古事記~石長比賣 原文対訳

木花之
佐久夜毘賣
古事記
上巻 第五部
ニニギの物語
石長比賣(いわながひめ)
昨夜の孕み
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
故乞遣
其父
大山津見神之時。
かれその父
大山津見の神に
乞ひに遣はしし時に、
依つてその父
オホヤマツミの神に
お求めになると、
大歡喜而。 いたく歡喜よろこびて、 非常に喜んで
副其姉
石長比賣。
その姉
石長いはなが比賣を副へて、
姉の
石長姫いわながひめを副えて、
令持百取
机代之物
奉出。
百取ももとりの
机代つくゑしろの物を
持たしめて奉り出だしき。
澤山の
獻上物を持たせて
奉たてまつりました。
     
故爾其姉者。 かれここにその姉は、 ところがその姉は
因甚凶醜。 いと醜みにくきに因りて、 大變醜かつたので
見畏而返送。 見畏かしこみて、返し送りたまひて、 恐れて返し送つて、
唯留其弟
木花之
佐久夜毘賣以。
ただその弟おと
木この花はなの
佐久夜さくや賣毘を留めて、
妹の
木の花の
咲くや姫だけを留とめて
一宿爲婚。 一宿ひとよ婚みとあたはしつ。 一夜お寢やすみになりました。
     
爾大山津見神。 ここに大山津見の神、 しかるにオホヤマツミの神は
因返
石長比賣而。
石長いはなが比賣を
返したまへるに因りて、
石長姫を
お返し遊ばされたのによつて、
大恥。 いたく恥ぢて、 非常に恥じて
白送言。 白し送りて言まをさく、 申し送られたことは、
我之女
二並立奉由者。
「我あが女
二人ふたり竝べたてまつれる由ゆゑは、
「わたくしが
二人を竝べて奉つたわけは、
使石長比賣者。 石長比賣を使はしては、 石長姫をお使いになると、
天神御子之命。 天つ神の御子の命みいのちは、 天の神の御子みこの御壽命は
雖雨零風吹。 雪零ふり風吹くとも、 雪が降り風が吹いても
恆如石而。 恆に石いはの如く、 永久に石のように
常堅
不動坐。
常磐ときはに堅磐かきはに
動きなくましまさむ。
堅實に
おいでになるであろう。
亦使
木花之
佐久夜毘賣者。
また
木この花はなの
佐久夜さくや毘賣を使はしては、
また
木の花の
咲くや姫をお使いになれば、
如木花之榮。 木の花の榮ゆるがごと
榮えまさむと、
木の花の榮えるように
榮えるであろうと
榮坐宇氣比弖
〈自宇下
四字以音〉
貢進。
誓うけひて
貢進たてまつりき。
誓言をたてて
奉りました。
     
此令返
石長比賣而。
ここに今
石長いはなが比賣を返さしめて、
しかるに今
石長姫を返して
獨留
木花之佐久夜毘賣故。
木この花はなの佐久夜さくや毘賣を
ひとり留めたまひつれば、
木の花の咲くや姫を
一人お留めなすつたから、
天神御子之御壽者。 天つ神の御子の御壽みいのちは、 天の神の御子の御壽命は、
木花之
阿摩比能微
〈此五字以音〉坐。
木の花の
あまひのみ
ましまさむとす」とまをしき。
木の花のように
もろくおいでなさる
ことでしよう」と申しました。
     
故是以至于今。 かれここを以ちて今に至るまで、 こういう次第で、
天皇命等之御命
不長也。
天皇すめらみことたちの御命
長くまさざるなり。
今日に至るまで天皇の御壽命が
長くないのです。
木花之
佐久夜毘賣
古事記
上巻 第五部
ニニギの物語
石長比賣(いわながひめ)
昨夜の孕み

解説

 
 
 ここでは天皇が短命がちだった理由を説いているが、極めて危うい。
 帝とぼかしてもいない。
 

 美人のサクヤのみとって、醜い姉の石長を返したとは、良いことの反面の困難な責任を引き受けないと。
 意志が固くない。すぐ流されるというたとえ話。なので、次の段でサクヤとその子どももすぐ拒絶する。
 

 なぜか勅命を受ける立場にあった職務不詳の下級役人が、この内容を書くというのは、普通の感性ではありえないことはわかるだろう。全てを失う。
 だから作者を稗田阿礼にしているし(実態は太安万侶→人麻呂。柿本の)、命を受けたのが元明天皇(持統の妹)でなければ、この話は書かなかった。
 日頃から統治の責任・公平性を考え、絶対の信念がないと書きようがない。安万侶は司馬遷・孔子から連なる系譜。その全人格的教養は序文にも出る。
 時おり世俗の基盤を超越した知的超人が出現するのではない。彼らしかいない。同じ存在。だから他人に分からないことが分かるし、国史を支えている。
 
 昭和前期辺りならまず無事ではなかっただろう。
 今でもこの存在感なのに偽書などというのがある。それは最上段の文脈。つまり都合が悪いと分かると偽物。ないことにしたい。それがここでの文脈。
 しかし今までの話はどう見ても描写通りの事実な訳がない。ワニの背中をウサギが飛びようがない。全て象徴的なたとえ話。その元になる事実はある。
 サルタの段でそれに面勝と至高の神が言っているのは、上記のような習性に向き合い克服せよという意味。もちろん一般の人に向けての発言ではない。
 統治が委ねられたあるいは君主としての天命をもって生まれた人。とでもしないとまた同じ言説が始まる。