古事記 たまきはる・そらみつ大和の歌~原文対訳

山部大楯 古事記
下巻①
16代 仁徳天皇
本岐歌と志都歌
1 たまきはる
由良の戸の
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)

雁のタマゴ

     
亦一時。  またある時、  また或る時、
天皇爲
將豐樂而。
天皇
豐の樂あかりしたまはむとして、
天皇が
御宴をお開きになろうとして、
幸行
日女嶋之時。
日女ひめ島に
幸でましし時に、
姫島ひめじまに
おいでになつた時に、
於其嶋雁生卵。 その島に雁かり卵こ生みたり。 その島に雁が卵を生みました。
     
爾召
建内宿禰命。
ここに
建内の宿禰の命を召して、
依つて
タケシウチの宿禰を召して、
以歌問
雁生卵之状。
歌もちて、
雁の卵生める状を
問はしたまひき。
歌をもつて
雁の卵を生んだ樣を
お尋ねになりました。
其歌曰。 その御歌、 その御歌は、
     

多麻岐波流

     
多麻岐波流 たまきはる  
宇知能阿曾 内の朝臣あそ、 わが大臣よ、
那許曾波 汝なこそは あなたは
余能那賀比登 世の長人ながひと、 世にも長壽の人だ。
蘇良美都 そらみつ  
夜麻登能久邇 日本やまとの國に この日本の國に
加理古牟登岐久夜 雁子こ産むと 聞くや。 雁が子を生んだのを
聞いたことがあるか。
     

多迦比迦流

     
於是建内宿禰。  ここに建内の宿禰、  ここにタケシウチの宿禰は
以歌語白。 歌もちて語りて白さく、 歌をもつて語りました。
     
多迦比迦流 比能美古 高光る 日の御子、 高く光り輝く日の御子樣、
宇倍志許曾 斗比多麻閇 諾うべしこそ 問ひたまへ。 よくこそお尋ねくださいました。
麻許曾邇  斗比多麻閇 まこそに 問ひたまへ。 まことにもお尋ねくださいました。
     
阿禮許曾波 余能那賀比登 吾あれこそは 世の長人、 わたくしこそは
この世の長壽の人間ですが、
蘇良美都 夜麻登能久邇爾 そらみつ 日本の國に この日本の國に
加理古牟登 伊麻陀岐加受 雁かり子こ産むと いまだ聞かず。 雁が子を生んだとは
まだ聞いておりません。
     

本岐歌之片歌

     
如此白而。  かく白して、  かように申して、
被給御琴。 御琴を賜はりて、 お琴を戴いて續けて歌いました。
     
歌曰。 歌ひて曰ひしく、  
     
那賀美古夜 汝なが王みこや 陛下へいかが
都毘邇斯良牟登 終に知らむと、 初はじめてお聞き遊ばしますために
加理波古牟良斯 雁は子産らし。 雁は子を生むのでございましよう。
     
  と歌ひき。  
此者。
本岐歌之片歌也。
こは
壽歌ほきうたの片歌なり。
 これは
壽歌ほぎうたの片歌かたうたです。
山部大楯 古事記
下巻①
16代 仁徳天皇
本岐歌と志都歌
1 たまきはる
由良の戸の

たまきはる=賜きはる

 
 
「たまきはる」は「たかひかる(日の御子=皇子)」(多麻岐波流・多迦比迦流)と対になった枕詞で、賜きはる(たまわりました)と解する。
 
「き」は過去形。「はる」は何々「しはる」というくだけた関西弁で、「なさる」と同義。
 たまわったで命にかかる。この命は命令。
 よって「たまきはる命」は、賜りました命。
 

 高光る日の御子は、皇子の美称。
 仁徳天皇は既に皇子ではないが、タケシウチは先々代からの家臣なのでこう呼んだ。いまでいう「若」。端的にそういう文脈である(吾こそは 世の長人)。
 高光る日の御子を天皇と見るのは、字義から本来ではないし、そのような思い込みの見立てでは、文脈を全く読みこめない(暗記教育の典型的弊害)。だから光る源氏の物語で高光る日の御子というのに、その場にいる源氏を無視して天皇と訳し疑問にも思わない。これが現状の読解。文脈を無視したドグマ的解釈。
 

 重要な枕詞は、まず古事記を検索することが基本。万葉ではなく。古事記が揺るがない先例で、かつ十分な文脈があるのだから。
 枕詞を飾りとか訳さないという説明は、その知見では意味がわからず訳せないの誤り。理解のなさを正当化しても理解したことにはならない。