古事記~猿田毘古神 原文対訳

ニニギの命 古事記
上巻 第五部
ニニギの物語
猿田毘古神
三種の神器
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)

日子番能
邇邇藝命。
 ここに
日子番の
邇邇藝の命、
 ここに
ヒコホノ
ニニギの命が
天降之時。 天降あもりまさむとする時に、 天からお降くだりになろうとする時に、
居天之八衢而。 天の八衢やちまたに居て、 道の眞中まんなかにいて
上光高天原。 上は高天の原を光てらし 上は天を照てらし、
下光葦原中國之神。 下は葦原の中つ國を光らす神 下したは葦原の中心の國を照らす神が
於是有。 ここにあり。 おります。
     
故爾
天照大御神。
かれここに
天照らす大御神
そこで天照らす大神・
高木神之命以。 高木の神の命もちて、 高木の神の御命令で、

天宇受賣神。
天の宇受賣うずめの神に
詔りたまはく、
アメノウズメの神に
仰せられるには、
汝者雖有
手弱女人。
「汝いましは
手弱女人たわやめなれども、
「あなたは
女ではあるが
與伊牟迦布神。
〈自伊至布以音〉
い向むかふ神と 出會つた神に
面勝神。 面勝おもかつ神なり。 向き合つて勝つ神である。
故專汝往將問者。 かれもはら汝往きて問はまくは、 だからあなたが往つて尋ねることは、
吾御子爲
天降之道。
吾あが御子の
天降あもりまさむとする道に、
我が御子みこの
お降くだりなろうとする道を
誰如
此而居。
誰そかくて居ると問へ」
とのりたまひき。
かようにしているのは
誰であるかと問え」と仰せになりました。
     
故問賜之時。 かれ問ひたまふ時に、 そこで問われる時に
答白。 答へ白さく、 答え申されるには、
僕者國神。 「僕は國つ神、 「わたくしは國の神で
猿田毘古神也。 名は猿田さるだ毘古の神なり。 サルタ彦の神という者です。
所以出居者。 出で居る所以ゆゑは、  
聞天神御子
天降坐
故仕奉御前而。
天つ神の御子
天降りますと聞きしかば、
御前みさきに仕へまつらむとして、
天の神の御子みこが
お降りになると聞きましたので、
御前みまえにお仕え申そうとして
參向之侍。 まゐ向ひ侍さもらふ」とまをしき。 出迎えております」と申しました。
ニニギの命 古事記
上巻 第五部
ニニギの物語
猿田毘古神
三種の神器

解説

 
 
 冒頭の天降(あめふり・あまふり)は、精神(霊)が受肉することを言っている。
 アメでレインでレインカネーション。普通にいえば、普通の人として生まれること。
 
 読み方の指定はないので、序文にあるように前後の用法から自然に読む(上古之時。言意並朴。…意况易解更非注)。
 よって訓読で「あもり」とか「あもらし」とされているが、上記のように見ていい。その方がニニギに優しい解釈。
 天から降るのは素朴にいえばアメ。
 
 その道中、猿の男神(猿田毘古神 )がいるというのは、地上の肉体、その精神を象徴している。
 高次の精神ではなく、物レベルの精神。器の気質。
 高きの神が出てくる時は、常に低次の精神と対比(いわば全体を調和させる広い霊的思考と対比した、即物利己的な心)。
 
 天照と高木(二神あわせ造化三神。天照は神ムスビの分神)が、産む女神に向かって、あなたは向き合い勝ってきたというのは、それと向き合うようにと。
 つまり野蛮であること。これは昔に限った話ではない。昔は昔と思っていない。
 そもそも現状、洗練され助け合い余裕ある穏やかな社会か、常に必死でなければ生きれない嘘偽りまかり通る攻撃的社会、どちらの側面が強いか。
 

 面勝とは、自らに向き合い克つ(克服・自省)の意味。
 女神が勝ってきたというから、その意味でしかない。
 女神は家・内(どちらもウチ)とかかり内面の精神。ここでの神は内面の精神の象徴させていることは上述。
 
 しかし一般に、克つというのも外に勝つための意味で使われる。
 害は偶然か外の悪からもたらされると見る。自分達の社会は悪くないと思う。苦痛と抑圧がありふれ、それが当然視されても。
 これに面勝つには、それを打破するというより、まず社会全体が他人の痛みに無関心、それが生み出す苦しみの中にある、それを認めることから。
 
 それを認めず、そこに染まったのが、天に帰ってこない天若日子、天からの声を黙殺・射殺した話。
 ニニギはその天若日子の分身(日子番の邇邇藝の命)。