古事記~三種の神器 原文対訳

猿田毘古神 古事記
上巻 第五部
ニニギの物語
三種の神器
天孫降臨
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)

天兒屋命。
 ここに
天あめの兒屋こやねの命、
 かくて
アメノコヤネの命・
布刀玉命。 布刀玉ふとだまの命、 フトダマの命・
天宇受賣命。 天の宇受賣の命、 アメノウズメの命・
伊斯許理度賣命。 伊斯許理度賣いしこりどめの命、 イシコリドメの命・
玉祖命。 玉たまの祖おやの命、 タマノオヤの命、
并五伴緒矣。 并せて五伴いつともの緒をを 合わせて五部族の神を
支加而。 支あかち加へて、 副えて
天降也。 天降あもらしめたまひき。 天から降らせ申しました。
     
於是副賜
其遠岐斯
〈此三字以音〉
 ここに
その招をぎし
この時に
先さきに天あめの石戸いわとの前で
天照らす大神をお迎えした
八尺勾璁鏡 八尺やさかの勾璁まがたま、鏡、 大きな勾玉まがたま、鏡
草那藝劔 また草薙くさなぎの劒、 また草薙くさなぎの劒、
亦常世思金神。 また常世とこよの思金の神、 及びオモヒガネの神・
手力男神。 手力男たぢからをの神、 タヂカラヲの神・
天石門別神
而詔者。
天の石門別いはとわけの神を
副へ賜ひて詔のりたまはくは、
アメノイハトワケの神を
お副そえになつて仰せになるには、
此之鏡者。 「これの鏡は、 「この鏡こそは
專爲我御魂而。 もはら我あが御魂として、 もつぱらわたしの魂たましいとして、
如拜吾前。 吾が御前を拜いつくがごと、 わたしの前を祭るように
伊都岐奉。 齋いつきまつれ。 お祭り申し上げよ。
次思金神者。 次に思金の神は、 次つぎにオモヒガネの神は
取持前事。 前みまへの事ことを取り持ちて、 わたしの御子みこの治められる
爲政。 政まつりごとまをしたまへ」
とのりたまひき。
種々いろいろのことを取り扱つて
お仕え申せ」と仰せられました。
     
二柱神者。  この二柱の神は、 この二神は
拜祭
佐久久斯侶。
伊須受能宮。
〈自佐至能以音〉
拆く釧くしろ
五十鈴いすずの宮に
拜いつき祭る。
伊勢神宮に
お祭り申し上げております。
     
次登由宇氣神。
此者坐外宮之
度相神者也。
次に登由宇氣とゆうけの神、
こは外とつ宮の
度相わたらひにます神なり。
なお伊勢神宮の外宮げくうには
トヨウケの神を祭つてあります。
     
次天石戶別神。 次に天の石戸別いはとわけの神、 次にアメノイハトワケの神は
亦名謂櫛石窓神。 またの名はくしいはまどの神といひ、 またの名はクシイハマドの神、
亦名謂豐石窓神。 またの名は豐とよいはまどの神といふ。 またトヨイハマドの神といい、
此神者。 この神は この神は
御門之神也。 御門みかどの神なり。 御門の神です。
     
次手力男神者。 次に手力男の神は、 タヂカラヲの神は
坐佐那那縣也。 佐那さなの縣あがたにませり。 サナの地においでになります。
故其
天兒屋命者。
〈中臣連等之祖〉
 かれその
天の兒屋の命は、
中臣の連等が祖。
このアメノコヤネの命は
中臣なかとみの連等むらじらの祖先、
布刀玉命者。
〈忌部首等之祖〉
布刀玉の命は、
忌部の首等おびとらが祖。
フトダマの命は
忌部いみべの首等おびとらの祖先、
天宇受賣命者。
〈猿女君等之祖〉
天の宇受賣の命は
猿女さるめの君等が祖。
ウズメの命は
猿女さるめの君等きみらの祖先、
伊斯許理度賣命者。
〈作鏡連等之祖〉
伊斯許理度賣の命は、
鏡作の連等が祖。
イシコリドメの命は
鏡作かがみつくりの連等の祖先、
玉祖命者。
〈玉祖連等之祖〉
玉の祖の命は、
玉の祖の連等が祖なり。
タマノオヤの命は
玉祖たまのおやの連等の祖先であります。
猿田毘古神 古事記
上巻 第五部
ニニギの物語
三種の神器
天孫降臨

解説

 
 
 三種の神器は一般に、
 ①八咫鏡(やたのかがみ。伊勢)
 ②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ。熱田)
 ③八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま。皇居)とされる。
 しかしこれらは、いずれも古事記の表記から離れている。
 

 古事記における神器は、八尺勾璁(やさかのまがたま)、草那藝劔(くさなぎのつるぎ)。
 
 

一般の呼称と古事記の表記の関係性

 
 一つの考え方は、一般の①②③が先で、古事記がそれを物語仕様にしたというもの。
 もう一つは、上記が古事記の表記をずらしたというもの。
 しかし①②③類似の名称は、古事記より後に成立した日本書紀では出現しない。
 したがって、後者と見るのが自然。つまり日本書紀ではそれを記すに足りる根拠がなかった。つまり根拠が古事記しかなかった。
 
 では古事記は一般の学者が見るように、何かの伝承をひたすら調べて参照して書いたのだろうか?
 稗田阿礼と安万侶は民俗学者か何かだったのだろうか。それは神話の理解からすると違うし、ナンセンス。
 もしそれを貫徹するなら、冒頭で参照したのは創世記でしかありえない。それをどう見る。
 体裁もそれにならっているが(最初の主、物語~由来説明~系譜)、それともこれは一般の書き方か。それは創世記が一般の書き方というのと同義だろう。
 創世記=聖書の大元は極めて特別な霊感。それは西では広く受け入れられている(エイブラハム=リンカーン)。それが神の国の歴史の違いで実力の違い。
 

 「八咫鏡」とあるが、ヤタにつくのは、古事記ではカガミではなくカラスのみ(八咫烏)。

 訪れる不吉を周囲に知らせる眷属。それがヤタの烏。
 これが古事記の文脈に即し、かつ象徴の素直な理解。

 こういうことが認められないから偽書という説があるし、古事記の表記をずらしていると言える。
 そしてこういう文脈は一貫している。最初が天照がスサノオ(野蛮で幼稚な男)の剣を折ること。つまりそういう権力を認めない。
 

 古事記における神器の表現は以下の通り。

 「八尺勾璁 鏡。及草那藝劔」。
 

八尺勾璁

 
 八尺勾璁は、天照を象徴する神具。
 スサノオのいわゆる誓約の時から連続して用いられている。皇室がこれを重視しているのには、まずその意味がある。
 玉は魂の例え。これについて現状の理解はどこにもない。伊勢や源氏の古典の解釈でも全く示されない。
 誰も知らないのだから、そこから独立して古典を研究しているのでなければ、宮中が知っていることにはならない。
 鏡にヤタをつけることも、玉と鏡の場所が逆転していることもそれを裏づけている。
 

 
 鏡は、天照と一緒に出現した高木の神(タカムスビ)。紫の歌った三つの「鏡の神(神々の神)」。これが彼女の信仰(理解)。そして庇護。
 玉についているが、八尺の表記を独自に持つわけではない。

 そこで鏡だけ特別に言及され、我が魂として祀れとしていることから、この我は高木の神(タカムスビ)。
 したがって玉ではなく鏡が上位。普通の神社の鏡。玉はどこかにあるだろうか?
 玉だけ皇居内にあるという話は、スサノオが天照の玉をバラバラに噛み砕き、息を吹き込んだ子達といえる。
 

草薙剣

 
 草薙剣は、その権威を象徴。切るものではなく裁くもの。
 草薙は、いわばなぎ払う。これも物理的ではない。草は秘密。クソかもしれない。
 
 物語中では八俣大蛇の中から出現し、スサノオから天照に献上された。
 スサノオの剣を刃こぼれさせたので、スサノオ以上の剣。したがって八俣大蛇も八咫烏同様の眷属。
 蛇の中にあることなどありえないので、物理的な剣ではない。象徴表現。
 

折られた剣・権力

 
 天照はその威光を欲して寄ってきたスサノオの剣を折っている。
 これは参拝きどって神を吹いて利用する、武力(威嚇)に基づく権力行使(※)は認めないという意味。
 
 ※ 加牟加是能 伊勢能宇美能…宇知弖志夜麻牟
 神風かむかぜの 伊勢の海の…うちてしやまん
  

 誰でも出来る参拝程度で愛国きどれるなら、誰でも統治を担える。
 だから良くても凡人(すぐ力に流される)、悪くて前例権威至上主義の役人、最悪ボンボン。
 そしてこの国の統治の根幹にむらがっているのは、もちろん三番目。
 
 専ら周囲を利用する私的動機、個人の名誉追及で生きてきた民は、突如公民(本来の市民)とはならないし、そういう民の代表も同じ。それを賎民という。
 何の考えもなく、民が主で先進国だと自尊し続ける以上、根本的に私利私欲追及、私的動機での統治・国家権力の私的占奪は免れない。
 この国における統治レベルの主体性は、一方的で高圧的な傲慢とほぼ同義。それがこの国の民度。
 無知の野蛮に足蹴にされ破滅するまで追従する民度。反対から反対にふれただけ。
 それは蒙昧といい、そういう国が国レベルで発言が重んじられ、名誉ある地位を占めることはない。