紫式部日記 1 秋のけはひ入りたつままに 逐語分析

    紫式部日記
第一部
土御門殿邸の秋
五壇の御修法
目次
冒頭
1 秋のけはひ
2 池のわたりの梢ども
3 やうやう凉しき
4 御前にも

 

原文
(黒川本)
現代語訳
(渋谷栄一)
〈適宜当サイトで改め〉
注釈
【渋谷栄一】
〈適宜当サイトで補注〉

1

 秋のけはひ
入りたつままに、
 秋の風情が
現れ立ってくるにつれて、
【秋のけはひ入りたつままに】-寛弘五年(一〇〇八)の秋。一条天皇(二十九歳)の中宮彰子(二十一歳)は出産を控えて七月十六日から里邸(土御門第)に下がっていた。八月に入った頃の様子。
土御門殿のありさま、 土御門邸の様子は、 【土御門殿のありさま】-彰子の父藤原道長(四十三歳)の邸。土御門大路の南、東京極大路の西、南北二町を占める邸宅。
いはむかたなく 何とも言い表わしようもないほどに  
をかし。 趣がある。  

2

池のわたりの梢ども、 池の周辺の梢どもや、  
遣水のほとりの草むら、 遣水のほとりの草むらは、  
おのがじし それぞれに  
色づきわたりつつ、 一面に色づいて、  
大方の空も おしなべて空の様子も  
艷なるに 優美なことに  
もてはやされて、 引き立てられて、  
不断の 不断の  
御読経の声々、 御読経の声々に、  
あはれ しみじみとした情趣が  
まさりけり。 深まっていった。  

3

やうやう凉しき だんだんと凉しくなっていく  
風のけはひに、 風の感じにつけても、 【風のけはひ】-底本「風の気色」。
『全注釈』『集成』『新大系』『新編全集』『学術文庫』は逸文『日記切』『栄花物語』に従って「風のけはひ」と訂正する。
例の絶えせぬ いつもの絶え間のない  
水の音なひ、 遣水の音が、  
夜もすがら それに一晩中  
聞きまがはさる。 混じり合って聞こえてくる。  

4

 御前にも、  中宮の御前においても、 【御前にも】-中宮彰子、この年二十一歳。道長の長女彰子が一条天皇に入内したのは長保元年(九九九)十一月、それから九年後のこと。紫式部の中宮彰子への出仕は寛弘三年(一〇〇六)十二月二十九日(寛弘元年また二年説もある)。
近うさぶらふ人びと 側近くお仕えする女房たちが  
はかなき物語するを とりとめのない話をしているのを  
きこしめしつつ、 お聞きあそばしながら、  
悩ましうおはします 〈煩わし〉そうでいらっしゃる

△大儀

〈このあと、出産直前に「口々聞こえさするに、例よりも悩ましき御けしきにおはしませば」とあり、体調もある〉

べかめるを、 らしいのに、  
さりげなく 〈それをさりげなく〉 △平静をよそおって
もて隠させたまへる お隠しあそばしていらっしゃる  
御ありさまなどの、 ご様子などが、  
いと
さらなる事
まことに
〈今さらで世にありふれた事〉

〈さらなり:今さらだ。言うまでもなくもちろん〉

×今さらお誉め申し上げるまでもないこと〈通説同旨。中宮のすばらしさ(新大系)、お心深い姿…お称えする(全集)、改めて讃嘆することがいかにも今更らしくて申すにもおこがましいが(全注釈)。
 しかし女の世界を忠臣蔵目線で見るのは違う。そういうお仕着せがジェンダーギャップほぼインド国の認識の限界。女心の理解が悉く家父長目線で涙涙の忠臣蔵。道長の露の解釈も。紫式部にとって彰子は娘同然の年。作品冒頭のこの描写だけで褒めているかは今さらでは全くないし、続いて褒める内容とは端的に逆接(なれど)だから通説の解釈は論理的根拠がない。

 まして紫式部は批判的性格、かつ道長への忠義で出仕した訳でなく、文才を買われたからで、むしろ面倒と思っている。それに完璧に沿った以降の文脈でもある〉

なれど、 だが、  
憂き世の
慰めには、
嫌なこの世の
心の慰めには、
 
かかる御前をこそ、 このようなお方を、  
尋ね参る 探し出してでもお仕え  
べかりけれと、 すべきであったのだと、  
現し心をば ふだんの考えとは  
ひき違へ、 うって変わって、  
たとしへなく たとえようもなく  
よろづ
忘らるるも、
すべての憂えが
自然と忘れられるのも、
 
かつはあやし。 一方では不思議である。  

 

【忘らるるも】-底本「わすらるにも」。

 格助詞および接続助詞「に」は連体形に接続する。よって「忘ら」(未然形)+自発助動詞「る」(下二型活用の終止形)は語法的に適切ではない。

『全注釈』『新大系』『新編全集』『全訳注』は逸文『日記切』に従って「忘らるるも」と連体形の本文に訂正する。ただ『集成』は「わすらるるにも」と訂正する。

 四段動詞「忘ら」(未然形)+自発助動詞「るる」(連体形)+「も」(接続助詞)。 「忘る」(四段活用)について、『小学館古語大辞典』に「上代東国には「わする」に四段活用と下二段活用とがあり、それらは意志的・能動的見地と自然的見地というような意味の区別がある事実から、更に古くは四段活用のみがあって、下二段活用はそれに受動態を表す接尾語が加わり融合したものであろうという(有坂秀世)。中央語では、四段活用が「わすらゆ」「わすらす」などの一部分の慣用形態を残して後退し、下二段活用の意味領域が広くなっている。意思を越えて記憶が消滅する状態と、記憶がなくなった状態を意志的に求める行為と、両方を区別なく表す。一方、「わすらゆ」は受動態をつくるため「わする」の下二段活用と近くなり、活用の新古とみられるに至ったのであろう。なお、両活用の関係は平安時代の事例の説明にも適用できる」(原田芳起「わする」語誌)とあり、『明解古語辞典』では、「忘る」(四段活用)は上代語、ただし未然形「忘ら」だけは「忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」(拾遺集・恋四・右近、百人一首38)のように、助動詞「る」を伴って平安時代以後も用いられた、と説明している。