伊勢物語 35段:玉の緒を あらすじ・原文・現代語訳

第34段
つれなかりける人
伊勢物語
第二部
第35段
玉の緒を
第36段
玉葛

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 

あらすじ

 
 
 この段はとても短いが厄介。
 

 むかし、心にもあらで絶えたる人のもとに、
 玉の緒を 沫緒によりて むすべれば 絶えてののちも 逢はむとぞ思ふ

 これだけ。
 

 この意味は、「心にもなく連絡が絶えているけど、~すれば、会いたいと思う」。
 30段の「あふことは 玉の緒ばかり」と符合して、玉の緒(魂の糸(意図)→運命の糸)は会うを導く。
 

 そして上記の「~すれば」に入るのは、
 玉の緒を 沫緒に搓りて 結べれば だが、
 泡に緒は結べない、つまりありえない条件。

 だから結局、
 会いたいというのは、冒頭の「心にもあらで」という内容。言いたくないけど無視もできない。
 おわり。
 

 ちなみに、この歌は万葉に即しているが、非常にこんがらがる。
 

 玉の緒を 沫緒に搓りて 結べれば 在りて後にも 逢はざらめやも万葉集巻四763・紀女郎→大伴家持)

 玉の緒を 沫緒によりて 結べれば 絶えての後も 逢はむとぞ思ふ(伊勢)
 

 下の句をいずれも反転させ、結局同じ表現にしている。
 だから本段の「絶えて」云々にそこまでの意味はない。万葉ありきの表現。
 このように、これは和歌というより論理問題。でもあまりややこしいのは良くないですね。誰も読めないなら書いてもしょうがない。
 
 なお、上記万葉の歌への返答はこうである。

 大伴宿禰家持が和ふる歌一首
 百年(ももとせ)に 老舌(おいした)出でて よよむとも 吾(あれ)は厭はじ 恋は増すとも

 

 →あ~だめだ、この人全然わかってない。それに恋とかいうおじさん、ちょっとどう?
 自称万葉の編纂者が、歌の心をとり違えるってある意味すごくないですか? まあ、難しいよね。
 
 なお、和歌で玉の緒とは、常に、魂の糸(みえないつながり)の暗示であり、下紐(紐帯)も同様。物理的な玉とか紐のことではない。
 霊的観点を欠いた即物的視点で原初の古典を見ると、支離滅裂な内容になり果てる。その典型が聖書。
 家持の表現はそんな感じの典型。必死感が漂う。それはもっと物を超えた永い視点がないからである。百年が、なんだって~。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第35段 玉の緒を 合(あわ)緒によりて
   
 むかし、  むかし、  むかし男。
  心にもあらで絶えたる人のもとに、 心にもあらでたえたる人のもとに 心にもあらでたえにける女のもとに。
       

69
 玉の緒を
 沫緒によりてむすべれば
 たまのをゝ
 あはおによりてむすべれば
 玉のをゝ
 あはをによりて結へれは
  絶えてののちも
  逢はむとぞ思ふ
  たえてのゝちも
  あはむとぞ思
  逢ての後も
  あはぬ成けり
  (あはんとそ思ふ一本)
   

現代語訳

 
 

むかし、
心にもあらで絶えたる人のもとに、
 
玉の緒を 沫緒によりて むすべれば
 絶えてののちも 逢はむとぞ思ふ

 
 
むかし、(△男)
 

心にもあらで絶えたる人のもとに、
 心にもなく、連絡が途絶えている人のもとに、
 
※これは前段「むかし、男、つれなかりける人のもとに」と符合している表現。
 前段で「人」は男女どちらにもかけた言葉。
 したがって、ここでもそのように解され、さらに一歩進めて「男」をなくしているのは、その答え合わせの意味がある。
 ただ、本段との関係では特に意味はない。
 

 この点、塗籠本は「むかし男」とするが、このような食い違いは塗籠にしばしば見られることであるから、独自の付加(勝手な解釈)ということ。
 削ることはなくても、付け足しはよくする。
 

 さらに、ここでは歌を送るとも、言いやるとかいう言葉もないので、送っているかは不明。
 ただ思っただけと見る。それが歌の末尾「思ふ」に示される。
 
 

玉の緒を 沫緒によりて むすべれば
 

 万葉と同一。
 結ぶ先が泡なら実体がないから結べない。
 結べればと言っても、結びようがないのだから、つまり会いたくない。
 

 なお「沫」は万葉では水・雪にかけられる言葉。淡い運命の相手には自ら行きたいのが定石。玉の緒はそういう意味(魂=運命の糸)。
 いやでもそうしないと拒絶している歌が「沫緒」
 

絶えてののちも
 

逢はむとぞ思ふ
 

 万葉といずれも逆にして、論理的に同じにした表現。つまり、すごいこじれた話。