平家物語 巻第六 入道死去:概要と原文

飛脚到来 平家物語
巻第六
入道死去
にゅうどうしきょ
築島

〔概要〕
 
 「思ひおく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつるこそやすからね」と言い残し、清盛死去。享年64歳。(Wikipedia平家物語の内容から引用)。「見ざりつるこそやすからね」とは、お決まりの「こそ~已然」の係り結びで、結びの「ね」は打消「ず」の已然形。頼朝の首を見れなかったことこそ心残りだ・不安である(安からず=安心できない=思い残すこと)という意味。この点、全集は心外、全注釈は残念とするが、この折衷という訳ではない。なお、頸(くび)は本により頭(こうべ)ともなる。

 高倉天皇崩御からすぐ、清盛は水も湯となる壮絶な熱病にかかり、清盛の妻・時子が閻魔庁が無間地獄行を決めた夢を見た後、壮絶に悶死したのであった。こういう最期はひとえに度を越した強烈な業という表現である(度を越すと態様に応じて今世で発現)。

 


 
 その後四国の兵ども、皆河野四郎に従ひつく。また紀伊国の住人、熊野別当湛増も、平家重恩の身なりしが、それも背いて、源氏に同心の由聞こえけり。
 「およそ東国、北国ことごとく背きぬ。南海、西海もかくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚かし、逆乱の先表頻りに奏す。夷蛮忽ちに起れり。世はただ今失せなんず」とて、必ず平家の一門ならねども、心ある人々の歎き悲しまぬはなかりけり。
 

 同じき二十三日、院の御所にて、俄かに公卿詮議あり。前右大将宗盛卿申されけるは、坂東へ討手は向かうたりといへども、させるしいだしたる事もなし。
 今度は宗盛大将軍を承つて、向かふべき由申されければ、諸卿色代して、「ゆゆしう候ひなん」とぞ申されけり。公卿殿上人も武官に備はり、少しも弓箭に携はらんほどの人々は、宗盛卿を大将軍として、東国、北国の凶徒等を追討すべき由仰せ下さる。
 

 同じき二十七日、前右大将宗盛卿、源氏追討のために、東国へすでに門出と聞こえし。
 その夜半ばかりより、入道相国、違例の心地とて留まり給ひぬ。
 

 明くる二十八日より、重病をうけ給へりとて、京中、六波羅、「すは、しつるは。さみつる事よ」とぞ囁きける。
 

 入道相国、病づき給ひし日よりして、水をだに喉へ入れ給はず。身の内の熱きこと、火をふくがごとし。ふし給へる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪へ難し。ただ宣ふ事とては、「あたあた」とばかりなり。少しもただ事とも見えざりけり。比叡山より、千手井の水を汲み下し、石の舟に湛へて、それにて冷え給へば、水おびたたしく沸き上がつて、ほどなく湯にぞなりにける。
 もしやと助かり給ふと、筧の水を撒かせたれば、石や鉄などの焼けたるやうに、水ほとばしつて寄りつかず。おのづからもあたる水は、ほむらとなつて燃えければ、黒煙殿中に満ち満ちて、炎渦巻いてあがりけり。
 これや昔、法蔵僧都といひし人、閻王の請に趣いて、母の生所を訪ねしに、閻王憐れみ給ひて、獄卒を相副へて、焦熱地獄へつかはさる。鉄の門の内へさし入れば、流星などのごとくに、炎空へたちあがり、多百由旬に及びけんも、今こそ思ひ知られけれ。
 

 入道相国の北の方、二位殿の夢に見給ひける事こそ恐ろしけれ。猛火おびたたしう燃えたる車を、門の内へやり入れたり。前後に立ちたるものは、或いは馬の面のやうなる物もあり、或いは牛の面のやうなる物もありけり。車の前には無といふ文字ばかり見えたる鉄の札をぞ立てたりける。
 二位殿夢の心に、「あれはいづくよりぞ」と御尋ねあれば、「閻魔の庁より、平家入道殿の御迎ひに参つて候ふ」と申す。「さてその札は何といふ札ぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏、焼き滅ぼし給へる罪によつて、無間の底に沈み給ふべき由、閻魔の庁に御定め候ふが、無間の無をば書かれて、間の字をば未だ書かれぬなり」とぞ申しける。
 二位殿夢さめて、汗水になりつつ、これを人々に語り給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。霊仏、霊社へ金銀七宝を投げ、馬、鞍、鎧、甲、弓矢、太刀に至るまで、取り出で運び出だし、折られけれども、験もなかりけり。男女の公達、跡枕にさしつどひて、いかにせんと歎き悲しみ給へども、かなふべしとも見えざりけり。
 

 同じき閏二月二日、二位殿あつう堪へ難けれども、入道相国の御枕によつて泣く泣く宣ひけるは、「御有様見奉るに、日にそへて頼み少なうこそ見えさせ給へ。この世に思し召すことあらば、少しもののおぼえさせ給ふ時、仰せられ置け」とぞ宣ひける。
 入道相国、さしも日ごろはゆゆしげにおはせしかども、まことに苦しげにて、息の下にて宣ひけるは、「我、保元平治よりこの方、度々の朝敵を平らげ、勧賞身に余り、かたじけなくも一天の君の御外戚として丞相の位に至り、栄華子孫に及ぶ。今生の望みは、一事も残る所なし。ただし思ひ置く事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頭を見ざりつるこそやすからね。我いかにもなりなん後は、堂塔をも建て、孝養をもすべからず。やがて討手を遣はし、頼朝が首を刎ねて、我が墓の前にかくべし。それぞ孝養にてあらんずる」と宣ひけるこそ罪深けれ。
 もしや助かると、板に水をおきて、ふしまろび給へども、助かる心地もし給はず。
 

 同じき四日、病に責められ、せめての事に板に水をいて、それにまろび給へども、助かる心地もし給はず。悶絶躃地して、遂ににあつち死にぞし給ひける。
 

 馬車の馳せ違ふ音、天も響き大地も揺るぐほどなり。一天の君、万乗の主の、いかなる御事ましますとも、これには過ぎじとぞ見えし。今年は六十四にぞなり給ふ。老死にといふべきにはあらねども、宿運忽ちに尽き給へば、大法秘法の効験もなく、神明三宝の威光も消え、諸天も擁護し給はず。況んや凡慮においてをや。
 命にかはり身にかはらんと忠を存ぜし数万の軍旅は、堂上堂下になみゐたれども、これは目にも見えず、力にもかかはらぬ無常の殺鬼をば、暫時も戦ひかへさず、また帰り来ぬ四手の山、三途河、黄泉中有の旅の空に、ただ一所こそおもむき給ひけめ。日頃作りおかれし罪業ばかりや獄卒となつて、迎へにも来たりけん。あはれなりし事どもなり。
 

 さてしもあるべきならねば、同じき七日、愛宕にて煙になし奉り、骨をば円実法眼首にかけ、摂津国へ下り、経の島にぞ納めける。さしも日本一州に名をあげ、威をふるひし人なれども、身は一時の煙となつて、炎は空に立ちのぼり、かばねはしばしやすらひて、浜の砂にたはぶれつつ、むなしき土とぞなり給ふ。
 

飛脚到来 平家物語
巻第六
入道死去
にゅうどうしきょ
築島