平家物語 巻第六 廻文:概要と原文

小督 平家物語
巻第六
廻文
めぐらしぶみ
飛脚到来

〔概要〕
 
 清盛(62歳)は高倉上皇崩御で落ち込む後白河法皇(57歳)を慰めようと厳島の自らの娘(17歳)を側に参らせたが、人々は、崩御後27日すら過ぎないのにこのようなことはすべきでないとささやきあった。

 

 その頃、信濃に木曽義仲(源義仲)の名が聞こえ始める。義仲は父が討たれて母は泣く泣くその養育を木曽の兼遠に託し、比類ない剛勇に育つ。二十余年がたった頃、義仲は頼朝の蜂起の様子を受け頼朝と並ぶ将軍になる意を兼遠に示したところ、兼遠は大いに畏まり、それでこそ八幡の御子孫と喜んだ。というのも義仲は13歳の元服の際、石清水八幡宮(京都府八幡市)に参り木曽次郎義仲と称したからである。二人は共に京へ行って平家の様子を観察し、打倒の機をうかがった。

 そうして兼遠はまず廻文(回覧板)をと、決起状を回すと、信濃の兵は(兼遠のよしみで)皆従い、上野の兵は義仲の父(源義賢)のよしみで皆付き従った。みな平家の世も末と見て、源氏年来の本懐を遂げようとしたのだった。

 

 ※前段の話は単に喪が明けていない(まだ高倉院はあの世に行っていない)という意味だけでなく、葵前の章で高倉帝の言った世の誹りとして解すべきもの。27日とは法要の日数を17歳に掛けて女子の低年齢を揶揄。57歳と27歳でも一回り以上下なのにまして17歳(人によっては犯罪と揶揄する年齢差。見方を変えれば親による搾取で、新院崩御から一連の高倉帝の女子説話の流れに真っ向から反する。こういう積み重ねが平家の世も末)。そしてこの一回り二回りから廻文につながる。『玉葉』でこの入内は崩御後12日目とされることも作者の調節を裏付ける。つまり平家の人の評は基本作者の評。娘の年齢は諸本で17~18と前後するが本質には相違ない。なお清盛が信仰した厳島の神は女神とのこと。

 


 
 入道相国は、かやうにいたく情なうあたり申されたりしかども、さすがそら恐ろしうや思はれけん、安芸国厳島の内侍が腹の姫君の、生年十七になり給ふを後白河法皇へ参らせらる。当家他家の公卿多く供奉して、ひとへに女御参りのごとくにてぞありける。
 「上皇隠れさせ給ひて、わづか二七日だに過ぎざるに、然るべからず」とぞ人々囁き合はれける。
 

 さるほどにその頃信濃国に、木曾冠者義仲といふ源氏ありと聞こえけり。故六条判官為義が次男、故帯刀先生義賢が子なり。
 父義賢は、去んぬる久寿二年八月十二日、鎌倉の悪源太義平がために誅せらる。その時義仲二歳なりしを、母かかへて泣く泣く信濃へ越え、木曾中三権守兼遠がもとに行いて、「これいかにもして育てて、人になして見せ給へ」と言ひければ、兼遠請け取つて二十余年までかひがひしう養育す。やうやう長大するままに、力も世に勝れて強く、心も無双剛なりけり。
 「馬の上、歩射、弓矢、打ち物取つてはすべて上古の田村、利仁、余五将軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣といふとも、これにはいかでか勝るべき」とぞ人申しける。
 

 ある時めのとの兼遠を呼うで、「そもそも兵衛佐頼朝は、東八ヶ国を打ちしたがへ、東海道より攻め上り、平家を追ひ落とさんとすなり。義仲も東山、北陸両道をしたがへて、今一日も先に平家を追ひ落とし、例へば、日本国両将軍といはればや」とほのめかしければ、兼遠大きに畏まり喜んで、「その料にこそ、君をばこの二十余年まで養育し奉て候へ。ことにかやうに仰せらるるこそ、八幡殿の御末ともおぼえさせ給へ」とて、やがて謀叛をくはたてけり。
 兼遠に具せられて、常は都へ上り、平家の人々の振舞、有様どもをも見窺ひけり。
 十三の歳、元服しけるにも、八幡へ参り、「我が四代の祖父、義家朝臣は、この御神の御子となつて、八幡太郎と号しき。且つうはその跡を追ふべし」とて、八幡大菩薩の御宝前にして、やがて髻とりあげ、木曾次郎義仲とこそ付きたりけれ。
 

 兼遠、「まづ廻文候ふべし」とて、信濃国には、根井の小野太、滋野行親を語らふに背く事なし。これを始めて信濃一国の兵ども、みな従ひ付きにけり。上野国には、故帯刀先生義賢がよしみによつて、多胡郡の者ども、皆従ひつきにけり。
 平家末になりぬる折を得て、源氏年来の素懐を遂げんとす。
 

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