古事記~豊玉姫の出産 原文対訳

兄の下僕化 古事記
上巻 第五部
ホデリとホオリの物語
豊玉姫の出産
八尋和邇
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
於是海神之女。  ここに海わたの神の女  ここに海神の女、
豐玉毘賣命。 豐玉とよたま毘賣の命、 トヨタマ姫の命が
自參出
白之。
みづからまゐ出て
白さく、
御自身で出ておいでになつて
申しますには、
     
妾已
妊身。
「妾あれ
すでに妊めるを、
「わたくしは以前から
姙娠にんしんしておりますが、
今臨產時。 今産こうむ時になりぬ。 今御子を産むべき時になりました。
此念。 こを念ふに、 これを思うに
天神之御子。 天つ神の御子、 天の神の御子を
不可
生海原。
海原に生みまつるべきに
あらず、
海中でお生うみ申し上ぐべきでは
ございませんから
故參出到也。 かれまゐ出きつ」
とまをしき。
出て參りました」
と申し上げました。
     
爾即
於其海邊
波限
ここにすなはち
その海邊の
波限なぎさに、
そこで
その海邊の
波際なぎさに
鵜羽
爲葺草。
鵜の羽を
葺草かやにして、
鵜うの羽を
屋根にして
產殿 産殿うぶやを造りき。 産室を造りましたが、
於是其產殿。 ここにその産殿うぶや、 その産室が
未葺合 いまだ葺き合へねば、 まだ葺き終らないのに、
不忍
御腹之急。
御腹の急ときに
忍あへざりければ、
御子が
生まれそうになりましたから、
故入坐產殿。 産殿に入りましき。 産室におはいりになりました。
     
爾將方產之時。 ここに産みます時にあたりて、 その時
白其日子言。 その日子ひこぢに白して言はく、 夫の君に申されて言うには
凡佗國人者。 「およそ他あだし國の人は、 「すべて他國の者は
臨產時。 産こうむ時になりては、 子を産む時になれば、
以本國之形
產生。
本もとつ國の形になりて
生むなり。
その本國の形になつて
産むのです。
故妾
今以本身爲
產。
かれ、妾も
今本もとの身になりて
産まむとす。
それでわたくしも
もとの身になつて
産もうと思いますが、
願勿見妾。 願はくは妾をな見たまひそ」
とまをしたまひき。
わたくしを御覽遊ばしますな」
と申されました。

 

兄の下僕化 古事記
上巻 第五部
ホデリとホオリの物語
豊玉姫の出産
八尋和邇

解説

 
 
 前段は、先代の木の花サクヤ姫の内容を、ほぼそのまま受けている。
 
 

~佐久夜~    
妾妊身。 「妾あは
妊はらみて、
「わたくしは
姙娠にんしんしまして、
今臨產時。 今産こうむ時になりぬ。 今子を産む時になりました。
是天神之御子。 こは天つ神の御子、 これは天の神の御子ですから、
私不可產。 私ひそかに
産みまつるべきにあらず。
勝手にお生み
申し上あぐべきではございません。
故請。 かれ請まをす」
とまをしたまひき。
そこでこの事を申し上げます」
と申されました。
     
~豊玉~    
妾已
妊身。
「妾あれ
すでに妊めるを、
「わたくしは以前から
姙娠にんしんしておりますが、
今臨產時。 今産こうむ時になりぬ。 今御子を産むべき時になりました。
此念。 こを念ふに、 これを思うに
天神之御子。 天つ神の御子、 天の神の御子を
不可
生海原。
海原に生みまつるべきに
あらず、
海中でお生うみ申し上ぐべきでは
ございませんから
故參出到也。 かれまゐ出きつ」
とまをしき。
出て參りました」
と申し上げました。

 
 
 これは因縁を引き継いでいるという表現。
 サクヤの段の訳では勝手に産めないと解釈しているが違う。一人では産めない、産みようがないという意味(あんたの子)。
 それを受けて、海用がない。
 
 
 子波限とか鵜羽というのが、ホオリの子の名前の由来。詳しい符合は、あえずの命で述べる。
 鵜羽は乳母を用いる意味(豊か。それで豊玉)。

 産殿も、やはりサクヤ出産時の「八尋殿」と掛けている(もちろん八尋和邇とセット)。
 なので一般的な産屋(ほったて)という意味ではない。
 ないのだが、屋根がないので結局立派なほったて。

 

 姿を見ないでというのは、イザナミから続く内容。
 夫婦でも何でも見ていいわけではない。その作法を示している例え話。
 生まれる子が「波限建 鵜葺草 葺不合命(ナギサタケ・ウガヤ・フキアエズの命)」というのは、整えていない途中の状態を見られて会えないという意味。
 
 女性であるため、見ないでと言っていることを、覗かないことは人としてのマナー。
 人には誰にでも知られたくないことがある(プライバシー)。
 それを守れないから動物になっている(投影)。これをどれだけ尊重できるかが、その人の人間性。
 
 この国にはプライバシーに対応する言葉がない。

 それは個々の民の生活を守ることを、建前だけでも最重要(Priority one)とする社会ではないからである。いわゆる全体主義的。
 個々のもつ価値を根本的に理解していないから、組織としての実力も比べるまでもない。
 

 日本の法体系は自由を制約(したいが)できない、そうなっていない、という趣旨の発言が驚くべき理解度をあらわしている。
 その法体系すら自分達で作り出したものではない。いや、苦労して作り出していないからこそ言える。訳もわからず、のっかっているだけ。
 法(決まり)とは何か、何のためあるか、法の精神の理解が全くない。中身は関係ない。書いてしまえば何でも従わせられると思っている(人の支配)。
 それを法治主義といい、治安維持などの名目で濫用されたというのが超基本の答えだが、それすら実際問題が起これば思い出しもされない。つまり無理解。
 日本は法治主義などと誇る時点でこの理解がない。飛鳥時代レベルを誇ってどうする。つまりその時から理の理解が進んでいない。自分達で考えないから。