふ一人当千の兵ぞや。我と思はん人々は寄り合へや。見参せん。」とて、二十四の矢を差しつめ引きつめ散々に射る。やにはに敵十二人射殺し、十一人に手負うせたれば、箙に一つぞ残つたる。
 弓をばからと投げ捨て、箙も解いて捨ててんげり。貫脱いで跣になり、橋の行桁をさらさらさらと走り渡り、人は恐れて渡らねども、浄妙房が心地には、一条二条の大路とこそ振舞うたれ。長刀で向かふ敵五人薙ぎふせ、六人に当たる敵に逢うて、長刀中より打ち折つて捨ててんげり。
 その後太刀を抜いて戦ふに、敵は大勢なり、蜘蛛手、かくなは、十文字、とんばうがへり、水車、八方すかさず切つたりけり。やにはに敵八人切りふせ、九人に当たる敵が甲の鉢に、あまりに強う打ち当てて、目貫の本よりちやうど折れ、くつと抜けて、川へざぶとぞ入りにける。頼む所は腰刀、死なんとのみぞ狂ひける。
 

 ここに乗円房阿闍梨慶秀が召し使ひける一来法師といふ大力の剛の者、浄妙坊が後ろに続いて戦ひけるが、行桁は狭し、そば通るべきやうはなし。浄妙房が甲の手先に手を置いて、「悪しう候ふ、浄妙房」とて、肩をづんど跳り越えてぞ戦ひける。一来法師つひに討ち死にしてんげり。
 

 浄妙房は這ふ這ふ帰つて、平等院の門の前なる芝の上に物の具脱ぎ捨て、矢目を数へたりければ六十三、裏かく矢は五所、されども大事の手ならねば、所々に灸治し、頭からげ、浄衣着て、弓切り杖に突き、平足駄履き、阿弥陀仏申して、奈良の方へぞまかりける。
 浄妙房が渡りたるを手本にして、三井寺の大衆、渡辺党、走り続き走り続き、我も我もと行桁をぞ渡りける。或いは分捕りして帰る者もあり、或いは痛手負うて腹かき切り、川へ飛び入る者もあり。橋の上の戦、火出づるほどにぞ戦ひける。
 

 これを見て平家の方の侍大将上総守忠清、大将軍の御前に参つて、「あれ御覧候へ。橋の上の戦、手いたう候ふ。今は川を渡すべきで候ふが、折節五月雨の頃、水まさつて候ふ。渡さば馬人多く失せ候ひなんず。いかがつかまつり候ふべき。淀、一口へや向かひ候ふべき。また河内路へや廻り候ふべき。」と申す所に、
 下野国の住人足利又太郎忠綱、進み出でて申しけるは、「淀、一口、河内路へは、天竺、震旦の武士を召して向けられ候はんずるか。それも我らこそ承つて向かひ候はんずれ。目にかけたる敵を討たずして、宮を南都へ入れ参らせ候ひなば、吉野、十津川の勢ども馳せ集まつて、いよいよ御大事でこそ候はんずらめ。
 武蔵と上野の境に利根川と申し候ふ大河候ふ。秩父、足利仲を違ひ、常は合戦をつかまつり候ひしに、大手は長井の渡り、搦め手は古河杉の渡りより寄せ候ひしに、上野国の住人新田入道、足利に語らはれて、杉の渡りより寄せんとて、設けたりける舟どもを、秩父が方より皆破られて、申し候ひしは、『ただ今ここを渡さずは、長き弓矢の疵なるべし。水に溺れて死なば死ね。いざ渡さう』とて、馬筏を作つて渡せばこそ渡しけめ、坂東武者の習ひ、敵を目にかけ、川を隔つる戦に、淵瀬嫌ふやうやある。この川の深さ早さ、利根川にいくほどの劣り優りはよもあらじ。続けや殿ばら」とて、真つ先にこそ打ち入れけれ。
 

 続く人々、大胡、大室、深須、山上、那波太郎、佐貫広綱四郎大夫、小野寺禅師太郎、辺屋子四郎、郎等には、切生六郎、宇夫方次郎、田中宗太をはじめとして、三百余騎ぞ続きける。
 足利大音声を揚げて、「強き馬をば上手に立てよ、弱き馬をば下手になせ。馬の足の及ばうほどは、手綱をくれて歩ませよ。撥まば掻い繰つて泳がせよ。下がらう者をば、弓の弭に取り付かせよ。手を取り組み、肩を並べて渡すべし。馬の頭沈まば引きあげよ。いつたう引いて引つかづくな。鞍壺によく乗り定まつて、鐙を強う踏め。水しとまば、三頭の上に乗りかかれ。馬には弱う、水には強うあたるべし。川中で弓引くな。敵射るとも相引きすな。常に錣を傾けよ。いつたう傾けて、手へん射さすな。かねに渡いて押し落とさるな。水にしなうて渡せや渡せ。」と掟てて、三百余騎、一騎も流さず、向かへの岸へざつとぞ打ち上げたる。
 

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