古事記~八咫烏 原文対訳

高倉下 古事記
中巻①
神武天皇
八咫烏
宇陀の血原
(歌の力)
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
於是亦。
高木大神之命以
覺白之。
 ここにまた
高木の大神の命もちて、
覺さとし白したまはく、
 ここにまた
高木の神の御命令で
お教えになるには、
天神御子。 「天つ神の御子、 「天の神の御子よ、
自此於奧方
莫使入幸。
こよ奧つ方に
な入りたまひそ。
これより奧には
おはいりなさいますな。
荒神甚多。 荒ぶる神いと多さはにあり。 惡い神が澤山おります。
     
今自天。
遣八咫烏。
今天より
八咫烏やたがらすを
遣つかはさむ。
今天から
八咫烏やたがらすを
よこしましよう。
故其八咫烏
引道。
かれその八咫烏
導きなむ。
その八咫烏が
導きするでしようから、
從其立後應幸行。 その立たむ後しりへより幸でまさね」
と、のりたまひき。
その後よりおいでなさい」
とお教え申しました。
高倉下 古事記
中巻①
神武天皇
八咫烏
宇陀の血原
(歌の力)

八咫烏の象徴性

 
 
 八咫烏は神の眷族とされる。
 ただ眷属なら稲荷でもいいがあえてカラス。

 

 カラスの象徴性は、不吉・死。その暗示。
 八をつける動物は、他に八俣大蛇。大蛇の中の剣で眷属。つまり同様の不幸の象徴。権力行使による。
 これが古事記全体の文脈に即し(敵対する相手はすぐ○す)、象徴の素直な理解。
 

 つまり神武を導くと同時に周囲に知らせている。
 行幸と対照させて先行く不幸。その権力行使による。
 それが高木の発言の趣旨。不幸を最小限にするために。
 

 古事記において八咫は鏡につかない。ただの鏡。「八尺勾璁 鏡。及草那藝劔」
 鏡の神はここでの高木(高木大神、タカムスビ。一言主大神。鏡のように振る舞う。高木も還矢で同様)。
 八咫はあくまで烏の枕詞。八咫の鏡というのは、八俣の鏡というくらいない。ちなみに草那藝劔は八俣大蛇の中にあった剣。