源氏物語 16帖 関屋:あらすじ・目次・原文対訳

蓬生 源氏物語
第一部
第16帖
関屋
絵合

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 関屋のあらすじ

 光源氏29歳の秋の話。

 源氏が帰京した翌年、常陸介(元伊予介)が任期を終えて、妻空蝉3巻参照〕と共に戻ってきた。石山寺へ参詣途中の源氏は逢坂関で、空蝉の一行に巡り会う。源氏は懐かしさに空蝉の弟右衛門佐(元小君)を呼び寄せ、空蝉へ文を送った。その後も二人は文を交わしたが、やがて常陸介が亡くなり、一人残された空蝉は継子の河内守(元紀伊守)の懸想を避けて出家した。

(以上Wikipedia関屋(源氏物語)より。色づけは本ページ。続けて以下の下りが掲載されているが、これは本巻ではなく18松風冒頭の内容)

 その頃源氏は、今住んでいる二条東院の改装・増築を執り行っていた。源氏は、妻の一人・花散里を西の対に住まわせる事にした。さらに、末摘花と空蝉を北の対へ移す事に。
〔二条東院北の対に空蝉を移すのは、次巻18松風「北の対は、ことに広く造らせたまひて……行く末かけて契り頼めたまひし人びと集ひ住むべきさま」の間接認定。人物としての空蝉はこの巻でメイン扱いは終わり、以降、22玉鬘と、23初音2-2で少々やりとりをしてそれが最後〕

目次
和歌抜粋内訳#関屋(3首:別ページ)
主要登場人物
 
第16帖 関屋
 光る源氏の
 須磨明石離京時代から帰京後までの
 空蝉の物語
 
第一章 空蝉の物語
 逢坂関での再会の物語
 第一段 空蝉、夫と常陸国下向
 第二段 源氏、石山寺参詣
 第三段 逢坂の関での再会
 
第二章 空蝉の物語
 手紙を贈る
 第一段 昔の小君と紀伊守
 第二段 空蝉へ手紙を贈る
 
第三章 空蝉の物語
 夫の死去後に出家
 第一段 夫常陸介死去
 第二段 空蝉、出家す
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
二十九歳
呼称:殿
空蝉(うつせみ)
伊予介の後妻
呼称:帚木・女君
伊予介(いよのすけ)
空蝉の夫
呼称:常陸・常陸守
紀伊守(きいのかみ)
伊予介の子
呼称:河内守・守
小君(こぎみ)
空蝉の弟
呼称:右衛門佐・佐

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。

 ※ 空蝉は3巻で源氏が女を知らなくて試しに言い寄った人。だから立場が不釣り合い。伊予介(常陸介)の後妻という立場からか、それ以降源氏と会おうとはしなかった。本巻の逢坂はそれを受けた展開。「かの帚木」でそれを表している。これを枕詞という。つまり帚木とは母(子持ち)の空蝉のこと。

 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  関屋
 
 

第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語

 
 

第一段 空蝉、夫と常陸国下向

 
1  伊予介といひしは、故院崩れさせたまひて、またの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。
 
 伊予介と言った人は、故院が御崩御あそばした、その翌年に、常陸介になって任国に下ったので、あの帚木の女も一緒に連れられて行ったのであった。
 
2  須磨の御旅居も遥かに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へ聞こゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹き越す風も、浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて、年月かさなりにけり。
 
 須磨でのご生活も遥か遠国で聞いて、人知れずお偲び申し上げないではなかったが、お便りを差し上げる手段さえなくて、筑波嶺を吹き越して来る風聞も、不確かな気がして、わずかの噂さえ聞かなくて、歳月が過ぎてしまったのだった。
 
3  限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ、常陸は上りける。
 
 いつまでとは決まっていなかったご退去であったが、京に帰り住まわれることになった、その翌年の秋に、常陸介は上京したのであった。
 
 
 

第二段 源氏、石山寺参詣

 
4  関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。
 
 介が逢坂の関に入る日、ちょうどこの源氏の殿が、石山寺にご願果たしに参詣なさったのであった。
 
5  京より、かの紀伊守などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
 
 京から、あの紀伊守などといった子どもたちや迎えに来た人々が、「この殿がこのように参詣なさる予定だ」と告げたので、「道中、きっと混雑するだろう」と思って、まだ暁のうちから急いだが、女車が多く、道いっぱいに練り歩いて来たので、日が高くなってしまった。
 
6  打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。
 車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
 
 打出の浜にやって来た時に、「殿は、もう粟田山を既にお越えになった」と言って、御前駆の人々が、道も避けきれないほど大勢入り込んで来たので、介の一行は関山で皆下りてかしこまって、あちらこちらの杉の木の下に幾台もの車の轅を下ろして、木蔭に座りかしこまってお通し申し上げる。
 
7  車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。
 殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。
 
 車などは行列の一部は遅らせたり、先にやったりなどしたが、それでもなお一族が多く見える。
 車十台ほどから、袖口や衣装の色合いなどもこぼれ出て見えるのが、田舎風にならず品があって、斎宮のご下向か何かの時の物見車が自然とお思い出しになられる。
 殿も、このように世に栄え出なされた珍しさに、数知れない御前駆の者たちが、この女車に皆目を留めた。
 
 
 

第三段 逢坂の関での再会

 
8  九月晦日なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、色々の襖のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。
 御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐なるを召し寄せて、
 九月の晦日なので、紅葉の色とりどりに混じり、霜枯れの叢が趣深く見わたされるところに、関屋からさっと現れ出た源氏一行の何人もの旅姿の、色とりどりの狩襖に似つかわしい刺繍をし、絞り染めした姿も、興趣深く見える。
 君のお車は簾を下ろしなさって、あの昔の小君、今は右衛門佐である者を召し寄せて、
9  「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」  「今日のお関迎えは、無視なさるまいな」
10  などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。
 女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
 
 などとおっしゃる、ご心中、まことにしみじみとお思い出しになることが数多いけれど、ありきたりの伝言では何の効もない。
 女も人知れず昔のことを忘れないので、あの頃を思い出して、しみじみと胸一杯になる。
 
 

271
 「行くと来と せき止めがたき 涙をや
 絶えぬ清水と 人は見るらむ
 「行く時も帰る時にも逢坂の関で、せきとめがたく流れるわたしの涙を
  絶えず流れる関の清水と人は見るでしょう
 
11  え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。
 
 お分かりいただけまい」と思うと、本当に効ない。
 
 
 

第二章 空蝉の物語 手紙を贈る

 
 

第一段 昔の小君と紀伊守

 
12  石山より出でたまふ御迎へに右衛門佐参りてぞ、まかり過ぎしかしこまりなど申す。
 昔、童にて、いとむつましうらうたきものにしたまひしかば、かうぶりなど得しまで、この御徳に隠れたりしを、おぼえぬ世の騷ぎありしころ、ものの聞こえに憚りて、常陸に下りしをぞ、すこし心置きて年ごろは思しけれど、色にも出だしたまはず、昔のやうにこそあらねど、なほ親しき家人のうちには数へたまひけり。
 
 石山寺からお帰りになるお出迎えに右衛門佐が参上して、その節に、そのままに通り過ぎてしまったお詫びなどを申し上げる。
 昔、童として、たいそう親しくかわいがっていらっしゃったので、五位の叙爵を得たまでは、この殿のお蔭を蒙ったのだが、思いがけない世の騒動があったころ、世間の噂を気にして、常陸国に下行したのを、少し根に持ってここ数年はお思いになっていたが、顔色にもお出しにならず、昔のようにではないが、やはり親しい家人の中には数えていらっしゃっるのであった。
 
13  紀伊守といひしも、今は河内守にぞなりにける。
 その弟の右近将監解けて御供に下りしをぞ、とりわきてなし出でたまひければ、それにぞ誰も思ひ知りて、「などてすこしも、世に従ふ心をつかひけむ」など、思ひ出でける。
 
 紀伊守と言った人も、今は河内守になっていたのであった。
 その弟の右近将監を解任されてお供に下った者を、格別にお引き立てになったので、そのことを誰も皆思い知って、「どうしてわずかでも、世におもねる心を起こしたのだろう」などと、後悔するのであった。
 
 
 

第二段 空蝉へ手紙を贈る

 
14  佐召し寄せて、御消息あり。
 「今は思し忘れぬべきことを、心長くもおはするかな」と思ひゐたり。
 
 右衛門佐を召し寄せて、女君へお便りを遣わす。
 佐は「今ではお忘れになってしまいそうなことを、いつまでも変わらないお気持ちでいらっしゃるなあ」と思った。
 手紙には、
15  「一日は、契り知られしを、さは思し知りけむや。
 
 「先日は、ご縁の深さを知らされましたが、そのようにお思いになりませんか。
 
 

272
 わくらばに 行き逢ふ道を 頼みしも
 なほかひなしや 潮ならぬ海
  偶然に近江路でお逢いしたことに期待を寄せていましたが
  それも効ありませんね、やはり潮海ではないから
 
16  関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな」  関守が、さも羨ましく、忌ま忌ましく思われましたよ」
17  とあり。
 
 とある。
 
 
18  「年ごろのとだえも、うひうひしくなりにけれど、心にはいつとなく、ただ今の心地するならひになむ。
 好き好きしう、いとど憎まれむや」
 「長年の御無沙汰も、いまさら気恥ずかしいが、心の中ではいつも思っていて、まるで昨日のことのように思われる性分なので。
 あだな振る舞いだと、ますます恨まれようか」
19  とて、賜へれば、かたじけなくて持て行きて、  と言伝して、お渡しになったので、佐は恐縮して持って行って、
20  「なほ、聞こえたまへ。
 昔にはすこし思しのくことあらむと思ひたまふるに、同じやうなる御心のなつかしさなむ、いとどありがたき。
 すさびごとぞ用なきことと思へど、えこそすくよかに聞こえ返さね。
 女にては、負けきこえたまへらむに、罪ゆるされぬべし」
 「とにかく、お返事なさいませ。
 昔よりはわたしを少しお疎んじになっているところがあろうと存じましたが、相変わらぬお気持ちの優しさといったら、ひとしおありがたいです。
 浮気事の取り持ちは、無用のことと思いますが、とてもきっぱりとお断り申し上げられません。
 女の身としては、お情けに負けてお返事を差し上げなさったところで、何の非難も受けますまい」
21  など言ふ。
 今は、ましていと恥づかしう、よろづのこと、うひうひしき心地すれど、めづらしきにや、え忍ばれざりけむ、
 などと言う。
 今では、更にたいそう恥ずかしく、すべての事柄が、面映ゆい気がするが、久しぶりの気がして、堪えることができなかったのであろうか、
 

273
 「逢坂の 関やいかなる 関なれば
 しげき嘆きの 仲を分くらむ
 「逢坂の関は、いったいどのような関なのでしょうか
  こんなに深い嘆きを起こさせ、人の仲を分けるのでしょう
 
22  夢のやうになむ」  夢のような心地がします」
23  と聞こえたり。
 あはれもつらさも、忘れぬふしと思し置かれたる人なれば、折々は、なほ、のたまひ動かしけり。
 
 と申し上げた。
 いとしさも恨めしさも、忘られない人とお思い置かれている女なので、時々は、やはり、お便りなさって気持ちを揺するのであった。
 
 
 

第三章 空蝉の物語 夫の死去後に出家

 
 

第一段 夫常陸介死去

 
24  かかるほどに、この常陸守、老いの積もりにや、悩ましくのみして、もの心細かりければ、子どもに、ただこの君の御ことをのみ言ひ置きて、  そうこうしているうちに、常陸介は年を取ったためか、病気がちになって、何かと心細い気がしたので、子どもたちに、もっぱらこの女君のお事ばかりを遺言して、
25  「よろづのこと、ただこの御心にのみ任せて、ありつる世に変はらで仕うまつれ」  「万事の事、ただこの母君のお心にだけ従って、わたしの在世中と変わりなくお仕えせよ」
26  とのみ、明け暮れ言ひけり。
 
 とばかり、明けても暮れても言うのであった。
 
27  女君、「心憂き宿世ありて、この人にさへ後れて、いかなるさまにはふれ惑ふべきにかあらむ」と思ひ嘆きたまふを見るに、  女君が、「辛い運命の下に生まれて、この夫にまで先立たれて、どのように落ちぶれて途方に暮れることになっていくのだろうか」と、思い嘆いていらっしゃるのを見ると、介は、
28  「命の限りあるものなれば、惜しみ止むべき方もなし。
 いかでか、この人の御ために残し置く魂もがな。
 わが子どもの心も知らぬを」
 「命には限りがあるものだから、惜しんだとて止めるすべはない。
 何とかして、この方のために残して置く魂があったらいいのだが。
 わが子どもたちの気心も分からないものだから」
29  と、うしろめたう悲しきことに、言ひ思へど、心にえ止めぬものにて、亡せぬ。
 
 と、気掛かりで悲しいことだと、口にしたり思ったりしたが、思いどおりに行かないもので、ついに亡くなってしまった。
 
 
 

第二段 空蝉、出家す

 
30  しばしこそ、「さのたまひしものを」など、情けつくれど、うはべこそあれ、つらきこと多かり。
 とあるもかかるも世の道理なれば、身一つの憂きことにて、嘆き明かし暮らす。
 ただ、この河内守のみぞ、昔より好き心ありて、すこし情けがりける。
 
 暫くの間は、「あのようにご遺言なさったのだから」などと、子供たちは情けのあるように振る舞っていたが、うわべだけのことであって、辛いことが多かった。
 それもこれもみな世の道理なので、わが身一つの不幸として、嘆きながら毎日を暮らしている。
 ただ、この河内守だけは昔から好色心があって、少し優しげに振る舞うのであった。
 
31  「あはれにのたまひ置きし、数ならずとも、思し疎までのたまはせよ」  「父上もしみじみとご遺言なさってもおりますので、至らないわたしですが、何なりとご遠慮なさらずにおっしゃってください」
32  など追従し寄りて、いとあさましき心の見えければ、  などと機嫌をとって近づいて来て、実にあきれた下心が見えたので、
33  「憂き宿世ある身にて、かく生きとまりて、果て果ては、めづらしきことどもを聞き添ふるかな」と、人知れず思ひ知りて、人にさなむとも知らせで、尼になりにけり。
 
 「辛い運命の身でこのように生き残って、終いにはとんでもない事まで耳にすることよ」と、人知れず思い悟って、誰にもそれとは知らせずに、尼になってしまったのであった。
 
34  ある人びと、いふかひなしと、思ひ嘆く。
 守も、いとつらう、
 仕えている女房たちは、何とも言いようがないと悲しみ嘆く。
 河内守もたいそう辛く、
35  「おのれを厭ひたまふほどに。
 残りの御齢は多くものしたまふらむ。
 いかでか過ぐしたまふべき」
 「わたしをお嫌いになってのことに。
 まだ先の長いお年でいらっしゃろうに。
 これから先、どのようにしてお過ごしになるのか」
36  などぞ、あいなのさかしらやなどぞ、はべるめる。
 
 などと。
 人は、それをつまらぬおせっかいだなどと、申しているようである。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 甲斐が嶺を嶺越し山越し吹く風に人にもがもやことづてやらむ(古今集東歌-一〇九八 甲斐歌)(戻)  
  出典2 潮満たぬ海と聞けばや世とともにみるめなくして年の経ぬらむ(後撰集恋一-五二八 読人しらず)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 殿は--との(の/+は)(戻)  
  校訂2 を召し--をし(し/$<朱>)めし(戻)  
  校訂3 弟--を(を/+と<朱>)うと(戻)  
  校訂4 下りし--くたり(り/+し<朱>)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。