平家物語 巻第三 少将都帰:概要と原文

頼豪 平家物語
巻第三
少将都帰
しょうしょう(の)みやこがえり
有王

〔概要〕
 
 治承3年 (1179年) 、平家打倒の陰謀を企てたとされ鹿児島の離島に流罪にされながら皇子安産のために恩赦された藤原成経平康頼は都へ帰った。(以上Wikipedia『平家物語の内容』に加筆)

 


 
 さるほどに今年も暮れぬ、治承も三年になりにけり。
 

 同じき正月下旬に、丹波少将成経、肥前国鹿瀬の庄を立つて、都へとは急がれけれども、余寒なほはげしくて、海上もいたくあれければ、浦伝ひ島伝ひして、如月十日頃にぞ、備前の児島に着き給ふ。それより父大納言の住み給ひける所に尋ね入りて見給へば、竹の柱、ふりたる障子などに、書き置き給へる筆のすさびを見給ひてこそ、「あはれ人の形見には、手跡に過ぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでかこれを見るべき」とて、康頼入道と二人、読うでは泣き、泣いては読む。
 「安元三年七月二十日出家。同じき二十六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ、源左衛門督信俊が参りたりけるとも知られけれ。そばなる壁には、「三尊来迎便りあり、九品往生疑ひなし」とも書かれたり。
 この形見を見給ひてこそ、さすが欣求浄土の望みもおはしけりと、限りなき歎きの中にも、いささか頼もしげには宣ひけれ。
 

 その墓を尋ねて見給へば、松の一村ある中に、かひがひしう壇を築きたる事もなし。土の少し高き所に少将袖かき合はせ、いきたる人に物を申すやうに、泣く泣くかきくどいて申されけるは、「遠き御守りとならせおはしましたる事をば、島にてもかすかに伝へ承り候ひしかども、心に任せぬ憂き身なれば、急ぎ参る事も候はず。成経かの島へ流されて後の頼りなさ、一日片時の命もありがたうこそ候ひしに、さすが露の命は消えやらで二年を送つて、召し返さるる嬉しさは、さることにて候へども、まさしうこの世に渡らせ給ふを見参らせても候はばこそ、命の長きかひも候はめ。これまでは急がれつれども、今より後は急ぐべしともおぼえず」とて、かきくどいてぞ泣かれける。
 まことに存生の時ならば、大納言入道殿こそ、いかにとも宣ふべきに、生を隔てたる習ひほど、恨めしかりける事はなし。苔の下には誰か答ふべき。ただ嵐に騒ぐ松の響きばかりなり。
 

 その夜は康頼入道と二人、墓のめぐりを行道し、明けぬれば新しう壇築き、釘抜きせさせ、前に仮屋作り、七日七夜が間念仏申し経書いて、結願には大きなる卒都婆を立て、「過去聖霊、出離生死、証大菩提」と書いて、年号月日の下には、「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子に過ぎたる宝なし」とて、涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。
 年去り年来たれども、忘れがたきは撫育の昔の恩、夢のごとく幻のごとし。尽くし難きは恋慕の今の涙なり。三世十方の仏陀の聖衆も憐れみ給ひ、亡魂尊霊もいかに嬉しと思しけん。
 「今しばらく念仏の功をも積むべう候へども、都に待つ人どもも心もとなう候ふらん。またこそ参り候はめ」とて、亡者に暇申しつつ、泣く泣くそこをぞ立たれける。草のかげにても名残惜しくや思はれけん。
 

 同じき三月十六日、少将鳥羽へあかうぞ着き給ふ。故大納言殿の山庄、洲浜殿とて鳥羽にあり。住み荒らして年経にければ、築地はあれども蓋もなく、門はあれども扉もなし。庭に立ち入り見給へば、人跡絶えて苔深し。池の辺を見まはせば、秋の山の春風に、白波しきりに折りかけて、紫鴛白鴎逍遥す。興ぜし人の恋しさに、ただ尽きせぬ物は涙なり。家はあれども、らんもん破れ、蔀、遣戸も絶えてなし。
 「ここには大納言殿のとこそおはせしか。この妻戸をばかうこそ出で入り給ひしか。あの木をば、自らこそ植ゑ給ひしか」などいひて、言葉につけても、ただ父の事を恋しげにこそ宣ひけれ。弥生中の六日なれば、花はいまだ名残あり。楊梅桃李の梢こそ、折知り顔に色々なれ。昔の主はなけれども、春を忘れぬ花なれや。
 少将、花の下に立ち寄つて、
 

♪17
 桃李不言春幾暮 煙霞無跡昔誰栖
(桃李言はず春幾くか暮れぬる、煙霞跡無し昔誰か栖みけん) 

 

♪18
 ふるさとの はなのものいふ よなりせば
  いかに昔の 事をとはまし

 
 このふるき詩歌を口ずさみ給へば、康頼入道も、折節あはれにおぼえて、墨染めの袖をぞ濡らしける。暮るるほどとは待たれけれども、あまりに名残惜しくて、夜更くるまでこそおはしけれ。ふけゆくままには、荒れたる宿のならひとて、ふるき軒の板間より、漏る月影ぞくまもなき。鶏籠の山明けなんとすれども、家路はさらに急がれず。
 さてしもあるべき事ならねば、「迎へに乗物ども遣はして待つらんも心なし」とて、少将泣く泣く洲浜殿を出でつつ、都へ帰り入り給ひける。人々の心のうち、さこそはうれしうも、またあはれにもありけめ。康頼入道が迎へにも乗物ありけれども、今さら名残の惜しきにとて、それには乗らず、少将の車の尻に乗つて、七条河原までゆく。それより行き別れけるが、なほ行きもやらざりけり。
 花の下の半日の客、月の前の一夜の友、旅人が一村雨の過ぎゆくに、一樹の陰に立ち寄りて、別るる名残も惜しきぞかし。況んやこれは憂かりし島のすまひ、船の中、波の上、一業所感の身なれば、先世の芳縁も浅からずや思ひ知られけん。
 

 少将は舅平宰相の宿所へ立ち入り給ふ。
 少将の母上、霊山におはしけるが、昨日より宰相の宿所におはして待たれけり。少将の立ち入り給ふ姿を、ただ人目見て、「命あれば」とばかりぞ宣ひける。ひきかづいてぞ臥し給ふ。宰相の内の女房、侍ども差しつどひて、皆喜び泣きをぞしける。まして北の方は、乳母の女房が心中いかばかりか嬉しかりけん。
 六条は尽きぬ物思ひに黒かりし髪も皆白くなり、北の方はさしもはなやかにうつくしうおはせしかども、疲れくろみて、その人とも見え給はず。
 

 少将の流されし時、三歳で別れ給ひし若君、今はおとなしうなつて、髪結ふほどなり。その御そばに、三つばかんなる幼き人のおはしけるを、少将、「あれはいかに」と宣へば、六条、「これこそ」とばかり申して、涙を流しけるにこそ、さては下りし時、心苦しげなる有様を見置きしが、事故なう育ちけるよと、思ひ出でてもかなしかりけり。
 

 少将はもとのごとく院に召しつかはれて、宰相中将にあがり給ふ。
 康頼入道は、東山雙林寺に、我が山庄のありければ、それに落ち着いて、まづかうぞ思ひ続けける。 
 

♪19
 ふるさとの 軒の板間に 苔むして
  思ひしほどは もらぬ月かな

 
 やがてそこに籠居して、憂かりし昔を思ひ続け、宝物集といふ物語を書きけるとぞ聞こえし。
 

頼豪 平家物語
巻第三
少将都帰
しょうしょう(の)みやこがえり
有王