百人一首~解説と評釈

 
 
 百人一首の百の歌で百花繚乱、と凡百に一括るには惜しい詩も少なからず。よって、その分のコメントをしてみよう。
 
 といっても、実力も示さないまま評するのは失礼なので、まずは和歌三神、3の人麻呂を解説(解釈)をして始める。
 百(もも)を諸々とかけ桃栗三年柿八年と解く、その心は、諸々言をくりだそうとも、柿本人麻呂には及ばない。
 
 
 
 目次
 

 
 

解説

 
 

3 柿本人麻呂

 
  あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
 


 解説
 

 あしびきとは、足の早い秋とかけた秋の導き言葉。そもそも柿が秋にかかるから。山が秋になり、よって続く4の山部(が)赤になる。
 足引くのは、山が紅葉で、あざやかなあか(暮れない)で、空と気分を高揚させる(明るくする)から。だから「からくれない」などという。
 

 山鳥の尾の しだり尾の。この韻のふみ具合が書いた本人の証(赤し)。定石の山に続ける「鳥」は(詩を)歌うとかける。とりとだり。
 「(あ)しびき」に続けた「しだり」は「ながし」と同じ暗示をかけ「しだり尾(ながい尾)」。足と尾は、同(胴)ではないが近いだろう(銅山)。
 「しだり尾」が長いよ(尾)で「ながいよ(夜)」とかける。更にねがいとわかいと。つまり妻と和解とかかる。若いかどうかはわからない。
 

 ながながしは、一般に秋の夜長とかけて解釈されるが、そんな当り前すぎるかけ方はかけ「ながし」てほしい。それは当然意識している表現。
 「ひとり」の音を「しだり」に続け、ふたりを暗示。「しだり」と「寝む」で、つまり左で寝むる妻・女男(めおと)。夫婦生活を示唆したり。
 しだり尾と「鳥」とかけ、おしどり夫婦。しだり尾はおしどりのアナグラム。おしどりはカモ科。よって夜「ひとりかも」というのかもね。
 

 中々ではないか。これらは技巧的と言わない。誰にも見えないから。それを超絶技巧という。天衣無縫ともいうらしい。
 シンプルで核心をつく中心のおしどり(夫婦)。それがこの詩の命。なお、中々はながながとかけたが、これ位ならかけてもいいだろう。
 
 
 

佳作(8首)

 
 

4 山部赤人

 
  田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

 
 ※3の人麻呂とセット。情景は流石に中々よませるが、かかりは適当。しかも「に」と「て」が余計。この歌単体でみるならば。
 ただし2の「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の」の歌が置かれ、3の句白妙でつなげる。13の秋、2の春夏、4でしめくくるか。流石定家。
 白妙は万葉語。
 
 

17 在原業平

 
  ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

 
 ※これは業平作とされるがそうではない。伊勢物語106段で、その著者が、満身の怒りを込めて業平を評した歌。
 怒り心頭、前代未聞、自ら(水+から)けじめをつけろという意味。くくるというのは、百人一首にもあるように、人の部位の話。
 紅葉が水にくぐってどうする。紅葉はくぐりなどしない。それに「くくる」だ。カミの句との関連は何なのだ。震撼させる神意がちはやぶる。それが語義。
 
 古今の屏風云々は、伊勢物語が業平の話という噂にただ乗っかった、素性(と業平)の捏造。そして世間も、それに無条件で乗っかり続けている。
 屏風という詞書だけが不自然に伊勢から浮いて、しかも多く屏風とセットの素性と抱き合わせ・全く同一の詞書で配置される。明らかに不自然。
 
 古今が先ではない。伊勢が先。伊勢の記述内容・登場人物は全て古今以前のもの。その影響は、古今の配置・詞書からも明らか。
 詞書の長さで圧倒的最長の2つを含め、上位8つのうち6つが伊勢に由来。これで伊勢由来ではなく、どこかにある未確認の歌集が出典というのは無理。
 そしてその6つのうち最長、1111ある古今の歌で一番長い詞書の歌が、伊勢を象徴する筒井筒。業平は関係ない。田舎の著者の馴れ初め話。
 それを全体乗っ取って、知らん顔で汚しているから怒っている(なお、筒井筒を最長にしたのは、明らかに貫之の意図的な配置。定家同様に)。
 
 伊勢の写本の定番とされるのが定家の書写。そして古今の業平作とされる22の歌で、唯一、伊勢にない詞書の、この歌を業平にあてがった。
 伊勢を誰より読んだ定家は、伊勢は業平と相容れない・明確に拒絶していると分かった。だから業平を非難するこの歌を業平にあてがった。
 本来は、業平自体消滅させるのが筋だが、それでは一般は絶対納得しまい。そしてそこまで定家に求めるのは酷。だから今それをする。
 
 

33 紀友則

 
  ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ

 
 ※響きが良い。しかしその情景は、儚さあまって、心に残るようで残らん。
 
 
 

40 平兼盛

 
  しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

 
 ※これが女の歌ならば。色も恋も乙女(おとめ)のもの。誘い(こい)を受け、会いに行くのが(おとこの)愛。それを恋愛という。これん?って。
 
 
 

56 和泉式部

 
  あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

 
 ※恋でならしたという者ならでは。響き良いがかかり少なめ。一見重そうだが、思ひの外重さを感じない。しかしちと軽すぎるかナ。
 
 
 

57 紫式部

 
  めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

 
 ※式部と「かな」文字のセット。紫の色恋か。可愛いさ余って甘くなる。長距離タイプだから短歌は苦手かな? なんつって。てが残っテるよって。
 それでも一応いえば、めぐり会いてを相手と会えてと敢えてかけ、それと別れるカナしさを破格にしたのか。うん…まあ恋は人生の一大事だからね。
 でもあえていうなら、なくても普通に成り立つなら、置かないほうがいい。見せないほうが色々と強くなるのよ。って女性にいうのは、違うのかな。
 
 
 

85 俊恵

 
  夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり

 
 ※ぼんやりした儚い感じが和歌らしくて良い。響きも良い。しかしぼんやりしすぎて、肝心の内容がよくわからない(響かない)。
 
 
 

98 従二位家隆

 
  風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

 
 ※情感の描写が際立つ。爽やかな響きが非常に良く、かかりも良い。十分な水準。繊細な要素が強いため、比べでみると弱くなる。
 
 
 

秀作(3首)

 
 

53 道綱母

 
  嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る


 ※技巧も何もないド直球が逆に良い。実にのびの良いストリート。こういう女性は素直に嬉しい。ナゲてしり上りに走る走る。…手がでねー(そらそうや)
 
 
 

69 能因法師

 
  嵐吹く み室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

 
 ※情景良く響きも良い。竜田川もこういうのがいい。嵐の後の静けさ。そこに映えるもみじの乱舞か。調和がとれて美しい。瑞々しさがある。
 
 
 

76 法性寺入道

 
  わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

 
 ※われは海の子ならぬ海坊主。情景が非常に心に残る。坊主のくせにロマンがあるな。入道だけに雲を入れたか。そこは坊らしいな。入賞。
 
 
 

特選

 
 

7 安倍仲麻呂

 
  天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 
 ※響きが素晴らしい。技巧は極めて微妙(微かなかけ方)だが、その繊細さに対し大きな象徴でつり合いがとれている。
 
 なお、この歌は古今406に収録されているが、実質的には、万葉歌の上の句と下の句を結合させた(だけの)内容である。
 万葉と古今の先後、仲麻呂の歌の実績、優等生的経歴から言えば、この歌から万葉が派生したというより、先人の知恵を借用したツギハギとみるのが自然。
 それを覆す要素は何もないが、逆の要素は沢山ある(中国の石碑がどうとか)。
 優等生がいい歌を歌えたことなんてない。そもそもそういう人達は自分で作り出さない。既存の枠組みに従うことだけが習わしだから。
 ワルが良いわけはない。一般の秩序がバカらしく思えるほど賢いと洗練された歌を作れる。それが人麻呂で、伊勢の著者。
 

 天の原振り放け見れば 大君の御寿は長く天足らしたり万葉集02/0147

 天の原降り放け見れば 天の川霧立ちわたる君は来ぬらし万葉集10/2068

 春日なる御笠の山に月も出でぬかも 佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく万葉集10/1887

 春日なる御笠の山に月の舟出づ 風流士の飲む酒杯に影に見えつつ万葉集07/1295