平家物語 巻第五 奈良炎上:概要と原文

都帰 平家物語
巻第五
奈良炎上
ならえんじょう
巻第六
新院崩御

〔概要〕
 
 高倉宮の園城寺入御(以仁王が平家打倒のため蜂起して園城寺=三井寺に逃げ込み、奈良に助けを求めた事件)以来、それを迎えに参った件で奈良も朝敵で討たれると聞こえてきて(直ちに)奈良の大衆=宗徒は蜂起(なお、迎えといってもそれは書状だけで、実際迎えに行く前に三井寺は炎上)。知ることがあれば申せという朝廷の使者に大衆は暴行、清盛を罵倒し騒乱状態となる。入道清盛は瀬尾太郎兼康に無防備を命じて差し向けると(案の定)60人悉く打首にされ、(あにはからんや非道の)清盛は激怒し、重衡(清盛五男)軍の4万で攻め、歩兵ばかりの大衆は大敗。 夜暗くなり重衡が火を出せというと、部下が民家に火を放った。一つの火元が風で広がり、大仏殿の二階に逃げて梯子を外していた学生・稚児・女子供ら1700人、他合計3500人が焼かれ、阿鼻叫喚の地獄であった。仏像・宝物・教典は焼失、 大衆1000人打取り、清盛だけは喜んだが、中宮・法皇・上皇・摂政以下はみな嘆く。とった首も獄門どころか溝や堀に捨て置かれ、天下衰微も疑いなしと見えた(南都焼討)。

 


 
 都にはまた、「一年、高倉宮園城寺へ入御の時、或いは宮受け取り参らせ、或いは御迎ひに参る条、これもつて朝敵なり。されば奈良をも攻めらるべし」と聞こえしかば、南都の大衆、おびただしく蜂起す。
 

 摂政殿より、「存知の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ」と仰せ下されけれども、一切用ゐ奉らず。
 有官の別当忠成を下されたりけるを、大衆起こつて、「乗物よりとつて引き落とせ、髻切れ」とひしめきければ、忠成色を失つて逃げ上る。次に右衛門督親雅を御使に下されたりけるを、これも「髻切れ」とひしめきければ、取るものも取りあへず逃げ上る。
 南都にはまた大きなる鞠丁の玉を作つて、これこそ平大相国の首と名付けて、「打て、踏め」なんどぞ申しける。「言葉の漏れやすきは、災ひを招く媒なり。言葉の慎まざるは、敗れを取る道なり」と言へり。かけまくもかたじけなく、この入道相国と申すは、当今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えたりける。
 

 入道相国、南都の狼藉をかつがつ鎮めんとて、瀬尾太郎兼康を、大和国の検非所に補せらる。
 「相構へて、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物の具なせそ、弓箭な帯せそ」とて遣はされたりけるを、南都の大衆、かやうの内議をば知らずして、兼康が余勢六十余人からめ取つて、一々に首を斬り、猿沢の池の端にぞ懸け置いたりける。
 

 入道相国大きに怒つて、「さらば南都をも攻めよや」とて、大将軍には、頭中将重衡、中宮亮通盛、都合その勢四万余騎で南都へ発向す。南都にも老少嫌はず七千余人、甲の緒をしめ、奈良坂、般若寺、二箇所の路を掘り切つて、掻い楯かき、逆茂木ひいて待ちかけたり。
 

 平家四万余騎を二手に分かつて、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭に押し寄せて、鬨をどつとぞ作りける。大衆は徒歩立ち打ち物なり。官軍は馬にて駆けまはし駆けまはし、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、散々に攻めければ、防く所の大衆、数を尽くいて討たれにけり。
 

 卯の刻より矢合はせして、一日戦ひ暮らす。夜に入りて、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭ともに破れぬ。
 

 落ちゆく衆徒の中に、坂の四郎永覚といふ悪僧あり。力の強さも、弓矢を取つても、打ち物とつても、七大寺十五大寺にも勝れたり。萌黄縅の腹巻の上に、黒糸縅の鎧を重ねてぞ着たりける。帽子甲に五枚甲の緒をしめ、左右の手には、茅の葉のやうに反つたる白柄の大長刀、黒漆の大太刀持つままに、同宿十余人前後左右に立て、手掻の門より打つて出でたり。これぞしばらく支へたる。多くの官兵、馬の脚薙がれて、討たれにけり。
 されども官軍は大勢、入れかへ入れかへ攻めければ、永覚が前後に防ぐ所の同宿十余人討たれぬ。永覚独りたけけれども、後ろあばらになりにければ、南をさして落ちぞゆく。
 

 夜戦になつて、暗さは暗し、頭中将重衡卿、般若寺の門の前にうつ立つて、「火を出だせ」と宣へば、播磨国の住人、福井庄の下司、次郎大夫友方といふ者、楯を割り松明にして、在家に火をぞ掛けたりける。
 

 頃は十二月二十八日の夜なりければ、折節風は烈しし、火元は一つなれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂にて討ち死にし、般若寺にして討たれにけり。行歩に叶へる者は、吉野十津川の方へ落ちぞゆく。歩み得ざる老僧や、尋常なる修学者、稚児ども、女童べは、もしや助かると、大仏殿、山階寺の中へ、我先にとぞ逃げ入りける。大仏殿の二階の上には、千余人昇り上がり、敵の続くを上せじとて、橋をば引きてんげり。猛火はまさしう押し懸けたり。をめき叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無間阿鼻の焔の底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。
 

 興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然湧出の観世音、瑠璃を並べし四面の廊、朱丹をまじへし二階の廊、九輪空に輝きし二基の塔、忽ちに煙となるこそ悲しけれ。
 

 東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏となずらへて、聖武皇帝、手づから身づから磨きたて給ひし金銅十六丈の盧舎那仏、烏瑟高くあらはれて、半天の雲に隠れ、白毫新たに拝まれ給ひし満月の尊容も、御髪は焼け落ちて大地にあり、御身はわき合ひて山のごとし。八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしく十悪の風に漂ふ。煙は中天に満ち満ちて、焔は虚空に隙もなし。
 まのあたり見奉る者はさらに眼をあてず、遥かに伝へ聞く人は肝魂を失へり。
 法相三論の法門聖教、すべて一巻も残らず。我が朝はいふに及ばず、天竺、震旦にもこれほどの法滅あるべしともおぼえず。優填大王の紫磨金を磨き、毘首羯磨が赤栴檀を刻んじも、わづかに等身の御仏なり。況んやこれは南閻浮提の中には、唯一無双の御仏、長く朽損の期あるべしとも思はざりけるに、今毒煙の塵にまじはつて、久しく悲しみを残し給へり。
 

 梵釈四王、龍神八部、冥官冥衆も、驚き騒ぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、いかなる事をか思しけん。されば春日野の露も色変はり、三笠の山の嵐の音、恨むる様にぞ聞こえける。焔の中にて焼け死ぬる人衆を記いたりければ、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、ある御堂には三百余人、つぶさに記いたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討たるる大衆千余人、少々は般若寺の門に切りかけらる。少々は首どももつて都へ上り給ふ。
 

 同じき二十九日、頭中将重衡、南都滅ぼして北京へ帰り入り給ふ。入道相国ばかりこそ、憤りはれて喜ばれけれ。中宮、一院、上皇、なのめならず御歎きあつて、「悪僧をこそ滅すとも、多くの伽藍を破滅すべしや」とぞ御歎きありける。
 もとは衆徒の首、大路を渡して、獄門の木にかけらる由、公卿詮議ありしかども、東大寺、興福寺の滅びぬる事のあさましさに何の沙汰にも及ばず。ここやかしこの溝や、堀の中にぞ捨て置きける。
 

 聖武皇帝宸筆の御記文には、「我が寺興福せば、天下も興福すべし。我が寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる。されば天下の衰微せん事、疑ひなしとぞ見えたりける。
 

 あさましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。
 

都帰 平家物語
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奈良炎上
ならえんじょう
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新院崩御