伊勢物語 9段:東下り あらすじ・原文・現代語訳

第8段
浅間の嶽
伊勢物語
第一部
第9段
東下り
第10段
たのむの雁

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照 
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  ひとりふたり

 
 Ⅰ三河八橋 餉(かれいい) 燕子花(折句)♪唐衣(古今410)

 

  ①→みな人餉のうへに涙おとして
 

 ※三河の三つの川;逢妻女川・逢妻男川・逢妻川

 

 Ⅱ駿河修行者 ♪富士の嶺 なりは塩尻

 

  ②→宇津に夢うつつを掛けた話

 
 Ⅲ隅田川渡守 ♪都鳥(古今411)
 

  ③→舟こぞりてなきにけり

 (①②を踏まえ、泣きとみせ掛け、舟無きとわが思う人亡きと解く。つまりはよ乗れといっているのに、歌で返す面倒な客なので舟はいなくなった。旅をしてきた一見客の問いかけ歌でこぞって泣くのはおかしい。都鳥と言った渡守の嘘がばれたのでばれた(釣り用語で引っかからなかったこと・途中で逃げること)。おかしいことはおかしいと思わないとおかしい。それが論理的思考。おかしいのにおかしくないというのが、知ったか)

 

 この段は三部構成。
 ①三河の八橋に至った燕子花を折句した唐衣の歌。逢妻男川のほとりで妻の死を偲ぶ。妻の死とは筒井筒と梓弓のこと。業平と見るから筋を全く通せない。
 ②駿河の宇津の山の夢ウツツの話。
 ③隅田川の渡守がいう都鳥への妻問い歌。そしてそれはいない、無きと泣きを掛けたオチである。
 
 以上、三河にかけた三つの川の話。
 東を、吾妻で妻問い・妻請い(妻恋)に掛けまくるのは、古事記のヤマトタケル以来の文脈。
 ここで妻問いを求婚ではなく、亡き妻の質問(妻恋)にした点が伊勢のオリジナル。
 
 古今410・411(唐衣・都鳥)で業平認定が連続しているのは、古今が伊勢を業平日記・業平歌集とみなして参照した。羇旅の巻で場所を隔てているのに連続したこの認定がその証拠。

 同じ業平認定の渚の院(伊勢82段)の歌は場所を隔てている(古今418)。

 

 貫之は土佐日記で仲麻呂の歌と渚の院の歌を特に参照しているが、古今の詞書で、万葉時代末期の仲麻呂の歌は3位、東下りの都鳥が2位、そして1位は筒井筒の沖つ白波である。これらは、全て、貫之が、古今前の書物を参照したことを示している(沖つ白波龍田山は万葉の定型句で伊勢はその本歌取り。だから貫之の評価がある。しかしそれが無視されるのはただの無知か、あるいは伊勢は他人の作を引用して作られた前提が崩れるからだろう)。これが東下りと同じ羇旅の古今406の仲麻呂の詞書の存在意義である(仲麻呂と東下りの間には小野篁や人麻呂認定の歌がある)。

 古今の伊勢に異様に厚い詞書(詞書上位20首中10首が伊勢の歌、上位10首では6首が伊勢の歌)を、後日の左注などとするものがあるが、右に書いてあるものを左という典型的な曲解である。記述を悉く曲げないと維持できない。これが業平認定の宿命。根拠は宙に浮いた業平認定というドグマのみ。

 古今で突出して最長の詞書の筒井筒は田舎の幼馴染の男女の話で、業平のものではありえない。つまり貫之は伊勢を業平のものとする一般の認定は断固認めなかった。そして都鳥の解釈と筒井筒(と続く妻の死をいう梓弓)を結び付けた。

 もっと確実な根拠を示そう。文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平を恋三で敏行(義弟)により連続を崩す。この分野選定と人選に意味を見れないのは、和歌の完全素人。さらに貫之は、古今938の小町の歌で三河行きの記録を文屋に持たせている。文屋を伊勢の著者で昔男とするのに何の支障もなく、むしろ盤石の根拠がある。昔男の歌・伊勢の歌は基本的に全て文屋の作で、文屋の歌物語(ミュージカル)であり、業平の歌ではありえない。101段で業平は歌をもとより知らずとしているから引用する動機がない。かつ伊勢は万葉すら一度も直接引用はないから、古今以後をひたすら引用する動機が全くない。そして伊勢が引用作品の寄せ集めという根拠は、素朴な記述年代を無視して、古今と後撰以外と見る以外になく、歌物語としてあまりに不自然であり、あまりに伊勢の影響力を下に見ている。
 
 

あらすじ

 
 
 むかし、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ。あづまの方に住むべき国もとめにとて往きけり。
 
 「身をえうなきものに思ひなし」たのは、大和の筒井・筒井筒(幼馴染)の妻があづさ弓で亡くなり、親をなくした妻への仕送りのため、別れを惜しんで宮仕えに出た(24段、94段)ことの意味がなくなったからである。
 だから妻を思い出した歌で泣いている。 
 
 業平の気まぐれ行楽で都にいる妻を思い出し泣くという通説解釈は、伊勢をあまりに小馬鹿にしている。業平の歌と見るからそういう解釈になる。
 伊勢を業平歌集のように見るのは、伊勢を丸ごと在五中将日記とみなして古今がそう認定したから(唐衣の歌は古今410、都鳥の歌が古今411。業平だから固めているわけではない。同じ巻の古今418に82段・渚の院の歌がある)。しかし業平の歌とか実作というのは思い込みとそれを維持したい願望に基づいている。
 後日読解を多少進めて、伊勢の著者を業平とできなくなったその時点で、業平の歌という根拠は失われた。しかしその論理構造を誰も気づかない。都合よく忘れた。というか無視した。論理的思考がないからである。事実と評価を混同しているからである。前提を無視し、伊勢を業平目線で分断すれば、押し切れると思っているからである。しかし世の中そうはなっていない。それを理という。
 だから業平には東国行きの記録がないとされるのである。つまり業平認定には裏づけがない。しかしそれで伊勢が虚構ということにはならない。諸記録に照らせば、業平という見立てが虚構である。東下りとあるが業平には東国行きの記録がない。それは業平認定にはそれを裏づける記録がないと同義である。何も瑣末な話ではない。東下りの都鳥の歌は古今で2番目に長い詞書の歌なのだから。ちなみに古今最長の詞書は筒井筒の女の歌である。業平全く関係ない伊勢の歌。
 どこまでも伊勢が業平のためのものだと思い込む。自分達の評価を事実と思い込む。業平業平と連呼して既成事実化していく。写本も書きかえる。
 証拠による多角的裏づけを完全に無視している。都合が悪いと虚構。都合が良いと事実。思い込みに沿えば事実。しかし事実なら代表的な記録が悉く食い違うことなどありえない。業平の名声の最大の根拠は伊勢だろう。古今ではない。古今の圧倒的に伊勢(業平認定)に偏重した詞書を見て、なお古今が先と言うのは意図的な無視か、歪んだ推論しかできない人。伊勢を抜かして何を語れる。しかしその肝心の伊勢が業平を拒絶している。それが「けぢめ見せぬ心」の在五。63段
 
 しかし文屋には根拠がある。多角的な根拠がある。文屋は昔男のあらゆる要素を備えている。古今で唯一、二条の后の完全オリジナルの詞書を二つ持つ。業平のものは素性のコピーと伊勢のコピー。古今のニ条の后の詞書はこの三者しかいない。文屋は唐衣のような女物の服を扱う縫殿にいた。そして直接の三河行きの記録(小町の歌の詞書)を持つ。業平に比べて十分すぎる根拠がある。
 しかしそんな卑官の実力など認めない。和歌は貴族のもの。万葉(人麻呂・赤人)の無私の無名性に乗じ、私物化した家持と同じ構図。

 
 貫之と紫も、業平否定を支持している(古今の仮名序と古今本体の配置※、源氏の完全無名男の主人公・中将系列否定・及び絵合)。誰もそんなことを知らないのは、二人が疑義を呈しても無視・黙殺してきたからである(今でも絵合は無視されるし、仮名序の現状の解釈は文屋だけ注釈つきでけなす)。それがこの国の伝統。権威(体制)に都合が悪い視点は認めない。権威を認めれば認める。
 ※文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平を恋三で敏行(義弟)により連続を崩す。この分野選定と人選に意味を見れないのは、和歌の完全素人としかいいようがない。
 
 隅田川のほとりに群れていると、はよ舟に乗れと言われたのに、渡守に鳥を問い、「わが思ふ人がいるのかいないか」という歌を詠んだところ、「舟こぞりてなきにけり」というのは、伊勢特有のオチを微妙な表現にして、解釈に幅をもたせた表現である。その解釈を広く問うために、貫之がこの歌を古今411を古今で2番目に多い詞書にしたと解される。舟に乗ったなど安易な補いがないから貫之による要約。
 教科書は舟の人がみんな泣いたとするが不自然だろう。舟には乗っていない。乗らむとしただけ。古今411の詞書もそうしている。
 
 表面的には、都鳥という適当な嘘がばれて面倒な客から退散した。
 高等な意味では、わが思ふ人(妻)がいるかと問うと、もういなくなったという話。
 
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第9段 東下り 八橋 から衣
   
 むかし、男ありけり。  むかし、おとこありけり。  むかし男ありけり。
  その男、身をえうなきものに思ひなして、 そのおとこ、身をえうなきものに思なして、 そのおとこ。身はようなきものに思ひなして。
  京にはあらじ。 京にはあらじ、 京にはをらじ。
  あづまの方に住むべき国もとめに あづまの方にすむべきくにもとめに あづまのかたにすむべき所もとめに
  とて往きけり。 とてゆきけり。 とてゆきけり。
 
  もとより友とする人、 もとよりともとする人、 もとよりともする人。
  ひとりふたりしていきけり。 ひとりふたりしていきけり。 ひとりふたりして。もろともにゆきけり。
  道知れる人もなくてまどひいきけり。 みちしれる人もなくて、まどひいきけり。 みちしれる人もなくて。まどひゆきけり。
 
   三河の国  みかはのくに、  みかはのくに
  八橋といふ所にいたりぬ。 やつはしといふ所にいたりぬ。 やつはしといふ所にいたりぬ。
  そこを八橋といひけるは、 そこをやつはしといひけるは、 そこやつはしといふことは。
  水ゆく河のくもでなれば、 水ゆく河のくもでなれば、 水のくもでにながれわかれて。
  橋を八つわたせるによりてなむ はしをやつわたせるによりてなむ、 木八わたせるによりてなむ
  八橋といひける。 やつはしとはいひける。 八橋とはいへる。
 
  その沢のほとりの木のかげにおり居て、 そのさはのほとりの木のかげにおりゐて、 その澤のほとりに。木かげにおりゐて。
  餉くひけり。 かれいひくひけり。 かれいひくひけり。
 
  その沢に、 そのさはに その澤に
  燕子花いとおもしろく咲たり。 かきつばたいとおもしろくさきたり。 かきつばたいとおもしろくさきたり。
  それを見て、 それを見て、 それを見て。都いとこひしくおぼえけり。
  ある人のいはく、 ある人のいはく、 さりけれぱある人。
  かきつばたといふ五文字を かきつばたといふいつもじを かきつばたといふいつもじを。
  句のかみにすゐて、旅の心をよめ くのかみにすへて、たびのこゝろをよめ、 くのかしらにすへて。たひの心よめ
  といひければ、よめる。 といひければよめる。 といひければ。ひとの人よめり。
 

10
 唐衣
 きつゝ馴にし
 つましあれば
 から衣
 きつゝなれにし
 つましあれば
 から衣
 きつゝなれにし
 つましあれは
 はるばる来ぬる
 旅をしぞ思ふ
 はるばるきぬる
 たびをしぞ思
 遙々きぬる
 旅をしそ思
 
  とよめりければ、 とよめりければ、 と讀りければ。
  みな人餉のうへに涙おとして みなひと、かれいひのうへになみだおとして みな人かれいひのうへに淚落して
  ほとびにけり。 ほとびにけり。 ほとびにけり。
 
   行き行きて駿河の国にいたりぬ。  ゆきゆきて、するがのくにゝいたりぬ。  ゆき〳〵て。するがの國にいたりぬ。
  宇津の山にいたりて、 うつの山にいたりて、 うつの山にいたりて。
  わが入らむとする道は わがいらむとするみちは、 わがゆくすゑのみちは。
  いと暗う細きに、 いとくらうほそきに、 いとくらくほそきに。
  蔦かへでは茂り、もの心ぼそく、 つた、かえではしげり、ものごゝろぼそく、 つたかづらはしげりて。もの心ぼそう。
  すゞろなるめを見ることと思ふに、 すゞろなるめを見ることゝおもふ、 すゞろなるめを見ることとおもふに。
  修行者あひたり。 す行者あひたり。 す行者あひたり。
 
  かゝる道はいかでかいまする かゝるみちはいかでかいまする、 かゝるみちには。いかでかおはする
  といふを見れば見し人なりけり。 といふを見れば見し人なりけり。 といふに。見れば見し人なりけり。
  京に、その人の御もとにとて、 京に、その人の御もとにとて、 京にその人のもとにとて。
  ふみかきてつく。 ふみかきてつく。 文かきてつく。
 

11
 駿河なる
 宇津の山辺のうつゝにも
 するがなる
 うつの山辺のうつゝにも
 するかなる
 うつの山への現にも
  夢にも人に
  逢はぬなりけり
  ゆめにもひとに
  あはぬなりけり
  夢にも人の
  あはぬなりけり
 
   富士の山を見れば、 ふじの山を見れば、  富士の山を見れば。
  五月のつごもりに、雪いとしろう降れり。 さ月のつごもりに、雪いとしろうふれり。 さ月つごもり雪いとしろくふりたり。
 

12
 時しらぬ
 山は富士の嶺いつとてか
 時しらぬ
 山はふじのねいつとてか
 時しらぬ
 山はふしのねいつとてか
  鹿の子まだらに
  雪の降るらむ
  かのこまだらに
  雪のふるらむ
  かのこまたらに
  雪の降覽
 
  その山は、 その山は、 この山は。
  こゝにたとへば、 こゝにたとへば、 上はひろく。しもはせばくて。
大笠のやうになん有ける。
  比叡の山を二十ばかり ひえの山をはたち許 高さはひえの山をはたちばかり。
  重ねあげたらむほどして、 かさねあげたらむほどして、 かさねあげたらん
  なりは塩尻のやうになむありける。 なりはしほじりのやうになむありける。 やうになん有ける。
 
   なほゆきゆきて  なをゆきゆきて、  なをゆき〳〵て。
  武蔵の国と下つ総の国
との中に、
むさしのくにとしもつふさのくに
との中に、
むさしの國としもつふさの國
と。ふたつがなかに。
  いとおほきなる河あり。 いとおほきなる河あり。 いとおほきなる河あり。
  それを角田河といふ。 それをすみだ河といふ。 その河の名をば。すみだ川となんいひける。
  その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、 その河のほとりにむれゐておもひやれば、 その河のほとりに。むれゐておもひやれば。
  かぎりなく、遠くも来にけるかな、 かぎりなくとをくもきにけるかな かぎりなくとをく もきにけるかな
  とわびあへるに、 とわびあへるに、 とわびをれば。
  渡守、 わたしもり、 わたしもり。
  はや舟に乗れ。日も暮れぬといふに、 はやふねにのれ、日もくれぬ、といふに、 はや舟にのれ。日もくれぬといふに。
  乗りて渡らむとするに、 のりてわたらむとするに、 のりてわたらんとするに。
  みな人ものわびしくて、 みなひと、ものわびしくて、 みな人物わびしくて。
  京に思ふ人なきにしもあらず。 京におもふ人なきにしもあらず。 京に思ふ人なきにしもあらず。
  さる折りしも、 さるおりしも、 さるおりに
  白き鳥の嘴と脚とあかき、 しろきとりのはしとあしとあかき、 しろき鳥の。はしとあしとあかきが。
  鴫のおほきさなる、 しぎのおほきさなる、 しぎのおほきさなる。
  水のうへに遊びつゝ魚をくふ。 水のうへにあそびつゝいをゝくふ。 水のうへにあそびつゝ。いををくふ。
 
  京には見えぬ鳥なれば、 京には見えぬとりなれば、 京には見えぬとりなれば。
  みな人見知らず。 みな人、見しらず。 人々みしらず。
  渡守に問ひければ、 わたしもりにとひければ、 わたしもりにとへば。
  これなむ都鳥といふを聞きて、 これなむ宮こどり、といふをきゝて、 これなむ都鳥と申といふをきゝて。
 

13
 名にしおはゞ
 いざこと問はむ都鳥
 名にしおはゞ
 いざことゝはむ宮こどり
 名にしおはゝ
 いさこととはん都鳥
  わが思ふ人は
  ありやなしやと
  わがおもふ人は
  ありやなしやと
  我思ふ
  人は有やなしやと
 
  とよめりければ、 とよめりければ、 とよめりければ。
  舟こぞりて泣きにけり。 ふねこぞりてなきにけり。 舟人こぞりてなきにけり。
 
      その河渡り過て。
都に見しあひて物がたりして。
ことづてやあるといひければ。
 
     都人
 いかゝととはゝ山たかみ
      はれぬ雲ゐに
  わふとこたへよ
 
      ※最後の歌は伊勢の本歌取りを組み込んだ伊勢本編の実質的改竄。このような表記をもって全体を定義することを本末転倒という。本=伊勢。末=古今・後撰等。第三者の認定を直ちに真実とみなすことは証拠法上ありえない。諸事実=記録との多角的符号が必要である。専門家の認定として一応信用できるとしても、根本的な疑義が生じた場合は、その認定を0にしなければならない。認定を崩す証拠が必要なのではない。0から業平性を証明しなければならない。しかしそれは無理なので周辺証拠を作出し、伊勢の独自性を否定するための措置。これらは3~6、69段末尾の記述(一般読者の想定を明らかに超えており、あいまいな感想ではなく事実レベルを端的に指摘している)と明らかに性質が異なる。塗籠は5段・69段の末尾は無視する。塗籠独自要素は常に体制・序列を安心させるもの(84・87・114段等。これらは本文表記や帝の名すら変える改竄。業平没後の仁和から存命時の深草に)。
   

現代語訳

 
 

むかし、男ありけり。
その男、身をえうなきものに思ひなして、
「京にはあらじ。あづまの方に住むべき国もとめに」とて往きけり。

 
むかし、男ありけり
 むかし、男がいた。
 
 この男は文屋で、業平ではない。だから古今938の小町の詞書で文屋が三河に行ったとあるのである。

 「文屋のやすひて、みかはのそう(三河掾)になりて、あかた見にはえいてたたしやといひやれりける返事によめる」

 これは文屋8・貫之9の貫之による伊勢の著者性を裏付けるための配慮。ちなみに業平の配置は在五の伊勢63段にかけ、初出が古今53・63である。

 

 大事なことなので繰り返そう。貫之は業平を重視してはいない。業平を重視したのは貫之以外のその他大勢で、伊勢を読んでいない人達である。

 根拠:文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続業平を恋三で敏行により連続を崩す

 

 つまり無名の伊勢に自分達の理解が及ばなさすぎて(現状の唐衣の歌の注釈を見てほしい)、せいぜい貴族の末席を汚す淫奔の在五・業平のものと定義し嘲笑していたが、後にそれを都合よく忘れて美化するようになった。しかし伊勢を小ばかにし(古今と伊勢が矛盾する場合、常に古今が正しく伊勢は間違いと見る)文言を自由自在に曲げる解釈態度は今でも随所にみられる。

 

 女所の縫殿にいたから、男なのに女物の服の唐衣の歌を詠むのである。本段の歌も服の美称などと唐衣の本質を無視して都合よくごまかす点でも通説は誤り。

 それともなにか、ここでの男達は唐衣のようなものを着ていたとでもいうのか。どれほど語義と象徴性を完全に無視したありえない見立てなのか。そのような美しい服を着ていた妻を偲んだ歌である。

 服のこと、かつ信夫摺りのような柄までいう男がいるか。現代でそのようなことを著述する男を思い返してほしい。まず確実にアパレル関係の人である。それ以外に見たことがない。そしてそのような話題は普通でも何でもない。当時の一般という根拠がない。当時の男の作で伊勢竹取以外に何がある。というか女所に勤めた顕著に特殊な経歴をもち、伊勢を記し和歌の歴史の礎を築くほどの十分な資格をもつ歌人で、十分な筆力・物書き足りうる能力を裏付ける、100%確実な経歴をもつのは、縫殿で、判事(裁判官)で、場合により文章生(つまり大学出)ともされる文屋しかいない。つまり知的エリート。
 
 

ひとりふたり

 
 
その男、身をえうなきものに思ひなして、
 その男、身をようないものと思いなして、
 
 えうなき:用ない、必要ない×ようない(悪い)
 

京にはあらじ
 京にはいられん
 

あづまの方に住むべき国もとめに
 東の方に、住むべき国を求めに(行こう)
 

とて往きけり。
 と思って、行った。
 

もとよりともとする人、ひとりふたりしていきけり。
道知れる人もなくてまどひいきけり。

 
もとよりとも(▲友)とする人、
 元より、ともとする人、
 

ひとりふたりしていきけり。
 一人二人して行った。
 
 このともは、定家本では友とあるが、男の子どもと見る(94段)。
 供と子供を掛けている。子「ども」というが一人かもしれない頓知。
 
 友と見ても良いが、その場合は古今938の小町の詞書から小町。妻が亡くなった文脈にも一応沿う。
 小町は伊勢では「うるはしき友」(46段)とされる。
 
 94段(紅葉も花も)では、24段の妻の死とリンクした回想で、子どもがいたとある。
 87段(布引の滝)では、男の子に言及され、女の子も出現する。
 男の子は朝康。家の台所にいた女子は昔男の子かは分からない。
 
 業平の友達なら、業平が突如都にいる妻を思い出して泣くなどという文脈が意味不明すぎる。
 それだけでも業平という見立てはありえない。東に行った記録がないから、この話が虚構なのではなく、業平認定が虚構である。
 事実に基づいてない。だからみなしている。事実はどうであろうと関係ない。だからみなす。「みなす」とはそういう意味の言葉である。
 だから伊勢の筋も通して見れない。それは伊勢の表現のせいではない。
 なぜなら貫之と紫は、伊勢を絶大に評価し、業平を積極的に否定しているから(冒頭で示した古今の配置参照、絵合)。
 

道知れる人もなくてまどひいきけり。
 道を知る人もいなくて、迷いながら行った。
 
 

三河

三河の国八橋といふ所にいたりぬ。
そこを八橋といひけるは、水ゆく河のくもでなれば、
橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。

 
三河の国
 三河の国(名古屋の右下)
 

八橋といふ所にいたりぬ。
 八橋というところに至った。
 
 現在の三河八橋駅のあたり。文屋の三河行きの記録(古今938詞書)が、貫之により業平否定のため配置されたことは上述した。


 
 

八橋

 

 
そこを八橋といひけるは、
 そこを(三河なのに)八橋という理由は、
 

水ゆく河のくもでなれば、
 水行く河が蜘蛛手の形をしているので
 
 くもで(蜘蛛手)→八足→やつあし→八橋
 

橋を八つわたせるによりてなむ
 橋を八つ渡していることに因っている、だから
 

八橋といひける。
 八橋というのである。
 
 

餉(かれいい)

 

その沢のほとりの木のかげにおり居て、餉くひけり。

 
その沢のほとりの木のかげにおり居て、
 その沢のほとりの木陰に、落ち着いて
 
 その沢とは、どう見ても逢妻男川である。
 

餉くひけり。
 かれい(乾飯)を食べた。
 
 餉・かれいい:乾いた米。携帯食料。
 恐らく乾パンのようでうまくない。だからうまいこと言わないといけない。
 これが昔男のスピリット。
 
 

燕子花

 

その沢に、燕子花いとおもしろく咲たり。
それを見て、ある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を句のかみにすゐて、旅の心をよめ」
といひければ、よめる。

 
その沢に、燕子花いとおもしろく咲たり。
 その沢に、カキツバタが興のあるように咲いていた。
 
 この沢は、やはりどう見ても、逢妻男川である。
 
 逢妻男川のほとりの八橋かきつばた園には業平の銅像があるという。こうして隅田川あたりの業平橋とか、ちはやぶるの屏風とか、その言語能力や歌風に何の関連性もない物体を羅列し、既成事実化していくのが、全く内実なくふれまわる業平シンパシースタイル。

 そんなに業平大好きだったら、はじめから業平業平書いてる。伊勢の構成を受けた在中将をひたすら連発する大和と比較せよ。伊勢は在五以降一貫して非難している。
 

それを見て、
 それをみて、
 

ある人のいはく、
 ある人が曰く、
 

『かきつばたといふ五文字を
 かきつばたという五文字を
 

句のかみにすゐて
 句の上に据えて、
 

 これを結論先取りして、当然のように折句のこととされるが、そういう意味ではない。
 普通なら「かきつばた」から始まる歌を詠むであろうところ、そうしないところが昔男の特徴で、源氏で言及される傑出性(伊勢の海の深き心)なのである。

 それを折句のこと、と当然のように決めて見るから、伊勢の精神が骨抜きになる。伊勢の前に折句の例はあるのか。

 都鳥とはゆりかもめのこととかいう注釈と全く同じ。第三者の認定を知って、それで知ったかするから、事実と評価の記述を区別できず、自分でまともな解釈ができないのである。だから業平認定を1億火の玉の勢いで信じ込んでいる。
 

旅の心をよめ』
 旅の心を詠め
 

といひければ、よめる。
 と言ったので、詠む。
 
 
 

唐衣

 

唐衣 きつゝ馴にし つましあれば
 はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
 
とよめりければ、みな人 餉のうへに涙おとしてほとびにけり。

 
 この歌は源氏・行幸の巻で「唐衣また唐衣唐衣 かへすがへすも唐衣なる」とされるほど絶大な影響力を有している。

 万葉では約4500首中「韓衣」「辛衣」「可良許呂毛」(からころも・からころむ)の8首のみで、原文で「唐衣」は1首もない。梓弓は万葉で50首。

 だからいわゆる折句を詠むことが極めて特別な発想で、人々の印象に強く残ったということ。
 この歌の教科書の注釈は、現状の和歌の理解レベルの示唆に富むので最下部に掲載している。
 

唐衣
 からごろも

 
 厳然として女物の最上の服の象徴で、衣の美称ではない。
 あえて女物ということを無視し、服の美称とされる背景は、女物の服とすると業平の歌という見立てを通せないからである。

 「唐衣」は、き(着)に係る枕詞? 服だから着る? 小学生か。先例は? あまりに当然だからそんなのはない。食べ物だから食べるに係る、位ない。
 古今にはこの歌しかない。万葉8首の内1首で枕詞とは言わない。
 

きつゝ馴にし
 慣れた筒井の
 

つましあれば
 妻の死で
 (あえてここまで)
 

はるばる来ぬる
 はるばる来たと
 

旅をしぞ思ふ
 旅をしてきたと
 

 その心は、

 恋しさと切なさと、心重里。
 

 逢妻男川を前にして、むかし男詠む。 

 

 来つつを来ぬるに掛けて、し(過去×死)で韻を踏む。つつで妻なら筒井しかない。そこが歌物語の伊勢で最も歌が厚い部分。


 貴族の行楽で突如都の妻を思い出し、褄に掛けて泣く男達。アホですか。いいえ、アボ王の子です。伊勢はアホではないから、業平の歌ではありえない。
 昔男が筒井筒で親が亡くなった妻の生活の生活を支えるため梓弓で別れを惜しんで宮仕えに出た。その妻が梓弓で死んだから身を用なきものに思いなした。

 20段の楓もみぢ大和宮仕え)~21段(男女・思ひかはし)23段の筒井筒(田舎大和はぢかはし)~24段の梓弓(田舎・別れを惜しんで宮仕え)、94段の紅葉も花も(回想)と掛けて確実なこと。筒井とは大和にある田舎の町である。筒井の龍田川の向こう側に23段の河内がある。

  ここが歌物語である伊勢で最も歌が厚い部分で、伊勢最多は21段の7首。業平が入り込む余地がない部分。貴族は宮仕えと言わない。下級役人の言葉。源氏で用いられてもそれは伊勢の影響。そもそも「紫のゆかり」自体が伊勢41段(紫・上の衣)である。これしかない。古今や後饌や漢詩に根拠があるか?
 

 

とよめりければ、
 と詠んだらば、
 

みな人餉のうへに涙おとして
 みな、乾飯の上に涙を落として、
 

ほとびにけり。
 ふやかした(増やかした)。
 
 ほとぶ 【潤ぶ】(水分を含んで)ふやける。
 
 ご飯が波でちょっと増えた。塩味もついて、少しはうまくなった。
 
 

※三河=三つの川と逢妻男川

 
 三河八橋には、逢妻男川(あいずまおがわ)がある。
 その上には、逢妻女川(あいづまめがわ) があり、この二つが合流して、逢妻川(あいづまがわ)になる。 
 ここで「つましあれば」というのは、逢妻男川を受けて、梓弓の妻の死を偲んだ男の歌。
 ここでみな涙したのも、ともとしていたのが子供という解釈を裏づける。
 
 業平が都に気まぐれで置いてきた妻を思い出し、友人が涙する理由が全くない。軍人としては笑う所。ありえないだろう。どういうセンスか。
 
 

駿河

行き行きて駿河の国にいたりぬ。
宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、
蔦かへでは茂り、もの心ぼそく、すゞろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。

 
行き行きて駿河の国にいたりぬ。
 さらに行って、駿河の国(静岡中部)に至った。
 
 いきいきてで、前のし(死)と対比。
 
 

修行者

 
宇津の山にいたりて、
 宇津の山に至って、
 
 静岡市宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部とにまたがる山。南側に宇津ノ谷峠がある。


業平の名は至る所でプッシュされる。
黙っていれば後世にはこれらも根拠とされるのだろう。
 

わが入(い)らむとする道は
 わたしが入って行こうとする道は
 

いと暗う細きに、
 とても暗く細くて、
 

蔦かへでは茂り、もの心ぼそく、
 ツタや楓も茂り、もの心細く
 

<

すゞろなるめを見ることと思ふに、
 思いもしない目にあうだろうと思っていると、
 

 すずろなり 【漫ろなり】
 ①何とはなしだ。何ということもない。
 ②思いがけない。予期していない。
 

修(す)行者あひたり。
 修行者にあった。
 
 思った通りである。
 

「かゝる道はいかでかいまする」といふを見れば見し人なりけり。
京に、その人の御もとにとて、ふみかきてつく。

 駿河なる  宇津の山辺の うつゝにも 夢にも人に 逢はぬなりけり

 
「かゝる道はいかでかいまする」
 こんな道にどうしているんですか、
 

といふを見れば 見し人なりけり。
 と言う人を見れば、見たことがある人であった。
 

京に、その人の御もとにとて、
 京について、その人の元にといって、
 

ふみかきてつく。
 文を書いて付けた。
 
 「つく」を先行の「京に」もかけて、着く×付く。
 

駿河なる
 

宇津の山辺のうつゝにも
 

夢にも人に逢はぬなりけり
 
 駿河にある宇津の山辺に掛けうつつ。夢うつつにも人に逢うとは思っていなかったのでした。
 序詞ではない。掛詞。宇津しか掛かってないじゃない。だから掛詞。掛かりは係りと掛かるから序詞的性質ももつ。広義の掛詞である。同音異義じゃないと掛詞と言えないと思うから序詞とかいう。そう硬直的思考では掛かりは読めない。
 
 

富士の嶺


富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いとしろう降れり。
 
 時しらぬ  山は富士の嶺 いつとてか
  鹿の子まだらに 雪の降るらむ

 
富士の山を見れば、
 

五月のつごもりに、雪いとしろう降れり。
 五月の月末に、雪がとても白く降っていた。
 
 つごもり 【晦日・晦】
 ①月の最後の日。みそか。
 ②月の終わりごろ。下旬。月末。
 
 月末なのか31日なのかは確定できない。それが「つごもり」である。
 

時しらぬ
 

山は富士の嶺(ね)いつとてか
 

鹿の子まだらに
 

雪の降るらむ
 
 夏に見て まだらまだらと 雪がある
 時が知れない 山は富士の嶺
 
 

なりは塩尻

その山は、こゝにたとへば、
比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。

 
その山は、
 

こゝにたとへば、
 ここに例えれば、
 

比叡の山を二十(はたち)ばかり
 比叡山を二十ばかり
 
 比叡山は838m。二十倍すると16760m。エベレストの2倍。盛りすぎ。

 

重ねあげたらむほどして、
 重ね上げたようなほどで、
 

なりは塩尻のやうになむありける。
 なりは塩尻のようなのであった。
 
 塩尻は古代の製塩法とされる。富士山の形の土に海水を掛けて乾かして塩をとったと。

 平安より後の本で解説されているので、そこまでメジャーな言葉ではなかっただろう。
 伊勢や竹取に書いてあるからといって、それを一般とみなすことは違う。伊勢竹取は一般ではない。
 美味しんぼに書いてあるから、それが当時の一般だったと思うほど違う(出社して気ままに昼寝や外出できる平で、平なのになぜか各種上層部と通じていて、実はボンボンなのに貧乏してて、なぜか美女につきまとわれる男。そんで極めつけは、文屋なんだな、その男。新聞社で文屋。これが宿世。女多めの職場。そういえば銀座の通信社に通ってた頃、部長にあんなヒゲが生えてた)。
 

隅田川

なほゆきゆきて武蔵の国と下つ総の国 との中に、いとおほきなる河あり。
それを角田河といふ。

 
なほゆきゆきて
 さらに行き行きて、
 
 ここで「ゆきゆき」を前の雪の文脈と掛けて、その前の「いきいきて」も死と対比している。
 

武蔵の国と下つ総の国
 武蔵国(東京)と下総国(千葉)
 

との中に、
 との中間に
 

いとおほきなる河あり。
 とても大きな河がある。
 

それを角田河といふ。
 それを隅田川という。
 
 

渡守

その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、
かぎりなく、遠くも来にけるかな、とわびあへるに、
渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、
みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。

 
その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、
 その河のほとりに(花火大会のように)群れて思うには、
 

かぎりなく、遠くも来にけるかな、
 限りなく遠くまできたものだなあ、
 

とわびあへるに、
 と心細くなっていると、
 

 わび【侘び】:心細い・気落ち。
 

渡守、
 わたしもりが
 

「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、
 はよ舟に乗れや! わたしがわたしたるわ! はよせんと日も暮れるわ! などと言ってきた。
 

乗りて渡らむとするに、
 乗って渡ろうとするが、
 

みな人ものわびしくて、
 みな人もの侘しくて
 

 懐が寒くて、
 

京に思ふ人なきにしもあらず。
 京に思う人がなきにしもあらず。
 
 どういうことでしょう。
 いい鴨と掛けて鴨川のことでしょう。なんか似たやつを見たことがある。でなければ、ここで思い出す人ってどういうことよ。
 やつとは物という意味と奴という意味を掛けているように、世俗に通じる教養がないと読めません。教科書的発想では残念ながら読めません。
 
 

都鳥

さる折りしも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。
京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。

 
さる折りしも、
 去る折りしも(ちょうどその時)
 

白き鳥の嘴(はし)と脚とあかき、
 白い鳥で、くちばしと脚が赤く
 
 嘴:くちばし
 

鴫(しぎ)のおほきさなる、
 シギの大きさのが、

水のうへに遊びつゝ魚をくふ。
 水の上に遊びつつ、魚を食べている。
 ???

 左がシギ、右がゆりかもめ。写真はwikipediaより。

 ここでの描写はゆりかもめのことを言っていると、一般には認定(推測)されている。

 しかし「ゆりかもめ」が「都鳥」なのではない。そういう人は事実と評価の違い、言葉の成り立ち、原因や結果・物事の因果を全く考えないのだろうか。

 ある鳥を渡守がそう呼んだだけ。そもそも昔男が知覚した対象がゆりかもめであること自体、確定できない。また、当時隅田川がある所は都ではない。そして都でこの鳥は見たことがないと都から来た男が書いている。

 だから都鳥は渡守のテキトーな嘘。だからこそ最後のオチで問う歌がある。仮に伊勢の影響をもって都鳥というようになったとしても、それをもって伊勢の用法は定義されない。

 

京には見えぬ鳥なれば、
 京には見ない鳥だったので、
 

みな人見知らず。
 みな人この水鳥をみず知らず。
 

渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
 
 名にしおはゞ  いざこと問はむ 都鳥
  わが思ふ人は ありやなしやと
 
とよめりければ、舟こぞりてなき(▲泣き)にけり。

 
渡守に問ひければ、
 渡守に問うたらば
 

「これなむ都鳥」といふを聞きて、
 これはなあ…都鳥。と言うのを聞いて
 

名にしおはゞ
 都鳥、その名を負っているなら
 

いざこと問はむ 都鳥
 さあそれはどこのことかときいてみましょう
 
 いざこ・と問はむ×いざ・言問はむ
 いざこはいづく(どこ)の変化形。
 いざ言問はむと解釈しても差し支えないが、そちらは本来ではない。そうしている教科書も一部にあるが、定家本とは違う。
 

わが思ふ人は ありやなしやと
 わたしが思う人は いるのかないのかと
 
 しらんがな。
 

とよめりければ、
 と詠んだらば、
 

舟(△人)こぞりてなき(▲泣き)にけり。
 舟が残らずいなくなった。
 
 こぞる:残らず(全部)、集合する。
 
 めんどくせー客だなおい。はよ乗らないので、日が暮れました。それに向こう岸に渡りたいともしていない。

 舟の人が全員泣いたではない。この意味不明な問いかけで全員泣くということが、どうしておかしいと思えないのか。それに舟にはのっていない。
 三河の歌では泣いたとせず、涙を落としたとある。ここでのなきにけりは、それと対比して、泣いてはいない。一般のように何の含みもない言葉を伊勢は用いない。
 
 塗籠は人を補うが、塗籠はこういう箇所で常に陳腐化して改変しまくるので、むしろ安心して本来ではないとみることができる。
 
 なきにけりの「なき」は、泣きと見せ掛け、舟無きと掛け、思い人の亡き。
 なぜなら思い人を問うてそうなったのだし、唐衣の歌で「つまし」として泣いたのだから。
 
 舟の人が泣いたとは限らない。というか、舟に乗ったと書いていない。
 はよ乗れといっているのに都から来たようにスカした歌を詠んで質問してきたので、舟がいなくなった、と見るのが自然。

 というか、こう見れば渡守の口調とセリフなどの筋を、すんなり無理なく回収できるだろう。わびしすぎて人が泣くか。しかもこの問いかけで、だ。
 
 舟の人がみんな泣いたと見たい人はそれでいいが、間違ってもそれが伊勢の正しい見方などとは言わないように。それはそういう人達の見方で、昔男の見方ではない。自分達は昔男のレベルだというのならともかく。

 そういう普通の見方の裏をかこうとするのが、カキツバタを句の上に据えてというのに、唐衣から始める歌。

 

 そういう言われて、ああ折句のことね、何も驚くことじゃないと思う人はいるだろうか。そういう人は100%知ったかで、大した実力はない。なぜなら伊勢の価値がわからないから。オリジナルの意味がわからない人。というか伊勢以前に折句は存在するのか。

 伊勢がパイオニアかつ、別次元だったから、紫が記した源氏で「伊勢の海の深き心」(底が知れない、誰にもはかりきれない)とされ、「唐衣また唐衣唐衣 かへすがへすも唐衣なる」とされるのである。
 当時の社会がその別格性が認めなかったから、人目をはばからず女につきまとう奇行種の業平の話(65段・99段、そこでは在原なりける男、中将と明示)とレッテルを貼られ、昔男は徹底して人目を忍んで無名であることも無視して(初段・69段)、現状の筒井筒のような人としてクレイジー極まる解釈があるのである。業平に海ほど「深き心」があることはありえない。そのように紫に評されることなどありえない。道理に反している。それが源氏の絵合での論争、業平の名と「ふりにし伊勢をの海人の名」(伊勢の無名の男・生み人の名・昔男・著者の名)を乱りがはしく争わせた文脈である。

 

 「在五中将の名をば、え朽たさじ」とのたまはせて、宮「みるめこそうらふりぬらめ 年経にし伊勢をの海人の名をや沈めむ」。

 かやうの女言にて乱りがはしく争ふに、一巻に言の葉を尽くして、えも言ひやらず(伊勢の一部だけ見て語って、他の部分は全く語れない)。ただ、あさはかなる若人どもは、死にかへりゆかしがれど、主上のも、宮のも(伊勢を)片端をだにえ見ず、(そんな人々に言ってもヒステリーになるだけなので)いといたう秘めさせたまふ。

 

 この国の和歌史上最初の最高傑作の歌物語、源氏と並びその用語は最多参照ともいえる伊勢、その63段や65段で女につきまとって非難され拒絶され笑われ流された業平が残せると思える、主観で文献の真否と成立を定義する、その軽薄極まる発想が、緻密な文章の極致である、和歌をなめきっているとしか思えない。

 

 

唐衣の歌の教科書注釈

 
 
 以下、唐衣の歌について、現状の教科書の注釈を見てみよう。和歌のわからなさを羅列と断定で押し切る注釈を象徴するとても良い教材であるから、反面教師にしてほしい。

 これを見ると和歌についての教育(研究)がどれだけ的外れで自己満足的な学者目線かがわかる。せめて楽器ができる人じゃないと解説する資格はない。
 この点は重要。というか歌を扱う最低限の資格、響きの良さを理解する必要最低限の条件である。十分条件ではない。
 

「唐衣」は中国風の衣服。ここは衣の美称で「き(着)」に掛ける枕詞

→中国風の衣服? 十二単衣は中国風?  唐衣は裳とセットにされるが?  十二単衣の上の衣ということをあえて消し、女性用という最大の特徴を抹消し、衣の美称で、中国風の衣服という、その根拠となる文脈はどこにある。唐衣は裳とセットにされるのだが。中国風じゃない。素材が唐物で上質なのである。

 唐衣がき(着)に掛ける枕詞? そんな用法はない。最低でも古今には一首もない。掛けるとか枕詞とか、言えばいいってもんじゃない。どこに掛かってるわけ? 枕詞とは先頭にある掛詞という意味ではない。垂乳根の由来は? 枕詞の象徴でしょう。この三文字のどこが母に掛かるか。掛かりじゃない。

 古事記の根の国で乳を垂らした母・御祖命。そういう古の文脈を一語で象徴させるのが枕詞である。反応で相手のレベルがわかる。だから古を重んじる、歌と古の心を知る者なら、誰もが知る王道の文言でなければ枕詞とはいえない。源氏・玉鬘の巻での鏡の神という歌詞への対応を参照。

 「年を経て祈る心の違ひなば  鏡の神をつらしとや見む」とわななかし出でたるを、

 「待てや。こはいかに仰せらるる」と、ゆくりかに寄り来たるけはひに、おびえて、おとど、色もなくなりぬ。娘たち、さはいへど、心強く笑ひて、

 「この人の、さまことにものしたまふを、引き違へ、いづらは思はれむを、なほ、ほけほけしき人の、神かけて、聞こえひがめたまふなめりや」

 と解き聞かす。「おい、さり、さり」とうなづきて…(なわけない。この詞は偶然には出てこない。そういう文脈である)

 

「唐衣きつつ」は「なれ」を導き出す序詞
→序詞という意味がわかってない。学者の定義の問題ではない。唐衣といえば馴れなのか? 着るといえば馴れなのか? 

 唐衣といえば竜田、これが序詞である。唐揚げで竜田揚げ。そのこころはころもなし。

 しだりをでおしどり、おしどりで夫婦。これが王道の序詞である。

 何がオリジナル要素で多少長いってなに。そんなの何とでも言えんじゃん。燕尾服きつつ、馴れと萎れを導くか? 導かないよ。ありえないんだよ。おわかりいただけただろうか。わかったよね。こんなこと言うまでもないんだよ。本来は。言わないでいると、言い出すのよ。これをありえないという。
 

「なれ」は「馴れ」と「萎れ」の掛詞

→萎れって何。そんなの原文である? ないよ。どこにもないよ。そもそもナレ(萎れ)という読みは存在しない。そんでナレとやらに掛ける文脈は? 服の美称(?)の唐衣をナヨナヨにして泣いた軍人男達? どう美しい? 馬頭でしかなくない? 業平を思慕した著者? 大丈夫? そう思えるセンスよ。

 
「つま」は「妻」と「褄」の掛詞

→褄(裾)という文脈は? 文脈上の根拠は? 同音異義を羅列することは掛詞と言わない。
 

「はるばる」は「遥々」と「張る張る」の掛詞

→「張る張る」という文脈はどこにある。え、川で洗濯してたに違いない? マジで言い出しかねないんだな、これが。あるんだなこれが。
 

「き」は「来」と「着」の掛詞

→まあそうだが、それを掛詞とは言わない。韻であり、掛かりである。掛かりは相似・類似の語を対にして余韻を出し、かつ解釈の根拠とする技法である。

 掛詞は一つの詞に多義的な意味を持たせること。ここでそれぞれの「き」に同時多義的な意味があるのか。ない。文脈で通らない。不自然。そういうのを掛詞とは言わない。

 それにこの歌の本題は、縦読みならぬ横読みの折句なのだから、掛かりは割とどうでもいい。

 

「萎れ」「褄」「張る」「着」は「衣」の縁語

→だから萎れって何。しをれが衣の縁語なのか? 縁語ってなんだ。何とでも言えるでしょうが。しかも自分達の思い込みを勝手に前提にしてる。こうやって業平認定がある。縁語とかなくていいよ。和歌を実質的に説明できない人が説明したことにするための概念。その説明に本質的に意味がない。

 海で藻塩で縁語。衣で袖で縁語。そらそうだ。これで歌の内容が理解できるわけ? 単語の一般論で和歌の理解深まるわけ? しかしお好み焼きと白飯が縁語かどうかは興味深い議論である(やっぱどうでもよかったー)。
 海で藻塩で縁語なら、人とう〇こも縁語でいい? 人と死、人生と苦痛、日本と高齢化、高齢者と暴走、日本の未来と(Wow Wow) これ全部縁語でいい? 教科書はドグマを導く序言葉でいい? どう理解深まった? でも最後のは一味違くない?

 

 他人の著作物なのに注釈から断定的で、自分達の一つの見解ということを認めていない。まず文意を正確に読めるようにしよう。なぜ基本と反復をおろそかにする。基本とは全ての礎・祖となる本のことで、竹取伊勢源氏である。千年たって伊勢を通して読めんのに、なぜ生徒に初見の古文を20分で速読させる発想になるのか。ナメてるから。教育全体が表面的な点数主義で歪んでるから。生徒がしてるのは学問じゃなく学習なんでしょ。答えがないと混乱するから絶対の正解を与えて欲しいんでしょ。だから日本の学問全体がドグマ的なのである。自分では当否を根本的に考えない。多数に従うか従わないかだけ。いうてもそのレベルじゃない。初学者に考察なんて意味ないよ。しても伊勢すら覚えてないじゃない。考察したいなら良い。そうじゃないでしょ。ならする必要ない。無意味に読み散らかして、自己満の感想を延々述べる古文教育の成果が現状である。

 日本の未来はウォウウォウを導く序詞。しかしそれはこの詞が後で利用された場合の説明で、この歌での説明ではない。なぜならこの歌自体ではウォウウォウは必然ではないからである(イェイイェイもある)。こういう先例・昔の歌の用法なく思い込みで解説しないように。わからないなら解説しなくていい。先後を混同しないように。どこかの学者の解釈は先例ではない。評価と事実を混同してはならならい。最近は生徒レベルでも習うらしい。それは研究者でも事実認定法を知らずとんでもないことになっているから。しかしここだけの話、この星でこれは非常に高度な次元の思考なのである。事実は一義的ではない。数字の数理と文字の論理は違う。数字は一義的。文字は見方により多元的、つまり重層的である。だから文字に代入が効くのである。

 事実と評価も重層的である。昔男は昔男でXであり、業平とは一度も書いていない。昔男は主観、在五は厳然として他人目線で非難して描いている。昔男の歌が業平のものとされている古今の記述、その記述が存在することは自体は事実でも、その記述をもって業平が実際に歌を詠んだことが事実とはならない。それは評価であり、伝聞証拠である。業平が勝手に自称したかもしれないし、みなが勘違いしたかもしれない。それをどう区別する? 勅撰だから公文書だから間違えるはずがない? これがこの国の論理。権威主義。だったらこの国は常に間違えるはずがない。

 古今の認定は一応信用できるとしても、伊勢は特別なのである。かつ日本古典史上最大の問題なのである。問題が生じているのに、事実とみなし続ける、それを強弁という。諸々の記録を照合すると、業平のものという根拠は一切ない。むしろ業平説の主張態度からして、伊勢が業平の日記で歌集と一方的に思い込まれた。異論を意図的に無視して排除してきた(その典型が源氏絵合)。それで古今の認定が維持されている。事実の根拠はない。古今の参照元は伊勢以外にない。あるというなら提出せよ。どこかにあるはずの業平原歌集という言説があることが、ないことの証拠である。伊勢の一貫性を無視して、専ら外部の認定に全面的に基づき段階的に増補されたなどと、原本をねじまげ、古今どころか後撰にまで劣後させ、自分達の過ちを認めないどころか正当化する。その筆頭が源順。伊勢本文の文脈を完全無視して自身を付加した人物(39段末尾)の歌集、その一貫性のない支離滅裂な認定を脊髄反射的に真に受けるから錯綜していく。どれだけ伊勢を業平目線でいじり回して破壊すれば気が済むのか。伊勢に明示された人物は、800年代で常に一貫している。本筋と全く関係なく39段末尾にあるの源順以外は。終盤で若者の敏行と光孝が出てくるのに、源順が前半の39段に当初からあったとみるのは無理。内容も源至は源順の祖父なり、というどうでもいいもの。位置でも内容でも、付け足そうと思えば簡単にできる。

 このように業平説に基づく解釈は、悉く伊勢をねじまげ、本末転倒させ(本=伊勢、末=源順)、滅茶苦茶である(馴れで萎れとか言う)。

 掛詞はセンスが問われる。解釈の際は最大のセンスを必要最小限に絞って発揮するように。上記の羅列は何も考えてないことがわかる。それをごまかすために数をかせいで羅列している。その深い思考力で「萎れ」「張る張る」という言葉を編み出す。これが日本的思考の集大成。

 

 20分の速読試験。事務処理の本質は思考ではない。機械的処理。条件反射である。反射は思考を介在しない。それっぽく会話調にしても事務処理の手順が増えただけ。

 20分や80分でどんな深い思考ができるのか。それを目的にしてないなら別にいい。しかし短時間で速読させてそれを思考と思える、浅い思考はどうなのか。そうしてきた国全体の実績に納得がいかないから、あれこれ言っているのではないのか。満足しているならいい。さすが知性で世界をリードする国は違う。共通試験・センター試験・共通テスト。ここからわかるのは、表面・見た目を変えただけで、内実はほぼ同じということである。まあ気のすむまでやって、その賢い成果に期待しましょうか。多分無理だけど。表面的な問い方が問題なのではない。根本的なビジョン・理想像のなさが問題。社会の上から下まで、日々の生活、金のために動き、与えた指示に忠実な役人と労働力の養成のみを目的にしているという。