源氏物語 概要と構図

 
 源氏物語は、伊勢(と竹取)物語を受けた続編。
 これが全体の解釈に貫かれる一番大事な方向性。
 
 根拠は以下に示すが、一応このような見方は一般では全くない。
 
 

 ・源氏の出自 ・特別な女性達 ・系譜その他
 
 

源氏の出自

 
 
 伊勢末尾の梅壷を受け、桐壺から始まる(こういう手法は古典の継承法。権威ある古典でこれを外すことは、ない。最も影響を受けた作品から言葉をとる)。
 この物語でかつての伊勢斎宮に梅壺を当て、その巻で伊勢物語を世間で言われる浅い恋愛話ではないと梅壺側に擁護させ勝利させる等からもこう言える。
 

 したがって、光る源氏は、伊勢の主人公・昔男という匿名の男を受けた存在。なので名前がない。
 光るはかぐやの光を受けている(それ以上と)言及され、つまり伊勢いろは竹取の著者。だから葵と紫のみ色。葵は昔男の唯一の妻で早くに散った妻。
 始めの祖、その心に及ばないとし、聡明で、女達を惑わし親心で守り、歌を語る存在。ここまで紫に書かせる伝説の存在。
 歌を語るには資格がいる。知る人ぞ知る歌の称号をもつ実際の実力者。それか歌の神(歌物語=神語。by古事記)。そこらの人でも語れるなら誰でもできる。
 

 同様の完全匿名の存在に頭中将がおり、そちらは人物特定の要素の役職すら何度も変わり特定が困難である。こちらは後述のように悪評つきまとう業平。
 竹取同様の用法・暗示。文脈もそちらより一掃確実。その血が光る源氏の後継者として入りこむことを、紫は認めない(つまり一般の伊勢評を認めない)。
 なお伊勢において中将とは端的に業平のこと。そこでの表現である「在五中将」について源氏でも端的に言及。「中将」への意識は凡人のものではない。
 
 母桐壺更衣で問題が起きるのは、その身元が争われたことを受けている(昔男の身はいやし、父はなほ人しかし母は宮)。
 この時点で源融でも光孝でもない。文屋。人麻呂(太安万侶)の系譜の。どちらも卑官なのに帝に近く、伝説の歌物語を記す(古事記・伊勢竹取)。
 生まれは「先の世にも御契りや深かりけむ、……男御子さへ生まれたまひぬ」
 以上の文脈から、物語冒頭でいう先の世は伊勢物語の世界(時代)のこと。
 物語では伊勢物語を「伊勢の海の深き心(海ほど深い心=はかりしれない)」と評している(片端をだにえ見ず)。竹取も同様(雲居は…誰も知りがたし)。
 
 伊勢は、紫の生きた(970~1019頃)100年程前の物語(830~886頃)。
 源氏物語における帝の系譜は、桐壺帝(父)・朱雀(源氏の異母兄、実在人物・923~)・冷泉(実在・950~)。
 
 この物語の古・古代は100年前のことではなく神代のこと。それは神話(おとぎ話)のことではなく、古の神髄を著す者がいた(いる)代のこと。
 それがわからないから、ふりにしがどれくらい古いかわからないとか、業平の話とかになる。古は昔ではない。永遠。常にある。だから古い。
 とこしえのいにしえ。昔は過ぎ去る。古は永遠。次元が違う。昔を超えかつ永続する。それを目に見える形であらわしたのが、始祖の古典。
 
 

特別な女性達

 
 
 この物語は伝説の昔男と紫を一緒にしようとした夢物語(現代でいう女子の妄想。著者の紫と紫の上のリンクは前提。違うとみるのはナンセンスかつ無理)。
 源氏が女達と次々に関係を結び問題を起こすが、これは伊勢の昔男が後宮の女所に仕えていた描写による(そういう経歴の人物は縫殿の六歌仙しかいない)。
 なので女達の後見と表現し(御心・親心)、紫も擁護し続ける。死後もなお擁護させる。だから源氏がただ女達と戯れ、心をうき憂きさせる話ではない。
 紫は幸せの頂きの終わり(薫の伏線)を悟ると、突如心を乱し果て、源氏もすぐ後追いする(ある意味幸せか。というよりこれ以上書けないという意味)。
 

 源氏の最初の妻・は、昔男の幼馴染の妻、筒井筒=梓弓の女の投影。なので同様にすぐ果てる。
 死因は斎宮の母の思念。伊勢からの因縁を象徴。いわゆる車争い。車とは古来カルマの象徴。クルマでカルマ(car)。冗談のようでもこれが理。
 葵と紫のみ連続の色で上がつくのは、二人だけ特別の神がかりということ(葵祭とも掛けられている)。伊勢で昔男が契ったのは二人しかいない。
 なぜ色か。彼女がいろは歌のヒロインだから。梓弓の続き(嘆き)がいろは歌。
 そこまで紫が見出したかは定かではないが、素直に見れば見出した。なぜなら、紫は源氏のモデルは唯一絶対の実力者という絶対の確信をもっているから。
 
 伊勢での二番目の相手は伊勢斎宮。葵の次の相手、紫は彼女を継承している。
 だから同様に最後山に入りたがるし、パートナーとしても絶対なはずのに、すぐ揺らぐ微妙な立ち位置にある。斎宮にしないのは二の舞にしないため。
 伊勢で二人は盃を交わし、また逢うと契っただけ。寝れなかった。人目(童=妹)を静めきれず。伊勢69段。なので紫の上には子どもがいない。
 直前の65段で後宮で人目憚らず女につきまとい流された「在原ナリける男」が、直後斎宮にもてなされ一晩で仕込んだとかいう穢れきった言説は論外。
 

 源氏が最初に惹かれる藤壺は、竹取最後の不死の薬の入った壺に当て、かぐや=小町がモデル。だから永遠の存在として描かれる(死後も出現)。
 だから彼女と源氏の子は魅力的(冷泉帝)。しかしその血は続かない。基本この世のもの・レベルではないから(実在の冷泉は気がふれていたとされる)。
 そして小町とセットになるのは文屋のみ。小町の歌は文屋の歌。だから小町は六歌仙。小町は歌手。だから彼女の歌だけ作品量に比して説明が著しく少ない。
 同じ縫殿にいたからその男事情を竹取で描いた。縫殿にいたとは小町針というエピソードから。言い寄る男達を拒絶し続ける話。これがかぐやの話の素材。
 なお、竹取の翁は万葉の長歌、かぐや姫は古事記からの出典(「大筒木垂根王之女。迦具夜比賣命」名前がカグツチと掛かり、その心は触ると火傷する)。
 
 

系譜その他

 
 
 主人公のライバル頭中将は、在五中将(業平)。この時代中将といえばそうなる(竹取最後の壷の頭中将とも掛けた脇役)。
 その子(柏木)の血筋が源氏の妻・女三宮(異母兄朱雀院の愛娘の後見としての妻)に入りが生まれるが、著者たる紫は、これを源氏の後継者と認めない。
 それを紫亡き後、実行する役割が物語最後のヒロイン浮舟。彼女が薫を拒絶して物語が終わる。浮舟は紫同様の末路を辿る、いわば紫の転生。
 薫は源氏(昔男)の後継者と目される存在の象徴。
 ひかるとかおる。名前は似ているが中身は全然違う。いわば源融。かおるととおる。あとは光孝。とっかかりは光の一文字か。その光ではないことは上述。
 

 最後に、源氏には葵との間に夕霧という最初の子が一人いるが(何の問題もない唯一の男子)、この子は上述した文屋の子、朝康を受けた存在。
 伊勢では妻との間に子がいたとし(伊勢94段)、名前も朝とで対照している(これも梅壷と壺の対照の表われ)。
 しかし夕霧も源氏亡き後同じ様にしても(「昔の御心おきてのままに、改め変ることなく」)、女達は源氏のことを思ってしまう(匂宮1-3)。
 

 同様の構図で、業平の子に棟梁(ムネハリ)という者がいるが、こちらは柏木(及び)に掛かる(香柏は梁に用いられた)。
 これが事実の強さ。これで偶然というのはさすがに無理だろう。これが「先の世にも御契りや深かりけむ」。という訳で論証完了。
 

 以下の画像はウィキペディア『淑景舎(桐壺)』より。
 色の枠囲みと同色印は本ページ。

桐壺・梅壺・藤壺の配置