伊勢物語 122段:井出の玉水 あらすじ・原文・現代語訳

第121段
梅壷
伊勢物語
第四部
第122段
井出の玉水
第123段
深草に

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  契れることあやまれる人 
 
  なき世なりけり 
 
  いらへもせず 
 
 

 
 

あらすじ

 
 
 著者が、死に別れた女(20-24段)のことを思い出し、歌を詠む。
 
 山城の 井出のたま水手にむせび 頼みしかひも なき世なりけり
 
 大和の近くの山城で、筒井に掛けて、井出の玉水手に掬び
 (こみ上げる思いで、ついむせび、亡き妻を思う情けなさで)
 こんな男だから、親がわりに頼みに(23段)する甲斐もないか。
 
 確か、思うかひなき世、そう言っていたよな。
 思ふかひ なき世なりけり年月を あだに契りて21段) 
 
 しかし返事はない。

 ~
 

 本段冒頭の「契れることあやまれる人」は、21段の「あだに契りて」に掛かる。
 この物語で、この意味での契りはそこしかない。もう一つの契りは次の段
 
 そして、このように誰も気づいていない符合なのだから、成立・著者が別とかいうのはナンセンス。
 そういうのは、伊勢の命を損なう見方。
 いや、損なっているから、そのように考えるのであるが。
 

 井出の玉水は、井出町の玉川の水。
 これを井戸から出てくる清冽な水に掛けて、女が自ら死んだ「し水」・つまり、きよみずと解く。
 その心は、冷たくなったその体、この手でその死をみとった悲しさを思い出す(24段)。
 
 このまま生きていても会えることはない。これが思うかひなき、か。
 確か、もう会えると思っていなかった、と言っていたな(あひ思はで)。
 

 井出の玉水は死出の田長(43段・しでのたをさ)とも、なんとなく掛かっている。
 死出の田長とは、田植え時分にホトトギスが鳴いて、死出の田植えに駆り出される例え。つまり鳥がリーダー。前段の鶯ともリンク。
 春先の話で、季節も流れも丁度良い(前段で梅と花が出てきて、本段の川は桜並木の名所)。
 
 ~
 

 なお、「むせび」は泣くを導いて、暗示するが、だからと言って泣きわめく意味ではない。
 堪えているから、泣くとも涙ともしていないし、川に掛けて、とめどなく流れる涙を飲み込むから、むせるのである。
 誰も触れていないので、一々言うことでもないかもしれないが、こういう流れが滞る言葉には、確実に意味がある。
 前段で「ぬるめる」を濡れると安易に丸めるのも典型だが、言葉の細部を簡単に捨てすぎ。
 

 井戸の水を掬って飲もうと約束し、それを頼みにしていたとかいう訳。
 そういう約束のどこを頼みにできるのだろうか。
 一緒に水を飲むとかいう約束の意味が全く不明。というか、そんな意味ではない。
 これは死に水を取る(みとった)に掛けた意味。
 

 頼みで手飲み、ということを強調しても、それはそうとして、そこにそこまでの意味はない。
 そもそも掬んだだけ。それと掛かる契りの方が、どう見てもメイン。
 何より頼みにできないのなら、手飲みしたとも言えない。
 情景の把握が、いつも直接・肉体的。
 みやびは繊細な感覚の概念。
 
 橘諸兄とか関係ない。誰? 
 いや伊勢に関係ないなら、別にいいけど。
 なら出す意味なくない? 
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第122段 井出の玉水
   
 むかし、男、  むかし、をとこ、  昔おとこ。
  契れることあやまれる人に、 ちぎれる事あやまれる人に、 ちぎれることあやまれる人に。
       

205
 山城の
 井出のたま水手にむせび
 山しろの
 ゐでのたま水手に結び
 山城の
 井手の玉水てにくみて
  頼みしかひも
  なき世なりけり
  たのみしかひも
  なき世なりけり
  たのみしかひも
  なき世成けり
       
  といひやれど、いらへもせず。 といひやれどいらへもせず。  かういへど。いらへず。
   

現代語訳

 
 

契れることあやまれる人

 

むかし、男、
契れることあやまれる人に

 
 
むかし男
 むかし男が
 

契れることあやまれる人に
 契りをたがえてしまった人に
 

 (ちぎり)
 :ここでは男女が一緒になること。
 

 あやまる 【誤る】
 :約束をたがえる。
 
 この物語で契りを出した女は二人。
 男の妻と伊勢斎宮。
 
 思ふかひ なき世なりけり年月を あだに契りて 我や住まひし21段・男の妻。梓弓)

 むかし男、ねむごろにいひ契れる女の、ことざまになりにければ112段・伊勢斎宮)
 
 あだ(無駄)に契りとは、男が一緒になったというのに、宮仕えに京に出たこと。
 それが23段(筒井筒)・24段(梓弓)の内容。
 
 伊勢斎宮の懇ろにというのは、69段・狩の使の「いと懇にいたはり」を受けている。
 「ことざま(異様)」は、世を嘆いて尼になってしまった(102段)ことを受けている。
 
 二人の女は世を嘆いている点でも同じ。
 
 しかし「あだに契」と「ねんごろにいひ契」を素朴に比較すると、本段の「あやまれる」に掛かるのは前者。
 続く言葉、本段のしめくくり(返事がないこと)からもそう言える。なぜなら、既にいないから。
 
 段をかなり隔てて斎宮と契りを立てているのは、時を経て不誠実ではないと思ったから(いわば喪に服した)。
 斎宮の話は次の段
 
 24段の直後に出てきた小町とは、結局男女の関係にはならなかった。
 友達だった(46段・うるはしき友、53段・あひがたき女)。
 
 

なき世なりけり

 

山城の 井出のたま水手にむせび
 頼みしかひも なき世なりけり

 
 
山城の 井出のたま水 手にむせび
 

 山城:京都と奈良が接する辺りの地域。ここでは二人の故郷・大和と掛けている。男は奈良を古里に掛ける(初段)。
 

 井出:井戸から出(いで)る水をかけて井出。これを奈良の筒井に掛ける。23段で二人が言い交わした地。
 

 たま水:玉のように清らかな水という意味だが、玉は、ほぼ常に魂と掛けることは、110段「魂結び」でも示されている。
 そして24段で女が果てた「し水」と掛かる。これは清水(きよみず)の暗示だが、自ら死んだことと掛かっている。
 
 井出の玉水全体として、井出の玉川の水に掛けている。清冽というには、やはり流れている方が相応しい。
 また、川はあちらとこちらを隔てるもの。
 

 手にむせび:掬び(手を掬び=水を掬・すくい)と、むせび(泣く)を掛ける。
 
 しかし泣くとは書いていないから堪えている。
 だから涙を飲んだ(涙を飲む=堪えた)のであり、川の水を手飲みしたのではない。
 
 こういう概念化が基本。
 酒の肴(アテ)に橘をといっても(60段)、ミカンの果実ではなく、花橘、橘の花を添えること、と見立てるのと同じ。
 直接的に解すると、ナンセンスになる。
 ここでも川の水を飲んで嘆く意味が不明。
 
 むすびは、男女の契りが結ばれることに掛かる。「君ならずして…つひにほいのごとくあひにけり」(23段
 
  

頼みしかひも なき世なりけり
 
 頼み:女が男に生活を頼ったこと。
 「女、親なく、たよりなくなるままに」(23段)。
 男はその生活の糧を得るために、高安やら、宮仕えやらに出て行った(24段)。
 女はそれを頼みにした(後日談の94段で「子あるなかなりければ、こまかにこそあらねど、時々ものいひおこせけり」)。
 それと掛けて「頼みし」。
 
 後段は思ふかひ なき世なりけり21段)と掛けている。
 かつての女の言葉。
 
 まとめると、井出の水を手で掬い(涙を飲んで)、こんな男を頼んだ甲斐もなかったか。
 と「しに水を取る」に掛けて、心で思った。

 死に水をとるには、臨終まで介抱する(ミとる)という含み。
 その介抱と掛けて「手に」。
 
 清くは、女が他の男との関係を見られたことを恥じて身を投げたから(24段。ただし直接は見ていない。男を家に入れなかった)。
 そういうことは見ることではない、見ようとすることではなかったと暗示する段が、120段・築摩の祭。
 
 泣きと掛け、無き世なりけりか。
 
 

いらへもせず

 

といひやれど、いらへもせず。

 
といひやれど
 といってやったが、
 

いらへもせず
 いやしない、と掛けて、返事もしない。

 いらへ【答へ】
 :返事。
 

 24段の男女のやりとりと、リンクしている。