伊勢物語 95段:彦星 あらすじ・原文・現代語訳

第94段
紅葉も花も
伊勢物語
第四部
第95段
彦星
第96段
天の逆手

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  ♀♂つねに見かはし 
 
  ♀おぼつかなく思ひつめ 
 
  ♂物語などして 
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし、二条の后に仕えている男がいた。
 この女に仕え、常に見交わして、呼びあい会っていた。
 
 (そしてこれが男の仕えている内容。つまり後宮に仕えている男。二条の后の世話役。縫殿の六歌仙。それが昔男。縫殿は女官人事も担当。
 常に見交わし、呼ばひはそういう意味。だから後宮と女達の生活の話が出てくる。前後の話もそう。
  
 ここでの女は后。后に仕える女などではない。どこから出てくるんだよ。であれば二条の后を出す意味が全くない。名称に謙抑的な伊勢が。
 男は「むかし男」以外の男でもない。そういう前後の文脈。むかし男は二条の后に仕えていることは一貫している。そう見ないから一貫しない。
 そうして熱烈云々のしょうもない噂などが立てられる中で)
 

 女がどうにかして物越しにでも対面してと、おぼつかなく思いつめ、
 すこしはるかさむ(春霞のように、おぼつかなく寂しい)と言うので、
 

 女がいとしのびて来て、物越しに会った。
 (なぜなら夜だから。逢瀬だからではない。
 男に話すのは后になる前、幼少から近くにいて宮中の事情、女事情も含めて知っているから。39段参照。気軽に話せる人は多くないのは分かりますね)
 そして女の話を聞いて、気を楽にしようと、男が物語などして
 

 彦星に 恋はまさりぬ 天の河
  へだつる関を いまはやめてよ

 

 えーこの歌はね、「彦星の恋心にも勝ります」という題です。
 そして「隔てる関」を定石の逢坂とかけ「いまはやめて夜」と解きます。
 
 その心は、なんでしょうか?
 

 いや、まんまじゃん! どゆこと?
 
 えっとね、「いまあうのはあカン」。
 
 日があるうちなら、いつでも会えるさかいね。
 あの彦星も我慢するのよ。つまり、めちゃ大事な人に尽くしたくても、叶わない事情があるのよ。
 
 (ワイが彦星や!という軽い訳 →×)
 
 ?
 

 いやだからね、星見える時に会うとまずいの夜。
 (つまり星を出して「いま」は夜ということを暗示)
 
 つまりね、人には超えられない、大きな河みたいな、つーか銀河レベルの太い一線があんのよ。物理の距離は近いけども。
 こういうことはね、天のお星様じゃなくて、天の思し召しっていうの。あ、天皇のことじゃなくて、天道のことね。
 寂しくても、大人には少しだけ、耐え忍ばねばならん時もあんのよ(少しでないなら、何かがおかしい、真っ当ではないのね)。
 

 それに日中ならいつでも会えんじゃん?
 まわりに人いっけど、そん時いつでも話きいたげるし、物語もたまにはしますからね。つかこういうのが、この段でいう物語ね。
 
 あけねー夜はねーっつーか、寝れば朝じゃん? し~んぱ~いないからね♪ って。
 その心は、自分の愛を守りぬけば、最後に愛は勝つって、そういうことらしいんで。
 

 え、それアカンじゃなくて、KANやん!
 んーそうね、よくわからんけど、わかりました。
 
 え、凄いじゃん! 高子ちゃん浪花節いけた口? 愛は勝った…
 

 といって、関ならぬKANの歌を二人で愛で、あくる日、またいつも通り会って、しれっと目配せしあったのであった。
 
 

 だからこの段は、二条の后と仕えている男(昔男)の話だからね。
 突如新しい男が出現し、そこに仕えている女も突如出現し、その男が必死こいて口説いているなどという、しょーもない話ではない。
 「仕うまつる」を連続させてそれを示している。仕事だよ仕事。そう書いているがな。
 だから、彦星が今はやめてよゆーて、直後に会ったってどういうわけだよ。こういうわけだよ。それ以外ないがな。
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第95段 彦星
   
   むかし、  昔、  昔。
二条の后に仕うまつる男ありけり。 二条の后につかうまつるおとこありけり。 二條の后宮につかうまつる男有けり。
  女の仕うまつるを、 女のつかうまつるを、 女のつかうまつれりけるを
  つねに見かはして、よばひわたりけり。 つねに見かはして、よばひわたりけり。 見かはしてよばひわたりけり。
       
  いかでものごしに対面して、 いかでものごしにたいめんして、 いかで物ごしにたいめして。
  おぼつかなく思ひつめたること、 おぼつかなく思ひつめたること、 おもひつめたること
  すこしはるかさむといひければ、 すこしはるかさむ、といひければ、 すこしはるけんといひければ。
       
  女、いとしのびて、 をむな、いとしのびて、 女いとしのびて
  ものごしに、逢ひにけり。 ものごしにあひにけり。 物ごしに逢にけり。
  物語などして、男、 物がたりなどして、おとこ ものがたりなどして。おとこ。
       

170
 彦星に
 恋はまさりぬ天の河
 ひこぼしに
 こひはまさりぬあまの河
 彥星に
 戀はまされり天のかは
  へだつる関を
  いまはやめてよ
  へだつるせきを
  いまはやめてよ
  へたつる關を
  今はとめてよ
       
  この歌にめでて、あひにけり。 このうたにめでゝあひにけり。 これををかしとやおもひけん。あひにけり。
   

現代語訳

 
 

つねに見かはし

 

むかし、二条の后に仕うまつる男ありけり。
女の仕うまつるを、つねに見かはして、よばひわたりけり。

 
 
むかし
 

二条の后に仕うまつる男ありけり
 二条の后に仕えていた男がいた。
 
 これはむかし男=著者のこと。
 
 業平騒動の全ての発端の西の対の一件から、一貫して二条の后に仕えている。3段-5段。
 人目を忍んで行動していたら、夜這いだ男が女を奪おうとしたとかいう噂が立ったと6段にある。
 
 39段(源の至)で葬儀に参列した女車も、西の対と全く同様の文脈で、男が率いて行き、付き添っている。
 そこで女車の中の人は明示されないが、76段との言葉の符合から間違いないなく、二条の后。
 76段(小塩の山)では、西の対の件以降、初めて二条の后が明示され、やはり車が出てきて、その前段で男が「伊勢の国に率ていきて」とある。
 
 (この時の話は、二条の后が祝儀を配る話。つまり婚儀で伊勢に行った。だからここで春宮と申しけるというお馴染みのフレーズが消えている。
 だだし一般の訳はそう見ず、藤原の氏神に参ったなどと全く意味不明に解する。物語の流れがそれまでずっと伊勢が続いていたのにもかかわらず)
 
 つまりこれらは全て「むかし男」が、日常的に二条の后の近くにいたことを表わしている(つまり夜ではなく)。
 女御の法要なども、その仕事の一環(77段・安祥寺)。
 それはここにあるように仕えていたからであり、前段に出てきたように男が「女方」に宮仕えしていたからである。
 
 したがって、この段の話は業平と二条の后の話ではない、ではない。
 この物語自体、業平の話ではない。
 二人の恋愛話というのも人々の妄想(それが6段の内容。76段では、業平が伊勢に婚儀で来た后に、藤原の氏神を出してバカにしている)。
 
 ではなぜそう認定しているか。
 このような流れを一切無視し、文意を全く都合よくバラバラに解し、全く読めていないから。
 当時からの根拠のない噂を延々真に受け、全てそれにこじつけて見ているから。
 現状のように。
 
 

女の仕うまつるを
 この女に仕えていたところ、
 
 后に仕えていた女ではない。突如出現する意味が不明。
 
 高子が恋愛する年頃ではないとかいうのはナンセンス。
 一般論として女性が恋愛から完全に離れて生きることはない。歳は関係ない。食事と同じ。
 実際に恋愛するかとは別だがな。
 

つねに見かはしてよばひわたりけり
 常に見交わして呼び合いかたり合っていた。
 
 つまり、男は女(后)の話相手。そういう仕事。

 縫殿では後宮の女官達をフォローしている。
 その関係で男はひっぱりだこ(47段・大幣、19段・天雲、50段・あだくらべ)。
 
 よばひは、求婚・口説くの意味ではない。文字通り(呼び合う・会う)の意味。中立の意味。
 わたりは、女方内での移動と方(人)と語り(物語)を掛けている。
 
 ここでは常に見交わすのだから、かなり気を使っているという意味。
 それを緻密に描写していくのが本段の趣旨。
 
 こういう文脈と無関係に「よばひ」それ自体に求婚の意味などない。
 夜這い(性行為の暗語)と混同し、その意味を丸めただけ。
 そもそも夜這い自体が、よばひへの当て字だろう。
 ただの侵入なのに、俺は呼ばれたんだと言い張る構図。
 それが後世に流布していくうち、若干の合意も含むようになったと。
 
 

おぼつかなく思ひつめ

 

いかでものごしに対面して、おぼつかなく思ひつめたること、
すこしはるかさむといひければ、
女、いとしのびて、ものごしに、逢ひにけり。

 
 
いかでものごしに対面して
 何とかして物越しにでも対面して
 
 いかで 【如何で】
 ①〔推量を伴い〕どうして。どういうわけで。どのようにして。疑問
 ②〔推量を伴い〕どうして…か、いや、そんなことはない。反語
 ③〔多く願望・意志を伴い〕どうにかして。ぜひとも。なんとしても。強い願望
 
 これは異様だが、直接会えないなら物越しでもいいから会って(話を聞いて)、ということ。
 

おぼつかなく思ひつめたること
 おぼつかない気持ちで思いつめているからと
 
 おぼつかなし
 ①ぼんやり。はっきりしない。
 ②気がかり。不安。
 

すこしはるかさむ(△はるけん)といひければ
 少し、はるかさむ(?)と言うので、
 
 「はるかさむ」とは何か。一見して微妙。直接書けることではないとこうなる。
 そしてこの解釈に難をきたしていることが、塗籠の安易に丸めた表現に表わされる。
 
 さらにここで言う主体は書かれていない。書けないから。
 まあ帝がらみで不安になることあったんでないの?
 
 それがおぼつかない文脈。
 「はるか」とは、前段の特徴的な言葉と合わせて解釈する。はるか遠く春の霞や霧のように儚い(モヤモヤした)気持ち。
 「さむ」とは、春の寒さとかけて、さみしさ。
 
 つまり、少しモヤモヤして(何ともいえず)寂しいです。
 
 (男の気晴らしにつきあえ? どういう口実。盛りの中坊でも言わないだろ。そんな話人前にさらしてどうすんの。
 つかこの忍んだ話書いているの誰なんだよ。はい物語物語。楽勝だよな。どっから話仕入れてくるんだっつの)
 
 そこで、
 

女いとしのびて
 女がとても忍んで
 
 后と書いたらまずいだろう。騒動になる。というか身が危うい。だからぼかして書いている。
 その意味で、女というのは都合がいい表現。
 なんで、んなことも分からんかな。
 

ものごしに逢ひにけり
 物越しに会った。
 
 つまり人に見られても、直接会っているように見えないようにして。
 
 

物語などして

 

物語などして、男、
 
彦星に 恋はまさりぬ天の河
 へだつる関を いまはやめてよ
 
この歌にめでて、あひにけり。

 
 
物語などして男
 そして(気を紛らわせるための)物語などをして、男(が詠む)
 

彦星に 恋はまさりぬ天の河
 あの彦星の 恋心にも勝ります
 

へだつる関を いまはやめてよ
 隔てつる関を 今はやめてよ?
 
 え、なにそれ。
 
 いや関をさ、定石の逢坂と掛けて、今は会うのはあカンてさ。
 その心は、つまり人目を忍び、忍び耐える心やねん。
 会いたいけど耐えて仕事する。そういう伝説でしょ。
 
 日のあるうちはいつでも会えるさかいな。し~んぱ~いないからね。
 きーみーの思いが、だーれーかーに届く、明日がきっとある~♪
 
 星の見える時に会うと、また夜這いだなんだなって、お互いまずいっしょ。
 

この歌にめでてあひにけり
 このKANの歌を愛でて、会ったのであった。
 
 今まで通り、日中に会おうね。そういう意味だから。
 この歌には、夜空に流星・願いを託し、ってあるからね。
 
 私が彦星になるという訳→ う~ん、いっちゃなんだけど、かなりアホくない?
 私の思いは、彦星より強い? ん~、まあそういうもんですか? つかそんなこと書いてないよ。
 書くんだったら訳としてじゃなくて、自分の感想として、切り分けて書いてよ。
 
 「いまはやめてよ」で女が、心打たれ会うことにした? 隔てたものを取り払った? はい?? 意味不明。取り払うなどと書いてない。
 言葉の意味わかります? 「やめてよ」という言葉が時代によって感動する言葉になるかよ。何でもカンでもどんどん付け足さないで。
 いやカンなら良いけど。でも感じよくないとだめだから。
 
 この物語でいう「愛でる」とは、当人達の秘めた美しい思いのことなの。それを見出すことが、みやびなので。
 
 訳ってその人のセンスそのものだからね。変なのはカンベンして。
 塗籠は「これををかしとやおもひけん。あひにけり」だってさ。ケンケンってあのおかしな犬かよ。
 
 それにさ、KANはまだこの時代ヒットしてないとか言う人いたら、アホだなって思うでしょ?
 なぜ素直に楽しめないの。
 
 二条の后と呼ばれるのは、いつからとか、何それ? 
 そもそもこれは著者が呼んでいる名称で、全部振り返って呼んでいるだけでしょ。
 それに高い人は、最高の呼称で呼ぶのが当然の作法でしょうが。
 だから最初から二条の后(の春宮…)と呼んでいる。
 そしてこれは明確に区別している(「女御、多賀幾子」77段。直前76段で「二条の后のまだ春宮」。名前も明らかに伏せている)。
 
 業平が馬頭になったのは何年とか、どうでもいいって。馬頭なのは生まれつき。阿保の子でしょ。
 そもそも在五や馬頭という呼称が通用していたとでも? 
 あからさまな蔑称。五男のさらなる略称でしょ。ほんとわからんよな。
 
 在五がそうなのだから、二条の后もまず伊勢の言葉。
 古今4に「二条のきさき」、古今7「さきのおほきほいまうちきみ」。
 これらは、あからさまに伊勢を受けている(文面それ自体で特定しようがない)。そして古今8。
 これを表わしたのが古今9の貫之。彼は古今8と唯一独自のつながりを持ち、絶対の確信を持っていた。
 伊勢の圧倒的影響は詞書の比重からも明らか。詞書の長さの突出した上位2つが筒井筒と東下りの歌。
 あからさまな最長の詞を、筒井筒(=梓弓の男、つまり絶対に本段の男の話としか言いようがない)にしたのも、間違いなく貫之の意図。
 
 ひるがえり、伊勢の呼び名は時期と必ずしも符合させていないことは、「二条の后」としつつ「まだ春宮の」という表現からも明らか。
 一つの例示で理解できないかな。全て明示しないとだめですか。 
 そうでありながら、女なら即座に色恋、人や友は全部男。
 どういうことなんだよ。つまり目の前の言葉にただ反応しているだけなのね。文脈を考えられない。
 
 なお補足すると、古今4の歌も、間違いなく古今8の監修の下で作られている。普通の人が突如作って、たった一つ残せるレベルの歌ではない。
 それが本段の「二条の后に仕うまつる」内容の一つ。