伊勢物語 34段:つれなかりける人 あらすじ・原文・現代語訳

第33段
こもり江
伊勢物語
第二部
第34段
つれなかりける人
第35段
玉の緒を

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 

あらすじ

 
 
 この段は、前段から引き続く内容。
 

 「つれなかりける人」とは、この段のみで独立してある言葉ではなく、前段で女が男を釣ろうとした(誘いをかけた歌)話にかけている。
 そして、その話に男は乗らなかった(誘いにのれなかった)、だから「釣れなかった人」。
 釣れないを抽象化して、思うままにならなかった人、という一般的な意味も持つ(その根拠が、次段冒頭の「心にもあらで」絶えたる人との符合)。
 加えて、この文脈では、双方の目線からの言葉。どちらにとっても「思い通りにいかなかった人」。だからはっきり女としていない。
 なお冒頭での男女の別は、ほぼ常に明示される。(次段でも「人」とされ、かかりが明示された後、以降は男女に戻る。)
 

 したがって「冷淡だった女」と専ら(色)男目線で解釈するのは間違い。物語の前後のかかりを全く無視しているし、発想としても軟弱。
 こういう微妙なズラしはこの物語の基本。

 そこだけ見ると通らない、だからそれを物語全体のかかり(特徴語句)や文脈を見て、よく通るように、よく考えて欲しいということを意図している。
 それなのにそのズレに気づかないで悉く釣られていくから、物語の筋が全部ずれていき、チグハグになる。それは表現がまずいからではない。
 
 さて、そういう視点で記述を見て見ると、
 

 むかし男が、つれなかった人(男がその話にのれなかった人)のもとに、

 いへばえに いはねば胸に 騒がれて 心ひとつに 嘆くころかな
 言うに言えず、言わねば胸が 騒がれる だから伝える 心は一つ(自分の心は決まっている。相手と一つにならんということ)
 

 応えられないのは残念だけど、菟原≒芦屋の人と、田舎人のわたしとじゃ釣り合わないよ(ただし、これは建前)。
 →「田舎人のことにては、よしやあしや」(前段)+「むかし、男かた田舎に住みけり。男宮仕へしにとて」(24段梓弓)
 

 おもなくていへるなるべし
 →おもんなくて、ごめんなさい。
 しかしその心は、全然おもんないこと言わんといて(サオのヌキサシ云々)。
 段を分けているのは、直接つなげて書くと、万が一のことがあるからである。
 

 そしてこう言わされたことは、嫌々ながらということが次の段で示される(「心にもあらで」絶えたる人、及び歌の内容)。
 つまり、言わんと場面がおさまらなかった。
 それがこの段の歌にある「いはねば… 騒がれて」「嘆くころ(心)かな」。
 これは、29段(花の賀)と同じ嘆きの用法。暗示。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第34段 つれなかりける人
   
 むかし、男、  昔、おとこ、  むかしおとこ。
  つれなかりける人のもとに、 つれなかりける人のもとに つれなかりける人のもとに。
       

68
 いへばえに
 いはねば胸に騒がれて
 いへばえに
 いはねばむねにさはがれて
 いへはえに
 いはねはむねのさはかれて
  心ひとつに
  嘆くころかな
  こゝろひとつに
  なげくころ哉
  心一つに
  なけく比哉
       
  おもなくていへるなるべし。 おもなくていへるなるべし。 おもひ〳〵ていへるなるべし。
   

現代語訳

 
 

むかし、男、
つれなかりける人のもとに、
 
いへばえに いはねば胸に 騒がれて
 心ひとつに 嘆くころかな
 
おもなくていへるなるべし。

 
 
むかし、男、
 
 

つれなかりける人のもとに、
 つれなかった人のもとに、
 (冷淡だった女のもとに→誤り)
 

 つれなし
 :(現代のつれないと同旨)
 (主体)思うままにならない。
 (客体)そしらぬ風の。
 

 しかしここでのつれないは前段の釣れないとかかっている。
 つまり、ひっかからない。それが最後の「おもなくて」
 

 そしてここでは「人」とあるから、女とは違うという表現。
 (冒頭において、女は通常明示するし、「人」の時はむしろ男を表すことが多い。16・17段)
 しかし前段の女とかかっているのだが、これはつまり「女として見れない」という意味。お察し。
 だから相手からみてつれないという意味。
 

 ここでは、それを言うのに苦慮している。
 「冷淡だった女」という解釈は、こうした前後のかかりを見ていないので、間違い。
 
 

いへばえに

:言えば+え(ず)に
 →言うこともできずに
 
 ここで「え」に続くのは打消しのみ。
 したがって、語調を整えるために調節し省略している。
 字余りにするのは、よっぽど心を乱す時のみ。
 つまりここでは平静にと(後述の「騒がれて」はその対比。対の配置・対照は基本形)。
 

いはねば 胸に 騒がれて
 しかし言わねば胸が騒がれて
 

 →つまり、
 前段の歌を理解してないと思われるのは本意ではないし、
 →(こもり江に 思ふ心を いかでかは 舟さす棹の さして知るべき)
 もし歌の通り(釣りの話ではなく)、好いてくれているなら
 (ぬきさしならない関係=深い関係=一つになることを望んでいるなら)、
 ちゃんと答えなければ不誠実だから。
 (そして普通、女は一人では釣りをしないという。釣る場合でも、男につきあって釣る。なぜなら竿は男のモノだから)
 

心ひとつに
 ただ、思いは一つ
 
 (ここで「抜き差しならぬ」のフラグ回収)
 

嘆くころかな
 嘆く心よと
 
 「ころ(頃)」というのも、明らかに直前の心を省略させたもの。
 

おもなくていへるなるべし。
 全くおもんないけど、そう言ったのであった。
 

 おもなし 【面無し】:
 ①面目ない。
 ②厚かましい。
 
 このような定義がされるが、
 それは結局、おもんないから。
 (ツマんない・興がない・興味がないことを言うこと)
 
 「面白い」状態から、おもんなく(面無く)して、「白ける」。
 だからごめんなさい。どちらにとっても嘆かわしいことだよねと。
 
 
 そして、非常に言いにくいことだが、この嘆きとは、言いたくないのに言っていることにある。
 つまり、ロマンチックな意味ではない。それが「おもなくて」。詳しくは、次の段を参照。