枕草子201段 心にくきもの

野分の 枕草子
中巻下
201段
心にくき
五月の長雨

(旧)大系:201段
新大系:189段、新編全集:190段
(以上全て三巻本系列本。しかし後二本の構成は2/3が一致せず混乱を招くので、以後最も索引性に優れる三巻本理論の根本たる『(旧)大系』に準拠すべきと思う)
(旧)全集=能因本:187段
 


 
 心にくきもの
 

 ものへだてて聞くに、女房とはおぼえぬ手の、しのびやかにをかしげに聞こえたるに、こたへやかやかにして、うちそよめきて参るけはひ。もののうしろ、障子などへだてて聞くに、御膳参るほどにや、箸、匙など、とりまぜて鳴りたる、をかし。ひさげの柄の倒れ伏すも、耳こそとまれ。
 

 よう打ちたる衣のうへに、さわがしうはあらで、髪の振りやられたる、長さおしはからる。いみじうしつらひたる所の、大殿油は参らで、炭櫃などにいとおほくおこしたる火の光ばかり照りみちたるに、御帳の紐などのつややかにうち見えたる、いとめでたし。御簾の帽額、総角などにあげたる鈎のきはやかなるも、けざやかに見ゆ。よく調じたる火桶の、灰の際きよげにて、おこしたる火に、内にかきたる絵などの見えたる、いとをかし。箸のいときはやかにつやめきて、すぢかひたてるもいとをかし。
 

 夜いたくふけて、御前にも大殿籠り、人々みな寝ぬる後、外のかたに殿上人などのものなどいふ、奥に碁石の笥に入るる音あまたたび聞こゆる、いと心にくし。火箸をしのびやかについ立つるも、まだ起きたりけりと聞くも、いとをかし。なほ寝ぬ人は心にくし。
 人の臥したるに、物へだてて聞くに、夜中ばかりなど、うちおどろきて聞けば、起きたるななりと聞こえて、いふことは聞こえず、男もしのびやかにうちわらひたるこそ、何事ならむとゆかしけれ。
 

 また、おはしまし、女房など候ふに、上人、内侍のすけなど、はづかしげなる、参りたる時、御前近く御物語などあるほどは、大殿油も消ちたるに、長炭櫃の火に、もののあやめもよく見ゆ。
 殿ばらなどには、心にくき今参りの、いと御覧ずる際にはあらねど、やや更かしてまうのぼりたるに、うちそよめく衣のおとなひなつかしう、ゐざり出でて御前に候へば、ものなどほのかに仰せられ、子めかしうつつましげに、声のありさま、聞こゆべうだにあらぬほどにいと静かなり。
 女房ここかしこにむれゐつつ、物語うちし、おりのぼる衣のおとなひなど、おどろおどろしからねど、さななりと聞こえたる、いと心にくし。
 

 内裏の局などに、うちとくまじき人のあれば、こなたの火は消ちたるに、かたはらの光の、ものの上などよりとほりたれば、さすがにもののあやめはほのかに見ゆるに、みじかき几帳引き寄せて、いと昼はさしも向かはぬ人なれば、几帳のかたに添ひ臥して、うちかたぶきたる頭つきのよさあしさはかくれざめり。
 

 直衣、指貫など几帳にうちかけたり。六位の蔵人の青色もあへなむ。緑衫はしも、あとのかたにかいわぐみて、暁にもえ探りつけで、まどはせこそせめ。
 

 夏も、冬も、几帳の片つ方にうちかけて人の臥したるを、奥のかたよりやをらのぞいたるもいとをかし。
 

 薫物の香、いと心にくし。
 
 

野分の 枕草子
中巻下
201段
心にくき
五月の長雨