源氏物語 15帖 蓬生:あらすじ・目次・原文対訳

澪標 源氏物語
第一部
第15帖
蓬生
関屋

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 蓬生(よもぎう)のあらすじ

 光源氏が須磨へ蟄居してから帰京後までの話。

 源氏が都を追われ、後見を失った末摘花の生活は困窮を極めていた。邸は荒れ果てて召使たちも去り、受領の北の方となっている叔母が姫を娘の女房に迎えようとするが、末摘花は応じない。やがて源氏が帰京したが、末摘花は相変わらず忘れられたきりで嘆きに暮れる。そのうち叔母の夫が大宰大弐となり、叔母は末摘花が頼りにしていた乳母子の侍従を連れて行ってしまった。

 年も改まって春になり、ある夜花散里を訪ねようと出かけた源氏は、途中通りかかった荒れた邸が常陸宮邸であると気付く。藤原惟光が使いに立ち、今も末摘花が変わらず待ち続けていたことを知って、心打たれた源氏は姫の元を訪れる。源氏は末永い庇護を約束して再びその世話をし、2年後に末摘花を二条東院に引き取った

(以上Wikipedia蓬生より。色づけは本ページ)

 この段は源氏の真骨頂。末摘花は6巻で描かれた赤鼻の醜い女。それでも昔の契りを感じれば守るという。
 「忍びやかにうちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、昔よりはねびまさりたまへるにやと思さる」
 ここでの「昔」は前世で、「袖の香」はそれを裏付けている。この物語の「袖の香」は他生の縁・夫婦の前世。「ねびまさる」はおとなびたという親目線。

 しかし上に「末永い庇護を約束」したとあるが、その原文はどこだろうか。
 

目次
和歌抜粋内訳#蓬生(6首:別ページ)
主要登場人物
 
第15帖 蓬生(よもぎう)
 光る源氏の
 須磨明石離京時代から帰京後までの
 末摘花の物語
 
第一章 末摘花の物語
 光る源氏の須磨明石離京時代
 第一段 末摘花の孤独
 第二段 常陸宮邸の窮乏
 第三段 常陸宮邸の荒廃
 第四段 末摘花の気紛らし
 第五段 乳母子の侍従と叔母
 
第二章 末摘花の物語
 光る源氏帰京後
 第一段 顧みられない末摘花
 第二段 法華御八講
 第三段 叔母、末摘花を誘う
 第四段 侍従、叔母に従って離京
 第五段 常陸宮邸の寂寥
 
第三章 末摘花の物語
 久しぶりの再会の物語
 第一段 花散里訪問途上
 第二段 惟光、邸内を探る
 第三段 源氏、邸内に入る
 第四段 末摘花と再会
 
第四章 末摘花の物語
 その後の物語
 第一段 末摘花への生活援助
 第二段 常陸宮邸に活気戻る
 第三段 末摘花のその後
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
二十八歳から二十九歳
呼称:大将殿・権大納言殿・殿・大殿・君
末摘花(すえつむはな)
故常陸親王の娘
呼称:常陸宮の君・姫君・宮・君
禅師の君(ぜんじのきみ)
末摘花の兄
呼称:前師の君
北の方(きたのかた)
末摘花の母方の叔母
呼称:御叔母・大弐の北の方
侍従の君(じじゅうのきみ)
末摘花の乳母子
呼称:侍従
惟光(これみつ)
光る源氏の乳母子
呼称:惟光
花散里(はなちるさと)
源氏の愛人
呼称:花散里
紫の上(むらさきのうえ)
光る源氏の妻
呼称:二条の上・対の上

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  蓬生(よもぎう)
 
 

第一章 末摘花の物語 光る源氏の須磨明石離京時代

 
 

第一段 末摘花の孤独

 
1  藻塩垂れつつわびたまひしころほひ、都にも、さまざまに思し嘆く人多かりしを、さても、わが御身の拠り所あるは、一方の思ひこそ苦しげなりしか、二条の上なども、のどやかにて、旅の御住みかをもおぼつかなからず、聞こえ通ひたまひつつ、位を去りたまへる仮の御よそひをも、竹の子の世の憂き節を、時々につけてあつかひきこえたまふに、慰めたまひけむ、なかなか、その数と人にも知られず、立ち別れたまひしほどの御ありさまをも、よそのことに思ひやりたまふ人びとの、下の心くだきたまふたぐひ多かり。
 
 源氏の君が須磨の浦で「藻塩垂れながら」涙に暮れて過ごしていらっしゃったころ、都でもあれこれとお嘆きになっていらっしゃる方々が多かったが、そうはいってもご自身の生活によりどころのある方は、ただお一方をお慕いする思いだけは辛そうであったが、二条の上なども平穏なお暮らしで、君の旅のお暮らしをご心配申し上げ、お手紙をやりとりなさっては、官位をお退きになってからの仮りそめのご装束をも、この世の辛い生活につけても、季節ごとにご調進申し上げなさることによって心を慰めなさったであろうが、かえって君の妻妾の一人として世の人にも認められず、君がご離京なさった時のご様子にも、他人事のように聞いて思いやった人々で、内心をお痛めになった人も多かった。
 
2  常陸宮の君は、父親王の亡せたまひにし名残に、また思ひあつかふ人もなき御身にて、いみじう心細げなりしを、思ひかけぬ御ことの出で来て、訪らひきこえたまふこと絶えざりしを、いかめしき御勢にこそ、ことにもあらず、はかなきほどの御情けばかりと思したりしかど、待ち受けたまふ袂の狭きに、大空の星の光を盥の水に映したる心地して過ぐしたまひしほどに、かかる世の騷ぎ出で来て、なべての世憂く思し乱れしまぎれに、わざと深からぬ方の心ざしはうち忘れたるやうにて、遠くおはしましにしのち、ふりはへてしもえ尋ねきこえたまはず。
 その名残に、しばしは、泣く泣くも過ぐしたまひしを、年月経るままに、あはれにさびしき御ありさまなり。
 
 常陸宮の姫君は、父の親王がお亡くなりになってから、他には誰もお世話する人もないお身の上で、ひどく心細い有様であったが、思いがけない君のお通いが始まって、お心遣いをしてくださることは絶えなかったが、ただ大変なご威勢には大したこともないお情け程度とお思いではあったのだが、それを待ち受けていらっしゃる貧しい生活には、大空の星の光を盥の水に映したような気持ちがしてお過ごしになっていたところ、あのような世の中の騒動が起こって、おしなべて世の中が嫌なことに思い悩まれた折に、格別に深い関係ではない方への愛情は何となく忘れたようになって、遠く旅立ちなさった後は、わざわざお便りをさし上げることもおできになれない。
 かつてのご庇護のお蔭で、しばらくの間は泣きながらもお過ごしになっていらっしゃったが、歳月が過ぎるにしたがって実にお寂しいご様子である。
 
3  古き女ばらなどは、  昔からの女房などは、
4  「いでや、いと口惜しき御宿世なりけり。
 おぼえず神仏の現はれたまへらむやうなりし御心ばへに、かかるよすがも人は出でおはするものなりけりと、ありがたう見たてまつりしを、おほかたの世の事といひながら、また頼む方なき御ありさまこそ、悲しけれ」
 「いやはや、まったく情けないご運であった。
 思いがけない神仏がご出現なさったようであったお心寄せを受けて、このような頼りになることも出ていらっしゃるのだと、ありがたく拝見しておりましたが、世間一般のこととはいいながらも、また他には誰をも頼りにできないお身の上は、悲しいことです」
5  と、つぶやき嘆く。
 さる方にありつきたりしあなたの年ごろは、いふかひなきさびしさに目なれて過ぐしたまふを、なかなかすこし世づきてならひにける年月に、いと堪へがたく思ひ嘆くべし。
 すこしも、さてありぬべき人びとは、おのづから参りつきてありしを、皆次々に従ひて行き散りぬ。
 女ばらの命堪へぬもありて、月日に従ひては、上下人数少なくなりゆく。
 
 と、ぶつぶつ言って嘆く。
 あのような生活に馴れていた昔の長い年月は、何とも言いようもない寂しさに目なれてお過ごしになっていたが、なまじ少し世間並みの生活になった年月を送ったばかりに、かえってとても堪え難く嘆くのであろう。
 かつては少しでも女房として役立つ者たちは自然と参集して来たが、今ではみな次々と後を追って離散して行ってしまった。
 女房たちの中には亡くなった者もいて、月日の過ぎるにしたがって、上や下の女房も人数が少なくなって行く。
 
 
 

第二段 常陸宮邸の窮乏

 
6  もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の棲みかになりて、うとましう、気遠き木立に、梟の声を朝夕に耳ならしつつ、人気にこそ、さやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしからぬものども、所得て、やうやう形を現はし、ものわびしきことのみ数知らぬに、まれまれ残りてさぶらふ人は、  もともと荒れていた宮の邸の中は、ますます狐の棲み家となって、気味が悪く人気のない木立に、梟の声を毎日耳にして、かつては人気があることによってそのような物どもも阻まれて姿を隠していたが、今は木霊などの怪異の物どもが、我がもの顔をしてだんだんと姿を現し、何ともやりきれないことばかりが数知らず増えて行くので、たまたま残っていてお仕えしている女房は、
7  「なほ、いとわりなし。
 この受領どもの、おもしろき家造り好むが、この宮の木立を心につけて、放ちたまはせてむやと、ほとりにつきて、案内し申さするを、さやうにせさせたまひて、いとかう、もの恐ろしからぬ御住まひに、思し移ろはなむ。
 立ちとまりさぶらふ人も、いと堪へがたし」
 「やはり、まことに困ったことです。
 最近の受領どもで風流な家造りを好む者が、この宮の木立に心をかけて、お手放しにならないかと伝を求めてご意向を伺わせていますが、そのようにお考えあそばして、とてもこう恐ろしくないお住まいにご転居をお考えになってください。
 今も残って仕えている者も、とても我慢できません」
8  など聞こゆれど、  などと申し上げるが、
9  「あな、いみじや。
 人の聞き思はむこともあり。
 生ける世に、しか名残なきわざ、いかがせむ。
 かく恐ろしげに荒れ果てぬれど、親の御影とまりたる心地する古き住みかと思ふに、慰みてこそあれ」
 「まあ、とんでもありません。
 世間の外聞もあります。
 わたしが生きているうちにそのようなお形見を何もかも無くしてしまうなんて、どうしてできましょう。
 このように恐ろしそうにすっかり荒れてしまったが、親の面影がとどまっている心地がする懐かしい住まいだと思うから、慰められるのです」
10  と、うち泣きつつ、思しもかけず。
 
 と、泣く泣くおっしゃって、お考えにも入れない。
 
11  御調度どもを、いと古代になれたるが、昔やうにてうるはしきを、なまもののゆゑ知らむと思へる人、さるもの要じて、わざとその人かの人にせさせたまへると尋ね聞きて、案内するも、おのづからかかる貧しきあたりと思ひあなづりて言ひ来るを、例の女ばら、  お道具類もたいそう古風で使い馴れているのが昔風で立派なのを、なまはんかに風流ぶろうとする者が、そのような物を欲しがって、特別にあの名人この名人にお作らせになったのだと聞き出して、お伺いを立てるのも、自然とこのような貧しいあたりと侮って言って来るのを、例の女房は、
12  「いかがはせむ。
 そこそは世の常のこと」
 「しかたがございません。
 そうすることが世間一般のこと」
13  とて、取り紛らはしつつ、目に近き今日明日の見苦しさを繕はむとする時もあるを、いみじう諌めたまひて、  と思って、目立たぬように取り計らって、眼前の今日明日の生活の不自由を繕う時もあるのを、きつくお叱りになって、
14  「見よと思ひたまひてこそ、しおかせたまひけめ。
 などてか、軽々しき人の家の飾りとはなさむ。
 亡き人の御本意違はむが、あはれなること」
 「わたしのためにとお考えになって、お作らせになったのでしょう。
 どうして、賤しい人の家の飾り物にさせましょうか。
 亡きお父上のご遺志に背くのが、たまりません」
15  とのたまひて、さるわざはせさせたまはず。
 
 とおっしゃって、そのようなことはおさせにならない。
 
 
 

第三段 常陸宮邸の荒廃

 
16  はかなきことにても、見訪らひきこゆる人はなき御身なり。
 ただ、御兄の禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふ時は、さしのぞきたまへど、それも、世になき古めき人にて、同じき法師といふなかにも、たづきなく、この世を離れたる聖にものしたまひて、しげき草、蓬をだに、かき払はむものとも思ひ寄りたまはず。
 
 ちょっとした用件でも、お訪ね申し上げる人はないお身の上である。
 ただ、ご兄妹の禅師の君だけが、たまに京にお出になる時にはお立ち寄りになるが、その方も世にもまれな古風な方で、同じ法師という中でも、処世の道を知らないこの世離れした僧でいらっしゃって、生い茂った草や蓬でさえ、かき払うものともお考えつきにならない。
 
17  かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒を争ひて生ひのぼる。
 葎は西東の御門を閉ぢこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞ、めざましき。
 
 このような状態で、浅茅は庭の表面も見えず生え、生い茂った蓬生は軒と丈を争って伸びている。
 葎は西や東の御門を鎖し固めているのは心強いが、崩れがかった周囲の土築を馬や牛などが踏みならして通り道にしていて、春や夏ともなると、邸内に放ち飼いする牧童どもの料簡も、けしからぬことである。
 
18  八月、野分荒かりし年、廊どもも倒れ伏し、下の屋どもの、はかなき板葺なりしなどは、骨のみわづかに残りて、立ちとまる下衆だになし。
 煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり。
 
 八月に野分の激しかった年、あちこちの渡廊が倒れ伏し、幾棟もの雑舎の粗末な板葺きであったのなどは、骨組みだけがわずかに残って、住み残る下仕えさえいない。
 炊事の煙も上らなくなってお気の毒なことが多かった。
 
19  盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりの寂しければにや、この宮をば不要のものに踏み過ぎて、寄り来ざりければ、かくいみじき野良、薮なれども、さすがに寝殿のうちばかりは、ありし御しつらひ変らず、つややかに掻い掃きなどする人もなし。
 塵は積もれど、紛るることなきうるはしき御住まひにて、明かし暮らしたまふ。
 
 盗人などという情け容赦のない連中も、想像するだけで貧乏と思ってか、この邸を無用のものと通り過ぎて、寄りつきもしなかったので、このようにひどい野原や薮原ではあるが、それでも寝殿の中だけは、昔の装飾と変わらないが、しかしつやつやと掃いたり拭いたりする人もいない。
 塵は積もっても、れっきとした荘厳なお住まいでお過ごしになっている。
 
 
 

第四段 末摘花の気紛らし

 
20  はかなき古歌、物語などやうのすさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住まひをも思ひ慰むるわざなめれ、さやうのことにも心遅くものしたまふ。
 わざと好ましからねど、おのづからまた急ぐことなきほどは、同じ心なる文通はしなどうちしてこそ、若き人は木草につけても心を慰めたまふべけれど、親のもてかしづきたまひし御心掟のままに、世の中をつつましきものに思して、まれにも言通ひたまふべき御あたりをも、さらに馴れたまはず、古りにたる御厨子開けて、『唐守』、『藐姑射の刀自』、『かぐや姫の物語』の絵に描きたるをぞ、時々のまさぐりものにしたまふ。
 
 たわいもない古歌や物語などみたいな物を慰み事にして無聊を紛らわし、このような生活でも慰める方法なのであろうが、そのような方面にも関心が鈍くていらっしゃる。
 特に風流ぶらずとも、自然と急ぐ用事もない時には、気の合う者どうしで手紙の書き交わしなど気軽にし合って、若い人は木や草につけて心をお慰めになるはずなのだが、父宮が大事にお育てになったお考えどおりに、世間を用心すべきものとお思いになって、たまには文通なさってもよさそうなご関係の方にも、まったくお親しみにならず、古くなった御厨子を開けて、『唐守』『藐姑射の刀自』『かぐや姫の物語』などの絵に描いてあるのを、時々のもて遊び物にしていらっしゃる。
 
21  古歌とても、をかしきやうに選り出で、題をも読人をもあらはし心得たるこそ見所もありけれ、うるはしき紙屋紙、陸奥紙などのふくだめるに、古言どもの目馴れたるなどは、いとすさまじげなるを、せめて眺めたまふ折々は、ひき広げたまふ。
 今の世の人のすめる、経うち読み、行なひなどいふことは、いと恥づかしくしたまひて、見たてまつる人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。
 かやうにうるはしくぞものしたまひける。
 
 古歌といっても、優雅な趣向で選び出して、題詞や読人をはっきりさせて鑑賞するのは見所もあるが、きちんとした紙屋紙や陸奥紙などの厚ぼったいのに、古歌のありふれた歌が書かれているのなどは、実に興ざめな感じがするが、つとめて物思いに耽りなさるような時々には、お広げになっている。
 今の時代の人が好んでするような、読経をちょっとしたり、勤行などということは、とてもきまり悪いものとお考えになって、拝見する人もいないのだが、数珠などをお取り寄せにはならない。
 このように万事きちんとしていらっしゃるのであった。
 
 
 

第五段 乳母子の侍従と叔母

 
22  侍従などいひし御乳母子のみこそ、年ごろあくがれ果てぬ者にてさぶらひつれど、通ひ参りし斎院亡せたまひなどして、いと堪へがたく心細きに、この姫君の母北の方のはらから、世におちぶれて受領の北の方になりたまへるありけり。
 
 侍従などと言った御乳母子だけが、長年お暇も取ろうともしない者としてお仕えしていたが、お出入りしていた斎院がお亡くなりなったりなどして、まことに生活が苦しく心細い気がしていたところ、この姫君の母北の方の姉妹で、落ちぶれて受領の北の方におなりになっていた人がいた。
 
23  娘どもかしづきて、よろしき若人どもも、「むげに知らぬ所よりは、親どももまうで通ひしを」と思ひて、時々行き通ふ。
 この姫君は、かく人疎き御癖なれば、むつましくも言ひ通ひたまはず。
 
 その人が娘たちを大切にしていて、また見苦しくない若い女房たちも、「全然知らない家よりは、親たちが出入りしていた所を」と思って、時々出入りしている。
 この姫君は、このように人見知りするご性格なので、親しくお付き合いなさらない。
 
24  「おのれをばおとしめたまひて、面伏せに思したりしかば、姫君の御ありさまの心苦しげなるも、え訪らひきこえず」  「姉君はわたしを軽蔑なさって、不名誉にお思いであったから、姫君のご生活が困窮しているようなのも、お見舞い申し上げられないのです」
25  など、なま憎げなる言葉ども言ひ聞かせつつ、時々聞こえけり。
 
 などと、こ憎らしい言葉を侍従に言って聞かせては、時々手紙を差し上げた。
 
26  もとよりありつきたるさやうの並々の人は、なかなかよき人の真似に心をつくろひ、思ひ上がるも多かるを、やむごとなき筋ながらも、かうまで落つべき宿世ありければにや、心すこしなほなほしき御叔母にぞありける。
 
 もともと生まれついたそのような並みの人は、かえって高貴な人の真似をすることに神経をつかって、お高くとまっている人も多くいるが、高貴なお血筋ながらも、こうまで落ちぶれる運命だったからであろうか、心が少し卑しい叔母だったのであった。
 
27  「わがかく劣りのさまにて、あなづらはしく思はれたりしを、いかで、かかる世の末に、この君を、わが娘どもの使人になしてしがな。
 心ばせなどの古びたる方こそあれ、いとうしろやすき後見ならむ」と思ひて、
 「わたしがこのように落ちぶれたさまを、軽蔑されていたのだから、何とかして、このような宮家の衰退した折に、この姫君を自分の娘たちの召し使いにしたいものだ。
 考え方の古風なところがあるが、それはいかにも安心できる世話役といえよう」と思って、
28  「時々ここに渡らせたまひて。
 御琴の音もうけたまはらまほしがる人なむはべる」
 「時々こちらにお出あそばして。
 お琴の音を聴きたがっている人がおります」
29  と聞こえけり。
 この侍従も、常に言ひもよほせど、人にいどむ心にはあらで、ただこちたき御ものづつみなれば、さもむつびたまはぬを、ねたしとなむ思ひける。
 
 と申し上げた。
 この侍従も、いつもお勧めするが、人に張り合う気持ちからではないが、ただ大変なお引っ込み思案なので、そのように親しくなさらないのを、憎らしく思うのであった。
 
30  かかるほどに、かの家主人、大弐になりぬ。
 娘どもあるべきさまに見置きて、下りなむとす。
 この君を、なほも誘はむの心深くて、
 こうしているうちに、あの叔母の夫が大宰大弍になった。
 娘たちをしかるべく縁づけて筑紫に下向しようとする。
 この姫君をなおも誘おうという執念が深くて、
31  「はるかに、かくまかりなむとするに、心細き御ありさまの、常にしも訪らひきこえねど、近き頼みはべりつるほどこそあれ、いとあはれにうしろめたくなむ」  「遥か遠方に、このように赴任することになりましたが、姫君の心細いご様子が気がかりで、つねにお見舞い申し上げていたわけではありませんでしたが、近くにいるという安心感があった間はともかく、とても気の毒で心配でなりません」
32  など、言よがるを、さらに受け引きたまはねば、  などと、言葉巧みに言うが、まったく同行をご承知なさらないので、
33  「あな、憎。
 ことことしや。
 心一つに思し上がるとも、さる薮原に年経たまふ人を、大将殿も、やむごとなくしも思ひきこえたまはじ」
 「まあ、憎らしい。
 ご大層なこと。
 自分一人お高くとまっていても、あのような薮原に過ごしていらっしゃる人を、大将殿も大事にお思い申し上げないでしょう」
34  など、怨じうけひけり。
 
 などと、恨んだり呪ったりしているのであった。
 
 
 

第二章 末摘花の物語 光る源氏帰京後

 
 

第一段 顧みられない末摘花

 
35  さるほどに、げに世の中に赦されたまひて、都に帰りたまふと、天の下の喜びにて立ち騒ぐ。
 我もいかで、人より先に、深き心ざしを御覧ぜられむとのみ、思ひきほふ男、女につけて、高きをも下れるをも、人の心ばへを見たまふに、あはれに思し知ること、さまざまなり。
 かやうに、あわたたしきほどに、さらに思ひ出でたまふけしき見えで月日経ぬ。
 
 そうこうしているうちに、はたして源氏の君が天下に赦免されなさって、都にお帰りになるというので、世の中の慶事として大騷ぎする。
 自分も何とか人より先に深い誠意をご理解いただこうとばかりに、競い合っている男や女につけて、身分の貴い人にもまた賤しい人にも、人の心の動きを御覧になるにつけ、しみじみと考えさせられることがさまざまである。
 このようにあわただしいうちに、まったくお思い出しになる様子もなく月日が過ぎた。
 
36  「今は限りなりけり。
 年ごろ、あらぬさまなる御さまを、悲しういみじきことを思ひながらも、萌え出づる春に逢ひたまはなむと念じわたりつれど、たびしかはらなどまで喜び思ふなる、御位改まりなどするを、よそにのみ聞くべきなりけり。
 悲しかりし折のうれはしさは、ただわが身一つのためになれるとおぼえし、かひなき世かな」と、心くだけて、つらく悲しければ、人知れず音をのみ泣きたまふ。
 
 「今はもうお終いだわ。
 長い年月、ご不運な生活を悲しくお気の毒なことと思いながらも、『万物の蘇る春に』めぐりあっていただきたいと願っていたが、とるにたらない下賤な者までが喜んでいるという、君がご昇進などするのを他人事として聞かねばならないのだった。
 悲しかった時の嘆かしさは、『ただ自分ひとりのために』起こったのだと思ったが、嘆いても甲斐のない仲だわ」とがっかりして、辛く悲しいので、人知れず声を立ててお泣きになるばかりである。
 
37  大弐の北の方、  大弍の北の方は、
38  「さればよ。
 まさに、かくたづきなく、人悪ろき御ありさまを、数まへたまふ人はありなむや。
 仏、聖も、罪軽きをこそ導きよくしたまふなれ、かかる御ありさまにて、たけく世を思し、宮、上などのおはせし時のままにならひたまへる、御心おごりの、いとほしきこと」
 「それ見たことか。
 いったい、このように不如意で体裁の悪い人のご様子を、一人前にお扱いになる方がありましょうか。
 仏や聖も、罪の軽い人をよくお導きもなさるというものだが、このようなご様子で、偉そうに世間を見下しなさって、父宮や母上などが生きていらした時のままと同じようでいらっしゃる、そのご高慢が不憫なこと」
39  と、いとどをこがましげに思ひて、  と、ますます馬鹿らしく思って、
40  「なほ、思ほし立ちね。
 世の憂き時は、見えぬ山路をこそは尋ぬなれ。
 田舎などは、むつかしきものと思しやるらめど、ひたぶるに人悪ろげには、よも、もてなしきこえじ」
 「やはり、ご決心なさい。
 何かとうまく行かない時は、『何も見なくてすむ山奥へ入りこむ』というものですよ。
 地方などはむさ苦しい所とお思いでしょうが、むやみに体裁の悪いもてなしは、けっして致しません」
41  など、いと言よく言へば、むげに屈んじにたる女ばら、  などと、とても言葉巧みに言うと、すっかり元気をなくしている女房たちは、
42  「さもなびきたまはなむ。
 たけきこともあるまじき御身を、いかに思して、かく立てたる御心ならむ」
 「そのようにご承知なさってほしい。
 たいしたこともなさそうなお身の上を、どうお考えになって、このように意地をお張りになるのだろう」
43  と、もどきつぶやく。
 
 と、ぶつぶつと非難する。
 
44  侍従も、かの大弐の甥だつ人、語らひつきて、とどむべくもあらざりければ、心よりほかに出で立ちて、  侍従も、あの大弍の甥に当たる人と契りを結んで、都に残して行くはずもなかったので、不本意ながら出発することになって、
45  「見たてまつり置かむが、いと心苦しきを」  「お残し申したままで出立するのが、とても心残りです」
46  とて、そそのかしきこゆれど、なほ、かくかけ離れて久しうなりたまひぬる人に頼みをかけたまふ。
 御心のうちに、「さりとも、あり経ても、思し出づるついであらじやは。
 あはれに心深き契りをしたまひしに、わが身は憂くて、かく忘られたるにこそあれ、風のつてにても、我かくいみじきありさまを聞きつけたまはば、かならず訪らひ出でたまひてむ」と、年ごろ思しければ、おほかたの御家居も、ありしよりけにあさましけれど、わが心もて、はかなき御調度どもなども取り失はせたまはず、心強く同じさまにて念じ過ごしたまふなりけり。
 
 と言って、お誘い申し上げるが、やはりこのように離れてしばらくになってしまった方に期待をかけなさっている。
 お心の中では、「いくら何でも、時のたつうちには、お思い出しくださる機会のないことがあろうか。
 しみじみと深いお約束をなさったのだから、わが身の上はつらくてこのように忘れられているようであるが、風の便りにでも、わたしのこのようにひどい暮らしをお耳になさったら、きっとお訪ねになってくださるにちがいない」と、長年お思いになっていたので、おおよそのお住まいも以前より実に荒廃してひどいが、ご自分のお考えで、ちょっとした御調度類なども失くさないようにさせなさって、辛抱強く同じように堪え忍んでてお過ごしになっているのであった。
 
47  音泣きがちに、いとど思し沈みたるは、ただ山人の赤き木の実一つを顔に放たぬと見えたまふ、御側目などは、おぼろけの人の見たてまつりゆるすべきにもあらずかし。
 詳しくは聞こえじ。
 いとほしう、もの言ひさがなきやうなり。
 
 声を立てて泣き暮らしながら、ますます悲嘆に暮れていらっしゃるのは、まるで山人が赤い木の実一つを顔から放さないようにお見えになる、その横顔などは、普通の男性ではとても堪えて拝見できないご容貌である。
 詳しくはお話し申し上げられない。
 お気の毒で、あまりに口が悪いようであるから。
 
 
 

第二段 法華御八講

 
48  冬になりゆくままに、いとど、かき付かむかたなく、悲しげに眺め過ごしたまふ。
 かの殿には、故院の御料の御八講、世の中ゆすりてしたまふ。
 ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐれ行なひにしみ、尊き限りを選らせたまひければ、この禅師の君参りたまへりけり。
 
 冬になってゆくにつれて、ますますすがりつくべきてだてもなく、悲しそうに物思いに沈んでお過ごしになる。
 あの殿におかれては、故院の御追善の御八講を、世間でも大騷ぎとなって盛大に催しなさる。
 特に僧侶などは、普通の僧はお召しにならず、学問が優れ修行を積んだ高徳の僧だけをお選びあそばしたので、この禅師の君も参上なさっていた。
 
49  帰りざまに立ち寄りたまひて、  帰りがけにお立ち寄りになって、
50  「しかしか。
 権大納言殿の御八講に参りてはべるなり。
 いとかしこう、生ける浄土の飾りに劣らず、いかめしうおもしろきことどもの限りをなむしたまひつる。
 仏菩薩の変化の身にこそものしたまふめれ。
 五つの濁り深き世に、などて生まれたまひけむ」
 「これこれの次第です。
 権大納言殿の御八講に参上しておったのです。
 たいそう立派で、この世の極楽浄土の装飾に負けず、荘厳で興趣のぜいをお尽くしになっていた。
 仏か菩薩の化身でいらっしゃるのだろう。
 五濁に深く染まっているこの世に、どうしてお生まれになったのだろうか」
51  と言ひて、やがて出でたまひぬ。
 
 と言って、そのまますぐにお帰りになってしまった。
 
52  言少なに、世の人に似ぬ御あはひにて、かひなき世の物語をだにえ聞こえ合はせたまはず。
 「さても、かばかりつたなき身のありさまを、あはれにおぼつかなくて過ぐしたまふは、心憂の仏菩薩や」と、つらうおぼゆるを、「げに、限りなめり」と、やうやう思ひなりたまふに、大弐の北の方、にはかに来たり。
 
 言葉少なで、世間の人と違ったご兄妹どうしであって、ちょっとした世間話でさえお交わしなされない。
 「それにしても、このように不甲斐ない身の上を、悲しく不安なままに放ってお過ごしになるとは、辛い仏菩薩様だわ」と、辛く思われるが、「いかにも、これきりの縁なのだろう」と、だんだんお考えになっているところに、大弐の北の方が、急に来た。
 
 
 

第三段 叔母、末摘花を誘う

 
53  例はさしもむつびぬを、誘ひ立てむの心にて、たてまつるべき御装束など調じて、よき車に乗りて、面もち、けしき、ほこりかにもの思ひなげなるさまして、ゆくりもなく走り来て、門開けさするより、人悪ろく寂しきこと、限りもなし。
 左右の戸もみなよろぼひ倒れにければ、男ども助けてとかく開け騒ぐ。
 いづれか、この寂しき宿にもかならず分けたる跡あなる三つの径と、たどる。
 
 いつもはそんなに親しくしないのに、お誘い申そうとの考えで、お召しになるご装束などを準備して、立派な車に乗って、顔つきや態度も得意に物思いのない様子で、予告もなくやって来て、門を開けさせるや、見苦しく寂しい様子は、この上もない。
 門の左右の扉もみな傾き倒れてしまっていたので、男たちが手助けをして、あれこれと大騷ぎして開ける。
 どれがそれか、この寂しい宿にも必ず踏み分けた跡があるという三つの道はと、探し当てて行く。
 
54  わづかに南面の格子上げたる間に寄せたれば、いとどはしたなしと思したれど、あさましう煤けたる几帳さし出でて、侍従出で来たり。
 容貌など、衰へにけり。
 年ごろいたうつひえたれど、なほものきよげによしあるさまして、かたじけなくとも、取り変へつべく見ゆ。
 
 かろうじて南面の格子を上げている一間に車を寄せたので、ますますどうしてよいか分からなくお思いになったが、あきれるくらい煤けた几帳を差し出して、侍従が出て来た。
 容貌などは衰えてしまっていた。
 長年のうちにひどくやせ細っているが、やはりどことなく品のある感じで、恐れ多いことであるが、姫君と取り替えたいくらいに見える。
 
55  「出で立ちなむことを思ひながら、心苦しきありさまの見捨てたてまつりがたきを。
 侍従の迎へになむ参り来たる。
 心憂く思し隔てて、御みづからこそあからさまにも渡らせたまはね、この人をだに許させたまへとてなむ。
 などかうあはれげなるさまには」
 「旅立とうと思いながらも、お気の毒な様子がお見捨て申し上げにくくて。
 侍従の迎えに参上しました。
 お嫌いになりよそよそしくして、ご自身ではちょっとでもお越しあそばされませんが、せめてこの人だけはお許しいただきたく思いまして。
 どうしてこのような寂しいさまで」
56  とて、うちも泣くべきぞかし。
 されど、行く道に心をやりて、いと心地よげなり。
 
 と言って、つい泣き出してしまうはずのところだ。
 けれども旅先に思いを馳せて、とても気分よさそうである。
 
57  「故宮おはせしとき、おのれをば面伏せなりと思し捨てたりしかば、疎々しきやうになりそめにしかど、年ごろも、何かは。
 やむごとなきさまに思しあがり、大将殿などおはしまし通ふ御宿世のほどを、かたじけなく思ひたまへられしかばなむ、むつびきこえさせむも、憚ること多くて、過ぐしはべるを、世の中のかく定めもなかりければ、数ならぬ身は、なかなか心やすくはべるものなりけり。
 及びなく見たてまつりし御ありさまの、いと悲しく心苦しきを、近きほどはおこたる折も、のどかに頼もしくなむはべりけるを、かく遥かにまかりなむとすれば、うしろめたくあはれになむおぼえたまふ」
 「故宮がご存命でいらした時、わたしを不名誉な者とお思い捨てになっていらっしゃったので、疎遠なようになってしまいましたが、今までにも、どうしてそう思ったでしょうか。
 高貴なお身の上に気位い高くお持ちになり、大将殿などがお通いになるご運勢のほどを、もったいなくも存ぜずにはいられませんでしたので、親しく交際させていただきますのも、遠慮いたすことが多くて、ご無沙汰いたしておりましたが、世の中がこのように定めないものなので、人数にも入らない身の上は、かえって気安いものでございました。
 及びもつかなく拝見いたしましたご様子が、実に悲しく気の毒なのを、近くにいますうちは御無沙汰いたしていた折も、そのうちにと呑気に思っておりましたが、このように遥か遠くに下ってしまうことになると、気がかりで悲しく存じられます」
58  など語らへど、心解けても応へたまはず。
 
 などと話を持ち掛けるが、心を許してお返事もなさらない。
 
59  「いとうれしきことなれど、世に似ぬさまにて、何かは。
 かうながらこそ朽ちも失せめとなむ思ひはべる」
 「とても嬉しいことですが、世間離れしたわたしなどには、どうして一緒に行けましょうか。
 こうしたまま朽ち果てようと存じております」
60  とのみのたまへば、  とだけおっしゃるので、
61  「げに、しかなむ思さるべけれど、生ける身を捨て、かくむくつけき住まひするたぐひははべらずやあらむ。
 大将殿の造り磨きたまはむにこそは、引きかへ玉の台にもなりかへらめとは、頼もしうははべれど、ただ今は、式部卿宮の御女よりほかに、心分けたまふ方もなかなり。
 昔より好き好きしき御心にて、なほざりに通ひたまひける所々、皆思し離れにたなり。
 まして、かうものはかなきさまにて、薮原に過ぐしたまへる人をば、心きよく我を頼みたまへるありさまと尋ねきこえたまふこと、いとかたくなむあるべき」
 「なるほど、そのようにお思いになるのもごもっともですが、せっかく生きている身をだいなしにして、このように気味の悪い所に暮らしている例はございませんでしょう。
 大将殿がお手入れしてくだされば、うって変わって元の美しい御殿にもなり変わろうと、頼もしゅうございますが、ただ今のところは、式部卿宮の姫君より他には、心をお分けになる方もないということです。
 昔から浮気なお心で、かりそめにお通いになった人々は、みなすっかりお心が離れておしまいになったということです。
 ましてや、このようにみすぼらしい様子で、薮原にお過ごしになっていらっしゃる人を、貞淑に自分を頼っていらっしゃる様子だと、お訪ね申されることは、とても難しいことです」
62  など言ひ知らするを、げにと思すも、いと悲しくて、つくづくと泣きたまふ。
 
 などと説得するが、本当にそのとおりだとお思いになるのも、実に悲しくて、しみじみとお泣きになる。
 
 
 

第四段 侍従、叔母に従って離京

 
63  されど、動くべうもあらねば、よろづに言ひわづらひ暮らして、  けれども、姫君は動きそうにもないので、叔母は一日中いろいろと説得したものの困りはてて、
64  「さらば、侍従をだに」  「それでは、侍従だけでも」
65  と、日の暮るるままに急げば、心あわたたしくて、泣く泣く、  と、日が暮れるままに急ぎ立てるので、侍従は気がせいて、泣く泣く、
66  「さらば、まづ今日は。
 かう責めたまふ送りばかりにまうではべらむ。
 かの聞こえたまふもことわりなり。
 また、思しわづらふもさることにはべれば、中に見たまふるも心苦しくなむ」
 「それでは、ともかく今日のところは。
 このようにお勧めになるお見送りだけでも参りましょう。
 あのように申されることもごもっともなことです。
 また一方、お迷いになることもごもっともなことですので、間に立って拝見するのも辛くて」
67  と、忍びて聞こゆ。
 
 と、小声で姫君に申し上げる。
 
68  この人さへうち捨ててむとするを、恨めしうもあはれにも思せど、言ひ止むべき方もなくて、いとど音をのみたけきことにてものしたまふ。
 
 この人までが自分を見捨てて行ってしまおうとするのが、恨めしくも悲しくもお思いになるが、引き止めるすべもないので、ますます声を立てて泣くことばかりでいらっしゃる。
 
69  形見に添へたまふべき身馴れ衣も、しほなれたれば、年経ぬるしるし見せたまふべきものなくて、わが御髪の落ちたりけるを取り集めて、鬘にしたまへるが、九尺余ばかりにて、いときよらなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香のいとかうばしき、一壺具して賜ふ。
 
 形見にお与えになるべき着用の衣も垢じみているので、長年の奉公に報いるべき物がなくて、ご自分のお髪の抜け落ちたのを集めて、鬘になさっていたのが、九尺余りの長さで、たいそうみごとなのを、風流な箱に入れて、昔の薫衣香のたいそう香ばしいのを、一壺添えてお与えになる。
 
 

265
 「絶ゆまじき 筋を頼みし 玉かづら
 思ひのほかに かけ離れぬる
 「あなたを絶えるはずのない間柄だと信頼していましたが
  思いのほかに遠くへ行ってしまうのですね
 
70  故ままの、のたまひ置きしこともありしかば、かひなき身なりとも、見果ててむとこそ思ひつれ。
 うち捨てらるるもことわりなれど、誰に見ゆづりてかと、恨めしうなむ」
 亡くなった乳母が、遺言なさったこともありましたから、不甲斐ない我が身であっても、最後までお世話してくれるものと思っていましたのに。
 見捨てられるのももっともなことですが、この後誰に世話を頼むのかと、恨めしくて」
71  とて、いみじう泣いたまふ。
 この人も、ものも聞こえやらず。
 
 と言って、ひどくお泣きになる。
 この人も、何も申し上げることができない。
 
72  「ままの遺言は、さらにも聞こえさせず、年ごろの忍びがたき世の憂さを過ぐしはべりつるに、かくおぼえぬ道にいざなはれて、遥かにまかりあくがるること」とて、  「乳母の遺言は、もとより申し上げるまでもなく、長年の堪えがたい生活を堪えて参りましたのに、このように思いがけない旅路に誘われて、遥か遠くに彷徨い行くことになるとは」と言って、
 

266
 「玉かづら 絶えてもやまじ 行く道の
 手向の神も かけて誓はむ
 「お別れしましてもお見捨て申しません
  行く道々の道祖神にかたくお誓いしましょう
 
73  命こそ知りはべらね」  寿命だけは分りませんが」
74  など言ふに、  などと言っていると、
75  「いづら。
 暗うなりぬ」
 「どこにいますか。
 暗くなってしまいます」
76  と、つぶやかれて、心も空にて引き出づれば、かへり見のみせられける。
 
 と、ぶつぶつ言われて、心も上の空のまま車を引き出したので、振り返りばかりせずにはいられないのであった。
 
77  年ごろわびつつも行き離れざりつる人の、かく別れぬることを、いと心細う思すに、世に用ゐらるまじき老人さへ、  長年辛い思いをしながらも、お側を離れなかった人が、このように離れて行ってしまったことを、たいそう心細くお思いになると、世間では役に立ちそうにもない老女房までが、
78  「いでや、ことわりぞ。
 いかでか立ち止まりたまはむ。
 われらも、えこそ念じ果つまじけれ」
 「いやはや、無理もないことです。
 どうしてお残りになることがありましょうか。
 わたしたちも、とても我慢できそうにありませんわ」
79  と、おのが身々につけたるたよりども思ひ出でて、止まるまじう思へるを、人悪ろく聞きおはす。
 
 と、それぞれに関係ある縁故を思い出して、残っていられないと思っているのを、体裁の悪いことだと聞いていらっしゃる。
 
 
 

第五段 常陸宮邸の寂寥

 
80  霜月ばかりになれば、雪、霰がちにて、ほかには消ゆる間もあるを、朝日、夕日をふせぐ蓬葎の蔭に深う積もりて、越の白山思ひやらるる雪のうちに、出で入る下人だになくて、つれづれと眺めたまふ。
 はかなきことを聞こえ慰め、泣きみ笑ひみ紛らはしつる人さへなくて、夜も塵がましき御帳のうちも、かたはらさびしく、もの悲しく思さる。
 
 霜月のころになると、雪や霰の降る日が多くなって、他の邸では消える間もあるが、こちらでは朝日や夕日をさえぎる雑草や葎の蔭に深く積もって、越の白山が思いやられる雪の中で、出入りする下人さえもいなくて、所在なく物思いに沈んでいらっしゃる。
 とりとめもないお話を申し上げてお慰めし、泣いたり笑ったりしながらお気を紛らした人までがいなくなって、夜も塵の積った御帳台の中も、寄り添う人もなく、何となく悲しく思わずにはいらっしゃれない。
 
81  かの殿には、めづらし人に、いとどもの騒がしき御ありさまにて、いとやむごとなく思されぬ所々には、わざともえ訪れたまはず。
 まして、「その人はまだ世にやおはすらむ」とばかり思し出づる折もあれど、尋ねたまふべき御心ざしも急がであり経るに、年変はりぬ。
 
 あちらの御殿では、久々に再会した方に、ますます夢中なご様子で、たいして重要にお思いでない方々には、特別ご訪問もおできになれない。
 まして、「あの人はまだ生きていらっしゃるだろうか」という程度にお思い出しになる時もあるが、お訪ねになろうというお気持ちも急に起こらずにいるうちに、年も変わった。
 
 
 

第三章 末摘花の物語 久しぶりの再会の物語

 
 

第一段 花散里訪問途上

 
82  卯月ばかりに、花散里を思ひ出できこえたまひて、忍びて対の上に御暇聞こえて出でたまふ。
 日ごろ降りつる名残の雨、いますこしそそきて、をかしきほどに、月さし出でたり。
 昔の御ありき思し出でられて、艶なるほどの夕月夜に、道のほど、よろづのこと思し出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立しげく森のやうなるを過ぎたまふ。
 
 卯月のころに、花散里をお思い出し申されて、こっそりと対の上にお暇乞いを申し上げてお出かけになる。
 数日来降り続いていた雨の名残りに、まだ少しぱらついて、風情あるころに、月が差し出ていた。
 昔のお忍び歩きが自然と思い出されて、優艷な感じの夕月夜に、途上、あれこれの事柄が思い出されていらっしゃるうちに、見るかたもなく荒れた邸で、木立が鬱蒼とした森のような所をお通り過ぎになる。
 
83  大きなる松に藤の咲きかかりて、月影になよびたる、風につきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなき香りなり。
 橘に変はりてをかしければ、さし出でたまへるに、柳もいたうしだりて、築地も障はらねば、乱れ伏したり。
 
 大きな松の木に藤が咲きかかって、月の光に揺れているのが、風に乗ってさっと匂うのが慕わしく、どれがそれからともない香りである。
 橘のとは違って風趣があるので、のり出して御覧になると、柳もたいそう長く垂れて、築地も邪魔しないから、乱れ臥していた。
 
84  「見し心地する木立かな」と思すは、早う、この宮なりけり。
 いとあはれにて、おし止めさせたまふ。
 例の、惟光はかかる御忍びありきに後れねば、さぶらひけり。
 召し寄せて、
 「かつて見た感じのする木立だなあ」とお思いになると、それもそのはず、この宮邸なのであった。
 ひどく胸を打たれて、お車を止めさせなさる。
 例によって、惟光はこのようなお忍び歩きに外れることはないので、お供していたのであった。
 お召しになって、
85  「ここは、常陸の宮ぞかしな」  「ここは常陸宮の邸であったな」
86  「しかはべる」  「さようでございます」
87  と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
88  「ここにありし人は、まだや眺むらむ。
 訪らふべきを、わざとものせむも所狭し。
 かかるついでに、入りて消息せよ。
 よく尋ね入りてを、うち出でよ。
 人違へしては、をこならむ」
 「ここにいた人は、今も物思いに沈んでいるのだろうか。
 お見舞いすべきであるが、わざわざ訪ねるのも大げさである。
 このような機会に、入って便りをしてみよ。
 よく調べてから、言い出しなさい。
 人違いをしては馬鹿らしいから」
89  とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
90  ここには、いとど眺めまさるころにて、つくづくとおはしけるに、昼寝の夢に故宮の見えたまひければ、覚めて、いと名残悲しく思して、漏り濡れたる廂の端つ方おし拭はせて、ここかしこの御座引きつくろはせなどしつつ、例ならず世づきたまひて、  こちら姫君の方では、ひとしお物思いのまさるころで、つくづくと物思いに沈んでいらっしゃると、昼寝の夢に故宮がお見えになったので、目が覚めて、実に名残が悲しくお思いになって、雨漏りがして濡れている廂の端の方を拭かせて、あちらこちらの御座所を取り繕わせてなどしながら、いつになく人並みになられて、
 

267
 「亡き人を 恋ふる袂の ひまなきに
 荒れたる軒の しづくさへ添ふ」
 「亡き父上を恋い慕って泣く涙で袂の乾く間もないのに
  荒れた軒の雨水までが降りかかる」
 
91  も、心苦しきほどになむありける。
 
 というのも、お気の毒なことであった。
 
 
 

第二段 惟光、邸内を探る

 
92  惟光入りて、めぐるめぐる人の音する方やと見るに、いささかの人気もせず。
 「さればこそ、往き来の道に見入るれど、人住みげもなきものを」と思ひて、帰り参るほどに、月明くさし出でたるに、見れば、格子二間ばかり上げて、簾動くけしきなり。
 わづかに見つけたる心地、恐ろしくさへおぼゆれど、寄りて、声づくれば、いともの古りたる声にて、まづしはぶきを先にたてて、
 惟光が邸の中に入って、あちこちと人の音のする方はどこかと探すが、すこしも人影が見えない。
 「やはりそうだ。
 今までに行き帰りに覗いたことがあるが、人は住んでいないのだ」と思って、戻って参る時に、月が明るく照らし出したので、見ると、格子が二間ほど上がっていて、簾の動く気配である。
 やっと見つけた感じは、恐ろしくさえ思われるが、近寄って訪問の合図をすると、ひどく老いぼれた声で、まずは咳払いをしてから、
93  「かれは誰れぞ。
 何人ぞ」
 「そこにいる人は誰ですか。
 どのような方ですか」
94  と問ふ。
 名のりして、
 と聞く。
 惟光は名乗りをして、
95  「侍従の君と聞こえし人に、対面賜はらむ」  「侍従の君と申した方に、面会させていただきたい」
96  と言ふ。
 
 と言う。
 
97  「それは、ほかになむものしたまふ。
 されど、思しわくまじき女なむはべる」
 「その人は、他へ行っておられます。
 けれども、同じように考えてくだっさてよい女房はおります」
98  と言ふ声、いたうねび過ぎたれど、聞きし老人と聞き知りたり。
 
 と言う声は、ひどく年とっているが、聞いたことのある老人だと聞きつけた。
 
99  内には、思ひも寄らず、狩衣姿なる男、忍びやかにもてなし、なごやかなれば、見ならはずなりにける目にて、「もし、狐などの変化にや」とおぼゆれど、近う寄りて、  室内では、思いも寄らない、狩衣姿の男性が、ひっそりと振る舞い、物腰も柔らかなので、見馴れなくなってしまった目には、「もしや、狐などの変化のものではないか」と思われるが、近く寄って、
100  「たしかになむ、うけたまはらまほしき。
 変はらぬ御ありさまならば、尋ねきこえさせたまふべき御心ざしも、絶えずなむおはしますめるかし。
 今宵も行き過ぎがてに、止まらせたまへるを、いかが聞こえさせむ。
 うしろやすくを」
 「はっきりと、お話を承りたい。
 昔と変わらないお暮らしならば、お訪ね申し上げなさるべきお気持ちも、君には今も変わらずにおありのようです。
 今宵も素通りしがたくて、お車をお止めあそばしたのだが、どのようにお返事申し上げましょう。
 どうぞご安心を」
101  と言へば、女どもうち笑ひて、  と言うと、女房たちは笑って、
102  「変はらせたまふ御ありさまならば、かかる浅茅が原を移ろひたまはでははべりなむや。
 ただ推し量りて聞こえさせたまへかし。
 年経たる人の心にも、たぐひあらじとのみ、めづらかなる世をこそは見たてまつり過ごしはべれ」
 「お変わりあそばす御身の上ならば、このような浅茅が原をお移りにならずにおりましょうか。
 ただご推察申されてお伝えください。
 年老いた女房にとっても、またとあるまいと思われるほどの、珍しい身の上を拝見しながら過ごしてまいったのです」
103  と、ややくづし出でて、問はず語りもしつべきが、むつかしければ、  と、ぽつりぽつりと話し出して、問わず語りもし出しそうなのが、厄介なので、
104  「よしよし。
 まづ、かくなむ、聞こえさせむ」
 「よいよい、分かった。
 まずは、そのように、申し上げましょう」
105  とて参りぬ。
 
 と言って帰参した。
 
 
 

第三段 源氏、邸内に入る

 
106  「などかいと久しかりつる。
 いかにぞ。
 昔のあとも見えぬ蓬のしげさかな」
 「どうしてひどく長くかかったのだ。
 どうであったか。
 昔の面影も見えないほど雑草の茂っていることよ」
107  とのたまへば、  とおっしゃると、
108  「しかしかなむ、たどり寄りてはべりつる。
 侍従が叔母の少将といひはべりし老人なむ、変はらぬ声にてはべりつる」
 「これこれの次第で、ようやく分かりました。
 侍従の叔母で少将と言いました老女が、昔と変わらない様子でおりました」
109  と、ありさま聞こゆ。
 
 と、その様子を申し上げる。
 
110  いみじうあはれに、  ひどく不憫な気持ちになって、
111  「かかるしげき中に、何心地して過ぐしたまふらむ。
 今まで訪はざりけるよ」
 「このような蓬生の茂った中に、どのようなお気持ちでお過ごしになっていられたのだろう。
 今までお訪ねしなかったとは」
112  と、わが御心の情けなさも思し知らる。
 
 と、ご自分の薄情さを思わずにはいらっしゃれない。
 
113  「いかがすべき。
 かかる忍びあるきも難かるべきを、かかるついでならでは、え立ち寄らじ。
 変はらぬありさまならば、げにさこそはあらめと、推し量らるる人ざまになむ」
 「どうしたらよいものだろう。
 このような忍び歩きも難しいであろうから、このような機会でなかったら、立ち寄ることもできまい。
 昔と変わっていない様子ならば、なるほどそのようであろうと、推量されるお人柄である」
114  とはのたまひながら、ふと入りたまはむこと、なほつつましう思さる。
 ゆゑある御消息もいと聞こえまほしけれど、見たまひしほどの口遅さも、まだ変らずは、御使の立ちわづらはむもいとほしう、思しとどめつ。
 惟光も、
 とはおっしゃるものの、すぐにお入りになることは、やはり躊躇される。
 趣き深いご消息も差し上げたくお思いになるが、かつてご経験された返歌の遅いのも、まだ変わっていなかったなら、お使いの者が待ちあぐねるのも気の毒で、それはお止めになった。
 惟光も、
115  「さらにえ分けさせたまふまじき、蓬の露けさになむはべる。
 露すこし払はせてなむ、入らせたまふべき」
 「とてもお踏み分けになれそうにない、ひどい蓬生の露けさでございます。
 露を少し払わせて、お入りあそばすよう」
116  と聞こゆれば、  と申し上げるので、
 

268
 「尋ねても 我こそ訪はめ 道もなく
 深き蓬の もとの心を」
 「誰も訪ねませんがわたしこそは訪問しましょう
  道もないくらい深く茂った蓬の宿の姫君の変わらないお心を」
 
117  と独りごちて、なほ下りたまへば、御先の露を、馬の鞭して払ひつつ入れたてまつる。
 
 と独り言をいって、やはりお車からお下りになるので、惟光は、御前の露を馬の鞭で払いながらお入れ申し上げる。
 
118  雨そそきも、なほ秋の時雨めきてうちそそけば、  雨の雫も、やはり秋の時雨のように降りかかるので、
119  「御傘さぶらふ。
 げに、木の下露は、雨にまさりて」
 「『お傘』がございます。
 なるほど、『木の下露は雨にまさって』」
120  と聞こゆ。
 御指貫の裾は、いたうそほちぬめり。
 昔だにあるかなきかなりし中門など、まして形もなくなりて、入りたまふにつけても、いと無徳なるを、立ちまじり見る人なきぞ心やすかりける。
 
 と申し上げる。
 御指貫の裾はひどく濡れてしまったようである。
 昔でさえあるかないかであった中門などは、昔以上に跡形もなくなって、お入りになるにつけても、何の役に立たないのであるが、その場にいて見ている人がないのも気楽であった。
 
 
 

第四段 末摘花と再会

 
121  姫君は、さりともと待ち過ぐしたまへる心もしるく、うれしけれど、いと恥づかしき御ありさまにて対面せむも、いとつつましく思したり。
 大弐の北の方のたてまつり置きし御衣どもをも、心ゆかず思されしゆかりに、見入れたまはざりけるを、この人びとの、香の御唐櫃に入れたりけるが、いとなつかしき香したるをたてまつりければ、いかがはせむに、着替へたまひて、かの煤けたる御几帳引き寄せておはす。
 
 姫君は、いくら何でもいつかはとお待ち暮らしになっていた期待どおりで、嬉しいけれど、とても恥ずかしいご様子で面会するのも、たいそうきまり悪くお思いであった。
 大弐の北の方が差し上げておいたお召し物類も、不愉快にお思いであった人からの物ゆえに、見向きもなさらなかったが、この女房たちが、香の唐櫃に入れておいたのが、とても懐かしい香りが付いているのを差し上げたので、どうにも仕方がなく、お着替えになって、あの煤けた御几帳を引き寄せてお座りになる。
 
122  入りたまひて、  君はお入りになって、
123  「年ごろの隔てにも、心ばかりは変はらずなむ、思ひやりきこえつるを、さしもおどろかいたまはぬ恨めしさに、今までこころみきこえつるを、杉ならぬ木立のしるさに、え過ぎでなむ、負けきこえにける」  「長年のご無沙汰にも、心だけは変わらずに、お思い申し上げていましたが、何ともおっしゃってこないのが恨めしくて、今まで様子をお伺い申し上げておりましたが、あの『しるしの杉』ではないが、お邸の木立がはっきりと目につきましたので、通り過ぎることもできず、根くらべにお負け致しました」
124  とて、帷子をすこしかきやりたまへれば、例の、いとつつましげに、とみにも応へきこえたまはず。
 かくばかり分け入りたまへるが浅からぬに、思ひ起こしてぞ、ほのかに聞こえ出でたまひける。
 
 とおっしゃって、帷子を少しかきやりなさると、例によってたいそうきまり悪そうで、すぐにもお返事申し上げなさらない。
 こうまでして草深い中をお訪ねになったお心の浅くないことに、勇気を奮い起こして、かすかにお返事を申し上げるのであった。
 
125  「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれも、おろかならず、また変はらぬ心ならひに、人の御心のうちもたどり知らずながら、分け入りはべりつる露けさなどを、いかが思す。
 年ごろのおこたり、はた、なべての世に思しゆるすらむ。
 今よりのちの御心にかなはざらむなむ、言ひしに違ふ罪も負ふべき」
 「このような草深い中にひっそりとお過ごしになっていらした年月のおいたわしさも、一通りではございませんが、また昔と心変わりしない性癖なので、あなたのお心中も知らないままに分け入って参りました露けさなどを、どのようにお思いでしょうか。
 長年のご無沙汰は、それはまた、どなたからもお許しいただけることでしょう。
 今から後のお心に適わないようなことがありましたら、言ったことに違うという罪も負いましょう」
126  など、さしも思されぬことも、情け情けしう聞こえなしたまふことども、あむめり。
 
 などと、それほどにもお思いにならないことでも、深く愛しているふうに申し上げなさることも、いろいろあるようだ。
 
127  立ちとどまりたまはむも、所のさまよりはじめ、まばゆき御ありさまなれば、つきづきしうのたまひすぐして、出でたまひなむとす。
 引き植ゑしならねど、松の木高くなりにける年月のほどもあはれに、夢のやうなる御身のありさまも思し続けらる。
 
 お泊まりになるのも、あたりの様子をはじめとして、目を背けたいご様子なので、体よく言い逃れなさって、お帰りになろうとする。
 あの『ひき植えた松』ではないが、松の木が高くなった長い歳月の程がしみじみと、夢のようであったお身の上の様子も自然とお思い続けられる。
 
 

269
 「藤波の うち過ぎがたく 見えつるは
 松こそ宿の しるしなりけれ
 「松にかかった藤の花を見過ごしがたく思ったのは
  その松がわたしを待つというあなたの家の目じるしであったのですね
 
128  数ふれば、こよなう積もりぬらむかし。
 都に変はりにけることの多かりけるも、さまざまあはれになむ。
 今、のどかにぞ鄙の別れに衰へし世の物語も聞こえ尽くすべき。
 年経たまへらむ春秋の暮らしがたさなども、誰にかは愁へたまはむと、うらもなくおぼゆるも、かつは、あやしうなむ」
 数えてみると、すっかり月日が積もってしまったようですね。
 都では変わってしまったことが多かったのも、あれこれと胸が痛みます。
 そのうち、のんびりと田舎に離別して下ったという苦労話もすべて申し上げましょう。
 あなたの長年過ごして来られた折節のお暮らしの辛かったことなども、わたし以外の誰に訴えることがおできになれようかと、心底から思われますのも、一方では、不思議なくらいに思われます」
129  など聞こえたまへば、  などとお申し上げになると、
 

270
 「年を経て 待つしるしなき わが宿を
 花のたよりに 過ぎぬばかりか」
 「長年待っていた甲斐のなかったわたしの宿を
  あなたはただ藤の花を御覧になるついでにお立ち寄りになっただけなのですね」
 
130  と忍びやかにうちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、「昔よりはねびまさりたまへるにや」と思さる。
 
 とひっそりと身動きなさった気配も、袖の香りも、「昔よりは成長なされたか」とお思いになる。
 
131  月入り方になりて、西の妻戸の開きたるより、障はるべき渡殿だつ屋もなく、軒のつまも残りなければ、いとはなやかにさし入りたれば、あたりあたり見ゆるに、昔に変はらぬ御しつらひのさまなど、忍草にやつれたる上の見るめよりは、みやびかに見ゆるを、昔物語に塔こぼちたる人もありけるを思しあはするに、同じさまにて年古りにけるもあはれなり。
 ひたぶるにものづつみしたるけはひの、さすがにあてやかなるも、心にくく思されて、さる方にて忘れじと心苦しく思ひしを、年ごろさまざまのもの思ひに、ほれぼれしくて隔てつるほど、つらしと思はれつらむと、いとほしく思す。
 
 月は入り方になって、西の妻戸の開いている所から、さえぎるはずの渡殿のような建物もなく、軒先も残っていないので、たいそう明るく差し込んでいるため、ここかしこが見えるが、昔と変わらないお道具類の様子などが、忍ぶ草に荒れているというよりも、雅やかに見えるので、昔物語に塔を壊したという人があったのをお考え併せになると、それと同じような状態で歳月を経て来たことも胸を打たれる。
 ひたすら遠慮している態度が、そうはいっても上品なのも、奥ゆかしく思わずにはいらっしゃれなくて、それを取柄と思って忘れまいと気の毒に思っていたが、ここ数年のさまざまな悩み事に、うっかり疎遠になってしまった間、さぞかし薄情者だと思わずにはいられなかっただろうと、不憫にお思いになる。
 
132  かの花散里も、あざやかに今めかしうなどは花やぎたまはぬ所にて、御目移しこよなからぬに、咎多う隠れにけり。
 
 あの花散里も、人目に立つ当世風になどはなやかになさらない所なので、比較しても大差はないので、欠点も多く隠れるのであった。
 
 
 

第四章 末摘花の物語 その後の物語

 
 

第一段 末摘花への生活援助

 
133  祭、御禊などのほど、御いそぎどもにことつけて、人のたてまつりたる物いろいろに多かるを、さるべき限り御心加へたまふ。
 中にもこの宮にはこまやかに思し寄りて、むつましき人びとに仰せ言賜ひ、下部どもなど遣はして、蓬払はせ、めぐりの見苦しきに、板垣といふもの、うち堅め繕はせたまふ。
 かう尋ね出でたまへりと、聞き伝へむにつけても、わが御ため面目なければ、渡りたまふことはなし。
 御文いとこまやかに書きたまひて、二条院近き所を造らせたまふを、
 賀茂の祭や、その御禊などのころ、ご準備などにかこつけて、人々が献上した物がいろいろと多くあったのを、しかるべき夫人方にお心づけなさる。
 中でもこの宮邸にはこまごまとお心をかけなさって、親しい人々にご命令をお下しになって、召使たちなどを遣わして、雑草を払わせ、周囲が見苦しいので、板垣というもので、しっかりと修繕させなさる。
 このようにお訪ねになったと噂するにつけても、ご自分にとって不名誉なので、自らお来しになることはない。
 お手紙をたいそう情愛こまやかにお認めになって、二条院近くの所をご建築なさっているので、
134  「そこになむ渡したてまつるべき。
 よろしき童女など、求めさぶらはせたまへ」
 「そこにお移し申し上げましょう。
 適当な童女などをお探しになって仕えさせなさい」
135  など、人びとの上まで思しやりつつ、訪らひきこえたまへば、かくあやしき蓬のもとには、置き所なきまで、女ばらも空を仰ぎてなむ、そなたに向きて喜びきこえける。
 
 などと、女房たちのことまでお気を配りになってお世話申し上げなさるので、このようにみすぼらしい蓬生の宿では、身の置きどころのないまでありがたくて、女房たちも空を仰いで、君のいらっしゃる方角を向いてお礼申し上げるのであった。
 
136  なげの御すさびにても、おしなべたる世の常の人をば、目止め耳立てたまはず、世にすこしこれはと思ほえ、心地にとまる節あるあたりを尋ね寄りたまふものと、人の知りたるに、かく引き違へ、何ごともなのめにだにあらぬ御ありさまを、ものめかし出でたまふは、いかなりける御心にかありけむ。
 これも昔の契りなめりかし。
 
 かりそめのお戯れにしても、ありふれた普通の女性には目を止めたり聞き耳を立てたりはなさらず、世間で少しでもこの人はと噂されたり、心に止まる点のある女性をお求めなさるものと、皆思っていたが、このように予想を裏切って、どのような点においても人並みでない方を、ひとかどの人物としてお扱いなさるのは、どのようなお心からであったのであろうか。
 これも前世からのお約束なのであろうよ。
 
 
 

第二段 常陸宮邸に活気戻る

 
137  今は限りと、あなづり果てて、さまざまに迷ひ散りあかれし上下の人びと、我も我も参らむと争ひ出づる人もあり。
 心ばへなど、はた、埋もれいたきまでよくおはする御ありさまに、心やすくならひて、ことなることなきなま受領などやうの家にある人は、ならはずはしたなき心地するもありて、うちつけの心みえに参り帰り、
 もうこれまでだと、馬鹿にしきって、それぞれにさまよい離散して行った上下の女房たちが、我も我もとお仕えし直そうと、争って願い出て来る者もいる。
 気立てなど、それはそれはで、引っ込み思案なまでによくていらっしゃるご様子ゆえに、気楽な宮仕えに慣れて、これといったところのないつまらない受領などのような家にいる女房は、今までに経験したこともないきまりの悪い思いをするのもいて、げんきんな心をあけすけにして帰って参る。
 
138 君は、いにしへにもまさりたる御勢のほどにて、ものの思ひやりもまして添ひたまひにければ、こまやかに思しおきてたるに、にほひ出でて、宮の内やうやう人目見え、木草の葉もただすごくあはれに見えなされしを、遣水かき払ひ、前栽のもとだちも涼しうしなしなどして、ことなるおぼえなき下家司の、ことに仕へまほしきは、かく御心とどめて思さるることなめりと見取りて、御けしき賜はりつつ、追従し仕うまつる。
 
 源氏の君は、以前にも勝るご権勢となって、何かにつけて物事の思いやりもさらにお加わりになったので、こまごまと指図して置かれているので、明るく活気づいて、宮邸の中がだんだんと人の姿も多くなり、木や草の葉もただすさまじくいたわしく見えたのを、遣水を掃除し、前栽の根元をさっぱりなどさせて、大して目をかけていただけない下家司で、格別にお仕えしたいと思う者は、このようにご寵愛になるらしいと見てとって、ご機嫌を伺いながら、追従してお仕え申し上げている。
 
 
 

第三段 末摘花のその後

 
139  二年ばかりこの古宮に眺めたまひて、東の院といふ所になむ、後は渡したてまつりたまひける。
 対面したまふことなどは、いとかたけれど、近きしめのほどにて、おほかたにも渡りたまふに、さしのぞきなどしたまひつつ、いとあなづらはしげにもてなしきこえたまはず。
 
 二年ほどこの古いお邸に寂しくお過ごしになって、東の院という所に、その後はお移し申し上げたのであった。
 君がお逢いになることなどは、とても難しいことであるが、近い敷地内なので、普通にお渡りになった時には、お立ち寄りなどをなさって、そう軽々しくはお扱い申し上げなさらない。
 
140  かの大弐の北の方、上りて驚き思へるさま、侍従が、うれしきものの、今しばし待ちきこえざりける心浅さを、恥づかしう思へるほどなどを、今すこし問はず語りもせまほしけれど、いと頭いたう、うるさく、もの憂ければなむ。
 今またもついであらむ折に、思ひ出でて聞こゆべき、とぞ。
 
 あの大弐の北の方が上京して来て驚いた様子や、侍従が嬉しく思う一方では、もう少しお待ち申さなかった思慮の浅さを恥ずかしく思っていたところなどを、もう少し問わず語りもしたいところだが、ひどく頭が痛く、厄介で億劫に思われるので、今後また機会のある折に思い出してお話し申し上げよう、ということである。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ(古今集雑下-九六二 在原行平)(戻)  
  出典2 今さらに何に生ひ出づらむ竹の子の憂き節しげき世とは知らずや(古今集雑下-九五七 凡河内躬恒)(戻)  
  出典3 梟鳴松桂枝 狐蔵蘭菊叢(白氏文集巻一-四 凶宅詩)(戻)  
  出典4 岩そそく垂氷の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかな(古今六帖一-七 志貴皇子)(戻)  
  出典5 世の中は昔よりやは憂かりけむわが身一つのためになれるか(古今集雑下-九四八 読人しらず)(戻)  
  出典6 世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(古今集雑下-九五五 物部吉名)み吉野の山のあなたに宿もがな世の憂き時の隠れがにせむ(古今集雑下-九五〇 読人しらず)(戻)  
  出典7 君が住む宿の梢のゆくゆくと隠るるまでにかへり見しはや(拾遺集別-三五一 菅原道真)(戻)  
  出典8 君が行く越の白山知らねども雪のまにまに跡は訪ねむ(古今集別-三九一 藤原兼輔)音に聞く越の白山白雪の降り積もりてのことにぞありける(公任集-一七八)(戻)  
  出典9 夏にこそ咲きかかりけれ藤の花松にとのみも思ひけるかな(拾遺集夏-八三 源重之)(戻)  
  出典10 人もなき宿に匂へる藤の花風にのみこそみだるべらなれ(貫之集-七一)(戻)  
  出典11 みさぶらひみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり(古今集東歌-一〇九一 陸奥歌)(戻)  
  出典12 わが宿は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門(古今集雑下-九八二 読人しらず)わが宿の松はしるしもなかりけり杉村ならば訪ね来なまし(匡衡集-五三)(戻)  
  出典13 いとどこそまさりにまされ忘れじといひしに違ふ言のつらさは(奥入所引-出典未詳)(戻)  
  出典14 引きて植ゑし人はむべこそ老いにけれ松の木高くなりにけるかな(後撰集雑一-一一〇七 凡河内躬恒)(戻)  
  出典15 思ひきや鄙の別れに衰へて海人の縄たきいさりせむとは(古今集雑下-九六一 小野篁)(戻)  
  出典16 君しのぶ草にやつるる故郷は松虫の音ぞ悲しかりける(古今集秋上-二〇〇 読人しらず)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 形--かた(かた/$<朱>)かたち(戻)  
  校訂2 堪へ--たえ(え/$へ)(戻)  
  校訂3 案内--あん(ん/+ない)(戻)  
  校訂4 唐守--からもりて(て/$<朱>)(戻)  
  校訂5 北の方の--(/+き)か(か/$)たの(の/+かたの)(戻)  
  校訂6 見置きて--見せ(せ/$を)きて(戻)  
  校訂7 まかり--*まか(か/#)か(か/$)り(戻)  
  校訂8 たびしかはら--たひ(ひ/+し)かはら(戻)  
  校訂9 たるに--たるにに(に/$<朱>)(戻)  
  校訂10 念じ--ねつ(つ/$む<朱>)し(戻)  
  校訂11 めづらし人--めつらら(ら/$<朱>)しひ(ひ/+と)(戻)  
  校訂12 御心ざし--御心(心/+さ)し(戻)  
  校訂13 さと--さとに(に/$<朱>)(戻)  
  校訂14 まほしき--(/+ま<朱>)ほしき(戻)  
  校訂15 はべれ--*はへる(戻)  
  校訂16 むつかしけれ--むへ(へ/$つ<朱>)かしけれ(戻)  
  校訂17 北の方--きた(た/+の)かた(戻)  
  校訂18 あむめり--*あへめり(戻)  
  校訂19 花やぎ--はなやな(な/$<朱>)き(戻)  
  校訂20 上下--*うへしも(戻)  
  校訂21 仕へ--つか(か/+へ<朱>)(戻)  
  校訂22 見取り--み(み/+と)り(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。