古事記 読歌(黄泉歌)・こもりくの~原文対訳

衣通王の歌 古事記
下巻④
19代 允恭天皇
軽太子兄妹物語
読歌(黄泉歌)
安康天皇・宮
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
     

泊瀬山・梓弓

     
故追到之時。  かれ追ひ
到りましし時に、
 かくて追つて
おいでになりました時に、
待懷而歌曰。 待ち懷おもひて、
歌ひたまひしく、
太子がお待ちになつて
歌われた歌、
     
許母理久能 隱國こもりくの 隱れ國の
波都世能夜麻能 泊瀬はつせの山の 泊瀬の山の
意富袁爾波 波多波理陀弖 大尾おほをには 幡はた張はり立て 大きい高みには旗をおし立て
佐袁袁爾波 波多波理陀弖 さ小尾ををには 幡張り立て 小さい高みには旗をおし立て、
意富袁爾斯 那加佐陀賣流 大尾おほをよし ながさだめる おおよそにあなたの思い定めている
淤母比豆麻阿波禮 思ひ妻あはれ。 心盡しの妻こそは、ああ。
都久由美能 許夜流許夜理母 槻つく弓の伏こやる伏りも、 あの槻つき弓のように伏すにしても
阿豆佐由美 多弖理多弖理母 梓弓立てり立てりも、 梓あずさの弓のように立つにしても
能知母登理美流 後も取り見る 後も出會う
意母比豆麻阿波禮 思ひ妻あはれ。 心盡しの妻は、ああ。
     

泊瀬川(被参照:万葉13/3263)

     
又歌曰。  また歌ひたまひしく、  またお歌い遊ばされた歌は、
     
許母理久能 隱國こもりくの 隱れ國の
波都勢能賀波能 泊瀬はつせの川の 泊瀬の川の
加美都勢爾 伊久比袁宇知 上かみつ瀬せに 齋杙いくひを打ち、 上流の瀬には清らかな柱を立て
斯毛都勢爾 麻久比袁宇知 下しもつ瀬に ま杙くひを打ち、 下流の瀬にはりつぱな柱を立て、
伊久比爾波 加賀美袁加氣 齋杙いくひには 鏡を掛け、 清らかな柱には鏡を懸け
麻久比爾波 麻多麻袁加氣 ま杙には ま玉を掛け、 りつぱな柱には玉を懸け、
麻多麻那須 阿賀母布伊毛 ま玉なす 吾あが思もふ妹、 玉のようにわたしの思つている女、
加賀美那須 阿賀母布都麻 鏡なす 吾あが思もふ妻、 鏡のようにわたしの思つている妻、
阿理登伊波婆許曾爾 ありと いはばこそよ、 その人がいると言うのなら
伊幣爾母由加米 家にも行かめ。 家にも行きましよう、
久爾袁母斯怒波米 國をも偲しのはめ。 故郷をも慕いましよう。
     
如此歌。  かく歌ひて、  かように歌つて、
即共
自死。
すなはち共に
みづから死せたまひき。
ともに
お隱れになりました。
故此二歌者。 かれこの二歌は それでこの二つの歌は
讀歌也。 讀歌なり。 讀歌よみうたでございます。
衣通王の歌 古事記
下巻④
19代 允恭天皇
軽太子兄妹物語
読歌(黄泉歌)
安康天皇・宮

泊瀬山

 

泊瀬川

 
泊瀬川は現在の大和川の上流で長谷寺の付近とされる。つまり初瀬川は長谷川とも言える。
 


梓弓と黄泉

 
 ここでの読歌は黄泉を伏せた当て字ということは明白。「泊瀬」も果つに掛かるとされる。

 梓弓は、現代でも硫黄の臭い立ち込める恐山のイタコが口寄せの道具として持っているという。しかしイタコ達は本来想定される口寄せ(いわゆる霊媒)ではなく定型的な話で対応しているらしい(カーメン・ブラッカー『あずさ弓』)。

 それはさておき、この情況から梓弓の特性を抽出すると、梓弓はあの世に行っても会いたい人をつなぐアイテムで、つまびくとの掛かりで契った男女の少なくともどちらかが死ぬ文脈で、かつどちらかを呼び寄せたい場合で用いられる(伊勢24段)。