源氏物語 21帖 乙女:あらすじ・目次・原文対訳

朝顔 源氏物語
第一部
第21帖
乙女
玉鬘

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 乙女(おとめ・少女)のあらすじ

 光源氏33歳の夏から35歳冬の話。

 源氏の息子夕霧が、12歳で元服を迎えた。しかし源氏は夕霧を敢えて優遇せず、六位にとどめて大学に入れた。同じ年、源氏の養女斎宮女御冷泉帝【源氏と藤壺の子・表向きは桐壺帝と藤壺の子】の中宮に立后する。源氏は太政大臣に、右大将(頭中将)は内大臣になった。

 立后争いで源氏に敗れた内大臣は、大宮に預けている次女雲居の雁を東宮妃にと期待をかけるが、彼女は共に育った幼馴染の従兄弟・夕霧と密かに恋仲になっていた。これを知った内大臣は激怒し、雲居の雁を自らの邸に引き取ると宣言。大宮を嘆かせる。邸への引越し当日。諦め切れない夕霧は密かに、雲居の雁へ逢いに行く。涙ながらに別れを惜しむ二人。そこへ女房が割り込み「内大臣様の姫君のお相手が六位とは」と嫌味を言い、その場から雲居の雁を連れ出し、二人の仲を裂いてしまう。

 月日は流れ、秋が深まり宮中では新嘗祭を迎えていた。傷心の夕霧は御所へ行き、豊明節会を見物する事に。夕霧は、五節の舞姫(藤原惟光の娘。後の藤典侍)を垣間見た。その美しさに惹かれて文を送った。が、彼女は宮仕えする事が決まっており、夕霧は落胆。

 夕霧からの文を読んでいた、惟光の娘と兄。だが、父に見つかり文を取り上げられる。だが、文の手蹟(字)が夕霧だと知ると、惟光は態度を一変。あわよくば「明石入道のように、なれるやもしれない」と多大な望みを抱き、家族から顰蹙を買う。

 その後、夕霧は進士の試験に合格、五位の侍従となった。また源氏は六条に四町を占める広大な邸(六条院)を完成させ、秋の町を中宮の里邸とした他、春の町に紫の上、夏の町に花散里、冬の町に明石の御方をそれぞれ迎えた。

(以上Wikipedia少女(源氏物語)より。色づけと【】は本ページ)

 ここで秋に斎宮女御(前伊勢斎宮)を当てることには象徴的な意味がある。歌で秋は特別、その次が春。源氏は歌物語。なのに後から来た斎宮を秋にするのは、好みというより著者が伊勢(物語)を立てている。絵合で伊勢斎宮陣営に伊勢物語の深い心と擁護させ斎宮側に勝たせ、斎宮女御は一貫して伊勢物語を象徴した存在としてある。
 

目次
和歌抜粋内訳#乙女(16首:別ページ)
主要登場人物
 
第21帖 乙女
 光る源氏の太政大臣時代
 三十三歳の夏四月から
 三十五歳冬十月までの物語
 
第一章 朝顔姫君 藤壷代償の恋の諦め
第二章 夕霧 光る源氏の子息教育
第三章 光る源氏周辺の人々 内大臣家
第四章 内大臣家 雲居雁の養育をめぐる物語
第五章 夕霧 幼恋の物語
第六章 夕霧 五節舞姫への恋
第七章 光る源氏 六条院造営
 
 
第一章 朝顔姫君の物語
 藤壷代償の恋の諦め
 第一段 故藤壺の一周忌明ける
 第二段 源氏、朝顔姫君を諦める
 
第二章 夕霧の物語
 光る源氏の子息教育の物語
 第一段 子息夕霧の元服と教育論
 第二段 大学寮入学の準備
 第三段 響宴と詩作の会
 第四段 夕霧の勉学生活
 第五段 大学寮試験の予備試験
 第六段 試験の当日
 
第三章 光る源氏周辺の人々の物語
 内大臣家の物語
 第一段 斎宮女御の立后と光る源氏の太政大臣就任
 第二段 夕霧と雲居雁の幼恋
 第三段 内大臣、大宮邸に参上
 第四段 弘徽殿女御の失意
 第五段 夕霧、内大臣と対面
 第六段 内大臣、雲居雁の噂を立ち聞く
 
第四章 内大臣家の物語
 雲居雁の養育をめぐる物語
 第一段 内大臣、母大宮の養育を恨む
 第二段 内大臣、乳母らを非難する
 第三段 大宮、内大臣を恨む
 第四段 大宮、夕霧に忠告
 
第五章 夕霧の物語
 幼恋の物語
 第一段 夕霧と雲居雁の恋の煩悶
 第二段 内大臣、弘徽殿女御を退出させる
 第三段 夕霧、大宮邸に参上
 第四段 夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬
 第五段 乳母、夕霧の六位を蔑む
 
第六章 夕霧の物語
 五節舞姫への恋
 第一段 惟光の娘、五節舞姫となる
 第二段 夕霧、五節舞姫を恋慕
 第三段 宮中における五節の儀
 第四段 夕霧、舞姫の弟に恋文を託す
 第五段 花散里、夕霧の母代となる
 第六段 歳末、夕霧の衣装を準備
 
第七章 光る源氏の物語
 六条院造営
 第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸
 第二段 弘徽殿大后を見舞う
 第三段 源氏、六条院造営を企図す
 第四段 秋八月に六条院完成
 第五段 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる
 第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
三十二歳
呼称:大臣・太政大臣・大殿・殿・君
夕霧(ゆうぎり)
光る源氏の長男
呼称:大殿腹の若君・冠者の君・大学の君・侍従の君・男君
冷泉帝(れいぜいてい)
桐壺帝の第十皇子(実は光る源氏の子)
呼称:帝・今の上・主上
紫の上(むらさきのうえ)
源氏の正妻
呼称:対の上・上・上の御方
朝顔の姫君(あさがおのひめぎみ)
桃園式部卿宮の姫君
呼称:前斎院・院・君
雲居雁(くもいのかり)
内大臣の娘
呼称:女君・姫君・女・君
大宮(おおみや)
夕霧と雲居雁の祖母
呼称:大宮・三宮・宮
内大臣(ないだいじん)
呼称:内の大臣・内の大殿・父大臣・大臣・右大将・大将・殿
藤典侍(とうないしのすけ)
惟光の娘
呼称:殿の舞姫・五節・舞姫
惟光(これみつ)
光る源氏の乳母子
呼称:惟光朝臣・津守・朝臣・父主
秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)
六条御息所の姫君
呼称:齋宮・中宮・宮・梅壺

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  乙女(少女)
 
 

第一章 朝顔姫君の物語 藤壺代償の恋の諦め

 
 

第一段 故藤壺の一周忌明ける

 
1  年変はりて、宮の御果ても過ぎぬれば、世の中色改まりて、更衣のほどなども今めかしきを、まして祭のころは、おほかたの空のけしき心地よげなるに、前斎院はつれづれと眺めたまふを、前なる桂の下風、なつかしきにつけても、若き人びとは思ひ出づることどもあるに、大殿より、  年が変わって、宮の御一周忌も過ぎたので、世の人々の喪服が平常に戻って、衣更のころなどもはなやかであるが、それ以上に賀茂祭のころは、おおよその空模様も気分がよいのに、前斎院は所在なげに物思いに耽っていらっしゃるが、庭先の桂の木の下を吹く風、慕わしく感じられるにつけても、若い女房たちは思い出されることが多いところに、大殿から、
2  「御禊の日は、いかにのどやかに思さるらむ」  「御禊の日は、どのようにのんびりとお過ごしになりましたか」
3  と、訪らひきこえさせたまへり。  と、お見舞い申し上げなさった。
 
 
4  「今日は、  「今日は、

322
 かけきやは 川瀬の波も たちかへり
 君が禊の 藤のやつれを」
  思いもかけませんでした
  再びあなたが禊をなさろうとは」
 
5  紫の紙、立文すくよかにて、藤の花につけたまへり。
 折のあはれなれば、御返りあり。
 
 紫色の紙、立て文にきちんとして、藤の花におつけになっていた。
 季節柄、感動をおぼえて、お返事がある。
 
 

323
 「藤衣 着しは昨日と 思ふまに
 今日は禊の 瀬にかはる世を
 「喪服を着たのはつい昨日のことと思っておりましたのに
  もう今日はそれを脱ぐ禊をするとは、何と移り変わりの早い世の中ですこと
 
6  はかなく」  はかなくて」
7  とばかりあるを、例の、御目止めたまひて見おはす。  とだけあるのを、例によって、お目を凝らして御覧になっていらっしゃる。
 
8  御服直しのほどなどにも、宣旨のもとに、所狭きまで、思しやれることどもあるを、院は見苦しきことに思しのたまへど、  喪服をお脱ぎになるころにも、宣旨のもとに、置き所もないほど、お心づかいの品々が届けられたのを、院は見苦しいこととお思いになりお口になさるが、
9  「をかしやかに、けしきばめる御文などのあらばこそ、とかくも聞こえ返さめ、年ごろも、おほやけざまの折々の御訪らひなどは聞こえならはしたまひて、いとまめやかなれば、いかがは聞こえも紛らはすべからむ」  「意味ありげな、色めかしいお手紙ならば、何とか申し上げてご辞退するのですが、長年、表向きの折々のお見舞いなどはお馴れ申し上げになっていて、とても真面目な内容なので、どのように言い紛らわしてお断り申したらよいだろうか」
10  と、もてわづらふべし。  と、困っているようである。
 
 
 

第二段 源氏、朝顔姫君を諦める

 
11  女五の宮の御方にも、かやうに折過ぐさず聞こえたまへば、いとあはれに、  女五の宮の御方にも、このように機会を逃さずお見舞い申し上げるので、とても感心して、
12  「この君の、昨日今日の稚児と思ひしを、かくおとなびて、訪らひたまふこと。
 容貌のいともきよらなるに添へて、心さへこそ人にはことに生ひ出でたまへれ」
 「この君が、昨日今日までは子供と思っていましたのに、このように成人されて、お見舞いくださるとは。
 容貌のとても美しいのに加えて、気立てまでが人並み以上にすぐれていらっしゃいます」
13  と、ほめきこえたまふを、若き人びとは笑ひきこゆ。
 
 とお褒め申し上げるのを、若い女房たちは苦笑申し上げる。
 
 
14  こなたにも対面したまふ折は、  こちらの方にもお目にかかりなさる時には、
15  「この大臣の、かくいとねむごろに聞こえたまふめるを、何か、今始めたる御心ざしにもあらず。
 故宮も、筋異になりたまひて、え見たてまつりたまはぬ嘆きをしたまひては、思ひ立ちしことをあながちにもて離れたまひしことなど、のたまひ出でつつ、悔しげにこそ思したりし折々ありしか。
 
 「この大臣が、このように心をこめてお手紙を差し上げなさるようですが、どうしてか、今に始まった軽いお気持ちではありません。
 亡くなられた宮も、その関係が違ってしまわれて、お世話申し上げることができなくなったとお嘆きになっては、考えていたことを無理にお断りになったことだなどと、おっしゃっては、後悔していらっしゃったことがよくありました。
 
16  されど、故大殿の姫君ものせられし限りは、三の宮の思ひたまはむことのいとほしさに、とかく言添へきこゆることもなかりしなり。
 今は、そのやむごとなくえさらぬ筋にてものせられし人さへ、亡くなられにしかば、げに、などてかは、さやうにておはせましも悪しかるまじとうちおぼえはべるにも、さらがへりてかくねむごろに聞こえたまふも、さるべきにもあらむとなむ思ひはべる」
 けれども、故大殿の姫君がいらっしゃった間は、三の宮がお気になさるのが気の毒さに、あれこれと言葉を添えることもなかったのです。
 今では、そのれっきとした奥方でいらした方まで、お亡くなりになってしまったので、ほんとに、どうしてご意向どおりになられたとしても悪くはあるまいと思われますにつけても、昔に戻ってこのように熱心におっしゃていただけるのも、そうなるはずであったのだろうと存じます」
17  など、いと古代に聞こえたまふを、心づきなしと思して、  などと、いかにも古風に申し上げなさるのを、気にそまぬとお思いになって、
18  「故宮にも、しか心ごはきものに思はれたてまつりて過ぎはべりにしを、今さらに、また世になびきはべらむも、いとつきなきことになむ」  「亡き父宮からも、そのように強情な者と思われてまいりましたが、今さらに、改めて結婚しようというのも、ひどくおかしなことでございます」
19  と聞こえたまひて、恥づかしげなる御けしきなれば、しひてもえ聞こえおもむけたまはず。
 
 と申し上げなさって、気恥ずかしくなるようなきっぱりとしたご様子なので、無理にもお勧め申し上げることもできない。
 
 
20  宮人も、上下、みな心かけきこえたれば、世の中いとうしろめたくのみ思さるれど、かの御みづからは、わが心を尽くし、あはれを見えきこえて、人の御けしきのうちもゆるばむほどをこそ待ちわたりたまへ、さやうにあながちなるさまに、御心破りきこえむなどは、思さざるべし。
 
 宮家に仕える人たちも、上下の女房たち、皆が心をお寄せ申していたので、縁談事を不安にばかりお思いになるが、かの当のご自身は、心のありったけを傾けて、愛情をお見せ申して、相手のお気持ちが揺らぐのをじっと待っていらっしゃるが、そのように無理してまで、お心を傷つけようなどとは、お考えにならないのであろう。
 
 
 

第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語

 
 

第一段 子息夕霧の元服と教育論

 
21  大殿腹の若君の御元服のこと、思しいそぐを、二条の院にてと思せど、大宮のいとゆかしげに思したるもことわりに心苦しければ、なほやがてかの殿にてせさせたてまつりたまふ。
 
 大殿腹の若君のご元服のこと、ご準備をなさるが、二条院でとお考えになるが、大宮がとても見たがっていっらしゃったのもごもっともに気の毒なので、やはりそのままあちらの殿で式を挙げさせ申し上げなさる。
 
22  右大将をはじめきこえて、御伯父の殿ばら、みな上達部のやむごとなき御おぼえことにてのみものしたまへば、主人方にも、我も我もと、さるべきことどもは、とりどりに仕うまつりたまふ。
 おほかた世ゆすりて、所狭き御いそぎの勢なり。
 
 右大将をはじめとして、御伯父の殿方は、みな上達部で高貴なご信望厚い方々ばかりでいらっしゃるので、主人方でも、我も我もとしかるべき事柄は、競い合ってそれぞれがお仕え申し上げなさる。
 だいたい世間でも大騒ぎをして、大変な準備のしようである。
 
23  四位になしてむと思し、世人も、さぞあらむと思へるを、  四位につけようとお思いになり、世間の人々もきっとそうであろうと思っていたが、
24  「まだいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからむも、なかなか目馴れたることなり」  「まだたいそう若いのに、自分の思いのままになる世だからといって、そのように急に位につけるのは、かえって月並なことだ」
25  と思しとどめつ。
 
 とお止めになった。
 
26  浅葱にて殿上に帰りたまふを、大宮は、飽かずあさましきことと思したるぞ、ことわりにいとほしかりける。
 
 浅葱の服で殿上の間にお戻りになるのを、大宮は、ご不満でとんでもないこととお思いになったのは、無理もなく、お気の毒なことであった。
 
 
27  御対面ありて、このこと聞こえたまふに、  ご対面なさって、このことをお話し申し上げなさると、
28  「ただ今、かうあながちにしも、まだきに老いつかすまじうはべれど、思ふやうはべりて、大学の道にしばし習はさむの本意はべるにより、今二、三年をいたづらの年に思ひなして、おのづから朝廷にも仕うまつりぬべきほどにならば、今、人となりはべりなむ。
 
 「今のうちは、このように無理をしてまで、まだ若年なので大人扱いする必要はございませんが、考えていることがございまして、大学の道に暫くの間勉強させようという希望がございますゆえ、もう二、三年間を無駄に過ごしたと思って、いずれ朝廷にもお仕え申せるようになりましたら、そのうちに、一人前になりましょう。
 
29  みづからは、九重のうちに生ひ出ではべりて、世の中のありさまも知りはべらず、夜昼、御前にさぶらひて、わづかになむはかなき書なども習ひはべりし。
 ただ、かしこき御手より伝へはべりしだに、何ごとも広き心を知らぬほどは、文の才をまねぶにも、琴笛の調べにも、音耐へず、及ばぬところの多くなむはべりける。
 
 自分は、宮中に成長致しまして、世の中の様子を存じませんで、昼夜、御帝の前に伺候致して、ほんのちょっと学問を習いました。
 ただ、畏れ多くも直接に教えていただきましたのさえ、どのようなことも広い知識を知らないうちは、詩文を勉強するにも、琴や笛の調べにしても、音色が十分でなく、及ばないところが多いものでございました。
 
30  はかなき親に、かしこき子のまさる例は、いとかたきことになむはべれば、まして、次々伝はりつつ、隔たりゆかむほどの行く先、いとうしろめたなきによりなむ、思ひたまへおきてはべる。
 
 つまらない親に、賢い子が勝るという話は、とても難しいことでございますので、まして、次々と子孫に伝わっていき、離れてゆく先は、とても不安に思えますので、決めましたことでございます。
 
31  高き家の子として、官位爵位心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。
 戯れ遊びを好みて、心のままなる官爵に昇りぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従ふほどは、おのづから人とおぼえて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世衰ふる末には、人に軽めあなづらるるに、取るところなきことになむはべる。
 
 高貴な家の子弟として、官位爵位が心にかない、世の中の栄華におごる癖がついてしまいますと、学問などで苦労するようなことは、とても縁遠いことのように思うようです。
 遊び事や音楽ばかりを好んで、思いのままの官爵に昇ってしまうと、時勢に従う世の人が、内心ではばかにしながら、追従し、機嫌をとりながら従っているうちは、自然とひとかどの人物らしく立派なようですが、時勢が移り、頼む人に先立たれて、運勢が衰えた末には、人に軽んじらればかにされて、取り柄とするところがないものでございます。
 
32  なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。
 さしあたりては、心もとなきやうにはべれども、つひの世の重鎮となるべき心おきてを習ひなば、はべらずなりなむ後も、うしろやすかるべきによりなむ。
 ただ今は、はかばかしからずながらも、かくて育みはべらば、せまりたる大学の衆とて、笑ひあなづる人もよもはべらじと思うたまふる」
 やはり、学問を基礎にしてこそ、政治家としての心の働きが世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。
 当分の間は、不安なようでございますが、将来の世の重鎮となるべき心構えを学んだならば、わたしが亡くなった後も、安心できようと存じてです。
 ただ今のところは、ぱっとしなくても、このように育てていきましたら、貧乏な大学生だといって、ばかにして笑う者もけっしてありますまいと存じます」
 
33  など、聞こえ知らせたまへば、うち嘆きたまひて、  などと、わけをお話し申し上げになると、ほっと吐息をおつきになって、
34  「げに、かくも思し寄るべかりけることを。
 この大将なども、あまり引き違へたる御ことなりと、かたぶけはべるめるを、この幼心地にも、いと口惜しく、大将、左衛門の督の子どもなどを、我よりは下臈と思ひおとしたりしだに、皆おのおの加階し昇りつつ、およすげあへるに、浅葱をいとからしと思はれたるに、心苦しくはべるなり」
 「なるほど、そこまでお考えになって当然でしたことを。
 ここの大将なども、あまりに例に外れたご処置だと、不審がっておりましたようですが、この子供心にも、とても残念がって、大将や、左衛門督の子どもなどを、自分よりは身分が下だと見くびっていたのさえ、皆それぞれ位が上がり上がりし、一人前になったのに、浅葱をとてもつらいと思っていられるので、気の毒なのでございます」
35  と聞こえたまへば、うち笑ひたまひて、  と申し上げなさると、ちょっとお笑いになって、
36  「いとおよすげても恨みはべるななりな。
 いとはかなしや。
 この人のほどよ」
 「たいそう一人前になって不平を申しているようですね。
 ほんとうにたわいないことよ。
 あの年頃ではね」
37  とて、いとうつくしと思したり。
 
 と言って、とてもかわいいとお思いであった。
 
38  「学問などして、すこしものの心得はべらば、その恨みはおのづから解けはべりなむ」  「学問などをして、もう少し物の道理がわかったならば、そんな恨みは自然となくなってしまうでしょう」
39  と聞こえたまふ。
 
 とお申し上げになる。
 
 
 

第二段 大学寮入学の準備

 
40  字つくることは、東の院にてしたまふ。
 東の対をしつらはれたり。
 上達部、殿上人、珍しくいぶかしきことにして、我も我もと集ひ参りたまへり。
 博士どももなかなか臆しぬべし。
 
 字をつける儀式は、東の院でなさる。
 東の対を準備なさった。
 上達部、殿上人、めったにないことで見たいものだと思って、我も我もと参集なさった。
 博士たちもかえって気後れしてしまいそうである。
 
41  「憚るところなく、例あらむにまかせて、なだむることなく、厳しう行なへ」  「遠慮することなく、慣例のとおりに従って、手加減せずに、厳格に行いなさい」
42  と仰せたまへば、しひてつれなく思ひなして、家より他に求めたる装束どもの、うちあはず、かたくなしき姿などをも恥なく、面もち、声づかひ、むべむべしくもてなしつつ、座に着き並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。
 
 とお命じになると、無理に平静をよそおって、他人の家から調達した衣装類が、身につかず、不恰好な姿などにもかまいなく、表情、声づかいが、もっともらしくしては、席について並んでいる作法をはじめとして、見たこともない様子である。
 
43  若き君達は、え堪へずほほ笑まれぬ。
 さるは、もの笑ひなどすまじく、過ぐしつつ静まれる限りをと、選り出だして、瓶子なども取らせたまへるに、筋異なりけるまじらひにて、右大将、民部卿などの、おほなおほな土器とりたまへるを、あさましく咎め出でつつおろす。
 
 若い君達は、我慢しきれず笑ってしまった。
 一方では、笑ったりなどしないような、年もいった落ち着いた人だけをと、選び出して、お酌などもおさせになるが、いつもと違った席なので、右大将や、民部卿などが、一所懸命に杯をお持ちになっているのを、あきれるばかり文句を言い言い叱りつける。
 
44  「おほし、垣下あるじ、はなはだ非常にはべりたうぶ。
 かくばかりのしるしとあるなにがしを知らずしてや、朝廷には仕うまつりたうぶ。
 はなはだをこなり」
 「おおよそ、宴席の相伴役は、はなはだ不作法でござる。
 これほど著名な誰それを知らなくて、朝廷にはお仕えしている。
 はなはだばかである」
45  など言ふに、人びと皆ほころびて笑ひぬれば、また、  などと言うと、人々がみな堪えきれず笑ってしまったので、再び、
46  「鳴り高し。
 鳴り止まむ。
 はなはだ非常なり。
 座を引きて立ちたうびなむ」
 「うるさい。
 お静かに。
 はなはだ不作法である。
 退席していただきましょう」
47  など、おどし言ふも、いとをかし。
 
 などと、脅して言うのも、まことにおかしい。
 
 
48  見ならひたまはぬ人びとは、珍しく興ありと思ひ、この道より出で立ちたまへる上達部などは、したり顔にうちほほ笑みなどしつつ、かかる方ざまを思し好みて、心ざしたまふがめでたきことと、いとど限りなく思ひきこえたまへり。
 
 見慣れていらっしゃらない方々は、珍しく興味深いことと思い、この大学寮ご出身の上達部などは、得意顔に微笑みながら、このような道をご愛好されて、大学に入学させなさったのが結構なことだと、ますますこのうえなく敬服申し上げていらっしゃった。
 
49  いささかもの言ふをも制す。
 無礼げなりとても咎む。
 かしかましうののしりをる顔どもも、夜に入りては、なかなか今すこし掲焉なる火影に、猿楽がましくわびしげに、人悪げなるなど、さまざまに、げにいとなべてならず、さまことなるわざなりけり。
 
 少し私語を言っても制止する。
 無礼な態度であると言っても叱る。
 騒がしく叱っている博士たちの顔が、夜に入ってからは、かえって一段と明るくなった燈火の中で、滑稽じみて貧相で、不体裁な様子などが、何から何まで、なるほど実に普通でなく、変わった様子であった。
 
50  大臣は、  大臣は、
51  「いとあざれ、かたくななる身にて、けうさうしまどはかされなむ」  「とてもだらしなく、頑固な者なので、やかましく叱られてまごつくだろう」
52  とのたまひて、御簾のうちに隠れてぞ御覧じける。
 
 とおっしゃって、御簾の内に隠れて御覧になっていたのであった。
 
53  数定まれる座に着きあまりて、帰りまかづる大学の衆どもあるを聞こしめして、釣殿の方に召しとどめて、ことに物など賜はせけり。
 
 用意された席が足りなくて、帰ろうとする大学寮の学生たちがいるのをお聞きになって、釣殿の方にお呼び止めになって、特別に賜物をなさった。
 
 
 

第三段 響宴と詩作の会

 
54  事果ててまかづる博士、才人ども召して、またまた詩文作らせたまふ。
 上達部、殿上人も、さるべき限りをば、皆とどめさぶらはせたまふ。
 博士の人びとは、四韻、ただの人は、大臣をはじめたてまつりて、絶句作りたまふ。
 興ある題の文字選りて、文章博士たてまつる。
 短きころの夜なれば、明け果ててぞ講ずる。
 左中弁、講師仕うまつる。
 容貌いときよげなる人の、声づかひものものしく、神さびて読み上げたるほど、おもしろし。
 おぼえ心ことなる博士なりけり。
 
 式が終わって退出する博士、文人たちをお召しになって、また再び詩文をお作らせになる。
 上達部や、殿上人も、その方面に堪能な人ばかりは、みなお残らせになる。
 博士たちは、律詩、普通の人は、大臣をはじめとして、絶句をお作りになる。
 興趣ある題の文字を選んで、文章博士が奉る。
 夏の短いころの夜なので、すっかり明けて披講される。
 左中弁が、講師をお勤めした。
 容貌もたいそうきれいで、声の調子も堂々として、荘厳な感じに読み上げたところは、たいそう趣がある。
 世の信望が格別高い学者なのであった。
 
55  かかる高き家に生まれたまひて、世界の栄花にのみ戯れたまふべき御身をもちて、窓の螢をむつび、枝の雪を馴らしたまふ心ざしのすぐれたるよしを、よろづのことによそへなずらへて、心々に作り集めたる句ごとにおもしろく、「唐土にも持て渡り伝へまほしげなる夜の詩文どもなり」となむ、そのころ世にめでゆすりける。
 
 このような高貴な家柄にお生まれになって、この世の栄華をひたすら楽しまれてよいお身の上でありながら、窓の螢を友とし、枝の雪にお親しみになる学問への熱心さを、思いつく限りの故事をたとえに引いて、それぞれが作り集めた句がそれぞれに素晴らしく、「唐土にも持って行って伝えたいほどの世の名詩である」と、当時世間では褒めたたえるのであった。
 
56  大臣の御はさらなり。
 親めきあはれなることさへすぐれたるを、涙おとして誦じ騷ぎしかど、女のえ知らぬことまねぶは憎きことをと、うたてあれば漏らしつ。
 
 大臣のお作は言うまでもない。
 親らしい情愛のこもった点までも素晴らしかったので、涙を流して朗誦しもてはやしたが、女の身では知らないことを口にするのは生意気だと言われそうなので、嫌なので書き止めなかった。
 
 
 

第四段 夕霧の勉学生活

 
57  うち続き、入学といふことせさせたまひて、やがて、この院のうちに御曹司作りて、まめやかに才深き師に預けきこえたまひてぞ、学問せさせたてまつりたまひける。
 
 引き続いて、入学の礼ということをおさせになって、そのまま、この院の中にお部屋を設けて、本当に造詣の深い先生にお預け申されて、学問をおさせ申し上げなさった。
 
58  大宮の御もとにも、をさをさ参うでたまはず。
 夜昼うつくしみて、なほ稚児のやうにのみもてなしきこえたまへれば、かしこにては、えもの習ひたまはじとて、静かなる所に籠めたてまつりたまへるなりけり。
 
 大宮のところにも、めったにお出かけにならない。
 昼夜かわいがりなさって、いつまでも子供のようにばかりお扱い申していらっしゃるので、あちらでは、勉強もおできになれまいと考えて、静かな場所にお閉じこめ申し上げなさったのであった。
 
59  「一月に三度ばかりを参りたまへ」  「一月に三日ぐらいは参りなさい」
60  とぞ、許しきこえたまひける。
 
 と、お許し申し上げなさのであった。
 
 
61  つと籠もりゐたまひて、いぶせきままに、殿を、  じっとお籠もりになって、気持ちの晴れないまま、殿を、
62  「つらくもおはしますかな。
 かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ゐらるる人はなくやはある」
 「ひどい方でいらっしゃるなあ。
 こんなに苦しまなくても、高い地位に上り、世間に重んじられる人もいるではないか」
63  と思ひきこえたまへど、おほかたの人がら、まめやかに、あだめきたるところなくおはすれば、いとよく念じて、  とお恨み申し上げなさるが、いったい性格が、真面目で、浮ついたところがなくていらっしゃるので、よく我慢して、
64  「いかでさるべき書どもとく読み果てて、交じらひもし、世にも出でたらむ」  「何とかして必要な漢籍類を早く読み終えて、官途にもついて、出世しよう」
65  と思ひて、ただ四、五月のうちに、『史記』などいふ書、読み果てたまひてけり。
 
 と思って、わずか四、五か月のうちに、『史記』などという書物、読み了えておしまいになった。
 
 
 

第五段 大学寮試験の予備試験

 
66  今は寮試受けさせむとて、まづ我が御前にて試みさせたまふ。
 
 今では寮試を受けさせようとなさって、まずご自分の前で試験をさせなさる。
 
67  例の、大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかりして、御師の大内記を召して、『史記』の難き巻々、寮試受けむに、博士のかへさふべきふしぶしを引き出でて、一わたり読ませたてまつりたまふに、至らぬ句もなく、かたがたに通はし読みたまへるさま、爪じるし残らず、あさましきまでありがたければ、  いつものとおり、大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかり招いて、先生の大内記を呼んで、『史記』の難しい巻々を、寮試を受けるのに、博士が反問しそうなところどころを取り出して、ひととおりお読ませ申し上げなさると、不明な箇所もなく、諸説にわたって読み解かれるさまは、爪印もつかず、あきれるほどよくできるので、
68  「さるべきにこそおはしけれ」  「お生まれが違っていらっしゃるのだ」
69  と、誰も誰も、涙落としたまふ。
 
 と、皆が皆、涙を流しなさる。
 
 
70  大将は、まして、  大将は、誰にもまして、
71  「故大臣おはせましかば」  「亡くなった大臣が生きていらっしゃったら」
72  と、聞こえ出でて泣きたまふ。  と、口に出されて、お泣きになる。
 
73  殿も、え心強うもてなしたまはず、  殿も、我慢がおできになれず、
74  「人のうへにて、かたくななりと見聞きはべりしを、子のおとなぶるに、親の立ちかはり痴れゆくことは、いくばくならぬ齢ながら、かかる世にこそはべりけれ」  「他人のことで、愚かで見苦しいと見聞きしておりましたが、子が大きくなっていく一方で、親が代わって愚かになっていくことは、たいした年齢ではありませんが、世の中とはこうしたものなのだなあ」
75  などのたまひて、おし拭ひたまふを見る御師の心地、うれしく面目ありと思へり。
 
 などとおっしゃって、涙をお拭いになるのを見る先生の気持ち、嬉しく面目をほどこしたと思った。
 
 
76  大将、盃さしたまへば、いたう酔ひ痴れてをる顔つき、いと痩せ痩せなり。
 
 大将が、杯をおさしになると、たいそう酔っぱらっている顔つきは、とても痩せ細っている。
 
77  世のひがものにて、才のほどよりは用ゐられず、すげなくて身貧しくなむありけるを、御覧じ得るところありて、かくとりわき召し寄せたるなりけり。
 
 大変な変わり者で、学問のわりには登用されず、顧みられなくて貧乏でいたのであったが、お目に止まるところがあって、このように特別に召し出したのであった。
 
78  身に余るまで御顧みを賜はりて、この君の御徳に、たちまちに身を変へたると思へば、まして行く先は、並ぶ人なきおぼえにぞあらむかし。
 
 身に余るほどのご愛顧を頂戴して、この若君のおかげで、急に生まれ変わったようになったと思うと、今にまして将来は、並ぶ者もない声望を得るであろうよ。
 
 
 

第六段 試験の当日

 
79  大学に参りたまふ日は、寮門に、上達部の御車ども数知らず集ひたり。
 おほかた世に残りたるあらじと見えたるに、またなくもてかしづかれて、つくろはれ入りたまへる冠者の君の御さま、げに、かかる交じらひには堪へず、あてにうつくしげなり。
 
 大学寮に参上なさる日は、寮の門前に、上達部のお車が数知れないくらい集まっていた。
 おおよそ世間にこれを見ないで残っている人はあるまいと思われたが、この上なく大切に扱われて、労られながら入ってこられる冠者の君のご様子、なるほど、このような生活には耐えられないくらい上品でかわいらしい感じである。
 
80  例の、あやしき者どもの立ちまじりつつ来ゐたる座の末をからしと思すぞ、いとことわりなるや。
 
 例によって、賤しい者たちが集まって来ている席の末に座るのをつらいとお思いになるのは、もっともなことである。
 
81  ここにてもまた、おろしののしる者どもありて、めざましけれど、すこしも臆せず読み果てたまひつ。
 
 ここでも同様に、大声で叱る者がいて、目障りであるが、少しも気後れせずに最後までお読みになった。
 
 
82  昔おぼえて大学の栄ゆるころなれば、上中下の人、我も我もと、この道に志し集れば、いよいよ、世の中に、才ありはかばかしき人多くなむありける。
 文人擬生などいふなることどもよりうちはじめ、すがすがしう果てたまへれば、ひとへに心に入れて、師も弟子も、いとど励みましたまふ。
 
 昔が思い出される大学の盛んな時代なので、上中下の人は、我も我もと、この道を志望し集まってくるので、ますます、世の中に、学問があり有能な人が多くなったのであった。
 擬文章生などとかいう試験をはじめとして、すらすらと合格なさったので、ひたすら学問に心を入れて、先生も弟子も、いっそうお励みになる。
 
83  殿にも、文作りしげく、博士、才人ども所得たり。
 すべて何ごとにつけても、道々の人の才のほど現はるる世になむありける。
 
 殿でも、作文の会を頻繁に催し、博士、文人たちも得意である。
 すべてどのようなことにつけても、それぞれの道に努める人の才能が発揮される時代なのだった。
 
 
 

第三章 光る源氏周辺の人々の物語 内大臣家の物語

 
 

第一段 斎宮女御の立后と光る源氏の太政大臣就任

 
84  かくて、后ゐたまふべきを、  そろそろ、立后の儀があってよいころであるが、
85  「斎宮女御をこそは、母宮も、後見と譲りきこえたまひしかば」  「斎宮の女御こそは、母宮も、自分の変わりのお世話役とおっしゃっていましたから」
86  と、大臣もことづけたまふ。
 源氏のうちしきり后にゐたまはむこと、世の人許しきこえず。
 
 と、大臣もご遺志にかこつけて主張なさる。
 皇族出身から引き続き后にお立ちになることを、世間の人は賛成申し上げない。
 
87  「弘徽殿の、まづ人より先に参りたまひにしもいかが」  「弘徽殿の女御が、まず誰より先に入内なさったのもどうだらろうか」
88  など、うちうちに、こなたかなたに心寄せきこゆる人びと、おぼつかながりきこゆ。
 
 などと、内々に、こちら側あちら側につく人々は、心配申し上げている。
 
 
89  兵部卿宮と聞こえしは、今は式部卿にて、この御時にはましてやむごとなき御おぼえにておはする、御女、本意ありて参りたまへり。
 同じごと、王女御にてさぶらひたまふを、
 兵部卿宮と申し上げた方は、今では式部卿になって、この御世となってからはいっそうご信任厚い方でいらっしゃる、その姫も、かねての望みがかなって入内なさっていた。
 同様に、王の女御として伺候していらっしゃるので、
90  「同じくは、御母方にて親しくおはすべきにこそは、母后のおはしまさぬ御代はりの後見に」  「同じ皇族出身なら、御母方として親しくいらっしゃる方をこそ、母后のいらっしゃらない代わりのお世話役として相応しいだろう」
91  とことよせて、似つかはしかるべく、とりどりに思し争ひたれど、なほ梅壺ゐたまひぬ。
 御幸ひの、かく引きかへすぐれたまへりけるを、世の人おどろききこゆ。
 
 と理由をつけて、ふさわしかるべく、それぞれ競争なさったが、やはり梅壷が立后なさった。
 ご幸福が、うって変わってすぐれていらっしゃることを、世間の人は驚き申し上げる。
 
 
92  大臣、太政大臣に上がりたまひて、大将、内大臣になりたまひぬ。
 世の中のことども政りごちたまふべく譲りきこえたまふ。
 人がら、いとすくよかに、きらきらしくて、心もちゐなどもかしこくものしたまふ。
 学問を立ててしたまひければ、韻塞には負けたまひしかど、公事にかしこくなむ。
 
 大臣は、太政大臣にお上がりになって、大将は、内大臣におなりになった。
 天下の政治をお執りになるようにお譲り申し上げなさる。
 性格は、まっすぐで、威儀も正しくて、心づかいなどもしっかりしていらっしゃる。
 学問をとり立てて熱心になさったので、韻塞ぎにはお負けになったが、政治では立派である。
 
93  腹々に御子ども十余人、おとなびつつものしたまふも、次々になり出でつつ、劣らず栄えたる御家のうちなり。
 女は、女御と今一所なむおはしける。
 わかむどほり腹にて、あてなる筋は劣るまじけれど、その母君、按察使大納言の北の方になりて、さしむかへる子どもの数多くなりて、「それに混ぜて後の親に譲らむ、いとあいなし」とて、とり放ちきこえたまひて、大宮にぞ預けきこえたまへりける。
 女御にはこよなく思ひおとしきこえたまひつれど、人がら、容貌など、いとうつくしくぞおはしける。
 
 いく人もの妻妾にお子たちが十余人、いずれも大きく成長していらっしゃるが、次から次と立派になられて、負けず劣らず栄えているご一族である。
 女の子は、弘徽殿の女御ともう一人いらっしゃるのであった。
 皇族出身を母親として、高貴なお血筋では劣らないのであるが、その母君は、按察大納言の北の方となって、現在の夫との間に子どもの数が多くなって、「それらの子どもと一緒に継父に委ねるのは、まことに不都合なことだ」と思って、お引き離させなさって、大宮にお預け申していらっしゃるのであった。
 女御よりはずっと軽くお思い申し上げていらっしゃったが、性格や、器量など、とてもかわいらしくいらっしゃるのであった。
 
 
 

第二段 夕霧と雲居雁の幼恋

 
94  冠者の君、一つにて生ひ出でたまひしかど、おのおの十に余りたまひて後は、御方ことにて、  冠者の君は、同じ所でご成長なさったが、それぞれが十歳を過ぎてから後は、住む部屋を別にして、
95  「むつましき人なれど、男子にはうちとくまじきものなり」  「親しい縁者ですが、男の子には気を許すものではありません」
96  と、父大臣聞こえたまひて、けどほくなりにたるを、幼心地に思ふことなきにしもあらねば、はかなき花紅葉につけても、雛遊びの追従をも、ねむごろにまつはれありきて、心ざしを見えきこえたまへば、いみじう思ひ交はして、けざやかには今も恥ぢきこえたまはず。
 
 と、父大臣が訓戒なさって、離れて暮らすようになっていたが、子供心に慕わしく思うことなきにしもあらずなので、ちょっとした折々の花や紅葉につけても、また雛遊びのご機嫌とりにつけても、熱心にくっついてまわって、真心をお見せ申されるので、深い情愛を交わし合いなさって、きっぱりと今でも恥ずかしがりなさらない。
 
 
97  御後見どもも、  お世話役たちも、
98  「何かは、若き御心どちなれば、年ごろ見ならひたまへる御あはひを、にはかにも、いかがはもて離れはしたなめはきこえむ」  「何の、子どもどうしのことなので、長年親しくしていらっしゃったお間柄を、急に引き離して、どうしてきまり悪い思いをさせることができようか」
99  と見るに、女君こそ何心なくおはすれど、男は、さこそものげなきほどと見きこゆれ、おほけなく、いかなる御仲らひにかありけむ、よそよそになりては、これをぞ静心なく思ふべき。
 
 と思っていると、女君は何の考えもなくいらっしゃるが、男君は、あんなにも子どものように見えても、だいそれたどんな仲だったのであろうか、離れ離れになってからは、逢えないことを気が気でなく思うのである。
 
100  まだ片生ひなる手の生ひ先うつくしきにて、書き交はしたまへる文どもの、心幼くて、おのづから落ち散る折あるを、御方の人びとは、ほのぼの知れるもありけれど、「何かは、かくこそ」と、誰にも聞こえむ。
 見隠しつつあるなるべし。
 
 まだ未熟ながら将来の思われるかわいらしい筆跡で、書き交わしなさった手紙が、不用意さから、自然と落としているときもあるのを、姫君の女房たちは、うすうす知っている者もいたのだが、「どうして、こんな関係である」と、どなたに申し上げられようか。
 知っていながら隠しているのであろう。
 
 
 

第三段 内大臣、大宮邸に参上

 
101  所々の大饗どもも果てて、世の中の御いそぎもなく、のどやかになりぬるころ、時雨うちして、荻の上風もただならぬ夕暮に、大宮の御方に、内大臣参りたまひて、姫君渡しきこえたまひて、御琴など弾かせたてまつりたまふ。
 宮は、よろづのものの上手におはすれば、いづれも伝へたてまつりたまふ。
 
 あちらとこちらの新任の大饗の宴が終わって、朝廷の御用もなく、のんびりとしていたころ、時雨がさあっと降って、荻の上風もしみじみと感じられる夕暮に、大宮のお部屋に、内大臣が参上なさって、姫君をそこへお呼びになって、お琴などをお弾かせなさる。
 大宮は、何事も上手でいらっしゃるので、それらをみなお教えになる。
 
102  「琵琶こそ、女のしたるに憎きやうなれど、らうらうじきものにはべれ。
 今の世にまことしう伝へたる人、をさをさはべらずなりにたり。
 何の親王、くれの源氏」
 「琵琶は、女性が弾くには見にくいようだが、いかにも達者な感じがするものです。
 今の世に、正しく弾き伝えている人は、めったにいなくなってしまいました。
 何々親王、何々の源氏とか」
103  など数へたまひて、  などとお数えになって、
104  「女の中には、太政大臣の、山里に籠め置きたまへる人こそ、いと上手と聞きはべれ。
 物の上手の後にはべれど、末になりて、山賤にて年経たる人の、いかでさしも弾きすぐれけむ。
 かの大臣、いと心ことにこそ思ひてのたまふ折々はべれ。
 こと事よりは、遊びの方の才はなほ広う合はせ、かれこれに通はしはべるこそ、かしこけれ、独り事にて、上手となりけむこそ、珍しきことなれ」
 「女性の中では、太政大臣が山里に隠しおいていらっしゃる人が、たいそう上手だと聞いております。
 音楽の名人の血筋ではありますが、子孫の代になって、田舎生活を長年していた人が、どうしてそのように上手に弾けたのでしょう。
 あの大臣が、ことの他上手な人だと思っておっしゃったことがありました。
 他の芸とは違って、音楽の才能はやはり広くいろんな人と合奏をし、あれこれの楽器に調べを合わせてこそ、立派になるものですが、独りで学んで、上手になったというのは珍しいことです」
105  などのたまひて、宮にそそのかしきこえたまへば、  などとおっしゃって、大宮にお促し申し上げになると、
106  「柱さすことうひうひしくなりにけりや」  「柱を押さえることが久しぶりになってしまいました」
107  とのたまへど、おもしろう弾きたまふ。
 
 とおっしゃったが、美しくお弾きになる。
 
 
108  「幸ひにうち添へて、なほあやしうめでたかりける人なりや。
 老いの世に、持たまへらぬ女子をまうけさせたてまつりて、身に添へてもやつしゐたらず、やむごとなきに譲れる心おきて、こともなかるべき人なりとぞ聞きはべる」
 「ご幸運な上に、さらにやはり不思議なほど立派な方なのですね。
 お年をとられた今までに、お持ちでなかった女の子をお生み申されて、側に置いてみすぼらしくするでなく、れっきとしたお方にお預けした考えは、申し分のない人だと聞いております」
109  など、かつ御物語聞こえたまふ。
 
 などと、一方ではお話し申し上げなさる。
 
 
 

第四段 弘徽殿女御の失意

 
110  「女はただ心ばせよりこそ、世に用ゐらるるものにはべりけれ」  「女性はただ心がけによって、世間から重んじられるものでございますね」
111  など、人の上のたまひ出でて、  などと、他人の身の上についてお話し出されて、
112  「女御を、けしうはあらず、何ごとも人に劣りては生ひ出でずかしと思ひたまへしかど、思はぬ人におされぬる宿世になむ、世は思ひのほかなるものと思ひはべりぬる。
 この君をだに、いかで思ふさまに見なしはべらむ。
 春宮の御元服、ただ今のことになりぬるをと、人知れず思うたまへ心ざしたるを、かういふ幸ひ人の腹の后がねこそ、また追ひ次ぎぬれ。
 立ち出でたまへらむに、ましてきしろふ人ありがたくや」
 「弘徽殿の女御を、悪くはなく、どんなことでも他人には負けまいと存じておりましたが、思いがけない人に負けてしまった運命に、この世は案に相違したものだと存じました。
 せめてこの姫君だけは、何とか思うようにしたいものです。
 東宮の御元服は、もうすぐのことになったと、ひそかに期待していたのですが、あのような幸福者から生まれたお后候補者が、また後から追いついてきました。
 入内なさったら、まして対抗できる人はいないのではないでしょうか」
113  とうち嘆きたまへば、  とお嘆きになると、
114  「などか、さしもあらむ。
 この家にさる筋の人出でものしたまはで止むやうあらじと、故大臣の思ひたまひて、女御の御ことをも、ゐたちいそぎたまひしものを。
 おはせましかば、かくもてひがむることもなからまし」
 「どうして、そのようなことがありましょうか。
 この家にもそのような人がいないで終わってしまうようなことはあるまいと、亡くなった大臣が思っていらっしゃって、女御の御ことも、熱心に奔走なさったのでしたが。
 生きていらっしゃったならば、このように筋道の通らぬこともなかったでしょうに」
115  など、この御ことにてぞ、太政大臣をも恨めしげに思ひきこえたまへる。
 
 などと、あの一件では、太政大臣を恨めしくお思い申し上げていらっしゃった。
 
 
116  姫君の御さまの、いときびはにうつくしうて、箏の御琴弾きたまふを、御髪のさがり、髪ざしなどの、あてになまめかしきをうちまもりたまへば、恥ぢらひて、すこしそばみたまへるかたはらめ、つらつきうつくしげにて、取由の手つき、いみじう作りたる物の心地するを、宮も限りなくかなしと思したり。
 掻きあはせなど弾きすさびたまひて、押しやりたまひつ。
 
 姫君のご様子が、とても子どもっぽくかわいらしくて、箏のお琴をお弾きになっていらっしゃるが、お髪の下り端、髪の具合などが、上品で艶々としてしているのをじっと見ていらっしゃると、恥ずかしく思って、少し横をお向きになった横顔、その恰好がかわいらしげで、取由の手つきが、非常にじょうずに作った人形のような感じがするので、大宮もこの上なくかわいいと思っていらっしゃった。
 調子合わせのための小曲などを軽くお弾きになって、押しやりなさった。
 
 
 

第五段 夕霧、内大臣と対面

 
117  大臣、和琴ひき寄せたまひて、律の調べのなかなか今めきたるを、さる上手の乱れて掻い弾きたまへる、いとおもしろし。
 御前の梢ほろほろと残らぬに、老い御達など、ここかしこの御几帳のうしろに、かしらを集へたり。
 
 内大臣は、和琴を引き寄せなさって、律調のかえって今風なのを、その方面の名人がうちとけてお弾きになっているのは、たいそう興趣がある。
 御前のお庭の木の葉がほろほろと落ちきって、老女房たちが、あちらこちらの御几帳の後に、集まって聞いていた。
 
118  「風の力蓋し寡し」  「風の力がおよそ弱い」
119  と、うち誦じたまひて、  と、朗誦なさって、
120  「琴の感ならねど、あやしくものあはれなる夕べかな。
 なほ、あそばさむや」
 「琴のせいではないが、不思議としみじみとした夕べですね。
 もっと、弾きましょうよ」
121  とて、「秋風楽」に掻きあはせて、唱歌したまへる声、いとおもしろければ、皆さまざま、大臣をもいとうつくしと思ひきこえたまふに、いとど添へむとにやあらむ、冠者の君参りたまへり。
 
 とおっしゃって、「秋風楽」に調子を整えて、唱歌なさる声、とても素晴らしいので、みなそれぞれに、内大臣をも見事であるとお思い申し上げになっていらっしゃると、それをいっそう喜ばせようというのであろうか、冠者の君が参上なさった。
 
 
122  「こなたに」とて、御几帳隔てて入れたてまつりたまへり。
 
 「こちらに」とおっしゃって、御几帳を隔ててお入れ申し上げになった。
 
123  「をさをさ対面もえ賜はらぬかな。
 などかく、この御学問のあながちならむ。
 才のほどよりあまり過ぎぬるもあぢきなきわざと、大臣も思し知れることなるを、かくおきてきこえたまふ、やうあらむとは思ひたまへながら、かう籠もりおはすることなむ、心苦しうはべる」
 「あまりお目にかかれませんね。
 どうしてこう、このご学問に打ち込んでいらっしゃるのでしょう。
 学問が身分以上になるのもよくないことだと、大臣もご存知のはずですが、こうもお命じ申し上げなさるのは、考える子細もあるのだろうと存じますが、こんなに籠もってばかりいらっしゃるのは、お気の毒でございます」
124  と聞こえたまひて、  と申し上げなさって、
125  「時々は、ことわざしたまへ。
 笛の音にも古事は、伝はるものなり」
 「時々は、別のことをなさい。
 笛の音色にも昔の聖賢の教えは、伝わっているものです」
126  とて、御笛たてまつりたまふ。
 
とおっしゃって、御笛を差し上げなさる。
 
 
127  いと若うをかしげなる音に吹きたてて、いみじうおもしろければ、御琴どもをばしばし止めて、大臣、拍子おどろおどろしからずうち鳴らしたまひて、  たいそう若々しく美しい音色を吹いて、大変に興がわいたので、お琴はしばらく弾きやめて、大臣が、拍子をおおげさではなく軽くお打ちになって、
128  「萩が花摺り」  「萩の花で摺った」
129  など歌ひたまふ。
 
 などとお歌いになる。
 
130  「大殿も、かやうの御遊びに心止めたまひて、いそがしき御政事どもをば逃れたまふなりけり。
 げに、あぢきなき世に、心のゆくわざをしてこそ、過ぐしはべりなまほしけれ」
 「大殿も、このような管弦の遊びにご熱心で、忙しいご政務からはお逃げになるのでした。
 なるほど、つまらない人生ですから、満足のゆくことをして、過ごしたいものでございますね」
131  などのたまひて、御土器参りたまふに、暗うなれば、御殿油参り、御湯漬、くだものなど、誰も誰もきこしめす。
 
 などとおっしゃって、お杯をお勧めなさっているうちに、暗くなったので、燈火をつけて、お湯漬や果物などを、どなたもお召し上がりになる。
 
 
132  姫君はあなたに渡したてまつりたまひつ。
 しひて気遠くもてなしたまひ、「御琴の音ばかりをも聞かせたてまつらじ」と、今はこよなく隔てきこえたまふを、
 姫君はあちらの部屋に引き取らせなさった。
 つとめて二人の間を遠ざけなさって、「お琴の音だけもお聞かせしないように」と、今ではすっかりお引き離し申していらっしゃるのを、
133  「いとほしきことありぬべき世なるこそ」  「お気の毒なことが起こりそうなお仲だ」
134  と、近う仕うまつる大宮の御方のねび人ども、ささめきけり。
 
 と、お側近くお仕え申している大宮づきの年輩の女房たちは、ひそひそ話しているのであった。
 
 
 

第六段 内大臣、雲居雁の噂を立ち聞く

 
135  大臣出でたまひぬるやうにて、忍びて人にもののたまふとて立ちたまへりけるを、やをらかい細りて出でたまふ道に、かかるささめき言をするに、あやしうなりたまひて、御耳とどめたまへば、わが御うへをぞ言ふ。
 
 内大臣はお帰りになったふうにして、こっそりと女房を相手なさろうと座をお立ちになったのだが、そっと身を細めてお帰りになる途中で、このようなひそひそ話をしているので、妙にお思いになって、お耳をとめなさると、ご自分の噂をしている。
 
136  「かしこがりたまへど、人の親よ。
 おのづから、おれたることこそ出で来べかめれ」
 「えらそうにしていらっしゃるが、人の親ですよ。
 いずれ、ばかばかしく後悔することが起こるでしょう」
137  「子を知るといふは、虚言なめり」  「子を知っているのは親だというのは、嘘のようですね」
138  などぞ、つきしろふ。
 
 などと、こそこそと噂し合う。
 
139  「あさましくもあるかな。
 さればよ。
 思ひ寄らぬことにはあらねど、いはけなきほどにうちたゆみて。
 世は憂きものにもありけるかな」
 「あきれたことだ。
 やはりそうであったのか。
 思いよらないことではなかったが、子供だと思って油断しているうちに。
 世の中は何といやなものであるな」
140  と、けしきをつぶつぶと心得たまへど、音もせで出でたまひぬ。
 
 と、ことの子細をつぶさに了解なさったが、音も立てずにお出になった。
 
 
141  御前駆追ふ声のいかめしきにぞ、  前駆の先を払う声が盛んに聞こえるので、
142  「殿は、今こそ出でさせたまひけれ」  「殿は、今お帰りあそばしたのだわ」
143  「いづれの隈におはしましつらむ」  「どこに隠れていらっしゃったのかしら」
144  「今さへかかるあだけこそ」  「今でもこんな浮気をなさるとは」
145  と言ひあへり。
 ささめき言の人びとは、
 と言い合っている。
 ひそひそ話をした女房たちは、
146  「いとかうばしき香のうちそよめき出でつるは、冠者の君のおはしつるとこそ思ひつれ」  「とても香ばしい匂いがしてきたのは、冠者の君がいらっしゃるのだとばかり思っていましたわ」
147  「あな、むくつけや。
 しりう言や、ほの聞こしめしつらむ。
 わづらはしき御心を」
 「まあ、いやだわ。
 陰口をお聞きになったかしら。
 厄介なご気性だから」
148  と、わびあへり。
 
 と、皆困り合っていた。
 
 
149  殿は、道すがら思すに、  殿は、道中お考えになることに、
150  「いと口惜しく悪しきことにはあらねど、めづらしげなきあはひに、世人も思ひ言ふべきこと。
 大臣の、しひて女御をおし沈めたまふもつらきに、わくらばに、人にまさることもやとこそ思ひつれ、ねたくもあるかな」
 「まったく問題にならない悪いことではないが、ありふれた親戚どうしの結婚で、世間の人もきっとそう取り沙汰するに違いないことだ。
 大臣が、強引に女御を抑えなさっているのも癪なのに、ひょっとして、この姫君が相手に勝てることがあろうかも知れないと思っていたが、くやしいことだ」
151  と思す。
 殿の御仲の、おほかたには昔も今もいとよくおはしながら、かやうの方にては、挑みきこえたまひし名残も思し出でて、心憂ければ、寝覚がちにて明かしたまふ。
 
 とお思いになる。
 殿どうしのお仲は、普通のことでは昔も今もたいそう仲よくいらっしゃりながら、このような方面では、競争申されたこともお思い出しになって、おもしろくないので、寝覚めがちに夜をお明かしになる。
 
152  「大宮をも、さやうのけしきには御覧ずらむものを、世になくかなしくしたまふ御孫にて、まかせて見たまふならむ」  「大宮だって、そのような様子は御存じであろうに、たいへんにかわいがっていらっしゃるお孫たちなので、好きなようにさせていらっしゃるのだろう」
153  と、人びとの言ひしけしきを、ねたしと思すに、御心動きて、すこし男々しくあざやぎたる御心には、静めがたし。
 
 と、女房たちが言っていた様子を、いまいましいとお思いになると、お心が穏やかでなくなって、少し男らしく事をはっきりさせたがるご気性にとっては、抑えがたい。
 
 
 

第四章 内大臣家の物語 雲居雁の養育をめぐる物語

 
 

第一段 内大臣、母大宮の養育を恨む

 
154  二日ばかりありて、参りたまへり。
 しきりに参りたまふ時は、大宮もいと御心ゆき、うれしきものに思いたり。
 御尼額ひきつくろひ、うるはしき御小袿などたてまつり添へて、子ながら恥づかしげにおはする御人ざまなれば、まほならずぞ見えたてまつりたまふ。
 
 二日ほどして、参上なさった。
 頻繁に参上なさる時は、大宮もとてもご満足され、嬉しく思っておいであった。
 尼削ぎの御髪に手入れをなさって、きちんとした小袿などをお召し添えになって、わが子ながら気づまりなほど立派なお方なので、直接顔を合わせずにお会いなさる。
 
155  大臣御けしき悪しくて、  大臣は御機嫌が悪くて、
156  「ここにさぶらふもはしたなく、人びといかに見はべらむと、心置かれにたり。
 はかばかしき身にはべらねど、世にはべらむ限り、御目離れず御覧ぜられ、おぼつかなき隔てなくとこそ思ひたまふれ。
 
 「こちらにお伺いするのも体裁悪く、女房たちがどのように見ていますかと、気がひけてしまいます。
 たいした者ではありませんが、世に生きていますうちは、常にお目にかからせていただき、ご心配をかけることのないようにと存じております。
 
157  よからぬもののうへにて、恨めしと思ひきこえさせつべきことの出でまうで来たるを、かうも思うたまへじとかつは思ひたまふれど、なほ静めがたくおぼえはべりてなむ」  不心得者のことで、お恨み申さずにはいられないようなことが起こってまいりましたが、こんなにはお恨み申すまいと一方では存じながらも、やはり抑えがたく存じられまして」
158  と、涙おし拭ひたまふに、宮、化粧じたまへる御顔の色違ひて、御目も大きになりぬ。
 
 と、涙をお拭いなさるので、大宮は、お化粧なさっていた顔色も変わって、お目を大きく見張られた。
 
 
159  「いかやうなることにてか、今さらの齢の末に、心置きては思さるらむ」  「どうしたことで、こんな年寄を、お恨みなさるのでしょうか」
160  と聞こえたまふも、さすがにいとほしけれど、  と申し上げなさるのも、今さらながらお気の毒であるが、
161  「頼もしき御蔭に、幼き者をたてまつりおきて、みづからをばなかなか幼くより見たまへもつかず、まづ目に近きが、交じらひなどはかばかしからぬを、見たまへ嘆きいとなみつつ、さりとも人となさせたまひてむと頼みわたりはべりつるに、思はずなることのはべりければ、いと口惜しうなむ。
 
 「ご信頼申していたお方に、幼い子どもをお預け申して、自分ではかえって幼い時から何のお世話も致さずに、まずは身近にいた姫君の、宮仕えなどが思うようにいかないのを、心配しながら奔走しいしい、それでもこの姫君を一人前にしてくださるものと信頼しておりましたのに、意外なことがございましたので、とても残念です。
 
162  まことに天の下並ぶ人なき有職にはものせらるめれど、親しきほどにかかるは、人の聞き思ふところも、あはつけきやうになむ、何ばかりのほどにもあらぬ仲らひにだにしはべるを、かの人の御ためにも、いとかたはなることなり。
 さし離れ、きらきらしうめづらしげあるあたりに、今めかしうもてなさるるこそ、をかしけれ。
 ゆかりむつび、ねぢけがましきさまにて、大臣も聞き思すところはべりなむ。
 
 ほんとうに天下に並ぶ者のない優れた方のようですが、近しい者どうしが結婚するのは、人の外聞も浅薄な感じが、たいした身分でもないものどうしの縁組でさえ考えますのに、あちらの方のためにも、たいそう不体裁なことです。
 他人で、豪勢な初めての関係の家で、派手に大切にされるのこそ、よいものです。
 縁者どうしの、馴れ合いの結婚なので、大臣も不快にお思いになることがあるでしょう。
 
163  さるにても、かかることなむと、知らせたまひて、ことさらにもてなし、すこしゆかしげあることをまぜてこそはべらめ。
 幼き人びとの心にまかせて御覧じ放ちけるを、心憂く思うたまふ」
 それはそれとしても、これこれしかじかですと、わたしにお知らせくださって、特別なお扱いをして、少し世間でも関心を寄せるような趣向を取り入れたいものです。
 若い者どうしの思いのままに放って置かれたのが、心外に思われるのです」
 
164  など聞こえたまふに、夢にも知りたまはぬことなれば、あさましう思して、  と申し上げなさると、夢にも御存知なかったことなので、驚きあきれなさって、
165  「げに、かうのたまふもことわりなれど、かけてもこの人びとの下の心なむ知りはべらざりける。
 げに、いと口惜しきことは、ここにこそまして嘆くべくはべれ。
 もろともに罪をおほせたまふは、恨めしきことになむ。
 
 「なるほど、そうおっしゃるのもごもっともなことですが、ぜんぜんこの二人の気持ちを存じませんでした。
 なるほど、とても残念なことは、こちらこそあなた以上に嘆きたいくらいです。
 子どもたちと一緒にわたしを非難なさるのは、恨めしいことです。
 
166  見たてまつりしより、心ことに思ひはべりて、そこに思しいたらぬことをも、すぐれたるさまにもてなさむとこそ、人知れず思ひはべれ。
 ものげなきほどを、心の闇に惑ひて、急ぎものせむとは思ひ寄らぬことになむ。
 
 お世話致してから、特別にかわいく思いまして、あなたがお気づきにならないことも、立派にしてやろうと、内々に考えていたのでしたよ。
 まだ年端もゆかないうちに、親心の盲目から、急いで結婚させようとは考えもしないことです。
 
167  さても、誰かはかかることは聞こえけむ。
 よからぬ世の人の言につきて、きはだけく思しのたまふも、あぢきなく、むなしきことにて、人の御名や汚れむ」
 それにしても、誰がそのようなことを申したのでしょう。
 つまらぬ世間の噂を取り上げて、容赦なくおっしゃるのも、つまらないことで、根も葉もない噂で、姫君のお名に傷がつくのではないでしょうか」
168  とのたまへば、  とおっしゃると、
 
169  「何の、浮きたることにかはべらむ。
 さぶらふめる人びとも、かつは皆もどき笑ふべかめるものを、いと口惜しく、やすからず思うたまへらるるや」
 「どうして、根も葉もないことでございましょうか。
 仕えている女房たちも、陰ではみな笑っているようですのに、とても悔しく、面白くなく存じられるのですよ」
170  とて、立ちたまひぬ。
 
 とおっしゃって、お立ちになった。
 
 
171  心知れるどちは、いみじういとほしく思ふ。
 一夜のしりう言の人びとは、まして心地も違ひて、「何にかかる睦物語をしけむ」と、思ひ嘆きあへり。
 
 事情を知っている女房どうしは、実におかわいそうに思う。
 先夜の陰口を叩いた女房たちは、それ以上に気も動転して、「どうしてあのような内緒話をしたのだろう」と、一同後悔し合っていた。
 
 
 

第二段 内大臣、乳母らを非難する

 
172  姫君は、何心もなくておはするに、さしのぞきたまへれば、いとらうたげなる御さまを、あはれに見たてまつりたまふ。
 
 姫君は、何もご存知でなくていらっしゃるのを、お覗きになると、とてもかわいらしいご様子なのを、しみじみと拝見なさる。
 
173  「若き人といひながら、心幼くものしたまひけるを知らで、いとかく人なみなみに思ひける我こそ、まさりてはかなかりけれ」  「若いと言っても、無分別でいらっしゃったのを知らないで、ほんとうにこうまで一人前にと思っていた自分こそ、もっとあさはかであったよ」
174  とて、御乳母どもをさいなみたまふに、聞こえむ方なし。
 
 とおっしゃって、御乳母たちをお責めになるが、お返事の申しようもない。
 
175  「かやうのことは、限りなき帝の御いつき女も、おのづから過つ例、昔物語にもあめれど、けしきを知り伝ふる人、さるべき隙にてこそあらめ」  「このようなことは、この上ない帝の大切な内親王も、いつの間にか過ちを起こす例は、昔物語にもあるようですが、二人の気持ちを知って仲立ちする人が、隙を窺ってするのでしょう」
176  「これは、明け暮れ立ちまじりたまひて年ごろおはしましつるを、何かは、いはけなき御ほどを、宮の御もてなしよりさし過ぐしても、隔てきこえさせむと、うちとけて過ぐしきこえつるを、一昨年ばかりよりは、けざやかなる御もてなしになりにてはべるめるに、若き人とても、うち紛ればみ、いかにぞや、世づきたる人もおはすべかめるを、夢に乱れたるところおはしまさざめれば、さらに思ひ寄らざりけること」  「この二人は、朝夕ご一緒に長年過ごしていらっしゃったので、どうして、お小さい二人を、大宮様のお扱いをさし越えてお引き離し申すことができましょうと、安心して過ごして参りましたが、一昨年ごろからは、はっきり二人を隔てるお扱いに変わりましたようなので、若い人と言っても、人目をごまかして、どういうものにか、ませた真似をする人もいらっしゃるようですが、けっして色めいたところもなくいらっしゃるようなので、ちっとも思いもかけませんでした」
177  と、おのがどち嘆く。
 
 と、お互いに嘆く。
 
 
178  「よし、しばし、かかること漏らさじ。
 隠れあるまじきことなれど、心をやりて、あらぬこととだに言ひなされよ。
 今かしこに渡したてまつりてむ。
 宮の御心のいとつらきなり。
 そこたちは、さりとも、いとかかれとしも、思はれざりけむ」
 「よし、暫くの間、このことは人に言うまい。
 隠しきれないことだが、よく注意して、せめて事実無根だともみ消しなさい。
 今からは自分の所に引き取ろう。
 大宮のお扱いが恨めしい。
 お前たちは、いくらなんでも、こうなって欲しいとは思わなかっただろう」
179  とのたまへば、「いとほしきなかにも、うれしくのたまふ」と思ひて、  とおっしゃるので、「困ったこととではあるが、嬉しいことをおっしゃる」と思って、
180  「あな、いみじや。
 大納言殿に聞きたまはむことをさへ思ひはべれば、めでたきにても、ただ人の筋は、何のめづらしさにか思ひたまへかけむ」
 「まあ、とんでもありません。
 按察大納言殿のお耳に入ることをも考えますと、立派な人ではあっても、臣下の人であっては、何を結構なことと考えて望んだり致しましょう」
181  と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
 
182  姫君は、いと幼げなる御さまにて、よろづに申したまへども、かひあるべきにもあらねば、うち泣きたまひて、  姫君は、とても子供っぽいご様子で、いろいろとお申し上げなさっても、何もお分かりでないので、お泣きになって、
183  「いかにしてか、いたづらになりたまふまじきわざはすべからむ」  「どうしたら、傷ものにおなりにならずにすむ道ができようか」
184  と、忍びてさるべきどちのたまひて、大宮をのみぞ恨みきこえたまふ。
 
 と、こっそりと頼れる乳母たちとご相談なさって、大宮だけをお恨み申し上げなさる。
 
 
 

第三段 大宮、内大臣を恨む

 
185  宮は、いといとほしと思すなかにも、男君の御かなしさはすぐれたまふにやあらむ、かかる心のありけるも、うつくしう思さるるに、情けなく、こよなきことのやうに思しのたまへるを、  大宮は、とてもかわいいとお思いになる二人の中でも、男君へのご愛情がまさっていらっしゃるのであろうか、このような気持ちがあったのも、かわいらしくお思いになられるが、情愛なく、ひどいことのようにお考えになっておっしゃったのを、
186  「などかさしもあるべき。
 もとよりいたう思ひつきたまふことなくて、かくまでかしづかむとも思し立たざりしを、わがかくもてなしそめたればこそ、春宮の御ことをも思しかけためれ。
 とりはづして、ただ人の宿世あらば、この君よりほかにまさるべき人やはある。
 容貌、ありさまよりはじめて、等しき人のあるべきかは。
 これより及びなからむ際にもとこそ思へ」
 「どうしてそんなに悪いことがあろうか。
 もともと深くおかわいがりになることもなくて、こんなにまで大事にしようともお考えにならなかったのに、わたしがこのように世話してきたからこそ、春宮へのご入内のこともお考えになったのに。
 思いどおりにゆかないで、臣下と結ばれるならば、この男君以外にまさった人がいるだろうか。
 器量や、態度をはじめとして、同等の人がいるだろうか。
 この姫君以上の身分の姫君が相応しいと思うのに」
187  と、わが心ざしのまさればにや、大臣を恨めしう思ひきこえたまふ。
 御心のうちを見せたてまつりたらば、ましていかに恨みきこえたまはむ。
 
 と、ご自分の愛情が男君の方に傾くせいからであろうか、内大臣を恨めしくお思い申し上げなさる。
 もしもお心の中をお見せ申したら、どんなにかお恨み申し上げになることであろうか。
 
 
 

第四段 大宮、夕霧に忠告

 
188  かく騒がるらむとも知らで、冠者の君参りたまへり。
 一夜も人目しげうて、思ふことをもえ聞こえずなりにしかば、常よりもあはれにおぼえたまひければ、夕つ方おはしたるなるべし。
 
 このように騷がれているとも知らないで、冠者の君が参上なさった。
 先夜も人目が多くて、思っていることもお申し上げになることができずに終わってしまったので、いつもよりもしみじみと思われなさったので、夕方いらっしゃったのであろう。
 
189  宮、例は是非知らず、うち笑みて待ちよろこびきこえたまふを、まめだちて物語など聞こえたまふついでに、  大宮は、いつもは何はさておき、微笑んでお待ち申し上げていらっしゃるのに、まじめなお顔つきでお話など申し上げなさる時に、
190  「御ことにより、内大臣の怨じてものしたまひにしかば、いとなむいとほしき。
 ゆかしげなきことをしも思ひそめたまひて、人にもの思はせたまひつべきが心苦しきこと。
 かうも聞こえじと思へど、さる心も知りたまはでやと思へばなむ」
 「あなたのお事で、内大臣殿がお恨みになっていらっしゃったので、とてもお気の毒です。
 人に感心されないことにご執心なさって、わたしに心配かけさせることがつらいのです。
 こんなことはお耳に入れまいと思いますが、そのようなこともご存知なくてはと思いまして」
191  と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
 
192  心にかかれることの筋なれば、ふと思ひ寄りぬ。
 面赤みて、
 心配していた方面のことなので、すぐに気がついた。
 顔が赤くなって、
193  「何ごとにかはべらむ。
 静かなる所に籠もりはべりにしのち、ともかくも人に交じる折なければ、恨みたまふべきことはべらじとなむ思ひたまふる」
 「どのようなことでしょうか。
 静かな所に籠もりまして以来、何かにつけて人と交際する機会もないので、お恨みになることはございますまいと存じておりますが」
194  とて、いと恥づかしと思へるけしきを、あはれに心苦しうて、  と言って、とても恥ずかしがっている様子を、かわいくも気の毒に思って、
195  「よし。
 今よりだに用意したまへ」
 「よろしい。
 せめて今からはご注意なさい」
196  とばかりにて、異事に言ひなしたまうつ。
 
 とだけおっしゃって、他の話にしておしまいになった。
 
 
 

第五章 夕霧の物語 幼恋の物語

 
 

第一段 夕霧と雲居雁の恋の煩悶

 
197  「いとど文なども通はむことのかたきなめり」と思ふに、いと嘆かしう、物参りなどしたまへど、さらに参らで、寝たまひぬるやうなれど、心も空にて、人静まるほどに、中障子を引けど、例はことに鎖し固めなどもせぬを、つと鎖して、人の音もせず。
 いと心細くおぼえて、障子に寄りかかりてゐたまへるに、女君も目を覚まして、風の音の竹に待ちとられて、うちそよめくに、雁の鳴きわたる声の、ほのかに聞こゆるに、幼き心地にも、とかく思し乱るるにや、
 「今後いっそうお手紙などを交わすことは難しいだろう」と考えると、とても嘆かわしく、食事を差し上げても、少しも召し上がらず、お寝みになってしまったふうにしているが、心も落ち着かず、人が寝静まったころに、中障子を引いてみたが、いつもは特に錠など下ろしていないのに、固く錠さして、女房の声も聞こえない。
 実に心細く思われて、障子に寄りかかっていらっしゃると、女君も目を覚まして、風の音が竹に待ち迎えられて、さらさらと音を立てると、雁が鳴きながら飛んで行く声が、かすかに聞こえるので、子供心にも、あれこれとお思い乱れるのであろうか、
198  「雲居の雁もわがごとや」  「雲居の雁もわたしのようなのかしら」
199  と、独りごちたまふけはひ、若うらうたげなり。
 
 と、独り言をおっしゃる様子、若々しくかわいらしい。
 
 
200  いみじう心もとなければ、  とてももどかしくてならないので、
201  「これ、開けさせたまへ。
 小侍従やさぶらふ」
 「ここを、お開け下さい。
 小侍従はおりますか」
202  とのたまへど、音もせず。
 御乳母子なりけり。
 独り言を聞きたまひけるも恥づかしうて、あいなく御顔も引き入れたまへど、あはれは知らぬにしもあらぬぞ憎きや。
 乳母たちなど近く臥して、うちみじろくも苦しければ、かたみに音もせず。
 
 とおっしゃるが、返事がない。
 乳母子だったのである。
 独り言をお聞きになったのも恥ずかしくて、わけなく顔を衾の中にお入れなさったが、恋心は知らないでもないとは憎いことよ。
 乳母たちが近くに臥せっていて、起きていることに気づかれるのもつらいので、お互いに音を立てない。
 
 

324
 「さ夜中に 友呼びわたる 雁が音に
 うたて吹き添ふ 荻の上風」
 「真夜中に友を呼びながら飛んでいく雁の声に
  さらに悲しく吹き加わる荻の上を吹く風よ」
 
203  「身にしみけるかな」と思ひ続けて、宮の御前に帰りて嘆きがちなるも、「御目覚めてや聞かせたまふらむ」とつつましく、みじろき臥したまへり。
 
 「身にしみて感じられることだ」と思い続けて、大宮の御前に帰って嘆きがちでいらっしゃるのも、「お目覚めになってお聞きになろうか」と憚られて、もじもじしながら臥せった。
 
204  あいなくもの恥づかしうて、わが御方にとく出でて、御文書きたまへれど、小侍従もえ逢ひたまはず、かの御方ざまにもえ行かず、胸つぶれておぼえたまふ。
 
 むやみに何となく恥ずかしい気がして、ご自分のお部屋に早く出て、お手紙をお書きになったが、小侍従にも会うことがおできになれず、あの姫君の方にも行くことがおできになれず、たまらない思いでいらっしゃる。
 
205  女はた、騒がれたまひしことのみ恥づかしうて、「わが身やいかがあらむ、人やいかが思はむ」とも深く思し入れず、をかしうらうたげにて、うち語らふさまなどを、疎ましとも思ひ離れたまはざりけり。
 
 女は女でまた、騒がれなさったことばかり恥ずかしくて、「自分の身はどうなるのだろう、世間の人はどのように思うだろう」とも深くお考えにならず、美しくかわいらしくて、ちょっと噂していることにも、嫌な話だとお突き放しになることもないのであった。
 
206  また、かう騒がるべきこととも思さざりけるを、御後見どももいみじうあはめきこゆれば、え言も通はしたまはず。
 おとなびたる人や、さるべき隙をも作り出づらむ、男君も、今すこしものはかなき年のほどにて、ただいと口惜しとのみ思ふ。
 
 また、このように騒がれねばならないことともお思いでなかったのを、御後見人たちがひどく注意するので、文通をすることもおできになれない。
 大人であったら、しかるべき機会を作るであろうが、男君も、まだ少々頼りない年頃なので、ただたいそう残念だとばかり思っている。
 
 
 

第二段 内大臣、弘徽殿女御を退出させる

 
207  大臣は、そのままに参りたまはず、宮をいとつらしと思ひきこえたまふ。
 北の方には、かかることなむと、けしきも見せたてまつりたまはず、ただおほかた、いとむつかしき御けしきにて、
 内大臣は、あれ以来参上なさらず、大宮をひどいとお思い申していらっしゃる。
 北の方には、このようなことがあったとは、そぶりにもお見せ申されず、ただ何かにつけて、とても不機嫌なご様子で、
208  「中宮のよそほひことにて参りたまへるに、女御の世の中思ひしめりてものしたまふを、心苦しう胸いたきに、まかでさせたてまつりて、心やすくうち休ませたてまつらむ。
 さすがに、主上につとさぶらはせたまひて、夜昼おはしますめれば、ある人びとも心ゆるびせず、苦しうのみわぶめるに」
 「中宮が格別に威儀を整えて参内なさったのに対して、わが女御が将来を悲嘆していらっしゃるのが、気の毒に胸が痛いので、里に退出おさせ申して、気楽に休ませて上げましょう。
 立后しなかったとはいえ、主上のお側にずっと伺候なさって、昼夜おいでのようですから、仕えている女房たちも気楽になれず、苦しがってばかりいるようですから」
209  とのたまひて、にはかにまかでさせたてまつりたまふ。
 御暇も許されがたきを、うちむつかりたまて、主上はしぶしぶに思し召したるを、しひて御迎へしたまふ。
 
 とおっしゃって、急に里にご退出させ申し上げなさる。
 お許しは難しかったが、無理をおっしゃって、主上はしぶしぶでおありであったのを、むりやりお迎えなさる。
 
 
210  「つれづれに思されむを、姫君渡して、もろともに遊びなどしたまへ。
 宮に預けたてまつりたる、うしろやすけれど、いとさくじりおよすけたる人立ちまじりて、おのづから気近きも、あいなきほどになりにたればなむ」
 「所在なくていらっしゃるでしょうから、姫君を迎えて、一緒に遊びなどなさい。
 大宮にお預け申しているのは、安心なのですが、たいそう小賢しくませた人が一緒なので、自然と親しくなるのも、困った年頃になったので」
211  と聞こえたまひて、にはかに渡しきこえたまふ。
 
 とお申し上げなさって、急にお引き取りになさる。
 
 
212  宮、いとあへなしと思して、  大宮は、とても気落ちなさって、
213  「ひとりものせられし女亡くなりたまひてのち、いとさうざうしく心細かりしに、うれしうこの君を得て、生ける限りのかしづきものと思ひて、明け暮れにつけて、老いのむつかしさも慰めむとこそ思ひつれ、思ひのほかに隔てありて思しなすも、つらく」  「一人いらした女の子がお亡くなりになって以来、とても寂しく心細かったのが、うれしいことにこの姫君を得て、生きている間中お世話できる相手と思って、朝な夕なに、老後の憂さつらさの慰めにしようと思っていましたが、心外にも心隔てを置いてお思いになるのも、つらく思われます」
214  など聞こえたまへば、うちかしこまりて、  などとお申し上げなさると、恐縮して、
215  「心に飽かず思うたまへらるることは、しかなむ思うたまへらるるとばかり聞こえさせしになむ。
 深く隔て思ひたまふることは、いかでかはべらむ。
 
 「心中に不満に存じられますことは、そのように存じられますと申し上げただけでございます。
 深く隔意もってお思い申し上げることはどうしていたしましょう。
 
216  内裏にさぶらふが、世の中恨めしげにて、このころまかでてはべるに、いとつれづれに思ひて屈しはべれば、心苦しう見たまふるを、もろともに遊びわざをもして慰めよと思うたまへてなむ、あからさまにものしはべる」とて、「育み、人となさせたまへるを、おろかにはよも思ひきこえさせじ」  宮中に仕えております姫君が、ご寵愛が恨めしい様子で、最近退出おりますが、とても所在なく沈んでおりますので、気の毒に存じますので、一緒に遊びなどをして慰めようと存じまして、ほんの一時引き取るのでございます」と言って、「お育てくださり、一人前にしてくださったのを、けっしていいかげんにはお思い申しておりません」
217  と申したまへば、かう思し立ちにたれば、止めきこえさせたまふとも、思し返すべき御心ならぬに、いと飽かず口惜しう思されて、  と申し上げなさると、このようにお思いたちになった以上は、引き止めようとなさっても、お考え直されるご性質ではないので、大変に残念にお思いになって、
218  「人の心こそ憂きものはあれ。
 とかく幼き心どもにも、われに隔てて疎ましかりけることよ。
 また、さもこそあらめ、大臣の、ものの心を深う知りたまひながら、われを怨じて、かく率て渡したまふこと。
 かしこにて、これよりうしろやすきこともあらじ」
 「人の心とは嫌なものです。
 あれこれにつけ幼い子どもたちも、わたしに隠し事をして嫌なことですよ。
 また一方で、子どもとはそのようなものでしょうが、内大臣が、思慮分別がおありになりながら、わたしを恨んで、このように連れて行っておしまいになるとは。
 あちらでは、ここよりも安心なことはあるまいに」
219  と、うち泣きつつのたまふ。
 
 と、泣きながらおっしゃる。
 
 
 

第三段 夕霧、大宮邸に参上

 
220  折しも冠者の君参りたまへり。
 「もしいささかの隙もや」と、このころはしげうほのめきたまふなりけり。
 内大臣の御車のあれば、心の鬼にはしたなくて、やをら隠れて、わが御方に入りゐたまへり。
 
 ちょうど折しも冠者の君が参上なさった。
 「もしやちょっとした隙でもありやしないか」と、最近は頻繁にお顔を出しになられるのであった。
 内大臣のお車があるので、気がとがめて具合悪いので、こっそり隠れて、ご自分のお部屋にお入りになった。
 
 
221  内大殿の君達、左少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などいふも、皆ここには参り集ひたれど、御簾の内は許したまはず。
 
 内大臣の若公達の、左近少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などと言った人々も、皆ここには参集なさったが、御簾の内に入ることはお許しにならない。
 
222  左兵衛督、権中納言なども、異御腹なれど、故殿の御もてなしのままに、今も参り仕うまつりたまふことねむごろなれば、その御子どももさまざま参りたまへど、この君に似るにほひなく見ゆ。
 
 左兵衛督、権中納言なども、異腹の兄弟であるが、故大殿のご待遇によって、今でも参上して御用を承ることが親密なので、その子どもたちもそれぞれ参上なさるが、この冠者の君に似た美しい人はいないように見える。
 
223  大宮の御心ざしも、なずらひなく思したるを、ただこの姫君をぞ、気近うらうたきものと思しかしづきて、御かたはらさけず、うつくしきものに思したりつるを、かくて渡りたまひなむが、いとさうざうしきことを思す。
 
 大宮のご愛情も、この上なくお思いであったが、ただこの姫君を、身近にかわいい者とお思いになってお世話なさって、いつもお側にお置きになって、かわいがっていらっしゃったのに、このようにしてお引き移りになるのが、とても寂しいこととお思いになる。
 
 
224  殿は、  内大臣殿は、
225  「今のほどに、内裏に参りはべりて、夕つ方迎へに参りはべらむ」  「今の間に、内裏に参上しまして、夕方に迎えに参りましょう」
226  とて、出でたまひぬ。
 
 と言って、お出になった。
 
227  「いふかひなきことを、なだらかに言ひなして、さてもやあらまし」と思せど、なほ、いと心やましければ、「人の御ほどのすこしものものしくなりなむに、かたはならず見なして、そのほど、心ざしの深さ浅さのおもむきをも見定めて、許すとも、ことさらなるやうにもてなしてこそあらめ。
 制し諌むとも、一所にては、幼き心のままに、見苦しうこそあらめ。
 宮も、よもあながちに制したまふことあらじ」
 「今さら言っても始まらないことだが、穏便に言いなして、二人の仲を許してやろうか」とお思いになるが、やはりとても面白くないので、「ご身分がもう少し一人前になったら、不満足な地位でないと見做して、その時に、愛情が深いか浅いかの状態も見極めて、許すにしても、改まった結婚という形式を踏んで婿として迎えよう。
 厳しく言っても、一緒にいては、子どものことだから、見苦しいことをしよう。
 大宮も、まさかむやみにお諌めになることはあるまい」
228  と思せば、女御の御つれづれにことつけて、ここにもかしこにもおいらかに言ひなして、渡したまふなりけり。
 
 とお思いになると、弘徽殿女御が寂しがっているのにかこつけて、こちらにもあちらにも穏やかに話して、お連れになるのであった。
 
 
 

第四段 夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬

 
229  宮の御文にて、  大宮のお手紙で、
230  「大臣こそ、恨みもしたまはめ、君は、さりとも心ざしのほども知りたまふらむ。
 渡りて見えたまへ」
 「内大臣は、お恨みでしょうが、あなたは、こうはなってもわたしの気持ちはわかっていただけるでしょう。
 いらっしゃってお顔をお見せください」
231  と聞こえたまへれば、いとをかしげにひきつくろひて渡りたまへり。
 十四になむおはしける。
 かたなりに見えたまへど、いと子めかしう、しめやかに、うつくしきさましたまへり。
 
 と差し上げなさると、とても美しく装束を整えていらっしゃった。
 十四歳でいらっしゃった。
 まだ十分に大人にはお見えでないが、とてもおっとりとしていらして、しとやかで、美しい姿態をしていらっしゃった。
 
 
232  「かたはらさけたてまつらず、明け暮れのもてあそびものに思ひきこえつるを、いとさうざうしくもあるべきかな。
 残りすくなき齢のほどにて、御ありさまを見果つまじきことと、命をこそ思ひつれ、今さらに見捨てて移ろひたまふや、いづちならむと思へば、いとこそあはれなれ」
 「いままでお側をお離し申さず、明け暮れの話相手とお思い申していたのに、とても寂しいことですね。
 残り少ない晩年に、あなたのご将来を見届けることができないことは、寿命と思いますが、今のうちから見捨ててお移りになる先が、どこかしらと思うと、とても不憫でなりません」
233  とて泣きたまふ。
 姫君は、恥づかしきことを思せば、顔ももたげたまはで、ただ泣きにのみ泣きたまふ。
 男君の御乳母、宰相の君出で来て、
 と言ってお泣きになる。
 姫君は、恥ずかしいこととお思いになると、顔もお上げにならず、ただ泣いてばかりいらっしゃる。
 男君の御乳母の、宰相の君が出て来て、
234  「同じ君とこそ頼みきこえさせつれ、口惜しくかく渡らせたまふこと。
 殿はことざまに思しなることおはしますとも、さやうに思しなびかせたまふな」
 「同じご主人様とお頼り申しておりましたが、残念にもこのようにお移りあそばすとは。
 内大臣殿は別にお考えになるところがおありでも、そのようにお思いあそばしますな」
235  など、ささめき聞こゆれば、いよいよ恥づかしと思して、物ものたまはず。
 
 などと、ひそひそと申し上げると、いっそう恥ずかしくお思いになって、何ともおっしゃらない。
 
236  「いで、むつかしきことな聞こえられそ。
 人の御宿世宿世、いと定めがたく」
 「いえもう、厄介なことは申し上げなさいますな。
 人の運命はそれぞれで、とても先のことは分からないもので」
237  とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
238  「いでや、ものげなしとあなづりきこえさせたまふにはべるめりかし。
 さりとも、げに、わが君人に劣りきこえさせたまふと、聞こしめし合はせよ」
 「いえいえ、一人前でないとお侮り申していらっしゃるのでしょう。
 今はそうですが、わたくしどもの若君が人にお劣り申していらっしゃるかどうか、どなたにでもお聞き合わせくださいませ」
239  と、なま心やましきままに言ふ。
 
 と、癪にさわるのにまかせて言う。
 
 
240  冠者の君、物のうしろに入りゐて見たまふに、人の咎めむも、よろしき時こそ苦しかりけれ、いと心細くて、涙おし拭ひつつおはするけしきを、御乳母、いと心苦しう見て、宮にとかく聞こえたばかりて、夕まぐれの人のまよひに、対面せさせたまへり。
 
 冠者の君は、物陰に入って御覧になると、人が見咎めるのも、何でもない時は苦しいだけであったが、とても心細くて、涙を拭いながらいらっしゃる様子を、御乳母が、とても気の毒に見て、大宮にいろいろとご相談申し上げて、夕暮の人の出入りに紛れて、対面させなさった。
 
241  かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、物も言はで泣きたまふ。
 
 お互いに何となく恥ずかしく胸がどきどきして、何も言わないでお泣きになる。
 
242  「大臣の御心のいとつらければ、さはれ、思ひやみなむと思へど、恋しうおはせむこそわりなかるべけれ。
 などて、すこし隙ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらむ」
 「内大臣のお気持ちがとてもつらいので、ままよ、いっそ諦めようと思いますが、恋しくいらっしゃてたまらないです。
 どうして、少しお逢いできそうな折々があったころは、離れて過ごしていたのでしょう」
243  とのたまふさまも、いと若うあはれげなれば、  とおっしゃる様子も、たいそう若々しく痛々しげなので、
244  「まろも、さこそはあらめ」  「わたしも、あなたと同じ思いです」
245  とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
246  「恋しとは思しなむや」  「恋しいと思ってくださるでしょうか」
247  とのたまへば、すこしうなづきたまふさまも、幼げなり。
 
 とおっしゃると、ちょっとうなずきなさる様子も、幼い感じである。
 
 
 

第五段 乳母、夕霧の六位を蔑む

 
248  御殿油参り、殿まかでたまふけはひ、こちたく追ひののしる御前駆の声に、人びと、  御殿油をお点けし、内大臣が宮中から退出なさって来た様子で、ものものしく大声を上げて先払いする声に、女房たちが、
249  「そそや」  「それそれ、お帰りだ」
250  など懼ぢ騒げば、いと恐ろしと思してわななきたまふ。
 さも騒がればと、ひたぶる心に、許しきこえたまはず。
 御乳母参りてもとめたてまつるに、けしきを見て、
 などと慌てるので、とても恐ろしくお思いになって震えていらっしゃる。
 そんなにやかましく言われるなら言われても構わないと、一途な心で、姫君をお放し申されない。
 姫君の乳母が参ってお捜し申して、その様子を見て、
251  「あな、心づきなや。
 げに、宮知らせたまはぬことにはあらざりけり」
 「まあ、いやだわ。
 なるほど、大宮は御存知ないことではなかったのだわ」
252  と思ふに、いとつらく、  と思うと、実に恨めしくなって、
253  「いでや、憂かりける世かな。
 殿の思しのたまふことは、さらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせたまはむ。
 めでたくとも、もののはじめの六位宿世よ」
 「何とも、情けないことですわ。
 内大臣殿がおっしゃることは、申すまでもなく、大納言殿にもどのようにお聞きになることでしょう。
 結構な方であっても、初婚の相手が六位風情との御縁では」
254  と、つぶやくもほの聞こゆ。
 ただこの屏風のうしろに尋ね来て、嘆くなりけり。
 
 と、つぶやいているのがかすかに聞こえる。
 ちょうどこの屏風のすぐ背後に捜しに来て、嘆くのであった。
 
 
255  男君、「我をば位なしとて、はしたなむるなりけり」と思すに、世の中恨めしければ、あはれもすこしさむる心地して、めざまし。
 
 男君は、「自分のことを位がないと軽蔑しているのだ」とお思いになると、こんな二人の仲がたまらなくなって、愛情も少しさめる感じがして、許しがたい。
 
256  「かれ聞きたまへ。
 
 「あれをお聞きなさい。
 
 

325
 くれなゐの 涙に深き 袖の色を
 浅緑にや 言ひしをるべき
  真っ赤な血の涙を流して恋い慕っているわたしを
  浅緑の袖の色だと言ってけなしてよいものでしょうか
 
257  恥づかし」  恥ずかしい」
258  とのたまへば、  とおっしゃると、
 

326
 「いろいろに 身の憂きほどの 知らるるは
 いかに染めける 中の衣ぞ」
 「色々とわが身の不運が思い知らされますのは
  どのような因縁の二人なのでしょう」
 
259  と、物のたまひ果てぬに、殿入りたまへば、わりなくて渡りたまひぬ。
 
 と、言い終わらないうちに、殿がお入りになっていらしたので、しかたなくお戻りになった。
 
260  男君は、立ちとまりたる心地も、いと人悪く、胸ふたがりて、わが御方に臥したまひぬ。
 
 男君は、後に残された気持ちも、とても体裁が悪く、胸が一杯になって、ご自分のお部屋で横におなりになった。
 
261  御車三つばかりにて、忍びやかに急ぎ出でたまふけはひを聞くも、静心なければ、宮の御前より、「参りたまへ」とあれど、寝たるやうにて動きもしたまはず。
 
 お車は三輌ほどで、ひっそりと急いでお出になる様子を聞くのも、落ち着かないので、大宮の御前から「いらっしゃい」とあるが、寝ている様子をして身動きもなさらない。
 
262  涙のみ止まらねば、嘆きあかして、霜のいと白きに急ぎ出でたまふ。
 うちはれたるまみも、人に見えむが恥づかしきに、宮はた、召しまつはすべかめれば、心やすき所にとて、急ぎ出でたまふなりけり。
 
 涙ばかりが止まらないので、嘆きながら夜を明かして、霜がたいそう白いころに急いでお帰りになる。
 泣き腫らした目許も、人に見られるのが恥ずかしいので、大宮もまた、お召しになって放さないだろうから、気楽な所でと思って、急いでお帰りになったのであった。
 
263  道のほど、人やりならず、心細く思ひ続くるに、空のけしきもいたう雲りて、まだ暗かりけり。
 
 その道中は、誰のせいからでなく、心細く思い続けると、空の様子までもたいそう曇って、まだ暗いのであった。
 
 

327
 「霜氷 うたてむすべる 明けぐれの
 空かきくらし 降る涙かな」
 「霜や氷が嫌に張り詰めた明け方の
  空を真暗にして降る涙の雨だなあ」
 
 

第六章 夕霧の物語 五節舞姫への恋

 
 

第一段 惟光の娘、五節舞姫となる

 
264  大殿には、今年、五節たてまつりたまふ。
 何ばかりの御いそぎならねど、童女の装束など、近うなりぬとて、急ぎせさせたまふ。
 
 大殿の所では、今年、五節の舞姫を差し上げなさる。
 何ほどといったご用意ではないが、童女の装束など、日が近くなったといって、急いでおさせになる。
 
265  東の院には、参りの夜の人びとの装束せさせたまふ。
 殿には、おほかたのことども、中宮よりも、童、下仕への料など、えならでたてまつれたまへり。
 
 東の院では、参内の夜の付人の装束を準備させなさる。
 殿におかれては、全般的な事柄を、中宮からも、童女や、下仕えの人々のご料などを、並大抵でないものを差し上げなさった。
 
266  過ぎにし年、五節など止まれりしが、さうざうしかりし積もり取り添へ、上人の心地も、常よりもはなやかに思ふべかめる年なれば、所々挑みて、いといみじくよろづを尽くしたまふ聞こえあり。
 
 昨年は、五節などは停止になっていたが、もの寂しかった思いを加えて、殿上人の気分も、例年よりもはなやかに思うにちがいない年なので、家々が競って、たいそう立派に善美の限りを尽くして用意をなさるとの噂である。
 
267  按察使大納言、左衛門督、上の五節には、良清、今は近江守にて左中弁なるなむ、たてまつりける。
 皆止めさせたまひて、宮仕へすべく、仰せ言ことなる年なれば、女をおのおのたてまつりたまふ。
 
 按察大納言、左衛門督と、殿上人の五節としては、良清が、今では近江守で左中弁を兼官しているのが、差し上げるのだった。
 皆残させなさって、宮仕えするようにとの、仰せ言が特にあった年なので、娘をそれぞれ差し上げなさる。
 
 
268  殿の舞姫は、惟光朝臣の、津守にて左京大夫かけたるが女、容貌などいとをかしげなる聞こえあるを召す。
 からいことに思ひたれど、
 大殿の舞姫は、惟光朝臣が、摂津守で左京大夫を兼官しているその娘の、器量などもたいそう美しいという評判があるのをお召しになる。
 つらいことと思ったが、
269  「大納言の、外腹の女をたてまつらるなるに、朝臣のいつき女出だし立てたらむ、何の恥かあるべき」  「按察大納言が、異腹の娘を差し上げられるというのに、朝臣が大切なまな娘を差し出すのは、何の恥ずかしいことがあろうか」
270  と苛めば、わびて、同じくは宮仕へやがてせさすべく思ひおきてたり。
 
 とお責めになるので、困って、いっそのこと宮仕えをそのままさせようと考えていた。
 
271  舞習はしなどは、里にていとよう仕立てて、かしづきなど、親しう身に添ふべきは、いみじう選り整へて、その日の夕つけて参らせたり。
 
 舞の稽古などは、里邸で十分に仕上げて、介添役など、親しく身近に添うべき女房などは、丹念に選んで、その日の夕方大殿に参上させた。
 
272  殿にも、御方々の童女、下仕へのすぐれたるをと、御覧じ比べ、選り出でらるる心地どもは、ほどほどにつけて、いとおもだたしげなり。
 
 大殿邸でも、それぞれのご婦人方の童女や、下仕えの優れている者をと、お比べになり、選び出される者たちの気分は、身分相応につけて、たいそう誇らしげである。
 
 
273  御前に召して御覧ぜむうちならしに、御前を渡らせてと定めたまふ。
 捨つべうもあらず、とりどりなる童女の様体、容貌を思しわづらひて、
 主上のお前に召されて御覧になられる前稽古に、殿のお前を通らせてみようとお決めになる。
 誰一人落第する者もいないくらいに、それぞれ素晴らしい童女の姿態や、器量にお困りになって、
274  「今一所の料を、これよりたてまつらばや」  「もう一人分の舞姫の介添役を、こちらから差し上げたいものだな」
275  など笑ひたまふ。
 ただもてなし用意によりてぞ選びに入りける。
 
 などと言ってお笑いになる。
 わずかに態度や心構えの違いによって選ばれたのであった。
 
 
 

第二段 夕霧、五節舞姫を恋慕

 
276  大学の君、胸のみふたがりて、物なども見入れられず、屈じいたくて、書も読まで眺め臥したまへるを、心もや慰むと立ち出でて、紛れありきたまふ。
 
 大学の君は、ただ胸が一杯で、食事なども見たくなく、ひどくふさぎこんで、漢籍も読まないで物思いに沈んで横になっていらっしゃったが、気分も紛れようかと外出して、人目に立たないようにお歩きになる。
 
277  さま、容貌はめでたくをかしげにて、静やかになまめいたまへれば、若き女房などは、いとをかしと見たてまつる。
 
 姿態、器量は立派で美しくて、落ち着いて優美でいらっしゃるので、若い女房などは、とても素晴らしいと拝見している。
 
 
278  上の御方には、御簾の前にだに、もの近うももてなしたまはず。
 わが御心ならひ、いかに思すにかありけむ、疎々しければ、御達なども気遠きを、今日はものの紛れに、入り立ちたまへるなめり。
 
 対の上の御方には、御簾のお前近くに出ることさえお近寄らせにならない。
 ご自分のお心の性癖から、どのようにお考えになったのであろうか、他人行儀なお扱いなので、女房なども疎遠なのだが、今日は舞姫の混雑に紛れて、入り込んで来られたのであろう。
 
279  舞姫かしづき下ろして、妻戸の間に屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、やをら寄りてのぞきたまへば、悩ましげにて添ひ臥したり。
 
 舞姫を大切に下ろして、妻戸の間に屏風などを立てて、臨時の設備なので、そっと近寄ってお覗きになると、苦しそうに物に寄り臥していた。
 
280  ただ、かの人の御ほどと見えて、今すこしそびやかに、様体などのことさらび、をかしきところはまさりてさへ見ゆ。
 暗ければ、こまかには見えねど、ほどのいとよく思ひ出でらるるさまに、心移るとはなけれど、ただにもあらで、衣の裾を引き鳴らいたまふに、何心もなく、あやしと思ふに、
 ちょうど、あの姫君と同じくらいに見えて、もう少し背丈がすらっとしていて、姿つきなどが一段と風情があって、美しい点では勝ってさえ見える。
 暗いので、詳しくは見えないが、全体の感じがたいそうよく似ている様子なので、心が移るというのではないが、気持ちを抑えかねて、裾を引いてさらさらと音を立てさせなさると、何か分からず、変だと思っていると、
 

328
 「天にます 豊岡姫の 宮人も
 わが心ざす しめを忘るな
 「天にいらっしゃる豊岡姫に仕える宮人も
  わたしのものと思う気持ちを忘れないでください
 
281  乙女子が袖振る山の瑞垣の」  瑞垣のずっと昔から思い染めてきましたのですから」
282  とのたまふぞ、うちつけなりける。
 
 とおっしゃるのは、あまりにも唐突というものである。
 
283  若うをかしき声なれど、誰ともえ思ひたどられず、なまむつかしきに、化粧じ添ふとて、騷ぎつる後見ども、近う寄りて人騒がしうなれば、いと口惜しうて、立ち去りたまひぬ。
 
 若々しく美しい声であるが、誰とも分からず、薄気味悪く思っていたところへ、化粧し直そうとして、騒いでいる女房たちが、近くにやって来て騒がしくなったので、とても残念な気がして、お立ち去りになった。
 
 
 

第三段 宮中における五節の儀

 
284  浅葱の心やましければ、内裏へ参ることもせず、もの憂がりたまふを、五節にことつけて、直衣など、さま変はれる色聴されて参りたまふ。
 きびはにきよらなるものから、まだきにおよすけて、されありきたまふ。
 帝よりはじめたてまつりて、思したるさまなべてならず、世にめづらしき御おぼえなり。
 
 浅葱の服が嫌なので、宮中に参内することもせず、億劫がっていらっしゃるのを、五節だからというので、直衣なども特別の衣服の色を許されて参内なさる。
 いかにも幼げで美しい方であるが、お年のわりに大人っぽくて、しゃれてお歩きになる。
 帝をはじめ参らせて、大切になさる様子は並大抵でなく、世にも珍しいくらいのご寵愛である。
 
285  五節の参る儀式は、いづれともなく、心々に二なくしたまへるを、「舞姫の容貌、大殿と大納言とはすぐれたり」とめでののしる。
 げに、いとをかしげなれど、ここしううつくしげなることは、なほ大殿のには、え及ぶまじかりけり。
 
 五節の参内する儀式は、いずれ劣らず、それぞれがこの上なく立派になさっているが、「舞姫の器量は、大殿と大納言のとは素晴らしい」という大評判である。
 なるほど、とてもきれいであるが、おっとりとして可憐なさまは、やはり大殿のには、かないそうもなかった。
 
286  ものきよげに今めきて、そのものとも見ゆまじう仕立てたる様体などの、ありがたうをかしげなるを、かう誉めらるるなめり。
 例の舞姫どもよりは、皆すこしおとなびつつ、げに心ことなる年なり。
 
 どことなくきれいな感じの当世風で、誰の娘だか分からないよう飾り立てた姿態などが、めったにないくらい美しいのを、このように褒められるようである。
 例年の舞姫よりは、皆少しずつ大人びていて、なるほど特別な年である。
 
287  殿参りたまひて御覧ずるに、昔御目とまりたまひし少女の姿思し出づ。
 辰の日の暮つ方つかはす。
 御文のうち思ひやるべし。
 
 大殿が宮中に参内なさって御覧になると、昔お目をとどめなさった少女の姿をお思い出しになる。
 辰の日の暮方に手紙をやる。
 その内容はご想像ください。
 
 

329
 「乙女子も 神さびぬらし 天つ袖
 古き世の友 よはひ経ぬれば」
 「少女だったあなたも神さびたことでしょう
  天の羽衣を着て舞った昔の友も長い年月を経たので」
 
288  年月の積もりを数へて、うち思しけるままのあはれを、え忍びたまはぬばかりの、をかしうおぼゆるも、はかなしや。
 
 歳月の流れを数えて、ふとお思い出しになられたままの感慨を、堪えることができずに差し上げたのが、胸をときめかせるのも、はかないことであるよ。
 
 

330
 「かけて言へば 今日のこととぞ 思ほゆる
 日蔭の霜の 袖にとけしも」
 「五節のことを言いますと、昔のことが今日のことのように思われます
  日蔭のかずらを懸けて舞い、お情けを頂戴したことが」
 
289  青摺りの紙よくとりあへて、紛らはし書いたる、濃墨、薄墨、草がちにうち交ぜ乱れたるも、人のほどにつけてはをかしと御覧ず。
 
 青摺りの紙をよく間に合わせて、誰の筆跡だか分からないように書いた、濃く、また薄く、草体を多く交えているのも、あの身分にしてはおもしろいと御覧になる。
 
290  冠者の君も、人の目とまるにつけても、人知れず思ひありきたまへど、あたり近くだに寄せず、いとけけしうもてなしたれば、ものつつましきほどの心には、嘆かしうてやみぬ。
 容貌はしも、いと心につきて、つらき人の慰めにも、見るわざしてむやと思ふ。
 
 冠者の君も、少女に目が止まるにつけても、ひそかに思いをかけてあちこちなさるが、側近くにさえ寄せず、たいそう無愛想な態度をしているので、もの恥ずかしい年頃の身では、心に嘆くばかりであった。
 器量はそれは、とても心に焼きついて、つれない人に逢えない慰めにでも、手に入れたいものだと思う。
 
 
 

第四段 夕霧、舞姫の弟に恋文を託す

 
291  やがて皆とめさせたまひて、宮仕へすべき御けしきありけれど、このたびはまかでさせて、近江のは辛崎の祓へ、津の守は難波と、挑みてまかでぬ。
 大納言もことさらに参らすべきよし奏せさせたまふ。
 左衛門督、その人ならぬをたてまつりて、咎めありけれど、それもとどめさせたまふ。
 
 そのまま皆宮中に残させなさって、宮仕えするようにとの御内意があったが、この場は退出させて、近江守の娘は辛崎の祓い、津守のは難波で祓いをと、競って退出した。
 大納言も改めて出仕させたい旨を奏上させる。
 左衛門督は、資格のない者を差し上げて、お咎めがあったが、それも残させなさる。
 
 
292  津の守は、「典侍あきたるに」と申させたれば、「さもや労らまし」と大殿も思いたるを、かの人は聞きたまひて、いと口惜しと思ふ。
 
 津守は、「典侍が空いているので」と申し上げさせたので、「そのように労をねぎらってやろうか」と大殿もお考えになっていたのを、あの冠者の君はお聞きになって、とても残念だと思う。
 
293  「わが年のほど、位など、かくものげなからずは、乞ひ見てましものを。
 思ふ心ありとだに知られでやみなむこと」
 「自分の年齢や、位などが、このように問題でないならば、願い出てみたいのだが。
 思っているということさえ知られないで終わってしまうことよ」
294  と、わざとのことにはあらねど、うち添へて涙ぐまるる折々あり。
 
 と、特別強く執心しているのではないが、あの姫君のことに加えて涙がこぼれる時々がある。
 
295  兄弟の童殿上する、常にこの君に参り仕うまつるを、例よりもなつかしう語らひたまひて、  兄弟で童殿上する者が、つねにこの君に参上してお仕えしているのを、いつもよりも親しくご相談なさって、
296  「五節はいつか内裏へ参る」  「五節はいつ宮中に参内なさるのか」
297  と問ひたまふ。
 
 とお尋ねになる。
 
298  「今年とこそは聞きはべれ」  「今年と聞いております」
299  と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
300  「顔のいとよかりしかば、すずろにこそ恋しけれ。
 ましが常に見るらむも羨ましきを、また見せてむや」
 「顔がたいそうよかったので、無性に恋しい気がする。
 おまえがいつも見ているのが羨ましいが、もう一度見せてくれないか」
301  とのたまへば、  とおっしゃると、
302  「いかでかさははべらむ。
 心にまかせてもえ見はべらず。
 男兄弟とて、近くも寄せはべらねば、まして、いかでか君達には御覧ぜさせむ」
 「どうしてそのようなことができましょうか。
 思うように会えないのでございます。
 男兄弟だといって、近くに寄せませんので、まして、あなた様にはどうしてお会わせ申すことができましょうか」
303  と聞こゆ。
 
 と申し上げる。
 
304  「さらば、文をだに」  「それでは、せめて手紙だけでも」
305  とて賜へり。
 
 といってお与えになった。
 
306  「先々かやうのことは言ふものを」と苦しけれど、せめて賜へば、いとほしうて持て往ぬ。
 
 「以前からこのようなことはするなと親が言われていたものを」と困ったが、無理やりにお与えになるので、気の毒に思って持って行った。
 
 
307  年のほどよりは、されてやありけむ、をかしと見けり。
 緑の薄様の、好ましき重ねなるに、手はまだいと若けれど、生ひ先見えて、いとをかしげに、
 年齢よりは、ませていたのであろうか、興味をもって見るのであった。
 緑色の薄様に、好感の持てる色を重ねて、筆跡はまだとても子供っぽいが、将来性が窺えて、たいそう立派に、
 

331
 「日影にも しるかりけめや 少女子が
 天の羽袖に かけし心は」
 「日の光にはっきりとおわかりになったでしょう
  あなたが天の羽衣も翻して舞う姿に思いをかけたわたしのことを」
 
308  二人見るほどに、父主ふと寄り来たり。
 恐ろしうあきれて、え引き隠さず。
 
 二人で見ているところに、父殿がひょいとやって来た。
 恐くなってどうしていいか分からず、隠すこともできない。
 
309  「なぞの文ぞ」  「何の手紙だ」
310  とて取るに、面赤みてゐたり。
 
 と言って取ったので、顔を赤らめていた。
 
311  「よからぬわざしけり」  「けしからぬことをした」
312  と憎めば、せうと逃げて行くを、呼び寄せて、  と叱ると、男の子が逃げて行くのを、呼び寄せて、
313  「誰がぞ」  「誰からだ」
314  と問へば、  と尋ねると、
315  「殿の冠者の君の、しかしかのたまうて賜へる」  「大殿の冠者の君が、これこれしかじかとおっしゃってお与えになったのです」
316  と言へば、名残なくうち笑みて、  と言うと、すっかり笑顔になって、
317  「いかにうつくしき君の御され心なり。
 きむぢらは、同じ年なれど、いふかひなくはかなかめりかし」
 「何ともかわいらしい若君のおたわむれだ。
 おまえたちは、同じ年齢だが、お話にならないくらい頼りないことよ」
318  など誉めて、母君にも見す。  などと褒めて、母君にも見せる。
 
 
319  「この君達の、すこし人数に思しぬべからましかば、宮仕へよりは、たてまつりてまし。
 殿の御心おきて見るに、見そめたまひてむ人を、御心とは忘れたまふまじきとこそ、いと頼もしけれ。
 明石の入道の例にやならまし」
 「大殿の公達が、すこしでも一人前にお考えになってくださるならば、宮仕えよりは、差し上げようものを。
 大殿のご配慮を見ると、一度見初めた女性を、お忘れにならないのがたいそう頼もしい。
 明石の入道の例になるだろうか」
320  など言へど、皆急ぎ立ちにたり。
 
 などと言うが、皆は準備にとりかかっていた。
 
 
 

第五段 花散里、夕霧の母代となる

 
321  かの人は、文をだにえやりたまはず、立ちまさる方のことし心にかかりて、ほど経るままに、わりなく恋しき面影にまたあひ見でやと思ふよりほかのことなし。
 宮の御もとへ、あいなく心憂くて参りたまはず。
 おはせしかた、年ごろ遊び馴れし所のみ、思ひ出でらるることまされば、里さへ憂くおぼえたまひつつ、また籠もりゐたまへり。
 
 あの若君は、手紙をやることさえおできになれず、一段と恋い焦がれる方のことが心にかかって、月日がたつにつれて、無性に恋しい面影に再び会えないのではないかとばかり思っている。
 大宮のお側へも、何となく気乗りがせず参上なさらない。
 いらっしゃったお部屋や長年一所に遊んだ所ばかりが、ますます思い出されるので、里邸までが疎ましくお思いになられて、籠もっていらっしゃった。
 
322  殿は、この西の対にぞ、聞こえ預けたてまつりたまひける。
 
 大殿は、東院の西の対の御方に、お預け申し上げていらっしゃったのであった。
 
323  「大宮の御世の残り少なげなるを、おはせずなりなむのちも、かく幼きほどより見ならして、後見おぼせ」  「大宮のご寿命も大したことがないので、お亡くなりになった後も、このように子供の時から親しんで、お世話してください」
324  と聞こえたまへば、ただのたまふままの御心にて、なつかしうあはれに思ひ扱ひたてまつりたまふ。
 
 と申し上げなさると、ただおっしゃっるとおりになさるご性質なので、親しくかわいがって上げなさる。
 
 
325  ほのかになど見たてまつるにも、  ちらっとなどお顔を拝見しても、
326  「容貌のまほならずもおはしけるかな。
 かかる人をも、人は思ひ捨てたまはざりけり」など、「わが、あながちに、つらき人の御容貌を心にかけて恋しと思ふもあぢきなしや。
 心ばへのかやうにやはらかならむ人をこそあひ思はめ」
 「器量はさほどすぐれていないな。
 このような方をも、父はお捨てにならなかったのだ」などと、「自分は、無性に、つらい人のご器量を心にかけて恋しいと思うのもつまらないことだ。
 気立てがこのように柔和な方をこそ愛し合いたいものだ」
327  と思ふ。
 また、
 と思う。
 また一方で、
328  「向ひて見るかひなからむもいとほしげなり。
 かくて年経たまひにけれど、殿の、さやうなる御容貌、御心と見たまうて、浜木綿ばかりの隔てさし隠しつつ、何くれともてなし紛らはしたまふめるも、むべなりけり」
 「向かい合っていて見ていられないようなのも気の毒な感じだ。
 こうして長年連れ添っていらっしゃったが、父上が、そのようなご器量を、承知なさったうえで、浜木綿ほどの隔てを置き置きして、何やかやとなさって見ないようにしていらっしゃるらしいのも、もっともなことだ」
329  と思ふ心のうちぞ、恥づかしかりける。
 
 と考える心の中は、大したほどである。
 
330  大宮の容貌ことにおはしませど、まだいときよらにおはし、ここにもかしこにも、人は容貌よきものとのみ目馴れたまへるを、もとよりすぐれざりける御容貌の、ややさだ過ぎたる心地して、痩せ痩せに御髪少ななるなどが、かくそしらはしきなりけり。
 
 大宮の器量は格別でいらっしゃるが、まだたいそう美しくいらっしゃり、こちらでもあちらでも、女性は器量のよいものとばかり目馴れていらっしゃるが、もともとさほどでなかったご器量が、少し盛りが過ぎた感じがして、痩せてみ髪が少なくなっているのなどが、このように難をつけたくなるのであった。
 
 
 

第六段 歳末、夕霧の衣装を準備

 
331  年の暮には、睦月の御装束など、宮はただ、この君一所の御ことを、まじることなういそぎたまふ。
 あまた領、いときよらに仕立てたまへるを見るも、もの憂くのみおぼゆれば、
 年の暮には、正月のご装束などを、大宮はただこの冠君の君の一人だけの事を、余念なく準備なさる。
 いく組も、たいそう立派に仕立てなさったのを見るのも、億劫にばかり思われるので、
332  「朔日などには、かならずしも内裏へ参るまじう思ひたまふるに、何にかくいそがせたまふらむ」  「元旦などには、特に参内すまいと存じておりますのに、どうしてこのようにご準備なさるのでしょうか」
333  と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
334  「などてか、さもあらむ。
 老いくづほれたらむ人のやうにものたまふかな」
 「どうして、そのようなことがあってよいでしょうか。
 年をとってすっかり気落ちした人のようなことをおっしゃいますね」
335  とのたまへば、  とおっしゃるので、
336  「老いねど、くづほれたる心地ぞするや」  「年はとっていませんが、何もしたくない気がしますよ」
337  と独りごちて、うち涙ぐみてゐたまへり。
 
 と独り言をいって、涙ぐんでいらっしゃる。
 
 
338  「かのことを思ふならむ」と、いと心苦しうて、宮もうちひそみたまひぬ。
 
 「あの姫君のことを思っているのだろう」と、とても気の毒になって、大宮も泣き顔になってしまわれた。
 
339  「男は、口惜しき際の人だに、心を高うこそつかふなれ。
 あまりしめやかに、かくなものしたまひそ。
 何とか、かう眺めがちに思ひ入れたまふべき。
 ゆゆしう」
 「男は、取るに足りない身分の人でさえ、気位を高く持つものです。
 あまり沈んで、こうしていてはなりません。
 どうして、こんなにくよくよ思い詰めることがありましょうか。
 縁起でもありません」
340  とのたまふも、  とおっしゃるが、
341  「何かは。
 六位など人のあなづりはべるめれば、しばしのこととは思うたまふれど、内裏へ参るももの憂くてなむ。
 故大臣おはしまさましかば、戯れにても、人にはあなづられはべらざらまし。
 もの隔てぬ親におはすれど、いとけけしうさし放ちて思いたれば、おはしますあたりに、たやすくも参り馴れはべらず。
 東の院にてのみなむ、御前近くはべる。
 対の御方こそ、あはれにものしたまへ、親今一所おはしまさましかば、何ごとを思ひはべらまし」
 「そんなことはありません。
 六位などと人が軽蔑するようなので、少しの間だとは存じておりますが、参内するのも億劫なのです。
 故祖父大臣が生きていらっしゃったならば、冗談にも、人からは軽蔑されることはなかったでございましょうに。
 何の遠慮もいらない実の親でいらしゃいますが、たいそう他人行儀に遠ざけるようになさいますので、いらっしゃる所にも、気安くお目通りもかないません。
 東の院にお出での時だけ、お側近く上がります。
 対の御方だけは、やさしくしてくださいますが、母親が生きていらっしゃいましたら、何も思い悩まなくてよかったものを」
342  とて、涙の落つるを紛らはいたまへるけしき、いみじうあはれなるに、 と言って、涙が落ちるのを隠していらっしゃる様子、たいそう気の毒なので、
343  宮は、いとどほろほろと泣きたまひて、  大宮は、ますますほろほろとお泣きになって、
344  「母にも後るる人は、ほどほどにつけて、さのみこそあはれなれど、おのづから宿世宿世に、人と成りたちぬれば、おろかに思ふもなきわざなるを、思ひ入れぬさまにてものしたまへ。
 故大臣の今しばしだにものしたまへかし。
 限りなき蔭には、同じことと頼みきこゆれど、思ふにかなはぬことの多かるかな。
 内大臣の心ばへも、なべての人にはあらずと、世人もめで言ふなれど、昔に変はることのみまさりゆくに、命長さも恨めしきに、生ひ先遠き人さへ、かくいささかにても、世を思ひしめりたまへれば、いとなむよろづ恨めしき世なる」
 「母親に先立たれた人は、身分の高いにつけ低いにつけて、そのように気の毒なことなのですが、自然とそれぞれの前世からの宿縁で、成人してしまえば、誰も軽蔑する者はいなくなるものですから、思い詰めないでいらっしゃい。
 亡くなった太政大臣がせめてもう少しだけ長生きをしてくれればよかったのに。
 絶大な庇護者としては、同じようにご信頼申し上げてはいますが、思いどおりに行かないことが多いですね。
 内大臣の性質も、普通の人とは違って立派だと世間の人も褒めて言うようですが、昔と違う事ばかりが多くなって行くので、長生きも恨めしい上に、生い先の長いあなたにまで、このようなちょっとしたことにせよ、身の上を悲観していらっしゃるので、とてもいろいろと恨めしいこの世です」
345  とて、泣きおはします。
 
 と言って、泣いていらっしゃる。
 
 
 

第七章 光る源氏の物語 六条院造営

 
 

第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸

 
346  朔日にも、大殿は御ありきしなければ、のどやかにておはします。
 良房の大臣と聞こえける、いにしへの例になずらへて、白馬ひき、節会の日、内裏の儀式をうつして、昔の例よりも事添へて、いつかしき御ありさまなり。
 
 元旦にも、大殿は御参賀なさらないので、のんびりとしていっらしゃる。
 良房の大臣と申し上げた方の、昔の例に倣って、白馬を牽き、節会の日は、宮中の儀式を模して、昔の例よりもいろいろな事を加えて、盛大なご様子である。
 
347  如月の二十日あまり、朱雀院に行幸あり。
 花盛りはまだしきほどなれど、弥生は故宮の御忌月なり。
 とく開けたる桜の色もいとおもしろければ、院にも御用意ことにつくろひ磨かせたまひ、行幸に仕うまつりたまふ上達部、親王たちよりはじめ、心づかひしたまへり。
 
 二月の二十日余りに、朱雀院に行幸がある。
 花盛りはまだのころであるが、三月は故藤壷の宮の御忌月である。
 早く咲いた桜の花の色もたいそう美しいので、院におかれてもお心配りし特にお手入れあそばして、行幸に供奉なさる上達部や親王たちをはじめとして、十分にご用意なさっていた。
 
348  人びとみな、青色に、桜襲を着たまふ。
 帝は、赤色の御衣たてまつれり。
 召しありて、太政大臣参りたまふ。
 おなじ赤色を着たまへれば、いよいよひとつものとかかやきて見えまがはせたまふ。
 人びとの装束、用意、常にことなり。
 院も、いときよらにねびまさらせたまひて、御さまの用意、なまめきたる方に進ませたまへり。
 
 お供の人々は皆、青色の袍に、桜襲をお召しになる。
 帝は、赤色の御衣をお召しあそばされた。
 お召しがあって、太政大臣が参上なさる。
 同じ赤色を着ていらっしゃるので、ますますそっくりで輝くばかりにお美しく見違えるほどとお見えになる。
 人々の装束や、振る舞いも、いつもと違っている。
 院も、たいそうおきれいにお年とともに御立派になられて、御様子や態度が、以前にもまして優雅におなりあそばしていた。
 
 
349  今日は、わざとの文人も召さず、ただその才かしこしと聞こえたる学生十人を召す。
 式部の司の試みの題をなずらへて、御題賜ふ。
 大殿の太郎君の試みたまふべきなめり。
 臆だかき者どもは、ものもおぼえず、繋がぬ舟に乗りて池に放れ出でて、いと術なげなり。
 
 今日は、専門の文人もお呼びにならず、ただ漢詩を作る才能の高いという評判のある学生十人をお呼びになる。
 式部省の試験の題になぞらえて、勅題を賜る。
 大殿のご長男の試験をお受けなさるようである。
 臆しがちな者たちは、ぼおっとしてしまって、繋いでない舟に乗って、池に一人一人漕ぎ出して、実に途方に暮れているようである。
 
350  日やうやうくだりて、楽の舟ども漕ぎまひて、調子ども奏するほどの、山風の響きおもしろく吹きあはせたるに、冠者の君は、  日がだんだんと傾いてきて、音楽の舟が幾隻も漕ぎ廻って、調子を整える時に、山風の響きがおもしろく吹き合わせているので、冠者の君は、
351  「かう苦しき道ならでも交じらひ遊びぬべきものを」  「こんなにつらい修業をしなくても皆と一緒に音楽を楽しめたりできるはずのものを」
352  と、世の中恨めしうおぼえたまひけり。
 
 と、世の中を恨めしく思っていらっしゃった。
 
353  「春鴬囀」舞ふほどに、昔の花の宴のほど思し出でて、院の帝も、  「春鴬囀」を舞うときに、昔の花の宴の時をお思い出しになって、院の帝が、
354  「また、さばかりのこと見てむや」  「もう一度、あれの程が見られるだろうか」
355  とのたまはするにつけて、その世のことあはれに思し続けらる。
 舞ひ果つるほどに、大臣、院に御土器参りたまふ。
 
 と仰せられるにつけても、その当時のことがしみじみと次々とお思い出されなさる。
 舞い終わるころに、太政大臣が、院にお杯を差し上げなさる。
 
 

332
 「鴬の さへづる声は 昔にて
 睦れし花の 蔭ぞ変はれる」
 「鴬の囀る声は昔のままですが
  馴れ親しんだあの頃とはすっかり時勢が変わってしまいました」
 
356  院の上、  院の上は、

333
 「九重を 霞隔つる すみかにも
 春と告げくる 鴬の声」
 「宮中から遠く離れた仙洞御所にも
  春が来たと鴬の声が聞こえてきます」
 
357  帥の宮と聞こえし、今は兵部卿にて、今の上に御土器参りたまふ。
 
 帥宮と申し上げた方は、今では兵部卿となって、今上帝にお杯を差し上げなさる。
 
 

334
 「いにしへを 吹き伝へたる 笛竹に
 さへづる鳥の 音さへ変はらぬ」
 「昔の音色そのままの笛の音に
  さらに鴬の囀る声までもちっとも変わっていません」
 
358  あざやかに奏しなしたまへる、用意ことにめでたし。
 取らせたまひて、
 巧みにその場をおとりなしなさった、心づかいは特に立派である。
 杯をお取りあそばして、
 

335
 「鴬の 昔を恋ひて さへづるは
 木伝ふ花の 色やあせたる」
 「鴬が昔を慕って木から木へと飛び移って囀っていますのは
  今の木の花の色が悪くなっているからでしょうか」
 
359  とのたまはする御ありさま、こよなくゆゑゆゑしくおはします。
 これは御私ざまに、うちうちのことなれば、あまたにも流れずやなりにけむ、また書き落してけるにやあらむ。
 
 と仰せになる御様子、この上なく奥ゆかしくいらっしゃる。
 このお杯事は、お身内だけのことなので、多数の方には杯が回らなかったのであろうか、または書き洩らしたのであろうか。
 
360  楽所遠くておぼつかなければ、御前に御琴ども召す。
 兵部卿宮、琵琶。
 内大臣、和琴。
 箏の御琴、院の御前に参りて、琴は、例の太政大臣に賜はりたまふ。
 せめきこえたまふ。
 さるいみじき上手のすぐれたる御手づかひどもの、尽くしたまへる音は、たとへむかたなし。
 唱歌の殿上人あまたさぶらふ。
 「安名尊」遊びて、次に「桜人」。
 
 楽所が遠くてはっきり聞こえないので、御前にお琴をお召しになる。
 兵部卿宮は、琵琶。
 内大臣は和琴。
 箏のお琴は、院のお前に差し上げて、琴の琴は、例によって太政大臣が頂戴なさる。
 お勧め申し上げなさる。
 このような素晴らしい方たちによる優れた演奏で、秘術を尽くした楽の音色は、何ともたとえようがない。
 唱歌の殿上人が多数伺候している。
 「安名尊」を演奏して、次に「桜人」。
 
 
361  月おぼろにさし出でてをかしきほどに、中島のわたりに、ここかしこ篝火ども灯して、大御遊びはやみぬ。
 
 月が朧ろにさし出して美しいころに、中島のあたりにあちこちに篝火をいくつも灯して、この御遊は終わった。
 
 
 

第二段 弘徽殿大后を見舞う

 
362  夜更けぬれど、かかるついでに、大后の宮おはします方を、よきて訪らひきこえさせたまはざらむも、情けなければ、帰さに渡らせたまふ。
 大臣もろともにさぶらひたまふ。
 
 夜は更けてしまったが、このような機会に、太后宮のいらっしゃる方を、避けてお伺い申し上げなさらないのも、思いやりがないので、帰りにお立ち寄りになる。
 大臣もご一緒に伺候なさる。
 
363  后待ち喜びたまひて、御対面あり。
 いといたうさだ過ぎたまひにける御けはひにも、故宮を思ひ出できこえたまひて、「かく長くおはしますたぐひもおはしけるものを」と、口惜しう思ほす。
 
 大后宮はお待ち喜びになって、ご面会なさる。
 とてもたいそうお年を召されたご様子にも、故宮をお思い出し申されて、「こんなに長生きされる方もいらっしゃるものを」と、残念にお思いになる。
 
364  「今はかく古りぬる齢に、よろづのこと忘られはべりにけるを、いとかたじけなく渡りおはしまいたるになむ、さらに昔の御世のこと思ひ出でられはべる」  「今ではこのように年を取って、すべての事柄を忘れてしまっておりましたが、まことに畏れ多くもお越し戴きましたので、改めて昔の御代のことが思い出されます」
365  と、うち泣きたまふ。
 
と、お泣きになる。
 
 
366  「さるべき御蔭どもに後れはべりてのち、春のけぢめも思うたまへわかれぬを、今日なむ慰めはべりぬる。
 またまたも」
 「頼りになるはずの人々に先立たれて後、春になった気分も知らないでいましたが、今日初めて心慰めることができました。
 時々はお伺い致します」
367  と聞こえたまふ。
 大臣もさるべきさまに聞こえて、
 と御挨拶申し上げあそばす。
 太政大臣もしかるべくご挨拶なさって、
368  「ことさらにさぶらひてなむ」  「また改めてお伺い致しましょう」
369  と聞こえたまふ。
 
 と、申し上げなさる。
 
370  のどやかならで帰らせたまふ響きにも、后は、なほ胸うち騒ぎて、  ゆっくりなさらずにお帰りあそばすご威勢につけても、大后は、やはりお胸が静まらず、
371  「いかに思し出づらむ。
 世をたもちたまふべき御宿世は、消たれぬものにこそ」
 「どのように思い出していられるのだろう。
 結局、政権をお執りになるというご運勢は、押しつぶせなかったのだ」
372  と、いにしへを悔い思す。
 
 と昔を後悔なさる。
 
 
373  尚侍の君も、のどやかに思し出づるに、あはれなること多かり。
 今もさるべき折、風のつてにもほのめききこえたまふこと絶えざるべし。
 
 尚侍の君も、ゆったりした気分でお思い出しになると、しみじと感慨無量な事が多かった。
 今でも適当な機会に、何かの伝で密かに便りを差し上げなさることがあるのであろう。
 
374  后は、朝廷に奏せさせたまふことある時々ぞ、御たうばりの年官年爵、何くれのことに触れつつ、御心にかなはぬ時ぞ、「命長くてかかる世の末を見ること」と、取り返さまほしう、よろづ思しむつかりける。
 
 大后は朝廷に奏上なさることのある時々に、御下賜された年官や年爵、何かにつけながら、ご意向に添わない時には、「長生きをしてこんな酷い目に遭うとは」と、もう一度昔の御代に取り戻したく、いろいろとご機嫌悪がっているのであった。
 
375  老いもておはするままに、さがなさもまさりて、院もくらべ苦しう、たとへがたくぞ思ひきこえたまひける。
 
 年を取っていかれるにつれて、意地の悪さも加わって、院ももてあまして、例えようもなくお思い申し上げていらっしゃるのだった。
 
 
376  かくて、大学の君、その日の文うつくしう作りたまひて、進士になりたまひぬ。
 年積もれるかしこき者どもを選らばせたまひしかど、及第の人、わづかに三人なむありける。
 
 さて、大学の君は、その日の漢詩を見事にお作りになって、進士におなりになった。
 長い年月修業した優れた者たちをお選びになったが、及第した人は、わずかに三人だけであった。
 
377  秋の司召に、かうぶり得て、侍従になりたまひぬ。
 かの人の御こと、忘るる世なけれど、大臣の切にまもりきこえたまふもつらければ、わりなくてなども対面したまはず。
 御消息ばかり、さりぬべきたよりに聞こえたまひて、かたみに心苦しき御仲なり。
 
 秋の司召に、五位に叙されて、侍従におなりになった。
 あの人のことを、忘れる時はないが、内大臣が熱心に監視申していらっしゃるのも恨めしいので、無理をしてまでもお目にかかることはなさらない。
 ただお手紙だけを適当な機会に差し上げて、お互いに気の毒なお仲である。
 
 
 

第三段 源氏、六条院造営を企図す

 
378  大殿、静かなる御住まひを、同じくは広く見どころありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、集へ住ませむの御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御古き宮のほとりを、四町をこめて造らせたまふ。
 
 大殿は、静かなお住まいを、同じことなら広く立派にして、あちこちに別居して気がかりな山里人などをも、集め住まわせようとのお考えで、六条京極の辺りに、中宮の御旧居の近辺を、四町をいっぱいにお造りになる。
 
379  式部卿宮、明けむ年ぞ五十になりたまひける御賀のこと、対の上思しまうくるに、大臣も、「げに、過ぐしがたきことどもなり」と思して、「さやうの御いそぎも、同じくめづらしからむ御家居にて」と、いそがせたまふ。
 
 式部卿宮が、明年五十歳におなりになる御賀のことを、対の上がお考えなので、大臣も、「なるほど、見過ごすわけにはいかない」とお思いになって、「そのようなご準備も、同じことなら新しい邸で」と、用意させなさる。
 
380  年返りて、ましてこの御いそぎのこと、御としみのこと、楽人、舞人の定めなどを、御心に入れていとなみたまふ。
 経、仏、法事の日の装束、禄などをなむ、上はいそがせたまひける。
 
 年が改まってからは、昨年以上にこのご準備の事、御精進落としの事、楽人、舞人の選定などを、熱心に準備させなさる。
 経、仏像、法事の日の装束、禄などを、対の上はご準備なさるのだった。
 
381  東の院に、分けてしたまふことどもあり。
 御なからひ、ましていとみやびかに聞こえ交はしてなむ、過ぐしたまひける。
 
 東の院で、分担してご準備なさることがある。
 ご間柄は、いままで以上にとても優美にお手紙のやりとりをなさって、お過ごしになっているのであった。
 
 
382  世の中響きゆすれる御いそぎなるを、式部卿宮にも聞こしめして、  世間中が大騒ぎしているご準備なので、式部卿宮のお耳にも入って、
383  「年ごろ、世の中にはあまねき御心なれど、このわたりをばあやにくに情けなく、事に触れてはしたなめ、宮人をも御用意なく、愁はしきことのみ多かるに、つらしと思ひ置きたまふことこそはありけめ」  「長年の間、世間に対しては広大なお心であるが、わたくしどもには理不尽にも冷たくて、何かにつけて辱め、宮人に対してもお心配りがなく、嫌なことばかり多かったのだが、恨めしいと思うことがあったのだろう」
384  と、いとほしくもからくも思しけるを、かくあまたかかづらひたまへる人びと多かるなかに、取りわきたる御思ひすぐれて、世に心にくくめでたきことに、思ひかしづかれたまへる御宿世をぞ、わが家まではにほひ来ねど、面目に思すに、また、  と、お気の毒にもまたつらくもお思いであったが、このように数多くの女性関係の中で、特別のご寵愛があって、まことに奥ゆかしく結構な方として、大切にされていらっしゃるご運命を、自分の家までは及んで来ないが、名誉にお思いになると、また、
385  「かくこの世にあまるまで、響かし営みたまふは、おぼえぬ齢の末の栄えにもあるべきかな」  「このように世間の評判となるまで、大騒ぎしてご準備なさるのは、思いがけない晩年の慶事だ」
386  と喜びたまふを、北の方は、「心ゆかず、ものし」とのみ思したり。
 女御、御まじらひのほどなどにも、大臣の御用意なきやうなるを、いよいよ恨めしと思ひしみたまへるなるべし。
 
 と、お喜びになるのを、北の方は、「おもしろくなく、不愉快だ」とばかりお思いであった。
 王女御の、ご入内の折などにも、大臣のご配慮がなかったようなのを、ますます恨めしいと思い込んでいらっしゃるのであろう。
 
 
 

第四段 秋八月に六条院完成

 
387  八月にぞ、六条院造り果てて渡りたまふ。
 未申の町は、中宮の御古宮なれば、やがておはしますべし。
 辰巳は、殿のおはすべき町なり。
 丑寅は、東の院に住みたまふ対の御方、戌亥の町は、明石の御方と思しおきてさせたまへり。
 もとありける池山をも、便なき所なるをば崩し変へて、水の趣き、山のおきてを改めて、さまざまに、御方々の御願ひの心ばへを造らせたまへり。
 
 八月に、六条院が完成してお引っ越しなさる。
 未申の町は中宮の御旧邸なので、そのままお住まいになる予定である。
 辰巳は、殿のいらっしゃる予定の区画である。
 丑寅は、東の院にいらっしゃる対の御方、戌亥の区画は、明石の御方とお考えになって造営なさった。
 もとからあった池や山を、不都合な所にあるものは造り変えて、水の情緒や、山の風情を改めて、いろいろと、それぞれの御方々のご希望どおりにお造りになった。
 
388  南の東は、山高く、春の花の木、数を尽くして植ゑ、池のさまおもしろくすぐれて、御前近き前栽、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などやうの、春のもてあそびをわざとは植ゑで、秋の前栽をば、むらむらほのかに混ぜたり。
 
 東南の町は、山を高く築き、春の花の木を、無数に植えて、池の様子も趣深く優れていて、お庭先の前栽には、五葉の松、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などといった、春の楽しみをことさらには植えないで、秋の前栽を、ひとむらずつ混ぜてあった。
 
389  中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色濃かるべき植木どもを添へて、泉の水遠く澄ましやり、水の音まさるべき巌立て加へ、滝落として、秋の野をはるかに作りたる、そのころにあひて、盛りに咲き乱れたり。
 嵯峨の大堰のわたりの野山、無徳にけおされたる秋なり。
 
 中宮の御町は、もとからある山に、紅葉の色の濃い植木を幾本も植えて、泉の水を清らかに遠くまで流して、遣水の音がきわだつように岩を立て加え、滝を落として、秋の野を広々と作ってあるが、折柄ちょうどその季節で、盛んに咲き乱れていた。
 嵯峨の大堰あたりの野山も、見るかげもなく圧倒された今年の秋である。
 
 
390  北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。
 前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、苦丹などやうの花、草々を植ゑて、春秋の木草、そのなかにうち混ぜたり。
 東面は、分けて馬場の御殿作り、埒結ひて、五月の御遊び所にて、水のほとりに菖蒲植ゑ茂らせて、向かひに御厩して、世になき上馬どもをととのへ立てさせたまへり。
 
 北東の町は、涼しそうな泉があって、夏の木蔭を主としていた。
 庭先の前栽には、呉竹があり、下風が涼しく吹くようにし、木高い森のような木は奥深く趣があって、山里めいて、卯花の垣根を特別に造りめぐらして、昔を思い出させる花橘、撫子、薔薇、くたになどといった花や、草々を植えて、春秋の木や草を、その中に混ぜていた。
 東面は、割いて馬場殿を造って、埒を結って、五月の御遊の場所として、水のほとりに菖蒲を植え茂らせて、その向かい側に御厩舎を造って、またとない素晴らしい馬を何頭も繋がせていらっしゃった。
 
391  西の町は、北面築き分けて、御倉町なり。
 隔ての垣に松の木茂く、雪をもてあそばむたよりによせたり。
 冬のはじめの朝、霜むすぶべき菊の籬、われは顔なる柞原、をさをさ名も知らぬ深山木どもの、木深きなどを移し植ゑたり。
 
 西北の町は、北面は築地で区切って、御倉町である。
 隔ての垣として松の木をたくさん植えて、雪を鑑賞するのに都合よくしてある。
 冬の初めの朝、霜が結ぶように菊の籬、得意げに紅葉する柞の原、ほとんど名も知らない深山木などの、木深く茂っているのを移植してあった。
 
 
 

第五段 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる

 
392  彼岸のころほひ渡りたまふ。
 ひとたびにと定めさせたまひしかど、騒がしきやうなりとて、中宮はすこし延べさせたまふ。
 例のおいらかにけしきばまぬ花散里ぞ、その夜、添ひて移ろひたまふ。
 
 彼岸のころにお引っ越しになる。
 一度にとお決めあそばしたが、仰々しいようだといって、中宮は少しお延ばしになる。
 いつものようにおとなしく気取らない花散里は、その夜、一緒にお引っ越しなさる。
 
393  春の御しつらひは、このころに合はねど、いと心ことなり。
 御車十五、御前四位五位がちにて、六位殿上人などは、さるべき限りを選らせたまへり。
 こちたきほどにはあらず、世のそしりもやと省きたまへれば、何事もおどろおどろしういかめしきことはなし。
 
 春のお庭は、今の秋の季節には合わないが、とても見事である。
 お車十五台、御前駆は四位五位の人々が多く、六位の殿上人などは、特別な人だけをお選びあそばしていた。
 仰々しくはなく、世間の非難があってはと簡略になさっていたので、どのような点につけても大仰に威勢を張ることはない。
 
 
394  今一方の御けしきも、をさをさ落としたまはで、侍従君添ひて、そなたはもてかしづきたまへば、げにかうもあるべきことなりけりと見えたり。
 
 もうお一方のご様子も、大して劣らないようになさって、侍従の君が付き添って、そちらはお世話なさっているので、なるほどこういうこともあるのであったと見受けられた。
 
395  女房の曹司町ども、当て当てのこまけぞ、おほかたのことよりもめでたかりける。
 
 女房たちの曹司町も、それぞれに細かく当ててあったのが、他の何よりも素晴らしく思われるのであった。
 
396  五、六日過ぎて、中宮まかでさせたまふ。
 この御けしきはた、さは言へど、いと所狭し。
 御幸ひのすぐれたまへりけるをばさるものにて、御ありさまの心にくく重りかにおはしませば、世に重く思はれたまへること、すぐれてなむおはしましける。
 
 五、六日過ぎて、中宮が御退出あそばす。
 その御様子はそれは、簡略とはいっても、まことに大層なものである。
 御幸運の素晴らしいことは申すまでもなく、お人柄が奥ゆかしく重々しくいらっしゃるので、世間から重んじられていらっしゃることは、格別でおいであそばした。
 
397  この町々の中の隔てには、塀ども廊などを、とかく行き通はして、気近くをかしきあはひにしなしたまへり。
 
 この町々の間の仕切りには、塀や廊などを、あちらとこちらとが行き来できるように作って、お互いに親しく風雅な間柄にお造りになってあった。
 
 
 

第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答

 
398  長月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。
 風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、こなたにたてまつらせたまへり。
 
 九月になると、紅葉があちこちに色づいて、中宮のお庭先は何ともいえないほど素晴らしい。
 風がさっと吹いた夕暮に、御箱の蓋に、色とりどりの花や紅葉をとり混ぜて、こちらに差し上げになさった。
 
399  大きやかなる童女の、濃き衵、紫苑の織物重ねて、赤朽葉の羅の汗衫、いといたうなれて、廊、渡殿の反橋を渡りて参る。
 うるはしき儀式なれど、童女のをかしきをなむ、え思し捨てざりける。
 さる所にさぶらひなれたれば、もてなし、ありさま、他のには似ず、このましうをかし。
 御消息には、
 大柄な童女が、濃い紫の袙に、紫苑の織物を重ねて、赤朽葉の羅の汗衫、とてももの馴れた感じで、廊や、渡殿の反橋を渡って参上する。
 格式高い礼儀作法であるが、童女の容姿の美しいのを捨てがたくてお選びになったのであった。
 そのようなお所に伺候し馴れていたので、立居振舞、姿つき、他家の童女とは違って、好感がもてて風情がある。
 お手紙には、
 

336
 「心から 春まつ園は わが宿の
 紅葉を風の つてにだに見よ」
 「お好みで春をお待ちのお庭では、せめてわたしの方の
  紅葉を風のたよりにでも御覧あそばせ」
 
400  若き人びと、御使もてはやすさまどもをかし。
 
 若い女房たちが、お使いを歓待する様子は風雅である。
 
401  御返りは、この御箱の蓋に苔敷き、巌などの心ばへして、五葉の枝に、  お返事には、この御箱の蓋に苔を敷き、巌などの感じを出して、五葉の松の枝に、
 

337
 「風に散る 紅葉は軽し 春の色を
 岩根の松に かけてこそ見め」
 「風に散ってしまう紅葉は心軽いものです、春の変わらない色を
  この岩にどっしりと根をはった松の常磐の緑を御覧になってほしいものです」
 
402  この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬ作りごとどもなりけり。
 とりあへず思ひ寄りたまひつるゆゑゆゑしさなどを、をかしく御覧ず。
 御前なる人びともめであへり。
 大臣、
 この岩根の松も、よく見ると、素晴らしい造り物なのであった。
 このようにとっさに思いつきなさった趣向のよさを、感心して御覧あそばす。
 御前に伺候している女房たちも褒め合っていた。
 大臣は、
403  「この紅葉の御消息、いとねたげなめり。
 春の花盛りに、この御応へは聞こえたまへ。
 このころ紅葉を言ひ朽さむは、龍田姫の思はむこともあるを、さし退きて、花の蔭に立ち隠れてこそ、強きことは出で来め」
 「この紅葉のお手紙は、何とも憎らしいですね。
 春の花盛りに、このお返事は差し上げなさい。
 この季節に紅葉を貶すのは、龍田姫がどう思うかということもあるので、ここは一歩退いて、花を楯にとって、強いことも言ったらよいでしょう」
404  と聞こえたまふも、いと若やかに尽きせぬ御ありさまの見どころ多かるに、いとど思ふやうなる御住まひにて、聞こえ通はしたまふ。
 
 と申し上げなさるのも、とても若々しくどこまでも素晴らしいお姿で魅力にあふれていらっしゃる上に、いっそう理想的なお邸で、お手紙のやりとりをなさる。
 
405  大堰の御方は、「かう方々の御移ろひ定まりて、数ならぬ人は、いつとなく紛らはさむ」と思して、神無月になむ渡りたまひける。
 御しつらひ、ことのありさま劣らずして、渡したてまつりたまふ。
 姫君の御ためを思せば、おほかたの作法も、けぢめこよなからず、いとものものしくもてなさせたまへり。
 
 大堰の御方は、「このように御方々のお引っ越しが終わってから、人数にも入らない者は、いつか分からないようにこっそりと移ろう」とお考えになって、神無月にお引っ越しになるのであった。
 お部屋の飾りや、お引っ越しの次第は他の方々に劣らないようにして、お移し申し上げなさる。
 姫君のご将来をお考えになると、万事についての作法も、ひどく差をつけず、たいそう重々しくお扱いなさった。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬となる(古今集雑下-九三三 読人しらず)(戻)  
  出典2 康家貧無油 常映雪読書--、車胤--家貧不常得油 夏月則練嚢盛数十蛍火 以照書(蒙求-孫康映雪 車胤聚蛍)(戻)  
  出典3 秋はなほ夕まぐれこそただならね荻の上風萩の下露(和漢朗詠-二二九 藤原義孝)(戻)  
  出典4 落葉俟微風以隕 而風之力蓋寡(文選巻四六-豪士賦序)(戻)  
  出典5 孟嘗遭雍門而泣 琴之感以未(文選巻四六-豪士賦序)(戻)  
  出典6 更衣せむや さきむだちや 我が衣は 野原篠原 萩が花摺りや さきむだちや(催馬楽-更衣)(戻)  
  出典7 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)  
  出典8 風生竹夜窓間臥 月照平沙夏夜霜(和漢朗詠-一五一 白居易)(戻)  
  出典9 霧深く雲居の雁も我がことや晴れせずものは悲しかるらむ(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典10 吹きよれば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな(古今六帖一-四二三)(戻)  
  出典11 みてぐらは我がにはあらず天にます豊岡姫の宮のみてぐら(拾遺集神祇-五七九)(戻)  
  出典12 乙女子が袖振る山の瑞垣の久しき世より思ひそめてき(拾遺集雑恋-一二一〇 柿本人麿)(戻)  
  出典13 み熊野の浦の浜木綿百重なる心は思へどただに逢はぬかも(拾遺集恋一-六六八 柿本人麿)(戻)  
  出典14 あな尊と 今日の尊とさ や いにしへも はれ かくやありけむ や 今日の尊とさ あはれそこよしや 今日の尊とさ(催馬楽-あな尊と)(戻)  
  出典15 桜人 その舟止め 島つ田を 十町作れる 見て帰り来むや そよや 明日帰り来む そよや 言をこそ 明日とも言はめ 遠方に 妻ざる夫は 明日さね来じや そよや さ明日もさね来じや そよや(催馬楽-桜人)(戻)  
  出典16 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今集夏-一三九 読人しらず)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 心地よげ--心ちよ(よ/$よ)け(戻)  
  校訂2 思さざる--おほさ(さ/+さ)る(戻)  
  校訂3 やむごとなき--(/+やむこと<朱>)なき(戻)  
  校訂4 顔どもも--かほともの(の/$も<朱>)(戻)  
  校訂5 けうさうし--け(け/+う)さうし(戻)  
  校訂6 御は--御わ(わ/$は<朱>)(戻)  
  校訂7 たまへれば--給つ(つ/$へ<朱>)れは(戻)  
  校訂8 試みさせ--試(試/+させ)(戻)  
  校訂9 さま--さ(さ/$さ<朱>)ま(戻)  
  校訂10 残りたる--のこりたる人(人/$<朱>)(戻)  
  校訂11 譲り--ゆへ(へ/$つ<朱>)り(戻)  
  校訂12 世の中--よの(よの/$<朱>)よのなか(戻)  
  校訂13 きらきらしく--きゝく(ゝく/$ら/\<朱>)しく(戻)  
  校訂14 とて--(/+とて<朱>)(戻)  
  校訂15 けざやかに--けさやにゝ(にゝ/$かに<朱>)(戻)  
  校訂16 御後見どもも--御うしろみとも(も/+も)(戻)  
  校訂17 とのたまへど--の給へは(は/$と)(戻)  
  校訂18 思ひたまへしか--*思給しか(戻)  
  校訂19 たまへらむ--給つ(つ/$へ<朱>)らん(戻)  
  校訂20 止むやう--やむ(む/+やう<朱>)(戻)  
  校訂21 恥ぢらひて--はちち(ち/$ら<朱>)ひて(戻)  
  校訂22 冠者の君--火さ(火さ/$冠者)の君(戻)  
  校訂23 籠もり--こもる(る/$り<朱>)(戻)  
  校訂24 御殿油--御となふゝ(ゝ/$ら<朱>)(戻)  
  校訂25 たまひつ--給さ(さ/$つ<朱>)(戻)  
  校訂26 つらき--つゝ(ゝ/$ら<朱>)き(戻)  
  校訂27 おぼえ--(/+おほえ<朱>)(戻)  
  校訂28 こそ--に(に/$こ)そ(戻)  
  校訂29 思す--おほと(と/$す<朱>)(戻)  
  校訂30 たまふは--給はて(て/$<朱>)(戻)  
  校訂31 さまに--さま(ま/+に)(戻)  
  校訂32 心知れる--(/+心)しれる(戻)  
  校訂33 何心--なに(に/+心)(戻)  
  校訂34 たまへれ--給つ(つ/$へ<朱>)れ(戻)  
  校訂35 心幼く--心おさな/\(/\/$く<朱>)(戻)  
  校訂36 いと--(/+いと<朱>)(戻)  
  校訂37 一昨年--(/+おと)とし(戻)  
  校訂38 なされ--なされ(なされ/$<朱>)なされ(戻)  
  校訂39 是非--せ(せ/=いイ)ひ(戻)  
  校訂40 独りごち--ひとりう(う/$こ)ち(戻)  
  校訂41 思ひ--おもひて(て/$<朱>)(戻)  
  校訂42 こととも--こと(と/+と)も(戻)  
  校訂43 主上に--うへと(と/$に<朱>)(戻)  
  校訂44 心ゆるび--*心ゆるゐ(戻)  
  校訂45 ことよ--ことに(に/$よ<朱>)(戻)  
  校訂46 ここ--こえ(え/$こ<朱>)(戻)  
  校訂47 渡りて--わたり(り/+て<朱>)(戻)  
  校訂48 渡らせ--わた(た/+ら)せ(戻)  
  校訂49 たまふに--給に(に/$と<朱>)(戻)  
  校訂50 対面--こ(こ/$た<朱>)いめむ(戻)  
  校訂51 御前駆--御ま(ま/$さ<朱>)き(戻)  
  校訂52 憂かり--うか(うか/$うか<朱>)り(戻)  
  校訂53 尋ね来て--たつねき(き/$<朱>)きて(戻)  
  校訂54 はた--はた(はた/$はた<朱>)(戻)  
  校訂55 さすべく--さすへし(し/く)(戻)  
  校訂56 浅葱の心やましければ、内裏へ参ることもせず--(/+あさきの心やましやましけれはうちへまいる事もせす<朱>)(戻)  
  校訂57 及ぶ--思(思/$およ<朱>)ふ(戻)  
  校訂58 咎めあり--とかめ(め/+あり<朱>)(戻)  
  校訂59 たまひに--給る(る/$<朱>)に(戻)  
  校訂60 たまふるに--給ふな(な/$る<朱>)に(戻)  
  校訂61 たる--たか(か/$る<朱>)(戻)  
  校訂62 男は--おとこ(こ/+は<朱>)(戻)  
  校訂63 生ひ先--おいま(ま/$さ<朱>)き(戻)  
  校訂64 さまども--さまに(に/$と)も(戻)  
  校訂65 見れば--見れ(れ/+は<朱>)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。