古事記 神武東征~原文対訳

上巻
不合命の系譜
古事記
中巻①
神武天皇
神武東征
高倉下
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)

東征(どげんか遷都如何。そのまんま東国)

     
神倭
伊波禮毘古命。
〈自伊下
五字以音〉
 神倭
伊波禮毘古
かむやまと
いはれびこの命、
 カムヤマト
イハレ彦の命
(神武天皇)、
與其伊呂兄
〈伊呂二字以音〉
五瀬命
二柱。
その
同母兄いろせ
五瀬の命と
二柱、
兄君の
イツセの命と
お二方、

高千穂宮而。
高千穗の宮に
ましまして
筑紫の高千穗の宮に
おいでになつて
議云。 議はかりたまはく、 御相談なさいますには、
     
坐何地者。 「いづれの地ところにまさば、 「何處の地におつたならば
平聞看
天下之政。
天の下の政を平けく
聞きこしめさむ。
天下を泰平にすることが
できるであろうか。
猶思東行。 なほ東のかたに、行かむ」
とのりたまひて、
やはりもつと東に行こうと思う」
と仰せられて、
即自日向發。 すなはち
日向ひむかより發たたして、
日向の國からお出になつて
幸行筑紫。 筑紫に
幸いでましき。
九州の北方に
おいでになりました。
     
故到
豐國宇沙之時。
かれ豐國の宇沙うさに
到りましし時に、
そこで豐後ぶんごのウサに
おいでになりました時に、
其土人。 その土人くにびと その國の人の

宇沙都比古。
宇沙都比賣
〈此十字以音〉
二人。
名は
宇沙都比古うさつひこ、
宇沙都比賣うさつひめ
二人、
ウサツ彦・
ウサツ姫
という二人が

足一騰
宮而。
足一騰
あしひとつあがりの
宮を作りて、
足一つ
騰あがりの
宮を作つて、

大御饗。
大御饗
おほみあへ
獻りき。
御馳走を
致しました。
     
自其地
遷移而。
其地そこより
遷りまして、
其處から
お遷りになつて、
於筑紫之
岡田宮
一年坐。
竺紫つくしの
岡田の宮に
一年ましましき。
筑前の
岡田の宮に
一年おいでになり、
亦從其國
上幸而。
またその國より
上り幸でまして、
また其處から
お上りになつて
於阿岐國之
多祁理宮。
七年坐。
阿岐あきの國の
多祁理たけりの宮に
七年ましましき。
安藝の
タケリの宮に
七年おいでになりました。
〈自多下
三字以音〉
   
     
亦從其國
遷上幸而。
またその國より
遷り上り幸でまして、
またその國から
お遷りになつて、
於吉備之
高嶋宮。
八年坐。
吉備の
高島の宮に
八年ましましき。
備後びんごの
高島の宮に
八年おいでになりました。
     

速吸門(早よせ衛門)

     
故從其國
上幸之時。
 かれその國より
上り幸でます時に、
 その國から
上のぼつておいでになる時に、
乘龜甲。 龜の甲せに乘りて、 龜の甲こうに乘つて
爲釣乍。 釣しつつ 釣をしながら
打羽擧來人。 打ち羽振り來る人、 勢いよく
身體からだを振ふつて來る人に
遇于
速吸門。
速吸はやすひの
門とに
遇ひき。
速吸はやすいの
海峽かいきようで
遇いました。
     
爾喚歸。 ここに喚びよせて、 そこで呼び寄せて、
問之
汝者誰也。
問ひたまはく、
「汝いましは誰ぞ」
と問はしければ、
「お前は誰か」
とお尋ねになりますと、
答曰
僕者國神。
答へて曰はく、
「僕あは國つ神なり」とまをしき。
「わたくしはこの土地にいる神です」
と申しました。
名宇豆毘古。    
     
又問
汝者知
海道乎。
また問ひたまはく
「汝は海うみつ道ぢを知れりや」
と問はしければ、
また
「お前は海の道を知つているか」
とお尋ねになりますと
答曰
能知。
答へて曰はく、
「能く知れり」とまをしき。
「よく知つております」
と申しました。
又問
從而仕奉乎。
また問ひたまはく
「從みともに仕へまつらむや」
と問はしければ、
また「供をして來るか」
と問いましたところ、
答曰仕奉。 答へて曰はく
「仕へまつらむ」とまをしき。
「お仕え致しましよう」
と申しました。
     
故爾
指度槁機。
かれここに
槁さをを指し度わたして、
そこで
棹さおをさし渡して
引入其御船。 その御船に引き入れて、 御船に引き入れて、
即賜名
號槁根津日子。
槁根津日子
さをねつひこ
といふ名を賜ひき。
サヲネツ彦
という名を下さいました。
〈此者
倭國造等之祖〉
(こは
倭の國の造等が祖なり。)
 
     

楯津で楯突く

     
故從其國
上行之時。
 かれその國より
上り行いでます時に、
 その國から
上つておいでになる時に、

浪速之
渡而。
浪速なみはやの
渡わたりを
經て、
難波なにわの
灣わんを
經て

青雲之白肩津。
青雲の白肩しらかたの津に
泊はてたまひき。
河内の白肩の津に
船をお泊とめになりました。
     
此時。 この時に、 この時に、
登美能
那賀須泥毘古。
〈自登下
九字以音〉
登美とみの
那賀須泥毘古
ながすねびこ、
大和の國の
トミに住んでいる
ナガスネ彦が
興軍。 軍を興して、 軍を起して
待向以戰。 待ち向へて戰ふ。 待ち向つて戰いましたから、
爾取所
入御船之楯
而下立。
ここに、
御船に入れたる楯を取りて、
下おり立ちたまひき。
御船に入れてある
楯を取つて
下り立たれました。
故號其地
謂楯津。
かれ其地そこに號けて
楯津たてづといふ。
そこでその土地を名づけて
楯津と言います。
於今者
云日下之蓼津也。
今には
日下くさかの蓼津たでづといふ。
今でも
日下くさかの蓼津たでつと
言いつております。
     

イツセの痛手

     
於是與
登美毘古戰之時。
ここに
登美とみ毘古と戰ひたまひし時に、
かくて
ナガスネ彦と戰われた時に、
五瀬命。
於御手。
五瀬いつせの命、
御手に
イツセの命が
御手に
負登美毘古之
痛矢串。
登美毘古が
痛矢串いたやぐしを負はしき。
ナガスネ彦の
矢の傷をお負いになりました。
     
故爾詔。 かれここに詔りたまはく、 そこで仰せられるのには
吾者爲
日神之御子。
「吾は
日の神の御子として、
「自分は
日の神の御子として、
向日而戰不良。 日に向ひて戰ふことふさはず。 日に向つて戰うのはよろしくない。
故負
賤奴之痛手。
かれ賤奴やつこが痛手を負ひつ。 そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。
     
自今者。
行廻而。
今よは
行き廻めぐりて、
今から廻つて行つて
背負日以撃
期而。
日を背に負ひて撃たむ」と、
期ちぎりたまひて、
日を背中にして撃とう」
と仰せられて、
自南方。
廻幸之時。
南の方より
廻り幸でます時に、
南の方から
廻つておいでになる時に、
到血沼海。 血沼ちぬの海に到りて、 和泉いずみの國の
チヌの海に至つて
洗其御手之血。 その御手の血を洗ひたまひき。 その御手の血をお洗いになりました。
故謂
血沼海也。
かれ血沼の海といふ。 そこでチヌの海とは言うのです。
     
從其地
廻幸。
其地そこより
廻り幸でまして、
其處から
廻つておいでになつて、

紀國男之
水門而詔。
紀きの國の男をの
水門みなとに
到りまして、詔りたまはく、
紀伊きいの國の
ヲの水門みなとに
おいでになつて仰せられるには、
負賤奴之手
乎死。
「賤奴やつこが手を負ひてや、
命すぎなむ」
「賤しい奴のために
手傷を負つて死ぬのは
殘念である」
爲男建
而崩。
と男健をたけびして
崩かむあがりましき。
と叫ばれて
お隱れになりました。
     
故號其水門。
謂男水門也。
かれその水門みなとに名づけて
男をの水門といふ。
それで其處を
ヲの水門みなとと言います。
     
陵即在
紀國之
竈山也。
陵みはかは
紀の國の
竈山かまやまにあり。
御陵は
紀伊の國の
竈山かまやまにあります。
     

失神

     

神倭
伊波禮毘古命。
 かれ
神倭
伊波禮毘古の命、
 カムヤマト
イハレ彦の命は、
從其地廻幸。 其地そこより
廻り幸でまして、
その土地から
廻つておいでになつて、
到熊野村之時。 熊野くまのの村に到りましし時に、 熊野においでになつた時に、
大熊。
髣髴
出入即失。
大きなる熊、
髣髴ほのかに
出で入りてすなはち失せぬ。
大きな熊が
ぼうつと現れて、
消えてしまいました。
     
爾神倭
伊波禮毘古命。
焂忽爲遠延。
ここに神倭
伊波禮毘古の命
焂忽にはかにをえまし、
ここにカムヤマト
イハレ彦の命は
俄に氣を失われ、
及御軍
皆遠延
而伏。
〈遠延二字以音〉
また御軍も
皆をえて
伏しき。
兵士どもも
皆氣を失つて
仆れてしまいました。
     
    古事記
中巻①
神武天皇
東征
高倉下