平家物語 巻第六 葵前:概要と原文

紅葉 平家物語
巻第六
葵前
あおいのまえ
異:葵女御
あおいのにょうご
小督

〔概要〕
 
 高倉上皇の女子逸話2。女房の召使の童女・葵前が帝に仕える機会があり重用されたが、内々で葵女御などとささやかれた。そこで帝は葵前を召すことを止めた。帝が物思いに沈む様子を気にした関白が、身分違いなら自分の養女にすると言っても聞かない。退位後にそういう例はあるがましてまさに在位中にそのようなことをすると世の誹り(そしり)を受けると言う(※廻文冒頭参照:清盛の17歳の娘を高倉上皇父・後白河57歳に参らせて非難された話。ただし高倉帝は退位後すぐ早世しており10代の話)。

 「しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」(百人一首40・平兼盛)という和歌の帝の手習を、少将が取り次ぎ葵前に送られると、彼女は顔を赤らめ「ただならぬ心地がする(例ならぬ心地いできたり)」と里に帰り、伏せて五・六日で死ぬ。(これをどう解釈するかだが) これは唐の二代目皇帝太宗が、ある娘を宮殿に入れようとした所、その娘は既に婚約していると諫められ、宮殿に入れるのを止めた。それと違わぬ心ばえだと人は言った。

 

 ※この話は前の紅葉、続く小督と対比して解される(紅葉の後半、小督の前半が説明調の種明かし的エピソード)。つまり小督には無理に言い寄られて何となく受け入れた男がいたものの、ただ帝に仕える身として文も返さなくなったが、他方で葵には小督のような意識(女性として見られる自覚)はなかった。そして高倉帝は紅葉のエピソートにあるように女子に細かく配慮できる方だったので(まめやかに御心ざし深かりければ)、葵と接遇するうちに密かに失恋した(独自説)。

 帝に仕える女性が夜の相手を意味することもあるものの、それは文脈による。ここでは「童」とあること、続いて帝がよなよな通って子を産んだ小督「女房」の端的な描写との対比、帝の「しのぶ」という和歌の内容、これらを総合して人目ある日中の間柄と解される。また「世の誹り」も、帝に比し葵が幼かったことによると解すべきものである(位を退いて後は、ままさるためしもあるなり。まさしう在位の時、さやうの事は後代の誹りなるべし)。この点、全集や全注釈は退位後はそういうこともあるが、現に在位中は許されないだろうと、退位後と在位中を分けて解しているように見えるが、これは退位後でも望ましくないのに、ましてや、まさに(まさしう=正しう)在位中はそうあるべきではないという意味に解すべきものである。大系・全集・全注釈はこの「まさしう」を「現に」とするが不必要かつ不適当な置き換えで、まさに・正しく(まさしく・ただしくは)と強調する感じが消えている。後二書は「べし」も「だろう」と訳しているが、この文脈の「べし」は推量ではなく必然(当然=当たり前)と解するのが、新院崩御~廻文冒頭の世評(しかるべからず)まで一連の文脈にかなった解釈。

 


 
 何よりもまたあはれなりし事には、中宮の御方に候はせ給ふ女房の召し使ひける上童、思はざるほか、竜顔に咫尺する事ありけり。ただ尋常白地にてもなくして、まめやかに御心ざし深かりければ、主の女房も召し使はず、かへつて主のごとくにぞ、いつきもてなしける。
 「『そのかみ謡詠に言へる事あり。男を産んでも喜歓する事なかれ、女を産んでも悲酸する事なかれ。男はこれ侯にだも封ぜられず、女は妃たり』とて后に立つと言へり。かへつてこの人、女御后とももてなされ、国母せんゐんとも仰がれなんず。めでたかりける幸ひかな」とて、その名を葵前と申しければ、内々は葵女御などぞ囁き合はれける。
 

 主上これを聞こし召して、その後は召されざりけり。これは御心ざしの尽きぬるにはあらず、ただ世の誹りをはばからせ給ふによつてなり。されば御ながめがちにて、つやつや供御も聞こし召さず、御悩とて常は夜の御殿にのみ入らせおはします。
 

 その時の関白松殿、この由を承つて、申し慰め参らせんとて、急ぎ御参内あつて、「さやうに叡慮にかからせましまさん御事、なんでふ事か候ふべき。件の女房召され参らすべしとおぼえ候ふ。品を尋ねらるるに及ばず、基房やがて猶子につかまつり候はん」と奏せさせ給へば、主上仰せなりけるは、「いさとよ、そこにはからひ申す事もさる事なれども、位を退いて後は、ままさるためしもあるなり。まさしう在位の時、さやうの事は後代の誹りなるべし」とて、聞こし召しも入れざりけり。
 関白殿力及ばせ給はず、御涙を押さへて御退出ありけり。その後主上、緑の薄様の匂ひことに深かりけるに、故語なれども、思し召し出でて、かうぞ遊ばされける。 
 

♪50
 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は
  ものや思ふと 人の問ふまで

 
 冷泉少将隆房、これを賜はりついで、件の葵前に賜ばせたれば、これを取つてふ所に入れ、顔うちあかめ、「例ならぬ心地いできたり」とて、里へ帰り、うち臥す事五六日して、終にはかなくなりにけり。
 「君が一日の恩のために、妾が百年の身を誤つ」とも、かやうの事をや申すべき。
 「昔唐の太宗、鄭仁基が娘を元観殿に入れんとし給ひしを、魏徴、『かの娘已に陸氏が約せり』と諫め申ししかば、殿に入るる事をやめられたりしには、少しもたがはせ給はぬ御心ばへかな」とぞ人申しける。
 

紅葉 平家物語
巻第六
葵前
あおいのまえ
異:葵女御
あおいのにょうご
小督