古事記 宇美の伊斗~原文対訳

三韓征伐 古事記
中巻⑦
14代 仲哀天皇
神功皇后の後日談
1 宇美の伊斗
忍熊王
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)

産みで宇美

     
故其政
未竟之間。
 かれその政
いまだ竟へざる間ほどに、
 かような事が
まだ終りませんうちに、
其懷妊臨産。 妊はらませるが、
産あれまさむとしつ。
お腹の中の御子が
お生まれになろうとしました。
     
即爲鎭御腹。 すなはち御腹を
鎭いはひたまはむとして、
そこでお腹を
お鎭めなされるために
取石以纒
御裳之腰而。
石を取らして、
御裳みもの腰に纏かして、
石をお取りになつて
裳の腰におつけになり、
渡筑紫國。 筑紫つくしの國に渡りましてぞ、 筑紫の國にお渡りになつてから
其御子者阿禮坐。
〈阿禮二字以音〉
その御子は生あれましつる。 その御子はお生まれになりました。
故號其御子
生地謂
宇美也。
かれその御子の
生れましし地に名づけて、
宇美といふ。
そこでその御子を
お生み遊ばされました處を
ウミと名づけました。
     

石で意志・意図で伊斗

     
亦所纒
其御裳之石者。
またその御裳に
纏まかしし石は、
またその裳に
つけておいでになつた石は
在筑紫國之伊斗村也。 筑紫の國の伊斗いとの村にあり。 筑紫の國のイトの村にあります。
     

まつり糸で釣糸にあやかる

     
亦到坐筑紫
末羅縣之
玉嶋里而。
 また筑紫の
末羅縣まつらがたの
玉島の里に到りまして、
 また筑紫の
松浦縣まつらがたの
玉島の里においでになつて、
御食
其河邊之時。
その河の邊に
御食をししたまふ時に、
その河の邊ほとりで
食物をおあがりになつた時に、
當四月之上旬。 四月うづきの上旬はじめのころなりしを、 四月の上旬の頃でしたから、
爾坐其河中之礒。 ここにその河中の磯にいまして、 その河中の磯においでになり、
拔取御裳之糸。 御裳の絲を拔き取り、 裳の絲を拔き取つて
以飯粒爲餌。 飯粒いひぼを餌にして、 飯粒めしつぶを餌えさにして
釣其河之年魚。 その河の年魚あゆを釣りたまひき。 その河のアユをお釣りになりました。
     
〈其河名謂小河。 (その河の名を小河といふ。 その河の名は小河おがわといい、
亦其磯名謂
勝門比賣也〉
またその磯の名を
勝門比賣といふ)
その磯の名は
カツト姫といいます。
     
故四月上旬之時。 かれ四月の上旬の時、 今でも四月の上旬になると、
女人拔裳糸。 女ども裳の絲を拔き、 女たちが裳の絲を拔いて
以粒爲餌。 飯粒を餌にして、 飯粒を餌にして
釣年魚。 年魚あゆ釣ること アユを釣ることが
至于今不絶也。 今に至るまで絶えず。 絶えません。
三韓征伐 古事記
中巻⑦
14代 仲哀天皇
神功皇后の後日談
1 宇美の伊斗
忍熊王