伊勢物語 名称の由来:紫による在五物語性否定

成立・著者 伊勢物語
総論
題名の由来
全体あらすじ

 

 『伊勢物語』は著者による題ではなく、源氏物語・絵合の「伊勢物語」に由来し、その実質は第一に在五物語性否定、第二に竹取書写の貫之と対にした伊勢の御。

 

 それを論証する。

 ちなみに紫式部・紫の上の紫の由来も、他に類例なく不明とされるところ、伊勢41段の紫・上の衣に由来する以外説明できない。源氏物語で源氏の話は41巻まで。かつ紫の上の幼少呼称・若紫は、伊勢初段最初の歌詞「若紫(のすりごろも)」に由来する以外に通るように説明できない(垣間見文脈も同様)。源氏は在五を否定して無名の昔男を復権させるために書かれた。だから無名の主人公のライバルは中将で、絵合で激しく争い中将方を負かし、主人公の座に注入された中将筋を徹底否定して物語が終わる。

 

 

目次・概要
現状の理解
・69段説。
しかし物語後半かつ1段のみを根拠にするのは無理
形式的由来
・源氏物語の絵合巻「伊勢物語」文献初出
つまり伊勢物語という確実な由来は源氏物語である
・伊勢各段の題名が写本で著しく錯綜することからも、
全体の題を著者がつけた説得的な根拠は全くない。
要所以外、段数のみ付されていたと見るのが妥当
実質的由来①
 源氏絵合の文脈:在五物語性否定
ここで激しく争う文脈が完全無視の現状=これまでの認識
絵合での他の物語はいずれも人物を冠するもの。
「竹取の翁」「伊勢物語」vs「宇津保の俊蔭」「正三位」
「伊勢物語」のみ不明。かつ唯一「物語」と冠される。
この絵合での和歌は伊勢物語に関する3首のみ。
+主人公がついた竹取・伊勢側が勝利し中将側が負ける

実質的由来②
:伊勢の御の手(=大和物語での伊勢の物語)
竹取は貫之の手(書写)と明示。
加えて貫之は常に伊勢の御と対にされる(桐壺と総角)

現状の理解とその根本的問題点

 
 
 まず現状の理解(wikipedia伊勢物語#名称)を引用しよう。まとめると、それらしい仮説は伊勢69段説のみで定説はない(説得的な説明が存在しない)。最有力とされる69段説も、それ位しか説明できないというにとどまる。

 
 当初は『伊勢物語』『在五物語[9]/在五が物語[2][3][4][5][7][9](ざいご が ものがたり)』『在五中将物語[2][4][9](ざいご ちゅうじょう - )』『ざい五中将の恋の日記[9]』『在五中将の日記[5][7]』『在五が集[9]』など様々に呼ばれていたが、平安時代末期には『伊勢物語』に統一されていった[9]。また、略称としては「在五中将[5]」「在中将[2][3][10]」と「勢語(せいご)[11]」が見られる。

 

 係る書物(※『伊勢物語』と呼ばれることになる書物)の存在を示す記述の文献上初出は、『源氏物語』第17帖「絵合」に見られる和歌「伊勢の海の深き心をたどらずて ふりにし跡と波や消つべき(解釈例:伊勢の海の深く隠れている物語の心を味わおうともしないで、ただ古いからと波が消すように否定して良いはずがない。)」の「伊勢の海の深き心を」云々で、「在五中将」の名も含まれる前後の文章内容からこれが『伊勢物語』を指していることが分かる[12]。

 

 古来諸説あるが、現在は、第69段の伊勢国を舞台としたエピソード(在原業平〈通名:在五中将〉と想定される男が、伊勢斎宮と密通してしまう話)に由来するという説が最も有力視されている。その場合、この章段がこの作品の白眉であるからとする理解と、本来はこの章段が冒頭にあったからとする理解とがある。前者は、二条后(にじょうのきさき。藤原高子の通称)や東下りなど他の有名章段ではなくこの章段が選ばれた必然性がいまひとつ説明できないし、後者は、そのような形態の本はむしろ書名に合わせるために後世の人間によって再編されたものではないかとの批判もあることから、最終的な決着はついていない。

 

 また、業平による伊勢斎宮との密通が、当時の貴族社会へ非常に重大な衝撃を与え(当時、伊勢斎宮と性関係を結ぶこと自体が完全な禁忌であった)、この事件の暗示として「伊勢物語」の名称が採られたとする説も提出されているが、虚構の物語を史実に還元するものであるとして強く批判されている。さらに、作者が女流歌人の伊勢にちなんだとする説、「妹背(いもせ)物語」の意味であるとする説もある。

 

また、『源氏物語』「総角」の巻には、『在五が物語』(在五は、在原氏の第五子である業平を指す)という書名が見られ、『伊勢物語』の(ややくだけた)別称であったと考えられている。
 

検討:伊勢vs在五=源氏vs古今認定

 
 冒頭見てもらうと分かるように、物語の定義として「伊勢物語」だけ宙に浮いている。あとは全て「在五」。

 『ざい五中将の恋の日記』『在五中将の日記』『在五が集集』など、実に多様。名のある古典文献に根拠を持たない(一般的な)俗称は全て、一貫して800年代の内容の伊勢物語が、風説に基づき一般の人々に在五日記と認定され、905年の古今で業平の歌と認定されたことを裏づける。

 

 当初そのような伊勢の記述「在五(中将)」に基づく圧倒的呼称がありつつ、平安中期1000年頃の源氏の著者が、それに対し疑義を唱えた・争った文脈も、上記に段落目で示されている。「伊勢物語」というから問題になっているのであり、在五物語のままだったらここまで問題視されない。

 

 理解しやすい在五呼称ではなくなぜ伊勢とされたのか、在五ではないのは伊勢しかないのに、在五のようなバリエーションも全くないにもかからわず、なぜ伊勢に収束したのか。それが問題だろう。そしてそれは古典史上竹取論でかの有名な源氏絵合の影響力によるもので説明でき、著者は在五としたくなかったから。絵合はそういう文脈。竹取の翁と、宇津保の俊蔭と並べながら、総角のように在五が物語とはしていない。伊勢物語とした。そうやって乱りがはしく争い秘めさせたという、際立った文脈。なぜ第一級の資料・絵合の伊勢該当部分の文脈だけでも軽く流し、あるいは無視されるのか。これが古文の現状。

 

 「伊勢物語」が、有名な竹取と並べて源氏絵合に書かれている(次に『伊勢物語』に『正三位』を合はせて、また定めやらず。)という文学史上特筆すべきことは、上記の説明でも意図的に省かれている(根拠を「和歌」「云々」とし、最終段で総角の「在五が物語」と端的に出していることから明らか)。これは在五の物語という認識の方が未だ優勢ということを裏付けている。

 人には従来の認識と相容れないものは認めない心理が働く(バイアス。認知的不協和)。ただし権威が認定すれば別であり、そして権威=古今は昔男を業平と認定している。ここで古今vs源氏、どちらの権威性を受け入れるかという構図が背後にある。

 

 源氏物語の事実上の影響力は絶大で、かつ良識があれば、伊勢を業平の物語ということは無理。だから「平安時代末期には『伊勢物語』に統一されていった」となる。

 

 在五中将の初出は伊勢63段で(しかも63段に一回しかない、業平特有呼称が出現する最初の特別な呼称)、それ以前にあった呼称という根拠・記録はない。
 

古今貫之による業平否定の配置

 
 上記で伊勢を「在五の」とする根拠は、古今の業平認定によるものである。根拠は古今の認定のみで、事実認定(史実)上の根拠はない。古今の業平認定の歌は全て伊勢にある歌。そういう経緯から『ざい五中将の恋の日記[9]』『在五中将の日記[5][7]』『在五が集集[9]』という呼称がある。

 しかしそれは一般の認定とそれに追従するほぼ全ての学者の認定であり、貫之は業平を認めていない。

 

 前提として貫之は古今で仮名序も記し、自身100首という他の撰者の二~三倍の分量を誇る歌人で、配置を操作している(躬恒58、友則45、忠岑35)。

 他方、業平は30首のうち、古今の詞書上位20首中9首という異様な分量を誇る(20位中複数は他に遍照の2首のみ)。この分量に貫之が関与しないということはありえない。それは古今詞書3位が土佐でも参照した仲麻呂の歌、2位が東下りの歌(昔男の歌だが業平認定)、1位は筒井筒(業平と相容れない段の無名女の歌)ということからも言える。勅撰歌集で最も多い詞書が非貴族の無名女の筒井筒。これが伊勢の歌を重視した・参照したというのでなくて何だというのか。

 

 貫之は業平認定を拒絶し対抗した。その根拠となる配置を列挙しよう。

 

①巻先頭の配置

 文屋・小町・敏行のみ先頭連続(秋下・恋二・物名)、業平を敏行で崩す恋三。
 この人選と分野選定に意味を見ないことは、和歌に相当無知でない限り不可能。

 

②古今最初の厚い詞書

 文屋8・貫之9=下に立たむこと堅く。二条の后4に至近、加えて東下りの根拠となる文屋の三河行きの詞書を小町の歌で付与する(古今938:文屋のやすひてみかはのそうになりてあかた見にはえいてたたしやといひやれりける返事によめる)。ちなみにこの詞書は小町と認定された歌で最長のものである。

 業平53・63=伊勢63段の在五に掛けた。53の歌は82段渚の院の歌(伊勢の上でも業平=右馬頭のものとされる数少ない歌の一つで、世の中から桜がなくなれば(歌も詠ませられないで)のどかなのになあ、という抜けた歌。業平はもとより歌を詠めない。「もとより歌のことは知らざりければ、すまひけれど、強ひてよませければ、かくなむ」101段・藤の花。詠ませると目を白黒させる。「右馬頭なりける翁、目はたがひながらよみける」77段・安祥寺のみわざ)。渚の院は貫之が土佐で引用したもので、これを強く意識していないことはない。意識し続けたからこそ30年後、土佐にも収録した。

 

③仮名序の配置

 ありはらのなりひらは、
 そのこゝろあまりてことばたらず。しぼめるはなのいろなくてにほひのこれるがごとし。

 ふんやのやすひではことばゝたくみにてそのさまみにおはず、いはゞあき人のよきゝぬをきたらむがごとし。

 六歌仙評は全体が対をなしており、それを無視した身に負わないという解釈は100%誤り。これは貫之のよる古の歌の心(対句・対の配置)を読めない人達へのひっかけ問題。古今全体の配置①②がそれを確実に裏付けている。

 

 

形式的由来:源氏物語・絵合

 
 
 伊勢物語の初出は前述の通り源氏絵合での「『伊勢物語』に『正三位』を合はせて」であり、上記のような「伊勢の海の深き心を」云々ではない。そのような理解は原文を軽んじているし、多分直接見ていない。見ていたらそう書ける文脈ではない。それを以下に示す。

 

 ちなみに、伊勢物語の著者本人は題名を記しておらず、それを受けた「伊勢物語」ではないと解する。

 なぜなら伊勢では極めて著名な各段の題名すら錯綜することが多く(関守=築土の崩れ)、写本でブレない西の対に至っても、教科書で「月やあらぬ」などとあらぬ名が付されるなど、著者の意向は明示されなかった、だから定家本の題すら無視され軽視されてきたと見るのが自然で、そのような情況において著者が題を冠していたと想定することは無理だからである(比較対象として古事記は当然として、万葉集ですらフレることはない)。また題がなかったのも終始一貫して主観を昔男とし続けた無名性とも一致するものである。それが貴族社会に逆手に取られ在五日記と認定され、古今の業平認定がある(万葉が人麻呂と赤人の歌集ではなく全体末尾と各部末尾にみだりについているだけの家持の編纂と学者達に認定されているのと同じ構図)。

 伊勢は記述も登場人物も一貫して800年代。古今は905年。現状通説的な段階成立増補説は、古今及び業平認定の無理を維持しようとした後撰の認定を直ちに真に受けて正当化したもので、年代が著しく前後錯綜し、実力的にも極めて不自然、無責任とも言える場当たり的見立てになっている(後撰筆頭の源順は歌100選外ですらある)。かつ大和の成立も900年代前半の記述を無視して遅らせる。その在五に認定に歯止めを掛けたのが源氏という構図。

 

 

実質的由来①:在五物語性否定

 
 

 続いて絵合の実質的文脈(絵合巻の絵合せ部分)を示す。それは中将の物語ということを否定するためのもの。絵合は、960年の天徳内裏歌合と関連していることは明らかで、そのいわゆる常識があれば絵合中の和歌を無視することはできない。そして絵合せでの和歌は伊勢物語のものしかない。

 前提として、この絵合巻のヒロインは梅壺こと前伊勢斎宮であり(壺は桐壺・藤壺・梅壺しかいない特別な呼称。それぞれ源氏・竹取・伊勢121段を象徴)、絵合巻で最も和歌を詠む女性であり(9首中3首)、その斎宮陣営(左)が勝利し、頭中将の娘・弘徽殿女御陣営(右)が負ける。中将が買い漁った絵ではなく源氏自筆の日記で勝利する。つまり絵合せ全体が、伊勢が中将のものではないと否定する目的があり、源氏全体も無名の主人公と一貫してライバルの中将の血筋を否定するものである。

 

 以下引用するが、最初から個別の表現を読もうとするのではなく、画面を広く眺めて、色付き部分に注目し、全体の対比構造を把握してほしい。物事を俯瞰してみる。最初は眺める程度で(詳しくわからなくていい)、特有なのに繰り返される語=キーワードが出現する場合は精読する。これが基本。キーワードとは教科書指定の重要語や文法のことではない。第一に、古・竹取・伊勢・貫之、第二に、何壺・斎宮・三河・八橋・蜘蛛手・唐衣などの単語のことである(平家巻10「かの在原のなにがしの、唐衣きつつなれにしとながめけん、三河国の八橋にもなりぬれば、蜘蛛手に物をとあはれなり」ここでなにがしとするのも、ここでの論旨と同旨。なにがしも一級の重要語である)。
 

左右:伊勢vs中将陣営


 かう絵ども集めらると聞きたまひて、権中納言【頭中将】、いと心を尽くして、軸、表紙、紐の飾り、いよいよ調へたまふ。

 弥生の十日のほどなれば、空もうららかにて、人の心ものび、ものおもしろき折なるに、内裏わたりも、節会どものひまなれば、ただかやうのことどもにて、御方々暮らしたまふを、同じくは、御覧じ所もまさりぬべくてたてまつらむの御心つきて、いとわざと集め参らせたまへり。

 こなたかなたと、さまざまに多かり。物語絵は、こまやかになつかしさまさるめるを、

 梅壺の御方は、いにしへの物語、名高くゆゑある限り弘徽殿【頭中将娘】は、そのころ世にめづらしく、をかしき限りを選り描かせたまへれば、うち見る目の今めかしきはなやかさは、いとこよなくまされり。

 主上の女房なども、よしある限り、「これは、かれは」など定めあへるを、このころのことにすめり。

 

 中宮【藤壺】も参らせたまへるころにて、方々、御覧じ捨てがたく思ほすことなれば、御行なひも怠りつつ御覧ず。この人びとのとりどりに論ずるを聞こし召して、左右と方分かたせたまふ。

 梅壺の御方【前斎宮】には、平典侍、侍従の内侍、少将の命婦。【〇〇少=身分低】

 右には、大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦を、【大中〇】

 ただ今は心にくき有職どもにて、心々に争ふ口つきどもを、をかしと聞こし召して、

 

竹取の翁vs俊蔭

 
 まづ、物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』【左】『宇津保の俊蔭』【右】を合はせて争ふ。

「なよ竹の世々に古りにけること、をかしきふしもなけれど、かくや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契り高く、神代のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」と言ふ。

 右は、
「かぐや姫ののぼりけむ雲居は、げに、及ばぬことなれば、誰も知りがたし。この世の契りは竹の中に結びければ、下れる人のこととこそは見ゆめれ。ひとつ家の内は照らしけめど、百敷のかしこき御光には並ばずなりにけり。阿部のおほしが千々の黄金を捨てて、火鼠の思ひ片時に消えたるも、いとあへなし。車持の親王の、まことの蓬莱の深き心も知りながら、いつはりて玉の枝に疵をつけたるをあやまち」となす。

 絵は、巨勢相覧、手は、紀貫之書けり。紙屋紙に唐の綺をばいして、赤紫の表紙、紫檀の軸、世の常の装ひなり。

 

「俊蔭は、はげしき波風におぼほれ、知らぬ国に放たれしかど、なほ、さして行きける方の心ざしもかなひて、つひに、人の朝廷にもわが国にも、ありがたき才のほどを広め、名を残しける古き心を言ふに、絵のさまも、唐土と日の本とを取り並べて、おもしろきことども、なほ並びなし」と言ふ。

 白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は、常則、手は、道風なれば、今めかしうをかしげに、目もかかやくまで見ゆ。

 左は、そのことわりなし。
 

伊勢物語vs正三位

 
 次に、『伊勢物語』【左】『正三位』【右】を合はせて、また定めやらず。

これも、右はおもしろくにぎははしく、内裏わたりよりうちはじめ、近き世のありさまを描きたるは、をかしう見所まさる。

 平内侍、

 「伊勢の海の深き心をたどらずて  ふりにし跡と波や消つべき

 世の常のあだことのひきつくろひ飾れるに圧されて、業平が名をや朽たすべき」

 と、争ひかねたり。

 右の典侍、

 「雲の上に思ひのぼれる心には  千尋の底もはるかにぞ見る」

 「兵衛の大君の心高さは、げに捨てがたけれど、在五中将の名をば、え朽たさじ」

 とのたまはせて、宮【一般は藤壺とするが左の平内侍がおかしなことを言った文脈上ボスの前伊勢斎宮】、

 「みるめこそうらふりぬらめ 年経にし伊勢をの海人の名をや沈めむ」

 かやうの女言にて、乱りがはしく争ふに、一巻に言の葉を尽くして、えも言ひやらず。ただ、あさはかなる若人どもは、死にかへりゆかしがれど、主上のも、宮のも片端をだにえ見ず、いといたう秘めさせたまふ。

 

 

 最後に平内侍が争いかねたのは、左の梅壺陣営の精神と業平が相容れないからであり(梅壺の御方は、いにしへの物語、名高くゆゑある限り、弘徽殿は、そのころ世にめづらしく、をかしき限りを選り描かせたまへれば)、それを受けて、右側が調子に乗ったところ、見る目ないなと言ったのが伊勢斎宮。

 

 さらに一般は、この「乱りがはしく争ふ」を、この流れで伊勢に関する論争とは見ない。ここまでの全体の論争のことだとしてしまう。つまり何を争っているのか分からない。それは在五の物語とされていたことを都合よく忘れているから。経緯を知らない人々には伊勢としても業平の話でしょうとみなされ続けた。

 

 

実質的由来②:伊勢の御による物語

 
 
 最後に残るのは、なぜ「伊勢」物語としたかであるが、69段は関係なく、伊勢の御が根拠と解する。

 

 根拠は2点。

 

 1つに絵合の左の竹取で貫之が出されたことから、伊勢の御の存在が暗示されること。


 竹取は貫之の手(写本)とされ、竹取と伊勢は文脈でも配置でも並べて論じられている。

 そして源氏物語において、貫之と伊勢の御はセットにされて重視されている(最初の桐壺・終盤の総角)。一回だけなら偶然と思われるので、大事なことは繰り返す。

 「明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院の描かせたまひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる」(桐壺)

 「伊勢の御もかくこそありけめと、をかしく聞こゆるも、内の人は、聞き知り顔にさしいらへたまはむもつつましくて、「ものとはなしに」とか、「貫之がこの世ながらの別れをだに、心細き筋にひきかけけむも」など、げに古言ぞ」(総角)

 

 2つめに、これら一連の記述から、大和物語における伊勢物語引用部分を暗示する。

 

 大和初段の書き出しはこうである。

 「亭子の帝、今はおりゐさせ給ひなむとするころ、弘徽殿の壁に、伊勢の御の書きつけける」

 上記桐壺はこの書き出しを明確に受けており、「亭子院」と「伊勢」で大和物語を想像しないのは知らない人。男性の一物の短さをクソ中のクソと揶揄する際立った女性社会目線の歌(大和138段・沼の下草「こやくしくそといひける人、ある人をよばひておこせたりける…このこやくしといひける人は、丈なむいとみじかかりける」)、伊勢をしのぐ筆力(作品量)、古今女性最大の伊勢の御(宇多帝=亭子院の愛人)が暇なので書いたとし見ようがない。

 大和物語は173段あるが、終盤140段以降からどう見ても伊勢物語の内容が昔話として何話も挿入され、それが在中将のものとして認定されている。

 つまり伊勢の御は、今でいう伊勢物語を在五の日記と見誤ったことになるが、それは古今の業平認定を真に受けたから。普通の人、権威を基本信じている人には無理もないこと。

 

 そして紫は歌の実力者として伊勢の御に敬意を払っているから(上記桐壺・総角)、伊勢の御が語った物語として伊勢物語とした。しかし在五の物語ではないから絵合では在五が物語としなかったし、貫之に比して伊勢の御は明示していない。貫之と伊勢の御に言及される総角で「在五が物語」としたのは、絵合せで、その話はもうしないことにしたのもあるだろうし(主上のも、宮のも片端をだにえ見ず、いといたう秘めさせたまふ)、主人公没後の話なので、時を経て在五の物語とされた意味もあるだろう。

 

 

 以上、かなりの分量で、ごく一部でも興味をもってくれた方にとっては、それなりに充実した論証になったのではないかと思う。これで日本古典の中核とも言える作品群を有機一体的に、捉えることができる。昔男が業平というみなし認定はあらゆる側面で筋を通せないが、そうではなく二条の后に仕えた後宮の文屋の作品とみれば、後世の後宮の女性達への影響力等、作品を超えたレベルで筋を通すことができる。しかし業平という認識枠組みにはまっている以上、この結論や想定には至らない。

 「在五」で主人公、「けぢめ見せぬ心」が大らかに愛する心。核心に行くほど言葉を自在に曲げる業平的解釈。「しるよし」で領るよし。これが業平的解釈。文脈に一切根拠がない業平ありきのこじつけ当て字。これは伊勢語ではなく学者語。定家本等の写本では一致して「しるよし」。「領る」はそれを真に受ける人の頭の中にしか存在しない。同例として持ち出される徒然236段(丹波に出雲といふ所)も、端的に知る知らぬと対比している(しだのなにがしとかやしる所なれば)。