紫式部日記 26 その日、新しく造られたる舟ども 逐語対訳

小少将の君と文 紫式部日記
第二部
土御門邸行幸
女房たちの装束
目次
冒頭
1 その日、新しく造られたる舟ども
2 行幸は辰の時と、まだ暁より
3 暁に少将の君参りたまへり
4 御輿迎へたてまつる船楽
5 御帳西面に御座をしつらひて
6 その日の髪上げ麗しき姿
7  左衛門の内侍、御佩刀執る
8  弁の内侍はしるしの御筥
9 近衛司、いとつきづきしき姿
10 藤中将、御佩刀などとりて

 

原文
(黒川本)
現代語訳
(渋谷栄一)
〈適宜当サイトで改め〉
注釈
【渋谷栄一】
〈適宜当サイトで補注〉

1

 その日、  行幸の当日、 【その日】-『絵詞』にナシ。
新しく造られたる
舟ども
さし寄せて
御覧ず。
殿は
新しく造られた
二艘の舟を
池辺に漕ぎ寄せて
御覧になる。
【さし寄せて】-底本「さしよせさせて」、使役助動詞「させ」が付加。『絵詞』は「さしよせて」とある。『全注釈』は「さしよせて」と校訂するが、『集成』『新大系』『新編全集』『学術文庫』は底本「さしよせさせ」のままとする。
     
龍頭
鷁首の
生けるかたち
思ひやられて、
龍頭や
鷁首の
生きた姿が
想像されて、
〈龍頭鷁首(りゅうとう げきしゅ):船首の飾り。(げき)は想像上の水鳥〉
あざやかに
うるはし。
際立って
美しい。
 

2

行幸は
辰の時
と、
行幸は
辰の時(午前八時頃)
ということで、
〈先ほどの龍頭と関連を見る。ただし独自〉
まだ暁より
人びと
けさうじ
心づかひす。
まだ早朝から
女房たちは
化粧をし
準備をする。
 
     
上達部の
御座は
西の対なれば、
上達部の
御座席は
西の対なので、
 
こなたは
例のやうに
騒がしうもあらず。
こちらの東の対は
いつものように
騒がしくはない。
 
     
内侍の督の
殿の御方に、
内侍督の
御殿では、
【内侍の督】-中宮彰子の妹の尚侍妍子
なかなか
人びとの
装束なども、
女房たちの
衣装などが、
 
いみじう
ととのへ
たまふ
と聞こゆ。
かえってこちら以上に
たいそう念入りに
支度なさる
と聞く。
 

3

 暁に
少将の君
参りたまへり。
 早朝に
小少将の君が
里から帰参なさった。
【少将の君】-小少将の君前出。紫式部集で最多の固有名詞人物〉
     
もろともに
頭けづり
などす。
一緒に
髪を梳ったり
などする。
 
     
例の、 例によって、  

いふとも
日たけなむと、
辰の時とは
いっても
日中になってしまうだろうと、
 
たゆき心ども
はた
ゆたひて、
わたしたちの怠け心は
つい
のんびりして、
 
     
扇の
いと
なほなほしきを、
桧扇が
たいそう
平凡なので、
 
また人に
いひたる、
持て来なむ
と待ちゐたるに、
他の人に
言って
持って来てもらおう
と待っているうちに、
 
     
鼓の音を
聞きつけて
急ぎ参る、
合図の鼓の音を
聞きつけて
急いで参上するが、
 
さま悪しき。 その体裁の悪いこと。  

4

 御輿
迎へたてまつる
船楽
いとおもしろし。
 御輿を
お迎え申し上げる
船楽が
たいそう興趣深い。
 
     
寄するを
見れば、
御輿を
階に寄せるのを
見ると、
 
駕輿丁の
さる
身のほど
ながら、
駕輿丁が
あのような
卑しい身分
ながら、
〈駕輿丁(かよちょう):神輿を担ぐ仕丁(雑用係の下男・下僕)〉
階より昇りて、
いと苦しげに
うつぶし伏せる、
階から担ぎ昇って、
たいそう苦しそうに
伏せっている姿は、
 
なにの
ことごとなる、
何の
違いがあろうか、
 
     
高き
まじらひも、
身のほど
かぎりあるに、
高貴な人々に
交じっての宮仕えも
身分には
限度があることだから、
 
いと
安げなし
かしと見る。
ほんとうに
安らかな気持ちがしない
こと〈よと思って見る〉
△ことだと思いながら見ている。
〈かし:…よ。…ね。念押し・言い聞かせ〉

5

 御帳
西面に
御座を
しつらひて、
 御帳台の
西面に
帝の御座所を
設けて、
 
南の廂の
東の間に
御椅子を
立てたる、
南廂の
東の間に
御椅子を
立ててあるが、
 
     
それより
一間隔てて、
そこから
一間を隔てて、
 
東に当たれる際に
北南のつまに
御簾を掛け
隔てて、
東に当たる境に
北と南との端に
御簾(みす)を掛けて
仕切って、
【当たれる】-底本「あれたる」とある。「ある」は「離(あ)る」の意。『栄花物語』には「あたれる」とある。『全注釈』『新編全集』『学術文庫』は「あれたる」と校訂。『集成』『新大系』は「あたれる」のままとする。
女房の
ゐたる、
女房たちが
控えているが、
 
南の柱
もとより、
その南の柱の
もとから
 
簾をすこし
ひき上げて、
内侍二人
出づ。
簾をすこし
引き上げて、
内侍が二人
出て来る。
【内侍二人】-後文の左衛門内侍〈7〉と弁内侍〈8〉。

6

 その日の
髪上げ
麗しき姿、
 その日の
髪上げした
端麗な姿は、
 
唐絵を
をかしげに
描きたる
やうなり。
唐絵に
美しく
描いた
ようである。
 

7

左衛門の
内侍、
御佩刀
執る。
左衛門の
内侍が
御剣を
捧持する。
【左衛門の内侍】-主上付き女房で中宮付きも兼務。橘隆子。
【御佩刀〈みはかし〉】-三種の神器の一つ御剣。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。行幸の際に持参した。
     
青色の
無紋の唐衣、
青色の
無紋の唐衣で、
 
裾濃の裳、 裾濃(すそご)の裳を付け、  
領巾、
裙帯は
浮線綾を
櫨緂
(はじだん)に
染めたり。
領巾(ひれ)や
裙帯(くんたい)は
浮線綾(ふせんりょう)を
櫨緂
(はじだん)に
染めていた。
〈浮線綾(ふせんりょう):線が浮き出た綾織物〉
〈櫨緂(はじだん):白と橙の段々模様〉
     
上着は
菊の五重、
上着は菊の
五重襲に、
 
掻練は紅、 掻練(かいねり)は紅色で、 〈掻練(かいねり):柔らかな絹織物。練り絹〉
姿つき
もてなし、
姿形や
振る舞いに、
 
いささか
はづれて
見ゆる
かたはらめ、
はなやかに
きよげなり。
扇からすこし
外れて
見える
横顔は
明るく
清楚である。
 

8

 弁の内侍は
しるしの御筥。
 弁の内侍は
御璽の御筥(みはこ)
を捧持する。
【弁の内侍】-主上付き女房で中宮付きも兼務。出自未詳。〈前出
【璽〈しるし・じ〉】-三種の神器の一つ御璽。八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)。行幸の際に持参した。
〈渋谷原文は「璽」のところ、新大系・全集・集成の「しるし」によった〉
紅に
葡萄染めの
織物の袿、
紅の掻練に
葡萄(えび)染めの
織物の袿(うちき)、
 
裳、唐衣は、
先の
同じこと。
裳と唐衣は、
前の左衛門の内侍と
同じである。
 
     
いと
ささやかに
をかしげなる人の、
とても
小柄で
ほほえましい感じの〉人が、
×美しい
〈現代の東京的学説は「をかし」を全く誤解しているが、これは京女の心髄で単純皮相的な褒め言葉であることはない。基本上から目線の揶揄。ここでは文脈から悪い意味ではないが上から目線。文脈もまさにそうなっている〉
つつましげに
すこし
つつみたるぞ、
恥ずかしそうに
やや
固くなっているのが
 
心苦しう
見えける。
気の毒そうに
見えた。
 
     
扇より
はじめて、
好み
ましたり
と見ゆ。
桧扇を
始めとして、
趣向が
左衛門の内侍より
まさっている
ように見える。
 
     
領巾は
楝緂
(あふちだん)。
領巾は
楝緂
(おうちだん)である。
〈楝緂(おうちだん):白と薄紫の段々の模様〉
     
夢のやうに
もごよひのだつ
ほど、
よそほひ、
夢のように
うねり歩く
さまや
衣装は、
【もごよひのだつ】-「展転(もごよひゆきめぐ)りて」(大唐西域記・長寛点)。領巾がひらひらと翻りなびくさま。諸校訂本「もこよひのだつ」と読む。
むかし
天降りけむ
少女子(おとめご)の姿も
かくや
ありけむ
とまで
おぼゆ。

天降ったという
天女の姿も
こんなで
あったろうか
とまで
思われる。
〈少女子(おとめご):新大系の表記。このようにルビをふる。全集と集成は「をとめご」。
 主要本は言及しないが源氏絵合で直接言及した「かぐや」を意識。独自。他の伝説をあれこれあげるより、竹取は式部にとって極めて特別。なお、源氏渋谷校訂定家本本文には一応「かくや」もある〉

9

 近衛司、
いと
つきづきしき
姿して、
 近衛司の役人が
たいそう
似つかわしい
服装をして、
 
御輿のことども
おこなふ、
御輿のことなどに
奉仕しているが、
 
いと
きらきらし。
とても
まぶしい。
 

10

藤中将、 藤中将
兼隆が
【藤中将】-『全注釈』『集成』『新編全集』『学術文庫』は「藤中将」と改める。藤原兼隆。『新大系』は底本のまま。
御佩刀
などとりて、
御剣
などを受け取って、
 
内侍に
伝ふ。
左衛門の内侍に
伝え渡す。