平家物語 巻第五 五節之沙汰:概要と原文

富士川 平家物語
巻第五
五節之沙汰
ごせつのさた
異:五節
都帰

〔概要〕
 
 源氏が鬨をあげた時、平家陣営は退却し蝿一匹いなかった。平家の体たらくを笑う海道の遊女達や、和歌の落書きもあった。福原に逃げ帰った維盛軍に清盛は激怒し、嫡孫の維盛は鬼界が島へ流罪、侍大将の忠清を死刑とするが、周囲が忠清を庇うと、なぜか維盛が中将に昇進。ここで昔平将門の乱に藤原忠文・清原滋藤が派遣されたが、到着前に乱が治まり勧賞を行わず、忠文はこの決定者を呪ってその家系が絶えた説話※の挿入。新都・福原では内裏が完成したが大嘗会も行われない。即位にも施設が何もなく今年は新嘗会と五節だけとされたが結局新嘗も旧都で行った。五節とは、天武天皇時に天女が天下り、袖を五度ひるがえしたことが始まりである。
 ※全注釈は忠文の挿話を後に加えた傍系説話で、平家作者は何ゆえそれほど執着を感じたかとするが、これは褒賞のない忠清と忠文とその沙汰で子孫断絶を掛けた説話と解すべきもの。また大嘗・新嘗に比し軽んじられそうな五節だけ行われた描写、それは福原の未熟さと言えるが、平家が信仰した厳島が女神ということとも関係あるだろう(遊女達に笑われた坊もいつくしむ厳島)。また平氏は伊勢平氏という。

 


 
 (平家の方には音もせず)城のうちには音もせず。人を入れて見せければ、或いは敵の忘れたる鎧取つて参る者もあり、或いは敵の捨て置きたる大幕取つて参る者もあり。
 「城のうちには蝿だにも翔り候はず」と申す。
 

 兵衛佐、急ぎ馬より降り、甲を脱ぎ、手水うがひをして、王城の方を伏し拝み、「これはまつたく頼朝が私の高名にはあらず。八幡大菩薩の御ぱからひなり」とぞ宣ひける。やがて、討つ取る所なればとて、駿河国をば一条次郎忠頼、遠江国をば安田三郎義定に預けらる。平家をばやがて続いても攻むべかりけれども、さすが後ろもおぼつかなしとて、駿河国より引き返して、相模国へぞ帰られける。
 

 海道宿々の遊君遊女ども、「あないまいまし。戦には見逃げといふ事だにもいまいましき事にするに、これは聞き逃げし給へり」とて笑ひけり。落書ども多かりけり。都の大将軍をば宗盛といひ、討手の大将をば権亮といふ間、平家をひらやと詠みなして、
 

♪43
 ひらやなる 宗盛いかに 騒ぐらん
  柱と頼む 亮を落として 

 

♪44
 富士川の 瀬々の岩こす 水よりも
  早くも落つる 伊勢へいじかな

 
 また、富士川に上総守忠清が鎧捨てたりけるを詠める、
 

♪45
 富士川に 鎧は捨てつ 墨染めの
  衣ただきよ 後の世のため 

 

♪46
 忠清は 逃げの馬にぞ 乗りてける
  上総しりがひ かけてかひなし

 

 同じき十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原へ帰り上り給ふ。入道相国大きに怒つて、「維盛をば鬼界が島へ流すべし。上総守をば死罪に行へ」とぞ怒られける。
 

 これによつて同じき九日、平家の侍、老少数百人参会して、忠清が死罪の事、いかがあるべきと評定す。主馬判官盛国進み出でて、「この忠清を日頃不覚人とは存じ候はず。あれが十六の歳とおぼえ候ふ。鳥羽殿の宝蔵に、五畿内一の強党二人逃げ籠つたりしを、よつてからめうど申す者一人も候はざりしに、この忠清ただ一人、白昼に築地を越え、はね入り、一人をば討ち取り、一人をば召し取つて、名を後代に上げたる者で候ふぞかし。今度の事は、ただごとともおぼえ候はず。これにつけても、よくよく兵乱の御慎み候ふべし」とぞ申しける。
 

 同じき十日、除目行はれて、権亮少将維盛、右近衛中将に上がり給ふ。今度坂東へ討手に向かうたる討手の大将といへども、させるし出だしたることもなし。「これは、されば何の勧賞ぞや」とぞ人々囁き合はれける。
 

 昔、平将軍貞盛、俵藤太秀郷、将門を追討のために、東へ下向したりしかども、朝敵たやすう滅び難かりしかば、公卿詮議あつて、宇治民部忠文、清原滋藤軍監といふ官を賜はつて下るほどに、駿河国清見が関に宿したりける夜、かの滋藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟の火の影は寒うして波を焼き、駅路の鈴の声は夜山を過ぐ」といふ唐歌を、高らかに口ずさみ給へば、忠文優におぼえて、感涙をぞ流されける。
 

 さるほどに、貞盛、秀郷、将門をばつひに討ち取つて、その頭をもたせて上るほどに、駿河国清見が関にて行き逢ひたり。それより先後の大将軍うちつれて上洛す。
 貞盛、秀郷に勧賞行はれける時、忠文、滋藤も勧賞あるべきかと公卿詮議あり。
 九条右丞相師輔公、「今度坂東へ討手向かうたりといへども、朝敵たやすう滅び難かりし所に、この人々勅諚を承つて、関の東へ赴く時、朝敵すでに滅びたり。されば忠文、滋藤にもなどか勧賞なかるべき」と申させ給へども、その時の執柄小野の宮殿、「疑はしきをばなすことなかれと、礼記文に候ふ」とて、終になさせ給はず。
 忠文これを口惜しき事に思うて、「小野の宮殿の御末をば、やつこに見なさん、九条殿の御末をば、いづれの世までも守護神とならん」と誓ひつつ、干死ににこそは死ににけれ。されば九条殿の御末は、めでたう栄えさせ給へども、小野の宮殿の御末には、しかるべき人もましまさず、今は絶え果て給ひけるにこそ。
 入道の四男、頭中将重衡、左近衛権中将になり給ふ。
 

 十一月十三日、福原には内裏造り出されて、主上御遷幸ありけり。大嘗会行はるべかりしが、大嘗会は十月の末、東河に御幸して御禊あり。大内の北の野に、斎場所を造つて、神服、神具を調ふ。大極殿の前、龍尾道の壇下に廻立殿を建て、御湯を召す。
 同じき壇の並びに、大嘗宮を造つて、神膳を備ふ。宸宴あり、御遊あり、大極殿にて大礼あり、清暑堂にて御神楽あり、豊楽院にて宴会あり。然るをこの福原の新都には、大極殿もなければ、大礼行はるべきやうもなし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき所もなし。豊楽院もなければ、宴会も行はれず。
 今年はただ新嘗会、五節ばかりであるべき由、公卿詮議あつて、なほ新嘗祭をば、旧都の神祇官にしてぞ遂げられける。
 

 五節はこれ、浄御原の当初、吉野宮にして、月白く嵐冽しかりし夜、御心をすましつつ、琴を弾き給ひしに、神女天降り、五度袖を翻す。これぞ五節の初めなる。
 

富士川 平家物語
巻第五
五節之沙汰
ごせつのさた
異:五節
都帰