伊勢物語 125段:つひにゆく あらすじ・原文・現代語訳

第124段
我と等しき人
伊勢物語
第四部
第125段
つひにゆく道
   

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  わづらひて(心煩い×患い)
 
  思はざりし 
 
  自分の死が昨日今日というのではない。
  一般論で誰も昨日今日と思わないよねと。
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ
 むかし男が、心を煩って、死にそうな心地と思われたので
 

 これを世のおぼえとかけ(おぼえ=世評)、
 

 つひにゆく 道とはかねて聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

 
 遂に(終に・最後に)行く道とは、かねては聞いていたが(いつかは来ると思いつつ誰も)、昨日今日のこととは思わないよな。
 (でももうすぐのようだ。←こういうこと。というギャグ)
 
 ~
 
 自分が死にそうなほど弱ったので、死の認識の一般論を言っている。
 間近な死期を悟った歌。リアルに昨日今日の辞世の句なわけない。そのような発想で、125段でまとめることはできない。
 まして、前段まで今までの内容を全部振り返ってきているのに。
 
 昨日今日のことだったかぁー! しまったぁー! って阿保の子? なわけない。
 あ、そう見てるから主人公を馬頭と言うの。どんだけ。
 
 後宮で二条の后や女達に仕えた、むかし男の話(95段「二条の后に仕うまつる男」、3段4段)。
 それが心底軽蔑する、後宮を汚した(65段)在五(63段~)と混同された(そのきっかけが関守の話。5段6段)。
 男の物語と歌が、在五に乗っ取られ、滅茶苦茶に汚される。
 
 誰もわかっちゃいねー、もう死にそう。
 
 いやだって、114段「仁和の帝」が出現した時点で、業平死亡は確定しているがな。
 なぜ無視? あーそこだけ行平が主人公になりました? どんだけザイアニズムよ。お前の歌は俺らのもの。認定一発!楽勝ブイ!
 いやだけども、行平の時は名をはっきり明示してるがな(79段101段)。二回とも業平とセットで。
 
 それも無視かよ~。というか気づいていない? マジ? あ、物語なんて全部読むほど暇じゃない? そうですか~。じゃ認定すんなって。
 勅撰ばんざーい! おーい、認定すりゃこっちのもんかよ~。
 これでかつる! マ○セー! わが勅撰軍の認定は永久に不滅です! 不磨の大典! 伊勢の著者はなぜ勅撰に逆らう! こんなにも誇らしいのに!
 
 あ~そういや、85段で、理屈を超えた主従とかいう訳があったっけ。マ○セー精神まじすげー。
 理屈をこえた…涙 理屈ねえ。
 
 ここまで心血注いで書いてきて、「けぢめ見せぬ心」の「在五」(63段)の歌集だって。
 「けじめ見せぬ心」って大らかに愛する心、分け隔てなく愛する心、って意味なんだって。はい?
 いや、ありえねーだろ。けじめつけてくれや。あ、無理? これ国語の分野…でいいんだよね。
 
 だから、古今861の認定は誤り。事実誤認。
 頭悪すぎたからとは、一応勅撰ブランド(?)に配慮して言わないけども。
 (貫之は配置で別認定をしているので除く)
 もうそういう、権威に乗っかるだけの根拠のない認定は、お終いにしましょう。
 
 古今が伊勢を参照した以外ないでしょうが。
 古今で突出した最長の詞書が、筒井筒(295字)、二番目が東下り(252字)ですよ。古今はこれをどっから参照したの。
 あ~、伊勢じゃないどっかの歌集? 確認されていないけど、確認されている伊勢ではないのね。なんですかそれは。
 
 そして伊勢の記述は800年代で、905年の古今以前ですよ。登場する帝(深草・田村・水尾・仁和)全部そうでしょう。
 古今世代の人達(貫之の世代)なんて一回も出てきてないがな。107段の若い頃の敏行がせいぜい。
 
 筒井筒は全く業平とは相容れない、田舎出身の昔男の慣れ初め話ですよ。伊勢が原典以外ありえない。
 なんでここまで重ねているのに、悉く二番煎じに貶められるのか。根拠のない言いがかりにもほどがある。
 だからそういう人達の根拠は論理じゃない。勅撰マ○セー教のひたすらな信心にある。
 
 業平認定が危ういことが明らかになると、行平だ、いや他人が装っているとかの話にすりかえ出した。それを自分達でも混同する。
 著者の面子はどうでもいいのかって。
 だから、心地死ぬべくおぼえけれ。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第125段 つひにゆく道 欠落;
和歌のみ59段末尾に挿入
   
 むかし、男、わづらひて、  昔、おとこ、わづらひて、  
  心地死ぬべくおぼえければ、 心地しぬべくおぼえければ、  
       

209
 つひにゆく
 道とはかねて聞きしかど
 つゐにゆく
 みちとはかねてきゝしかど
 つゐに行
 道とかねはて聞しかと
  きのふけふとは
  思はざりしを
  昨日けふとは
  おもはざりしを
  昨日けふとは
  思はさりしを
       
       とてなむたえいりにけり
   

現代語訳

 
 

わづらひて

 

むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ

 
 
むかし男
 むかし男が
 
 著者。
 
 業平ではない。古今861の認定は誤り。最後まで、ほんとしつこい。
 古今がこの内容を収録したのは、伊勢を業平の日記と解していたからに他ならない。細部を悉く無視して。
 一部では、本段の内容が偽らざる心とか讃えられていたようだが、それはそうとして、前提にしている業平認定自体が偽りなのだが。
 
 「けぢめ見せぬ心」の「在五」(63段)。
 後宮で女につきまとい帝に流された在原なりける男(65段)、
 歌をもとより知らないとされた行平のはらから(兄弟。101段)。
 これで主人公を業平の別称で呼んでいるだもんな。
 どういう認識だよ。別称じゃなくて蔑称だって。そら認知の病も大流行だわ。
 
 事実認定の滅茶苦茶さ。お上の認定が全て。なら読む意味ない。
 あ~読んでないのか。お偉方の訳を信じればいいもんね、よくわからん細かい所は無視でいい。ただ従っていればいい。
 最後だからいうと、頭○すぎでしょ。そういう態度は学問じゃない。権威の○。御用だ御用だ~!
 ひたすら古今を盲信。伊勢はガン無視。なのに伊勢に基づいて業平を賛美する。阿保か。そんなに古今がいいなら、あの有名な古今の業平と誇ればいい。
 伊勢の内容は800年代、しかも末尾を886年で確定させる趣旨の記述(仁和帝)が114段にあるのに、全く無視して905年の古今以後とみなす。
 
 また、あろうことか950年以降の後撰の後とする。その認定に無条件に従い、114段の歌は行平のものだとする。
 この認定は、後撰の掲載の仕方からみても、業平説を何とか維持するために、都合で行平にあてがった(捏造した)としかいえない。著者に失礼極まるが。
 これまで行平は、79段101段で業平とセット、かつ名前を明示していたにもかかわらず、何の明示もない114段で、行平の歌と一方的に認定する。
 勅撰認定を何とか維持するために。それ以外に動機がない。かつ最大最強の動機付け。
 それだけ114段は、当時の御用学者に危機感をもたらしたと。今と同じ全く構図。根拠ない前提が覆されないよう、次々根拠のない話で塗り固めていく。
 
 だから、その大元をなす業平説は色々ありえない。
 前提がおかしいから場当たり的で支離滅裂。手当たり次第に、情交(?)する話に持ち込む。
 業平にその地方に行った記録はなくても、そこだけ都合よく伊勢に基づく。一連の認定に全く論理がない。根拠がない。
 勅撰だから業平、それだけだ。それは根拠にはならない。だったら、政府が言うことだから、正しいということがまかり通る。
 いやしかし、全力でそう言って恥じない、むしろ誇る文化であると。結論ありきの勝手なこじつけ。物語の筋など皆無。それで主人公。
 

わづらひて
 思い悩みか、肉体の病を患ったか定かではないが
 

 わづらひ 【煩ひ】
 ①苦労。心配。悩み。
 ②病気。
 

 ここではどちらの意味も掛けている。それに結局どちらも同じこと。
 しかしどちらかというと、思い悩みのほうが大きい。
 なぜなら「心地」「思はざりし」とあるからだ。
 つまりこれが死に至る病ですな。
 

心地死ぬべくおぼえけれ
 死にそうに思われたので
 
 そらそうよ。
 自分が最も忌み嫌い拒絶する(103段「きたなげさよ」)馬頭だとみなされ続け、作品が乗っ取られ、得意げに汚らわしい淫奔話で汚されるんだもの。
 頭おかしくなる。
 
 おぼえ 【覚え】
 ①評判。世評。▽世間からの思われ方。
 ②感じ。感覚。
 
 ここまでの文脈では②の個人の感覚という意味で、以下の歌との関係では、①世間一般の見方を評するという意味をもつ。
 
 本当に昨日今日で死ぬなら、ここまでの配置でまとめて、終わらせられない。
 

思はざりし

 

つひにゆく 道とはかねて聞きしかど
 きのふけふとは 思はざりしを

 
 
つひにゆく 道とはかねて聞きしかど
 遂に逝く 道とはかねて聞いているが
 

 つひに 【終に・遂に】
 ①長いいきさつ・時間の後に。とうとう。
 ②打消しを伴い、最後まで(一度も)
 
 つまりここまでは①の意味で、後半との関係では②の意味。
 

きのふけふとは 思はざりしを
 昨日今日とは 世の誰も全く思ってないんだなこれが
 
 「おぼえ」という世の評判にかけて。
 
 昨日今日で死ぬなら、こんなこと考えて書けないでしょうが。
 皮肉だって。間近いことは確かだけど、突き放して書いているの。死ぬ時は死ぬ。
 
 125だけ浮いているようにも思えるが、
 121で後宮に侵入した業平らしき者(著者とダブらせる存在。しかし不審者は女目的、著者は仕事で後宮にいるというアピール)の話を出していること、
 122で梓弓の妻を降り返り、123124で伊勢斎宮を振り返って、これは全体の縮図であるから、120段を超えた時点で確実に終わらせにきている。
  
 自分の認知を俯瞰して描いている。「むかし男」のように。
 こういう認知を区別できないんだよね。全部単一の自分目線でしか考えられない。
 主体を複数にしたり、違う目線を設定して描くと、すぐ対応できなくなる。それで、矛盾だー矛盾だー。
 著者は何を意図しているのだろう、とは考えない。わからないーおかしいー。記述の方が間違っているー。
 
 だって業平に決まっているもん。間違いなわけないもん。みんな言っているもん。
 散々ヤリ散らして、俺の空のロマンきどってポックリ逝きました。そういうことにロマン感じる意味わからん話に決まっているもん。
 さすが阿保の子。手のつけようがない。