伊勢物語 101段:藤の花 あらすじ・原文・現代語訳

第100段
忘れ草
伊勢物語
第四部
第101段
藤の花
第102段
あてなる女

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  左兵衛督 左中弁 三尺六寸
 
  あるじのはらから 藤のかげ
 
  栄華のさかりにみまそかり
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 在原行平が、藤原良近(格下)の家に良い酒があると聞き、主客として招待した。
 (動機がやましく即物的。それが藤の怪しさ)
 
 そこにあった1.36m(三尺六寸)の異様に大きく怪しい藤の花を題に、そこに来た行平の兄弟が歌を無理に詠ませられる。
 

 咲く花の したにかくるる 人を多み ありしにまさる 藤のかげかも
 咲く花の下にでも隠れたいが人が多すぎる、藤の影は大きいんじゃないのかよ
 (チッ藤の小物が。つまり良近の揶揄)
 

 このような歌であるが、なぜこのような下らない歌を詠んだ(などかくしもよむ)と言うと、
 
 太政大臣の栄華のさかりにみまそかりて、藤氏のことに栄ゆるを思ひてよめるとなむいひける
 つまり、
 藤原のおとどが栄華の盛りに今にも死にそうなので、藤氏もよく栄えたもんよ(もう十分だろ)と思って詠んだと言う。
 
 (みまそかりは、いらっしゃるの意味ではない。いまそがり×みまかり=今にも死にそう、という意味。
 この用法であることは、77段で示されている。
 その時の女御、多賀幾子と申すみまそかりけり。それ失せ給ひて、安祥寺にてみわざしけり
 
 そして、

 みな人そしらずになりけり
 このような客人に対する常軌を逸した非礼な言動にも関わらず、兄の行平は弟を咎めることもしないのであった。
 
 ~
 
 この段は問題が多い。一般の訳も非常に問題。
 業平と在氏こそ問題であることを無視し、藤原(藤花)にだけ目を奪われ、業平を良く描いていると決めつけ、細部を全く無視する。
 
 「在原の行平といふありけり」。とは人でなし。
 「いふ人」とは明らかに区別している(後述)。
 

 行平と良近と名を明示しつつ「はらから」としているのは、 
 82段その時右馬頭なりける人…その人の名忘れにけりと同じ。口にしたくない。
 
 そう言う著者(昔男)は、明示こそされないが、その82段(渚の院)でも、同様に酒が出てきて、親王&馬頭軍団に無理に付き合わされた。
 この段も全く同じ構図。著者は、花と同じ、陰の引き立て役。
 「すまひけれど、強ひてよませければ」、という描写に暗示されている。
 
 「まろうどざね(主客)」は、裏返せば著者は末席扱いということ。俺は酒以下かよ?という意味。
 地位は地下なのでその意味では当然だが、明らかに礼を失している。それも間接的に暗示している。
 情緒云々は皮肉。だから花が怪しいと言っている。その描写にも含みがある。
 

 「三尺六寸」は着物の丈。だから細かい。著者は縫殿の人。後宮の人。ふくからにの人。
 だから前段も後宮の話だし、二条の后に近い。
 しかし恋愛話ではない。仄かな思いもあったかもしれないが、そういう話ではない。
 

 伊勢は業平の恋愛話ではない。そこにあるのは全て業平の歌ではない。全て著者の歌だ。
 古今が現状の理解のように拙劣な読解をし、安易に伊勢を業平の歌集とみなしただけ。
 色んな女=口説く=業平。内容を非常に貶めた、レベルの低い中学生のような発想。
 だからかつては伊勢は業平の作とみなされていた。ありえないがな。読解力が今以上にありえなかったのだ。
 

 本段の歌も業平のものではない。
 なぜなら、業平の言った「藤氏」という蔑称に当て、「ありし(在氏)」というクサシを含ませているからだ。
 だから「よませければ、かくなむ」(大体、このようであった)としている。
 
 加えて、79段で、行平の娘を孕ませたと噂された時に、業平が詠んだ歌にかかっている。
 我が門に 千尋ある陰を植えゑつれば 夏冬たれか 隠れざるべき
 門地の話と大きな植物と影と隠れで符合。状況が全く別なのに、この符合は意図せずにありえない。
 つまり著者の業平の印象がこうである。家の名前で調子にのって、まずくなればコソコソ逃げる。
 
 もちろん歌なんてロクに歌えない。そう書いても断固無視。
 在五を「けぢめを見せぬ心」(63)と書いても、大らかに愛するなどと超転回で捻じ曲げる。
 

 現状流布している読みのレベルで、業平が主人公というのは論外。
 何が書いてあっても細部は関係ないものな。大筋は決まっているものな。
 楽だよな。長いものにまかれるのは。崖が行先のレールでも外れられないもんな。
 
 しかし、その発想で伊勢は記されていない。まるで真逆。だから単独傑出して残っている。
 残ったのは反骨・反体制だからではなく、目先の出世栄達ばかりの腐れ俗物にまみれても、人類普遍の心の美を追究し続けたから。
 言葉をねじまげる輩がこの物語を乗っ取ることを黙認することは、普遍の道理と相容れない。心は守らないと、どんどん汚される。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第101段 藤の花 欠落
   
   むかし、  むかし、  
  左兵衛督なりける 左兵衛督なりける  
在原の行平といふありけり。 ありはらのゆきひらといふ、ありけり。  
       
  その人の家によき酒ありと聞きて、 その人の家によきさけありと、  
  うへにありける うへにありける  
  左中弁藤原の良近といふをなむ、 左中弁ふぢはらのまさちかといふをなむ、  
  まらうどざねにて、 まらうどざねにて、  
  その日はあるじまうけしたりける。 その日はあるじまうけしたりける。  
       
  なさけある人にて、瓶に花をさせり。 なさけある人にて、かめに花をさせり。  
  その花のなかに、あやしき藤の花ありけり。 その花のなかに、あやしきふぢの花有けり。  
  花のしなひ三尺六寸ばかりなむありける。 花のしなひ三尺六寸ばかりなむ有ける。  
  それを題にてよむ。 それをだいにてよむ。  
       
  よみはてがたに、 よみはてがたに、  
  あるじのはらからなる、 あるじのはらからなる、  
  あるじし給ふと聞きて来たりければ、 あるじゝたまふときゝてきたりければ、  
  とらへてよませける。 とらへてよませける。  
       
  もとより歌のことは知らざりければ、 もとよりうたのことはしらざりければ、  
  すまひけれど、 すまひけれど、  
  強ひてよませければ、かくなむ。 しゐてよませければ、かくなむ、  
       

177
 咲く花の
 したにかくるる人を多み
 さくはなの
 したにかくるゝ人をおほみ
 
  ありしにまさる
  藤のかげかも
  ありしにまさる
  ふぢのかげかも
 
       
  などかくしもよむといひければ、 などかくしもよむ、といひければ、  
  太政大臣の おほきおとゞの  
  栄華のさかりにみまそかりて、 ゑい花のさかりにみまそかりて、  
  藤氏のことに栄ゆるを思ひてよめる 藤氏のことにさかゆるを思ひてよめる、  
  となむいひける。 となむいひける。  
       
  みな人そしらずになりけり。 みな人、そしらずなりにけり。  
   

現代語訳

 
 

左兵衛督

 

むかし、
左兵衛督なりける在原の行平といふありけり。

 
 
むかし
 

左兵衛督なりける
 左兵衛のカミである
 

 左兵衛
 :左兵衛府。

 (かみ)
 :長官。
 
 近衛と兵衛と衛門の左右で六衛府。
 近衛に行くほど中枢に行く。
 つまり衛府の長官では中位の立ち位置。つまり上なのだが中位。この段はそういう構図。
 

在原の行平といふありけり
 在原の行平という者がいた。

 在原行平(818-893≒75歳)中将(業平)の兄。中納言。正三位。
 79段でせっかく帝の女御にした娘を、馬頭弟に孕まされた噂の哀れな人として、既に実名で出現した。
 名前を出す時点で、後述の「はらから」と比較し、行平には特別な嫌悪感はない、とも思える。
 
 しかし、ここでの「といふありけり」は、明らかに違和感がある表現。
 16段むかし、紀有常といふ人ありけり
 39段天の下の色好み、源至といふ人
 
 これらの違いは何か。
 有常は著者と一番仲が良い人物なので、問題ない。
 他方で、至は頭のネジの外れたおバカだった(女車に蛍を投げこんできた)。
 その源の至以下、表記の上ではそうなる。
 
 つまり人でなし。かなり戦慄する表現ではある。しかし確実に意図している。
 ではなぜ著者はこの場にいたか。拒めなかったから。
 はらからが捉えられ、強いて詠まされたように。
 
 

左中弁

 

その人の家によき酒ありと聞きて、
うへにありける左中弁藤原の良近といふをなむ、
まらうどざねにて、その日はあるじまうけしたりける。

 
 
その人の家によき酒ありと聞きて
 その人の家に良い酒があると聞いて
 
 「その人」はこの時点で不明だが、後述の良近。
 良い酒とかけて良近。
 
 行平と解すると、筋の流れが意味不明。
 良い酒があると聞いて、突如出現する、地位も年齢も全て下の良近が主客としてもてなされる。酒はそれほどまでの威力。
 しかし、所詮その程度の扱いでしかない。それが本段の内容。
 
 この物語で「酒」の明示は退廃・堕落を象徴するアイテム(81、82、85段)。
 
 「聞きて」とは、その家に珍しい酒があると行平が聞きつけ、良近の酒を狙ってもてなしている。
 
 なお、81段(塩釜)・82段(渚の院)同様、お偉方と歌と酒が絡むと、著者には、嫌だな嫌だな~という淳二ばりの暗示。
 したがって、ここで著者も呼ばれたと(行平から声がかかった)。82段で遊びに駆り出された先に馬頭もいた悪夢の再来。
 
 

うへにありける
 上にある(?)
 
 これは殿上というより、上述の(先の酒に掛けて)という意味に掛けている。
 殿上というだけでは、行平はそれ以上の上達部なので、文脈上主客にする意味がない。
 そういう文脈で、殿上(地位)と見る。
 
 しかし地位は行平より下という皮肉。
 だから、ここでは「あれ?」となることを確実に意図している。
 いや上じゃなくて下だろ、いや違う中だというボケ。
 
 物理的な殿上の間にいるというのは違う。意味不明。
 

左中弁藤原の良近といふをなむ
 左中弁の藤原良近という者を
 

 藤原良近(823-875≒52歳)従四位下、判少納言。
 :左中弁になった翌年死亡。だからこの段は、少なくとも874年以降に記された(大筋は整えておいて後で微調整したとも見れるが)。
 年齢的にも、行平より上ではない。
 

 左中弁
 :太政官・弁官の一種。大中少弁の左右がある。少弁じゃなくてセーフ。
 今の内閣府を実質的統括機関にした局長あたりか。
 

まらうどざねにて
 主客として
 

 まらうとざね【客人実】
 主賓。ざねは中心の意。
 

その日はあるじまうけしたりける
 その日は、主(行平)がもてなしたのであった。
 

 まうけ【設け】
 :もてなし。その用意。
 
 

三尺六寸

 

なさけある人にて、瓶に花をさせり。
その花のなかに、あやしき藤の花ありけり。
花のしなひ三尺六寸ばかりなむありける。
それを題にてよむ。

 
 
なさけある人にて瓶に花をさせり
 情緒のある人で、瓶に花を挿していた。
 

 なさけあり 【情けあり】
 :思いやりがある。人情を解する。
 これは、業平に対するあてつけが大きい。
 

その花のなかにあやしき藤の花ありけり
 その花の中におかしな藤の花があった。
 

 あやし:珍しいという意味もあるが、文脈及び語義に即し、おかしい・異常という意味を強く見る。
 

花のしなひ三尺六寸ばかりなむありける
 花がシナって約136cmほどになっていた。
 (昔の男達の肩上の高さだろう。これは着物の丈)
 

 しなひ【撓ひ】
 :しなって曲がっている。
 
 三尺六寸は自分の着物の丈だろう。著者は縫殿の男なので(六歌仙)。
 でなければ、あえて六寸とする意味がない。
 したがって「三尺六寸」自体が、目分とかけて著者の自己紹介。そういう暗号。
 
 

それを題にてよむ
 
 

あるじのはらから

 

よみはてがたに、
あるじのはらからなる、
あるじし給ふと聞きて来たりければ、とらへてよませける。

 
 
よみはてがたに
 人々が詠み果てる頃に
 
 普通に見れば、著者は基本トリだから(81段参照)まだ詠んでいない。
 

あるじのはらからなる
 主の(腹)兄弟が
 
 ここで名前を出していないが、
 展開上意味をもたない良近ですから書いているのに、ここは「はらから」。
 断固、名を出すことを拒絶する意思表示。
 
 では何故書くか。
 書かないといけないから。そうしないと(6段のような噂から)、話が全て乗っ取られかねないから。
 その危機感の表れが、物語後半から立て続けに業平が出てきて、悉く全力で非難される構図。
  
 82段その時右馬頭なりける人…その人の名忘れにけり
 実際に忘れるわけなどない。前段「忘草」も同様の文脈。
 物語最長が65段。在五(63段)のすぐ後で「在原なりける男」が後宮で暴れて流された話。忘れる訳はない。
 なお、前段は男が後宮(後涼殿)を歩いている話。在五は出禁。
 

 はらから【同胞】
 :同じ腹からを元にし、一般に兄弟姉妹。
 しかしここでは腹違いだろう。本義からは外れる。一般にとは大抵同じ母だからだ。
 

あるじし給ふと聞きて、来たりければ
 主が(酒盛りを)していると聞いて来たので、
 
 宴会でなければこない。業平は基本的に歌はできない(77段・78段)。
 それが「もとより歌のことは知らざりければ」によって強調される。

とらへてよませける
 それを捉えて詠ませた。
 
 

藤のかげ

 

もとより歌のことは知らざりければ、
すまひけれど、強ひてよませければ、かくなむ。
 
咲く花の したにかくるる人を多み
 ありしにまさる 藤のかげかも

 
 
もとより歌のことは知らざりければ
 もとより歌のことは知らなかったので
 
 これは、これまでの徹底して下げる描写から謙遜の意味ではない。文面通りの意味。つまり歌など詠めない。七五調くらいなら分かるか。
 (77段「右馬頭なりける翁…とよみたるけるを、いま見ればよくもあらざり」)
 
 この意味はスルーされるが、説明するまでもないか? この男にとって一番大事なことではないのか?
 どうでもいいか。何が書いてあっても関係ないものな。
 一番大事なことをスルーするんだから、歌も、書いてあることも、どうでもいいいんだよな。肩書さえあれば。
 
 業平は歌の実力があるというが、その名声の根拠になってきた歌は伊勢にしかない。そして伊勢を書いているのは業平ではない。
 著者は業平を一人際立たせて拒絶している。
 この拒絶ぶりは、当時から業平自体が名声を、何らかの形で積極的に占奪していたと見なければ通らない。つまり二条の后との恋愛話・屏風云々。
 
 その果てが「けぢめ見せぬ心」の「在五」(63段)を、主人公を業平の異名で読んでいるなどと見る無茶苦茶さ。
 業平説を覆されると、今まで奉じてきたものが全てパーだものな。
 しかし古今の認定を、そこまでして守りたいか。所詮乗っ取っただけの他人の話。
 それに所詮物語とする馬鹿にするのに。ほんと失礼な人達。誠実な人はいないのだろうか。
 

すまひけれど
 歌うまいとしたが、
 

 すまひ:(歌など)すまい。
 
 歌えなくて歌うまいとはこれいかに。
 ね、ウマイでしょ。これが著者の実力。
 
 そんでこういうことを一々説明しだすと、それ自体でナンセンス。
 というか分からない時点で、説明しても恐らく理解できない。
 まさかほとんど誰も理解してくれないとは。
 

強ひてよませければかくなむ
 強いて詠ませれば、このようであった。
 
 (もちろん著者の翻案。後述の藤氏と対比させた在氏から当然)
 

咲く花の したにかくるる 人を多み
 咲く花の 下に隠れるにも 人多いな
 

ありしにまさる 藤のかげかも
 在氏に勝る 藤の影だろ~! てめーの陰にでも隠れさせろや! チッ小物が…
 
 ぷ~クスクス…
 

 この歌は79段で、行平の娘を孕ませたと噂された時に、業平が詠んだ歌にかかっている。
 我が門に 千尋ある陰を植えゑつれば 夏冬たれか 隠れざるべき
 
 この意味を普通は案の定、本段の一般の訳のように良い意味に捉えるのだが(もちろんそうではない)、
 影に隠れる(逃げたい)という意味で全く同じ。
 ね、しょぼい。
 
 おいおいおいおい、
 大きな花の影のお陰をこうむる? 花の下に控えている人が沢山いる?? はい? 色々やばない? 小さいおっさんとかそういう話?
 以前にまして偉大な花の陰? はああ?? 花畑すぎんだろ。んなわけあるかーっ!
 いや、その訳でOKってどうして思えるの? どっかの意味不な訳に、改変に改変を重ねてそうなったんだよね?
 こわいわ~。
 
 なにが名門在原だよ。名門だった時なんて一度もねーだろ。
 まだ大伴の方がまし。在原って名前残ってんのこいつだけ。つまり空っぽ。
 軍人の家なのに怨念云々。不満なら実力みせろって。逃げとるがな。馬頭。
 
 

栄華のさかりにみまそかり

 

などかくしもよむといひければ、
太政大臣の栄華のさかりにみまそかりて、
藤氏のことに栄ゆるを思ひてよめるとなむいひける。
 
みな人そしらずになりけり。

 
 
などかくしもよむ、といひければ
 なぜこんなん(ゴミみたいなの)詠んだと、言うと、
 

 かくしも【斯くしも】
 :こんなでも。
 
 しもは下ともかけ、ここでは下品で低レベル。
 

太政大臣の栄華のさかりに
 太政大臣の栄華の盛りに
 

みまそかりて
 今にも身罷り(死に)そうで
 

 「みまそかり」は、
 「いまそがり」と「みまかり」を掛けた伊勢の言葉(暗語)であることは、77段で示されている。
 その時の女御、多賀幾子と申すみまそかりけり。それ失せ給ひて、安祥寺にてみわざしけり
 

 さかりにおいでになる? 
 「みまそがり」って、そういう意味の言葉ある? ないよ。伊勢での用法に従ってくれ。
 
 だから、塗籠は丸ごと無視している。
 こういうヤバい文脈はカット。39段「源の至」もカット。文書を破棄・改ざんできるのは、こういう人達。
 

藤氏のことに栄ゆるを思ひてよめる
 藤氏がさらに栄えることを思って詠んだ
 
 つまり藤原の人の前で、不幸をネタにしている。
 しかも「藤氏」は蔑称。それを面前で。だから在五で在原なりける男。
 
 藤原氏への怨念? あのさあ。
 この内容で、なぜ伊勢が業平の目線だと思える。名前を忘れる「はらから」だぞ? 何度も何度も何書いても無駄か。
 この段の内容で、歌が素晴らしくて黙らせたって思えるのか。戦慄するわ。
 
 だから伊勢もどんどん記述レベルが堕ちていくわけ。
 103段「さる歌のきたなげさよ」と書いても無駄か。
 著者が別? すぐ記述から離れるよな。伊勢にのっかって、自分達の言葉遊びで勝手しないで。
 

となむいひける
 と言ったので、
 

みな人そしらずになりけり
 みな人は、誹りもせず、そ知らぬフリをした。
 
 おい、もうわらえねーよ。
 
 しかし「誹らず」だから、
 え、なに? 兄貴はこいつの非礼を放置? という意味。
 いや、俺らは下っ端だし部外者だから、どうこう言えるわけなんてない。
 ただ、モラルの欠如も甚だしい。だから伊勢の主人公面で調子こいてるんだろ。今は直接害を被っているからな。
 
 自分が手塩にかけて育ててきた、心の美を追究してきた内容を、
 自分が最も嫌悪して見下げ果てた輩が乗っ取って、それが世間に大々的に流布しているって想像してみて。
 しかも内容が、1/100以下の子供レベルに貶められてな。
 悉く歪められ下衆とくさされ、業平にそぐわない記述は、悉く著者の間違い・こじつけとされ、
 美しい記述は全部そいつがもっていく。ありえねーんだよ。何なんだよこの辱めは。美しい国だ? 国語の根幹でこれでか。美しいって何なんだよ。
 
 それを聞いて聞かなかったことにした。
 人としてヤバすぎる。
 
 影に多くの人がよるのも無理からぬ?
 文字の扱いが軽すぎる。