宇治拾遺物語:玉の価はかりなき事

新羅国の后 宇治拾遺物語
巻第十四
14-6 (180)
玉の価
北面の女雜仕

 
 これも今は昔、筑紫に丈夫さだしげと申す者ありけり。この頃ある箱崎の丈夫のりしげが祖父なり。そのさだしげ京上しけるに、故宇治殿に参らせ、またわたくしの知りたる人々にも心ざさんとて、唐人に物を六七千疋が程借るとて、太刀を十腰ぞ質に置きける。
 

 さて京に上りて、宇治殿に参らせ、思ひのままにわたくしの人人にやりなどして、帰り下りけるに、淀にて舟に乗りけるほどに、人設けしたりければ、これぞ食ひなどして居たりけるほどに、端舟にて商をする者ども寄り来て、「その物や買ふ。かの物や買ふ」など尋ね問ひける中に、「玉をや買ふ」といひけるを、聞き入るる人もなかりけるに、さだしげが舎人に仕へけるをのこ、舳に立てりけるが、「ここへ持ておはせ。見ん」と言ひければ、袴の腰よりあこやの玉の、大なる豆ばかりありけるを取り出して、取らせたりければ、着たりける水干を脱ぎて、「これにかへてんや」と言ひければ、玉の主の男、所得したりと思ひけるに、惑ひ取りて、舟さし放ちて去にければ、舎人も高く買ひたるにやと思ひけれども、惑ひ去にければ、悔しと思ふ思ふ、袴の腰に包みて、異水干着かへてぞありける。
 

 かかるほどに、日数積もりて、博多といふ所に行き着きにけり。
 さだしげ舟よりおるるままに、物貨したりし唐人のもとに、「質は少なかりしに、物は多くありし」などいはんとて、行きたりければ、唐人も待ち悦びて、酒飲ませなどして物語しけるほどに、この玉持のをのこ、下種唐人にあひて、「玉や買ふ」と言ひて、袴見て、「十貫」と言ひければ、惑ひて、「十貫に買はん」といひけり。
 「まことは二十貫と言ひければ、それをも惑ひ、「買はん」といひけり。
 さては価高き物にやあらんと思ひて、「賜べ、まづ」と乞ひけるを、惜みけれども、いたく乞ひければ、我にもあらで取らせたりければ、「今よく定めて売らん」とて、袴の腰に包みて、退きにければ、唐人すべきやうもなくて、さだしげと向ひたる船頭がもとに来て、その事ともなくさへづりければ、この船頭うち頷きて、さだしげにいふやう、「御従者の中に、玉持ちたる者あり。その玉取りて給ふらん」と言ひければ、さだしげ、人を呼びて、「この共なる者の中に、玉持ちたる者やある。それ尋ねて呼べ」と言ひければ、このさへづる唐人走り出でて、やがてそのをのこの袖を控へて、「くは、これぞこれぞ」とて、引き出でたりければ、さだしげ、「まことに玉や持ちたる」と問ひければ、しぶしぶに、候ふ由を言ひければ、「いで、くれよ」と乞はれて、袴の腰より取り出でたりけるを、さだしげ、郎等して取らせけり。
 それを取りて、向ひ居たる唐人、手に入れ受け取りて、うち振りみて、立ち走り、内に入りぬ。何事にもかあらんと見るほどに、さだしげが七十貫が質に置きし太刀どもを、十ながら取らせたりければ、さだしげはあきれたるやうにてぞありける。古水干一つにかへたるものを、そこばくの物にかへてやみにけん、げにあきれぬべき事ぞかし。
 

 玉の価は限なきものといふ事は、今始めたる事にはあらず。筑紫にたうしせうずをいふ者あり。
 それがかたりけるは、物へ行きける道に、をのこの、「玉や買ふ」と言ひて、反古の端に包みたる玉を、懐より引き出でて、取らせたりけるを見れば、木欒子よりも小さき玉にてぞありける。
 「これはいくら」と問ひければ、「絹二十疋」と言ひければ、あさましと思ひて、物へ行きけるをとどめて、玉持のをのこ具して家に帰りて、絹のありけるままに、六十疋ぞ取らせたりける。
 「これは二十疋のみはすまじきものを、少なくいふがいとほしさに、六十疋を取らするなり」と言ひければ、をのこ悦びて去にけり。
 

 その玉を持ちて、唐に渡りけるに、道の程恐ろしかりけれども、身をも放たず、守などのやうに、首にかけてぞありける。
 悪しき風の吹きければ、唐人は悪しき波風にあひぬれば、舟の内に一の宝と思ふ物を海に入るるなるに、「このせうずが玉を海に入れん」を言ひければ、せうずがいひけるやうは、「この玉を海に入れては、生きてもかじあるまじ。ただ我が身ながら入れば入れよ」とて、抱へて居たり。さすがに人を入るべきやうもなかりければ、とかくいひけるほどに、玉失ふまじき報やありけん、風直りにければ、悦びて、入れずなりにけり。その舟の一の船頭といふ者も、大きなる玉持ちたりけれども、それは少し平にて、この玉には劣りてぞありける。
 

 かくて唐に行き着きて、「玉買はん」といひける人のもとに、船頭が玉を、このせうずにもたせてやりけるほどに、道に落してけり。あきれ騒ぎて、帰り求めけれども、いづくにあらんずると思ひ侘びて、我が玉を具して、「そこの玉落しつれば、すべき方なし。それがかはりにこれを見よ」とて取らせたれば、「我が玉はこれには劣りたりつるなり。その玉のかはりに、この玉を得たらば、罪深かりなん」とて返しけるぞ、さすがにここの人には違ひたりける。この国の人ならば取らざらんやは。
 

 かくてこの失ひつる玉の事を歎くほどに、遊のもとに去にけり。二人物語しけるついでに、胸を探りて、「など胸は騒ぐぞ」と問ひければ、「しかじの人の玉を落して、それが大事なる事を思へば、胸騒ぐぞ」と言ひければ、「ことわりなり」とぞ言ひける。
 

 さて帰りて後、二日ばかりありて、この遊のもとより、「さしたる事なんいはんと思ふ。今の程時かはさず来」と言ひければ、何事かあらんとて、急ぎ行きたりけるを、例の入る方よりは入れずして、隠れの方より呼び入れければ、いかなる事にあらんと、思ふ思ふ入りたりければ、「これは、もしそれに落したりけん玉か」とて、取り出でたるを見れば、違はずその玉なり。
 「こはいかに」とあさましくて問へば、「ここに玉売らんとてすぎつるを、さる事いひしぞかしと思ひて、呼び入れて見るに、玉の大なりつれば、もしさもやと思ひて、いひとどめて、呼びにやりつるなり」といふに、「事もおろかなり。いづくぞ、その玉持ちたりつらん者は」と言へば、「かしこに居たり」と言ふを、呼び取りてやりて、玉の主のもとに率て行きて、「これはしかじかして、その程に落したりし玉なり」と言へば、えあらがはで、「その程に見つけたる玉なりけり」とぞ言ひける。
 いささかなる物取らせてぞやりける。
 

 さてその玉を返して後、唐綾一つをば、唐には美濃五疋が程にぞ用ひるなる。
 せうずが玉をば、唐綾五千段にぞかへたりける。
 その価の程を思ふに、ここにては絹六十疋にかへたる玉を、五万貫に売りたるにこそあんなれ。それを思へば、さだしげが七十貫が質返したりけんも、驚くべくなき事にてありけりと、人の語りしなり。
 

新羅国の后 宇治拾遺物語
巻第十四
14-6 (180)
玉の価
北面の女雜仕