源氏物語 36帖 柏木:あらすじ・目次・原文対訳

若菜下 源氏物語
第二部
第36帖
柏木
横笛

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 柏木のあらすじ

 光源氏の48歳一月から四月までの話。

 病床に伏した柏木はこれまでと覚悟し、女三宮に文を送る。小侍従にせかされて女三宮もしかたなく返事を書き、柏木は涙にむせんだ。その後女三宮は無事男子()を出産したもののすっかり弱り切り、心配して密かに訪れた朱雀院〔父〕に出家を願った。傍らで見守っていた源氏も今さらながら慌てて引き留めようとしたが、女三宮の決意は固く、当の女三宮からは源氏の仕打ちを恨んでいた事を態度で示され、その宵のうちに朱雀院の手で髪を下ろしてしまった。朱雀院は「いずれ山奥の寺へと移す事になると思うが、そうなっても宮の事は見捨てないように」と源氏に釘を刺し、自身が住む寺へと帰って行った。

 女三宮の出家を知った柏木は絶望、両親や兄弟たちに後のことを託し、離れ離れの妻落葉の宮も涙に暮れる。柏木の病状を哀れんだ今上帝〔朱雀院(源氏の異母兄)の子〕からは、柏木を元気付けるために権大納言の位を贈った。彼の昇進を祝い、致仕の大臣〔かつての頭中将=柏木の父〕邸には多数の人が詰め掛けていた。夕霧が心配して見舞いにやってくると、柏木はそれとなく源氏の不興を買ったことを告げて、夕霧からとりなしてほしいと頼んだ。兄弟たちも皆悲しむ中で柏木はとうとう死去、とりわけ両親の嘆きは激しく、伝え聞いた女三宮も憐れに思って泣いた。

 三月に薫の五十日の祝いが催され、薫を抱き上げた源氏はその容姿の美しさに柏木の面影を見て、さすがに怒りも失せ涙した。一方夕霧は事の真相を気にしながら、柏木の遺言を守って未亡人となった落葉宮の元へ訪問を重ね、そのゆかしい暮らしぶりに次第に心惹かれていった。

(以上Wikipedia柏木(源氏物語)より。色づけと〔〕は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#柏木(11首:別ページ)
主要登場人物
 
第36帖 柏木
 光る源氏の准太上天皇時代
 四十八歳春一月から夏四月までの物語
 
第一章 柏木:女三の宮、薫を出産
第二章 女三の宮:出家
第三章 柏木:夕霧の見舞いと死去
第四章 光る源氏:若君の五十日の祝い
第五章 夕霧:柏木哀惜
 
 
第一章 柏木の物語
 女三の宮、薫を出産
 第一段 柏木、病気のまま新年となる
 第二段 柏木、女三の宮へ手紙
 第三段 柏木、侍従を招いて語る
 第四段 女三の宮の返歌を見る
 第五段 女三の宮、男子を出産
 第六段 女三の宮、出家を決意
 
第二章 女三の宮の物語
 女三の宮の出家
 第一段 朱雀院、夜闇に六条院へ参上
 第二段 朱雀院、女三の宮の希望を入れる
 第三段 源氏、女三の宮の出家に狼狽
 第四段 朱雀院、夜明け方に山へ帰る
 
第三章 柏木の物語
 夕霧の見舞いと死去
 第一段 柏木、権大納言となる
 第二段 夕霧、柏木を見舞う
 第三段 柏木、夕霧に遺言
 第四段 柏木、泡の消えるように死去
 
第四章 光る源氏の物語
 若君の五十日の祝い
 第一段 三月、若君の五十日の祝い
 第二段 源氏と女三の宮の夫婦の会話
 第三段 源氏、老後の感懐
 第四段 源氏、女三の宮に嫌味を言う
 第五段 夕霧、事の真相に関心
 
第五章 夕霧の物語
 柏木哀惜
 第一段 夕霧、一条宮邸を訪問
 第二段 母御息所の嘆き
 第三段 夕霧、御息所と和歌を詠み交わす
 第四段 夕霧、太政大臣邸を訪問
 第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問
 第六段 夕霧、御息所と対話
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
四十八歳
呼称:六条院・主人の院・院・大殿・大殿の君
朱雀院(すざくいん)
源氏の兄
呼称:院・山の帝
女三の宮(おんなさんのみや)
源氏の正妻
呼称:宮・二品の宮・尼宮・女宮・女
薫(かおる)
柏木と女三宮の密通の子
呼称:男君・若君・君
柏木(かしわぎ)
太政大臣の長男
呼称:衛門督の君・衛門督・故殿
夕霧(ゆうぎり)
光る源氏の長男
呼称:大将の君・大将・大将殿・殿・君
雲居雁(くもいのかり)
夕霧の北の方
呼称:大将殿の北の方・大将の御方・女君
致仕の大臣(ちじのおとど)
柏木の父
呼称:致仕の大臣・父大臣・大臣
四の君(しのきみ)
柏木の母
呼称:北の方・母北の方・母上・上
紫の上(むらさきのうえ)
源氏の妻
呼称:二条の上
今上帝(きんじょうてい)
呼称:内裏・主上・朝廷
落葉宮(おちばのみや)
朱雀院の第二内親王
呼称:女宮・宮
一条御息所(いちじょうのみやすんどころ)
落葉宮の母
呼称:母御息所・御息所

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(定家自筆本
現代語訳
(渋谷栄一)
  柏木
 
 

第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産

 
 

第一段 柏木、病気のまま新年となる

 
   衛門督の君、かくのみ悩みわたりたまふこと、なほおこたらで、年も返りぬ。
 大臣、北の方、思し嘆くさまを見たてまつるに、
 衛門督の君、このようにばかりお病み続けになること、依然として回復せぬまま、年も改まった。
 大臣、北の方、お嘆きになる様子を拝見すると、
   「しひてかけ離れなむ命、かひなく、罪重かるべきことを思ふ、心は心として、また、あながちにこの世に離れがたく、惜しみ留めまほしき身かは。
 いはけなかりしほどより、思ふ心異にて、何ごとをも、人に今一際まさらむと、公私のことに触れて、なのめならず思ひ上りしかど、その心叶ひがたかりけり」
 「無理して死のうと思う命、その甲斐もなく、罪障のきっと重いだろうことを思う、その考えは考えとして、また一方で、むやみに、この世から出離しがたく、惜しんで留めて置きたい身の上であろうか。
 幼かったときから、思う考えは格別で、どのようなことでも、人にはいま一段抜きんでたいと、公事私事につけて、並々ならず気位高く持していたが、その望みも叶いがたかった」
   と、一つ二つの節ごとに、身を思ひ落としてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、後の世の行なひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の重きほだしなるべくおぼえしかば、とざまかうざまに紛らはしつつ過ぐしつるを、つひに、  と、一つ二つのつまずき事に、わが身に自信をなくして以来、大方の世の中がおもしろくなく思うようになって、来世の修業に心深く惹かれたのだが、両親のご悲嘆を思うと、山野にもさまよい込む道の強い障害ともなるにちがいなく思われたので、あれやこれやと紛らわし紛らわし過ごしてきたのだが、とうとう、
   「なほ、世に立ちまふべくもおぼえぬもの思ひの、一方ならず身に添ひにたるは、我より他に誰かはつらき、心づからもてそこなひつるにこそあめれ」  「やはり、世の中には生きていけそうにも思われない悩みが、並々ならず身に付き纏っているのは、自分より外に誰を恨めようか、自分の料簡違いから破滅を招いたのだろう」
   と思ふに、恨むべき人もなし。
 
 と思うと、恨むべき相手もいない。
 
   「神、仏をもかこたむ方なきは、これ皆さるべきにこそはあらめ。
 誰も千年の松ならぬ世は、つひに止まるべきにもあらぬを、かく、人にも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ人あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ。
 
 「神、仏にも不平の訴えようがないのは、これは皆前世からの因縁なのであろう。
 誰も千年を生きる松ではない一生は、結局いつまでも生きていられるものではないから、このように、あの人からも、少しは思い出してもらえるようなところで、かりそめの憐れみなりともかけて下さる方があろうということを、一筋の思いに燃え尽きたしるしとはしよう。
 
   せめてながらへば、おのづからあるまじき名をも立ち、我も人も、やすからぬ乱れ出で来るやうもあらむよりは、なめしと、心置いたまふらむあたりにも、さりとも思し許いてむかし。
 よろづのこと、今はのとぢめには、皆消えぬべきわざなり。
 また、異ざまの過ちしなければ、年ごろものの折ふしごとには、まつはしならひたまひにし方のあはれも出で来なむ」
 無理に生き永られていれば、自然ととんでもない噂もたち、自分にも相手にも、容易ならぬ面倒なことが出て来るようになるよりは、不届き者よと、ご不快に思われた方にも、いくら何でもお許しになろう。
 何もかものこと、臨終の折には、一切帳消しになるものである。
 また、これ以外の過失はほんとないので、長年何かの催しの機会には、いつも親しくお召し下さったことからの憐れみも生じて来よう」
   など、つれづれに思ひ続くるも、うち返し、いとあぢきなし。
 
 などと、所在なく思い続けるが、いくら考えてみても、実にどうしようもない。
 
 
 

第二段 柏木、女三の宮へ手紙

 
   「などかく、ほどもなくしなしつる身ならむ」と、かきくらし思ひ乱れて、枕も浮きぬばかり、人やりならず流し添へつつ、いささか隙ありとて、人びと立ち去りたまへるほどに、かしこに御文たてまつれたまふ。
 
 「どうしてこのように、生きる瀬もなくしてしまった身の上なのだろう」と、心がまっくらになる思いがして、枕も浮いてしまうほどに、誰のせいでもなく涙を流しては、少しは具合が好いとあって、ご両親たちがお側を離れなさっていた時に、あちらにお手紙を差し上げなさる。
 
   「今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから聞こしめすやうもはべらむを、いかがなりぬるとだに、御耳とどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いと憂くもはべるかな」  「今はもう最期となってしまいました様子は、自然とお耳に入っていらっしゃいましょうが、せめていかがですかとだけでも、お耳に止めて下さらないのも、無理もないことですが、とても情けなく存じられますよ」
   など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふことも皆書きさして、  などと申し上げるにつけても、ひどく手が震えるので、思っていることも皆書き残して、
 

501
 「今はとて 燃えむ煙も むすぼほれ
 絶えぬ思ひの なほや残らむ
 「もうこれが最期と燃えるわたしの荼毘の煙もくすぶって
  空に上らずあなたへの諦め切れない思いがなおもこの世に残ることでしょう
 
   あはれとだにのたまはせよ。
 心のどめて、人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもしはべらむ」
 せめて不憫なとだけでもおっしゃって下さい。
 気持ちを静めて、自分から求めての無明の闇を迷い行く道の光と致しましょう」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
   侍従にも、こりずまに、あはれなることどもを言ひおこせたまへり。
 
 侍従にも、性懲りもなく、つらい思いの数々を書いてお寄こしになった。
 
   「みづからも、今一度言ふべきことなむ」  「直接お会いして、もう一度申し上げたい事がある」
   とのたまへれば、この人も、童より、さるたよりに参り通ひつつ、見たてまつり馴れたる人なれば、おほけなき心こそうたておぼえたまひつれ、今はと聞くは、いと悲しうて、泣く泣く、  とおっしゃるので、この人も、子供の時から、あるご縁で行き来して、親しく存じ上げている人なので、大それた恋心は疎ましく思われなさるが、最期と聞くと、とても悲しくて、泣き泣き、
   「なほ、この御返り。
 まことにこれをとぢめにもこそはべれ」
 「やはり、このお返事。
 本当にこれが最後でございましょう」
   と聞こゆれば、  と申し上げると、
   「われも、今日か明日かの心地して、もの心細ければ、おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、いと心憂きことと思ひ懲りにしかば、いみじうなむつつましき」  「わたしも、今日か明日かの心地がして、何となく心細いので、人の死は悲しいものと思いますが、まことに嫌な事であったと懲り懲りしてしまったので、とてもその気になれません」
   とて、さらに書いたまはず。
 
 とおっしゃって、どうしてもお書きにならない。
 
   御心本性の、強くづしやかなるにはあらねど、恥づかしげなる人の御けしきの、折々にまほならぬが、いと恐ろしうわびしきなるべし。
 されど、御硯などまかなひて責めきこゆれば、しぶしぶに書いたまふ。
 取りて、忍びて宵の紛れに、かしこに参りぬ。
 
 ご性質が、しっかりしていて重々しいというのではないが、気の置ける方のご機嫌が時々良くないのが、とても恐く辛く思われるのであろう。
 けれども、御硯などを用意して是非にとお促し申し上げるので、しぶしぶとお書きになる。
 受け取って、こっそりと宵闇に紛れて、あちらに持って上がった。
 
 
 

第三段 柏木、侍従を招いて語る

 
   大臣、かしこき行なひ人、葛城山より請じ出でたる、待ち受けたまひて、加持参らせむとしたまふ。
 御修法、読経なども、いとおどろおどろしう騷ぎたり。
 人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る。
 患ひたまふさまの、そこはかとなくものを心細く思ひて、音をのみ、時々泣きたまふ。
 
 大臣は、優れた行者で、葛城山から招き迎えたのを、お待ち受けになって、加持をして上げようとなさる。
 御修法、読経なども、まことに大声で行なっていた。
 誰彼のお勧め申すがままに、いろいろと聖めいた験者などで、ほとんど世間では知られず、深い山中に籠もっている者などをも、弟の公達をお遣わしお遣わしになって、探し出して召し出しになるので、無愛想で気にくわない山伏連中なども、たいそう大勢参上する。
 お病みになっているご様子が、ただ何となく物心細く思って、声を上げて時々お泣きになる。
 
   陰陽師なども、多くは女の霊とのみ占ひ申しければ、さることもやと思せど、さらにもののけの現はれ出で来るもなきに、思ほしわづらひて、かかる隈々をも尋ねたまふなりけり。
 
 陰陽師なども、多くは女の霊だとばかり占い申したので、そういう事かも知れないとお考えになるが、まったく物の怪が現れ出て来るものがないので、お困り果てになって、こうした辺鄙な山々にまでお探しになったのであった。
 
   この聖も、丈高やかに、まぶしつべたましくて、荒らかにおどろおどろしく陀羅尼読むを、  この聖も、背丈が高く、眼光が鋭くて、荒々しい大声で陀羅尼を読むのを、
   「いで、あな憎や。
 罪の深き身にやあらむ、陀羅尼の声高きは、いと気恐ろしくて、いよいよ死ぬべくこそおぼゆれ」
 「ええ、嫌なことだ。
 罪障の深い身だからであろうか、陀羅尼の大声が聞こえて来るのは、まことに恐ろしくて、ますます死んでしまいそうな気がする」
   とて、やをらすべり出でて、この侍従と語らひたまふ。
 
 と言って、そっと病床を抜け出して、この侍従とお話し合いになる。
 
   大臣は、さも知りたまはず、うち休みたると、人びとして申させたまへば、さ思して、忍びやかにこの聖と物語したまふ。
 おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきて、もの笑ひしたまふ大臣の、かかる者どもと向ひゐて、この患ひそめたまひしありさま、何ともなくうちたゆみつつ、重りたまへること、
 大臣は、そうともご存知でなく、お休みになっていると、女房たちに申し上げさせなさったので、そうお思いになって、小声でこの聖とお話なさっている。
 お年は召していらっしゃるが、相変わらず陽気なところがおありで、よくお笑いになる大臣が、このような山伏どもと対座して、この病気におなりになった当初からの様子、どうということもなくはっきりしないままに、重くおなりになったこと、
   「まことに、このもののけ、現はるべう念じたまへ」  「本当に、この物の怪の正体が、現れるよう祈祷して下さい」
   など、こまやかに語らひたまふも、いとあはれなり。
 
 などと、心からお頼みなさるのも、まことにいたいたしい。
 
   「かれ聞きたまへ。
 何の罪とも思し寄らぬに、占ひよりけむ女の霊こそ、まことにさる御執の身に添ひたるならば、厭はしき身をひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。
 
 「あれをお聞きなさい。
 何の罪咎ともご存じならないのに。
 占い当てたという女の霊、本当にそのようなあの方のご執念がわたしの身に取りついているならば、愛想の尽きたこの身もうって変わって、大切なものとなるだろう。
 
   さてもおほけなき心ありて、さるまじき過ちを引き出でて、人の御名をも立て、身をも顧みぬたぐひ、昔の世にもなくやはありける、と思ひ直すに、なほけはひわづらはしう、かの御心に、かかる咎を知られたてまつりて、世にながらへむことも、いとまばゆくおぼゆるは、げに異なる御光なるべし。
 
 それにしても身分不相応な望みを抱いて、とんでもない過ちをしでかして、相手のお方の浮名をも立て、身の破滅を顧みないといった例は、昔の世にもないではなかった、と考え直してみるが、どうしても様子が何となく恐ろしくて、かのお心に、このような過失をお知られ申したからには、この世に生き永らえることも、まことに顔向けができなく思われるのは、なるほど特別なご威光なのだろう。
 
   深き過ちもなきに、見合はせたてまつりし夕べのほどより、やがてかき乱り、惑ひそめにし魂の、身にも返らずなりにしを、かの院のうちにあくがれありかば、結びとどめたまへよ」  大きな過失でもないのに、目をお合わせした夕方から、そのまま気分がおかしくなって、抜け出した魂が、戻って来なくなってしまったのですが、あの院の中で彷徨っていたら、魂結びをして下さいよ」
   など、いと弱げに、殻のやうなるさまして、泣きみ笑ひみ語らひたまふ。
 
 などと、とても弱々しく、脱殻のような様子で、泣いたり笑ったりしてお話しになる。
 
 
 

第四段 女三の宮の返歌を見る

 
   宮もものをのみ恥づかしうつつましと思したるさまを語る。
 さてうちしめり、面痩せたまへらむ御さまの、面影に見たてまつる心地して、思ひやられたまへば、げにあくがるらむ魂や、行き通ふらむなど、いとどしき心地も乱るれば、
 宮も何かと恥ずかしく顔向けできない思いでいられる様子を話す。
 そのようにうち沈んで、痩せていらっしゃるだろうご様子が、目の前にありありと拝見できるような気がして、ご想像されるので、なるほど抜け出した霊魂は、あちらに行き通うのだろうかなどと、ますます気分もひどくなるので、
   「今さらに、この御ことよ、かけても聞こえじ。
 この世はかうはかなくて過ぎぬるを、長き世のほだしにもこそと思ふなむ、いとほしき。
 心苦しき御ことを、平らかにとだにいかで聞き置いたてまつらむ。
 見し夢を心一つに思ひ合はせて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるかな」
 「今となっては、もう宮の御事は、いっさい申し上げますまい。
 この世はこうしてはかなく過ぎてしまったが、未来永劫の成仏する障りになるかもしれないと思うと、お気の毒だ。
 気にかかるお産の事を、せめてご無事に済んだとお聞き申しておきたい。
 見た夢を独り合点して、また他に語る相手もいないのが、たいそう堪らないことであるなあ」
   など、取り集め思ひしみたまへるさまの深きを、かつはいとうたて恐ろしう思へど、あはれはた、え忍ばず、この人もいみじう泣く。
 
  などと、あれこれと思い詰めていらっしゃる執着の深いことを、一方では嫌で恐ろしく思うが、おいたわしい気持ちは、抑え難く、この人もひどく泣く。
 
   紙燭召して、御返り見たまへば、御手もなほいとはかなげに、をかしきほどに書いたまひて、  紙燭を取り寄せて、お返事を御覧になると、ご筆跡もたいそう弱々しいが、きれいにお書きになって、
   「心苦しう聞きながら、いかでかは。
 ただ推し量り。
 『残らむ』とあるは、
 「お気の毒に聞いていますが、どうしてお伺いできましょう。
 ただお察しするばかりです。
 お歌に『残ろう』とありますが、
 

502
 立ち添ひて 消えやしなまし 憂きことを
 思ひ乱るる 煙比べに
  わたしも一緒に煙となって消えてしまいたいほどです
  辛いことを思い嘆く悩みの競いに
 
   後るべうやは」  後れをとれましょうか」
   とばかりあるを、あはれにかたじけなしと思ふ。
 
 とだけあるのを、しみじみともったいないと思う。
 
   「いでや、この煙ばかりこそは、この世の思ひ出でならめ。
 はかなくもありけるかな」
 「いやもう、この煙だけが、この世の思い出であろう。
 はかないことであったな」
   と、いとど泣きまさりたまひて、御返り、臥しながら、うち休みつつ書いたまふ。
 言の葉の続きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、
 と、ますますお泣きになって、お返事、横に臥せりながら、筆を置き置きしてお書きになる。
 文句の続きもおぼつかなく、筆跡も妙な鳥の脚跡のようになって、
 

503
 「行方なき 空の煙と なりぬとも
 思ふあたりを 立ちは離れじ
 「行く方もない空の煙となったとしても
  思うお方のあたりは離れまいと思う
 
   夕べはわきて眺めさせたまへ。
 咎めきこえさせたまはむ人目をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも、絶えずかけさせたまへ」
 夕方は特にお眺め下さい。
 咎め立て申されるお方の目も、今はもうお気になさらずに、せめて何にもならないことですが、憐みだけは絶えず懸けて下さいませ」
   など書き乱りて、心地の苦しさまさりければ、  などと乱れ書きして、気分の悪さがつのって来たので、
   「よし。
 いたう更けぬさきに、帰り参りたまひて、かく限りのさまになむとも聞こえたまへ。
 今さらに、人あやしと思ひ合はせむを、わが世の後さへ思ふこそ口惜しけれ。
 いかなる昔の契りにて、いとかかることしも心にしみけむ」
 「もうよい。
 あまり夜が更けないうちに、お帰りになって、このように最期の様子であったと申し上げて下さい。
 今となって、人が変だと感づくのを、自分の死んだ後まで想像するのは情けないことだ。
 どのような前世からの因縁で、このような事が心に取り憑いたのだろうか」
   と、泣く泣くゐざり入りたまひぬれば、例は無期に迎へ据ゑて、すずろ言をさへ言はせまほしうしたまふを、言少なにても、と思ふがあはれなるに、えも出でやらず。
 御ありさまを乳母も語りて、いみじく泣き惑ふ。
 大臣などの思したるけしきぞいみじきや。
 
 と、泣き泣きいざってお入りになったので、いつもはいつまでも前に座らせて、とりとめもない話までをおさせになりたくなさっていたのに、お言葉の数も少ない、と思うと悲しくてならないので、帰ることも出来ない。
 ご様子を乳母も話して、ひどく泣きうろたえる。
 大臣などがご心配された有様は大変なことであるよ。
 
   「昨日今日、すこしよろしかりつるを、などかいと弱げには見えたまふ」  「昨日今日と、少し好かったのだが、どうしてたいそう弱々しくお見えなのだろう」
   と騷ぎたまふ。
 
 とお騷ぎになる。
 
   「何か、なほとまりはべるまじきなめり」  「いいえもう、生きていられそうにないようです」
   と聞こえたまひて、みづからも泣いたまふ。
 
 と申し上げなさって、ご自身もお泣きになる。
 
 
 

第五段 女三の宮、男子を出産

 
   宮は、この暮れつ方より悩ましうしたまひけるを、その御けしきと、見たてまつり知りたる人びと、騷ぎみちて、大殿にも聞こえたりければ、驚きて渡りたまへり。
 御心のうちは、
 宮は、この日の夕方から苦しそうになさったが、産気づかれた様子だと、お気づき申した女房たち、一同に騷ぎ立って、大殿にも申し上げたので、驚いてお越しになった。
 ご心中では、
   「あな、口惜しや。
 思ひまずる方なくて見たてまつらましかば、めづらしくうれしからまし」
 「ああ、残念なことよ。
 疑わしい点もなくてお世話申すのであったら、おめでたく喜ばしい事であろうに」
   と思せど、人にはけしき漏らさじと思せば、験者など召し、御修法はいつとなく不断にせらるれば、僧どもの中に験ある限り皆参りて、加持参り騒ぐ。
 
 とお思いになるが、他人には気づかれまいとお考えになるので、験者などを召し、御修法はいつとなく休みなく続けてしていられるので、僧侶たちの中で効験あらたかな僧は皆参上して、加持を大騷ぎして差し上げる。
 
   夜一夜悩み明かさせたまひて、日さし上がるほどに生まれたまひぬ。
 男君と聞きたまふに、
 一晩中お苦しみあそばして、日がさし昇るころにお生まれになった。
 男君とお聞きになると、
   「かく忍びたることの、あやにくに、いちじるき顔つきにてさし出でたまへらむこそ苦しかるべけれ。
 女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見るものならねばやすけれ」
 「このように内証事が、あいにくなことに、父親に大変よく似た顔つきでお生まれになることは困ったことだ。
 女なら、何かと人目につかず、大勢の人が見ることはないので心配ないのだが」
   と思すに、また、  とお思いになるが、また一方では、
   「かく、心苦しき疑ひ混じりたるにては、心やすき方にものしたまふもいとよしかし。
 さても、あやしや。
 わが世とともに恐ろしと思ひしことの報いなめり。
 この世にて、かく思ひかけぬことにむかはりぬれば、後の世の罪も、すこし軽みなむや」
 「このように、つらい疑いがつきまとっていては、世話のいらない男子でいらしたのも良かったことだ。
 それにしても、不思議なことだなあ。
 自分が一生涯恐ろしいと思っていた事の報いのようだ。
 この世で、このような思いもかけなかった応報を受けたのだから、来世での罪も、少しは軽くなったろうか」
   と思す。
 
 とお思いになる。
 
   人はた知らぬことなれば、かく心ことなる御腹にて、末に出でおはしたる御おぼえいみじかりなむと、思ひいとなみ仕うまつる。
 
 周囲の人は他に誰も知らない事なので、このように特別なお方のご出産で、晩年にお生まれになったご寵愛はきっと大変なものだろうと、思って大事にお世話申し上げる。
 
   御産屋の儀式、いかめしうおどろおどろし。
 御方々、さまざまにし出でたまふ御産養、世の常の折敷、衝重、高坏などの心ばへも、ことさらに心々に挑ましさ見えつつなむ。
 
 御産屋の儀式は、盛大で仰々しい。
 ご夫人方が、さまざまにお祝いなさる御産養、世間一般の折敷、衝重、高坏などの趣向も、特別に競い合っている様子が見えるのであった。
 
   五日の夜、中宮の御方より、子持ちの御前の物、女房の中にも、品々に思ひ当てたる際々、公事にいかめしうせさせたまへり。
 御粥、屯食五十具、所々の饗、院の下部、庁の召次所、何かの隈まで、いかめしくせさせたまへり。
 宮司、大夫よりはじめて、院の殿上人、皆参れり。
 
 五日の夜、中宮の御方から、御産婦のお召し上がり物、女房の中にも、身分相応の饗応の物を、公式のお祝いとして盛大に調えさせなさった。
 御粥、屯食を五十具、あちらこちらの饗応は、六条院の下部、院庁の召次所の下々の者たちまで、堂々としたなさり方であった。
 中宮の宮司、大夫をはじめとして、冷泉院の殿上人が、皆参上した。
 
   七夜は、内裏より、それも公ざまなり。
 致仕の大臣など、心ことに仕うまつりたまふべきに、このころは、何ごとも思されで、おほぞうの御訪らひのみぞありける。
 
 お七夜は、帝から、それも公事に行われた。
 致仕の大臣などは、格別念を入れてご奉仕なさるはずのところだが、最近は、何を考えるお気持ちのゆとりもなく、一通りのお祝いだけがあった。
 
   宮たち、上達部など、あまた参りたまふ。
 おほかたのけしきも、世になきまでかしづききこえたまへど、大殿の御心のうちに、心苦しと思すことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、御遊びなどはなかりけり。
 
 親王方、上達部などが、大勢お祝いに参上する。
 表向きのお祝いの様子にも、世にまたとないほど立派にお世話して差し上げなさるが、大殿のご心中に、辛くお思いになることがあって、そう大して賑やかなお祝いもしてお上げにならず、管弦のお遊びなどはなかったのであった。
 
 
 

第六段 女三の宮、出家を決意

 
   宮は、さばかりひはづなる御さまにて、いとむくつけう、ならはぬことの恐ろしう思されけるに、御湯などもきこしめさず、身の心憂きことを、かかるにつけても思し入れば、  宮は、あれほどか弱いご様子で、とても気味の悪い、初めてのご出産で、恐く思われなさったので、御薬湯などもお召し上がりにならず、わが身の辛い運命を、こうしたことにつけても心底お悲しみになって、
   「さはれ、このついでにも死なばや」  「いっそのこと、この機会に死んでしまいたい」
   と思す。
 大殿は、いとよう人目を飾り思せど、まだむつかしげにおはするなどを、取り分きても見たてまつりたまはずなどあれば、老いしらへる人などは、
 とお思いになる。
 大殿は、まことにうまく表面を飾って見せていらっしゃるが、まだ生まれたばかりの扱いにくい状態でいらっしゃるのを、特別にはお世話申されるというでもないので、年老いた女房などは、
   「いでや、おろそかにもおはしますかな。
 めづらしうさし出でたまへる御ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを」
 「何とまあ、お冷たくていらっしゃること。
 おめでたくお生まれになったお子様が、こんなにこわいほどお美しくていらっしゃるのに」
   と、うつくしみきこゆれば、片耳に聞きたまひて、  と、おいとしみ申し上げるので、小耳におはさみなさって、
   「さのみこそは、思し隔つることもまさらめ」  「そんなにもよそよそしいことは、これから先もっと増えて行くことになるのだろう」
   と恨めしう、わが身つらくて、尼にもなりなばや、の御心尽きぬ。
 
 と恨めしく、わが身も辛くて、尼にもなってしまいたい、というお気持ちになられた。
 
   夜なども、こなたには大殿籠もらず、昼つ方などぞさしのぞきたまふ。
 
 夜なども、こちらにはお寝みにならず、昼間などにちょっとお顔をお見せになる。
 
   「世の中のはかなきを見るままに、行く末短う、もの心細くて、行なひがちになりにてはべれば、かかるほどのらうがはしき心地するにより、え参り来ぬを、いかが、御心地はさはやかに思しなりにたりや。
 心苦しうこそ」
 「世の中の無常な有様を見ていると、この先も短く、何となく頼りなくて、勤行に励むことが多くなっておりますので、このようなご出産の後は騒がしい気がするので、参りませんが、いかがですか、ご気分はさわやかになりましたか。
 おいたわしいことです」
   とて、御几帳の側よりさしのぞきたまへり。
 御頭もたげたまひて、
 と言って、御几帳の側からお覗き込みになった。
 御髪をお上げになって、
   「なほ、え生きたるまじき心地なむしはべるを、かかる人は罪も重かなり。
 尼になりて、もしそれにや生きとまると試み、また亡くなるとも、罪を失ふこともやとなむ思ひはべる」
 「やはり、生きていられない気が致しますが、こうしたわたしは罪障も重いことです。
 尼になって、もしやそのために生き残れるかどうか試してみて、また死んだとしても、罪障をなくすことができるかと存じます」
   と、常の御けはひよりは、いとおとなびて聞こえたまふを、  と、いつものご様子よりは、とても大人らしく申し上げなさるので、
   「いとうたて、ゆゆしき御ことなり。
 などてか、さまでは思す。
 かかることは、さのみこそ恐ろしかなれど、さてながらへぬわざならばこそあらめ」
 「まことに嫌な、縁起でもないお言葉です。
 どうして、そんなにまでお考えになるのですか。
 このようなことは、そのように恐ろしい事でしょうが、それだからと言って命が永らえないというなら別ですが」
   と聞こえたまふ。
 御心のうちには、
 とお申し上げなさる。
 ご心中では、
   「まことにさも思し寄りてのたまはば、さやうにて見たてまつらむは、あはれなりなむかし。
 かつ見つつも、ことに触れて心置かれたまはむが心苦しう、我ながらも、え思ひ直すまじう、憂きことうち混じりぬべきを、おのづからおろかに人の見咎むることもあらむが、いといとほしう、院などの聞こし召さむことも、わがおこたりにのみこそはならめ。
 御悩みにことづけて、さもやなしたてまつりてまし」
 「本当にそのようにお考えになっておっしゃるのならば、出家をさせてお世話申し上げるのも、思いやりのあることだろう。
 このように連れ添っていても、何かにつけて疎ましく思われなさるのがおいたわしいし、自分自身でも、気持ちも改められそうになく、辛い仕打ちが折々まじるだろうから、自然と冷淡な態度だと人目に立つこともあろうことが、まことに困ったことで、院などがお耳になさることも、すべて自分の至らなさからとなるであろう。
 ご病気にかこつけて、そのようにして差し上げようかしら」
   など思し寄れど、また、いとあたらしう、あはれに、かばかり遠き御髪の生ひ先を、しかやつさむことも心苦しければ、  などとお考えになるが、また一方では、大変惜しくていたわしく、これほど若く生い先長いお髪を、尼姿に削ぎ捨てるのはお気の毒なので、
   「なほ、強く思しなれ。
 けしうはおはせじ。
 限りと見ゆる人も、たひらなる例近ければ、さすがに頼みある世になむ」
 「やはり、気をしっかりお持ちなさい。
 心配なさることはありますまい。
 最期かと思われた人も、平癒した例が身近にあるので、やはり頼みになる世の中です」
   など聞こえたまひて、御湯参りたまふ。
 いといたう青み痩せて、あさましうはかなげにてうち臥したまへる御さま、おほどき、うつくしげなれば、
 などと申し上げなさって、御薬湯を差し上げなさる。
 とてもひどく青く痩せて、何とも言いようもなく頼りなげな状態で臥せっていらっしゃるご様子、おっとりして、いじらしいので、
   「いみじき過ちありとも、心弱く許しつべき御さまかな」  「大層な過失があったにしても、心弱く許してしまいそうなご様子だな」
   と見たてまつりたまふ。
 
 と拝見なさる。
 
 
 

第二章 女三の宮の物語 女三の宮の出家

 
 

第一段 朱雀院、夜闇に六条院へ参上

 
   山の帝は、めづらしき御こと平かなりと聞こし召して、あはれにゆかしう思ほすに、  山の帝は、初めてのご出産が無事であったとお聞きあそばして、しみじみとお会いになりたくお思いになるが、
   「かく悩みたまふよしのみあれば、いかにものしたまふべきにか」  「このようにご病気でいらっしゃるという知らせばかりなので、どうおなりになることか」
   と、御行なひも乱れて思しけり。
 
 と、御勤行も乱れて御心配あそばすのであった。
 
   さばかり弱りたまへる人の、ものを聞こし召さで、日ごろ経たまへば、いと頼もしげなくなりたまひて、年ごろ見たてまつらざりしほどよりも、院のいと恋しくおぼえたまふを、  あれほどお弱りになった方が、何もお召し上がりにならないで、何日もお過ごしになったので、まことに頼りなくおなりになって、幾年月もお目にかからなかった時よりも、院を大変恋しく思われなさるので、
   「またも見たてまつらずなりぬるにや」  「再びお目にかかれないで終わってしまうのだろうか」
   と、いたう泣いたまふ。
 かく聞こえたまふさま、さるべき人して伝へ奏せさせたまひければ、いと堪へがたう悲しと思して、あるまじきこととは思し召しながら、夜に隠れて出でさせたまへり。
 
 と、ひどくお泣きになる。
 このように申し上げなさるご様子、しかるべき人からお伝え申し上げさせなさったので、とても我慢できず悲しくお思いになって、あってはならないこととはお思いになりながら、夜の闇に隠れてお出ましになった。
 
   かねてさる御消息もなくて、にはかにかく渡りおはしまいたれば、主人の院、おどろきかしこまりきこえたまふ。
 
 前もってそのようなお手紙もなくて、急にこのようにお越しになったので、主人の院、驚いて恐縮申し上げなさる。
 
   「世の中を顧みすまじう思ひはべりしかど、なほ惑ひ覚めがたきものは、子の道の闇になむはべりければ、行なひも懈怠して、もし後れ先立つ道の道理のままならで別れなば、やがてこの恨みもやかたみに残らむと、あぢきなさに、この世のそしりをば知らで、かくものしはべる」  「世俗の事を顧みすまいと思っておりましたが、やはり煩悩を捨て切れないのは、子を思う親心の闇でございましたが、勤行も懈怠して、もしも親子の順が逆になって先立たれるようなことになったら、そのまま会わずに終わった怨みがお互いに残りはせぬかと、情けなく思われたので、世間の非難を顧みず、こうして参ったのです」
   と聞こえたまふ。
 御容貌、異にても、なまめかしうなつかしきさまに、うち忍びやつれたまひて、うるはしき御法服ならず、墨染の御姿、あらまほしうきよらなるも、うらやましく見たてまつりたまふ。
 例の、まづ涙落としたまふ。
 
 とお申し上げになる。
 御姿、僧形であるが、優雅で親しみやすいお姿で、目立たないように質素な身なりをなさって、正式な法服ではなく、墨染の御法服姿で、申し分なく素晴らしいのにつけても、羨ましく拝見なさる。
 例によって、まっさきに涙がこぼれなさる。
 
   「患ひたまふ御さま、ことなる御悩みにもはべらず。
 ただ月ごろ弱りたまへる御ありさまに、はかばかしう物なども参らぬ積もりにや、かくものしたまふにこそ」
 「患っていらっしゃるご様子、特別どうというご病気ではありません。
 ただここ数月お弱りになったご様子で、きちんとお食事なども召し上がらない日が続いたせいか、このようなことでいらっしゃるのです」
   など聞こえたまふ。
 
 などと申し上げなさる。
 
 
 

第二段 朱雀院、女三の宮の希望を入れる

 
   「かたはらいたき御座なれども」  「はなはだ恐縮な御座所ではありますが」
   とて、御帳の前に、御茵参りて入れたてまつりたまふ。
 宮をも、とかう人びと繕ひきこえて、床のしもに下ろしたてまつる。
 御几帳すこし押しやらせたまひて、
 と言って、御帳台の前に、御褥を差し上げてお入れ申し上げなさる。
 宮を、あれこれと女房たちが身なりをお整い申して、浜床の下方にお下ろし申し上げる。
 御几帳を少し押し除けさせなさって、
   「夜居加持僧などの心地すれど、まだ験つくばかりの行なひにもあらねば、かたはらいたけれど、ただおぼつかなくおぼえたまふらむさまを、さながら見たまふべきなり」  「夜居の加持僧などのような気がするが、まだ効験が現れるほどの修業もしていないので、恥ずかしいけれど、ただお会いしたく思っていらっしゃるわたしの姿を、そのままとくと御覧になるがよい」
   とて、御目おし拭はせたまふ。
 宮も、いと弱げに泣いたまひて、
 とおっしゃって、お目をお拭いあそばす。
 宮も、とても弱々しくお泣きになって、
   「生くべうもおぼえはべらぬを、かくおはしまいたるついでに、尼になさせたまひてよ」  「生き永らえそうにも思われませんので、このようにお越しになった機会に、尼になさって下さいませ」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
   「さる御本意あらば、いと尊きことなるを、さすがに、限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かへりてことの乱れあり、世の人に誹らるるやうありぬべき」  「そのようなご希望があるならば、まことに尊いことであるが、そうはいえ、人の寿命は分からないものゆえ、生き先長い人は、かえって後で間違いを起こして、世間の非難を受けるようなことになりかねないだろう」
   などのたまはせて、大殿の君に、  などと仰せられて、大殿の君に、
   「かくなむ進みのたまふを、今は限りのさまならば、片時のほどにても、その助けあるべきさまにてとなむ、思ひたまふる」  「このように自分から進んでおっしゃるので、もうこれが最期の様子ならば、ちょっとの間でも、その功徳があるようにして上げたい、と存じます」
   とのたまへば、  と仰せになるので、
   「日ごろもかくなむのたまへど、邪気などの、人の心たぶろかして、かかる方にて進むるやうもはべなるをとて、聞きも入れはべらぬなり」  「この日頃もそのようにおっしゃいますが、物の怪などが、宮のお心を惑わして、このような方面に勧めるようなこともございますこととて、お聞き入れ致さないのです」
   と聞こえたまふ。
 
 とお申し上げになる。
 
   「もののけの教へにても、それに負けぬとて、悪しかるべきことならばこそ憚らめ、弱りにたる人の、限りとてものしたまはむことを、聞き過ぐさむは、後の悔い心苦しうや」  「物の怪の教えであっても、それに負けたからといって、悪いことになるのならば控えねばならないが、衰弱した人が、最期と思って願っていらっしゃるのを、聞き過ごすのは、後々になって悔やまれ辛い思いをするのではないか」
   とのたまふ。
 
 と仰せになる。
 
 
 

第三段 源氏、女三の宮の出家に狼狽

 
   御心の内、限りなううしろやすく譲りおきし御ことを、受けとりたまひて、さしも心ざし深からず、わが思ふやうにはあらぬ御けしきを、ことに触れつつ、年ごろ聞こし召し思しつめけること、色に出でて恨みきこえたまふべきにもあらねば、世の人の思ひ言ふらむところも口惜しう思しわたるに、  御心中、この上なく安心に思ってお任せ申した姫宮の御ことを、お引き受けなさったが、それほど愛情も深くなく、自分の思っていたのとは違ったご様子を、何かにつけて、ここ幾年もお聞きあそばして積もりに積もったご不満、顔色に現してお恨み申し上げなさるべきことでもないので、世間の人が想像したり噂したりすることも残念にお思い続けていられたので、
   「かかる折に、もて離れなむも、何かは、人笑へに、世を恨みたるけしきならで、さもあらざらむ。
 おほかたの後見には、なほ頼まれぬべき御おきてなるを、ただ預けおきたてまつりししるしには思ひなして、憎げに背くさまにはあらずとも、御処分に広くおもしろき宮賜はりたまへるを、繕ひて住ませたてまつらむ。
 
 「このような機会に、出家するのが、どうしてか、物笑いになるような、夫婦仲を恨んでのことのようでなく、それで不都合があろうか。
 一通りのお世話は、やはり頼りになれそうなお気持ちであるから、ただそれだけをお預け申し上げた甲斐と思うことにして、面当てつけがましく出家した恰好ではなくとも、ご遺産に広くて美しい宮邸をご伝領なさっていたのを、修繕してお住ませ申そう。
 
   わがおはします世に、さる方にても、うしろめたからず聞きおき、またかの大殿も、さいふとも、いとおろかにはよも思ひ放ちたまはじ、その心ばへをも見果てむ」  自分の生きている間に、そのようにしてでも、不安がないようにしておき、またあの大殿も、そうは言っても、冷淡には決してお見捨てなさるまい。
 その気持ちも見届けよう」
   と思ほし取りて、  とお考え決めなさって、
   「さらば、かくものしたるついでに、忌むこと受けたまはむをだに、結縁にせむかし」  「それでは、このように参った機会に、せめて出家の戒をお受けになることだけでもして、仏縁を結ぶことにしよう」
   とのたまはす。
 
 と仰せになる。
 
   大殿の君、憂しと思す方も忘れて、こはいかなるべきことぞと、悲しく口惜しければ、え堪へたまはず、内に入りて、  大殿の君、厭わしいとお思いになる事も忘れて、これはどうなることかと、悲しく残念でもあったので、堪えることがおできになれず、御几帳の中に入って、
   「などか、いくばくもはべるまじき身をふり捨てて、かうは思しなりにける。
 なほ、しばし心を静めたまひて、御湯参り、物などをも聞こし召せ。
 尊きことなりとも、御身弱うては、行なひもしたまひてむや。
 かつは、つくろひたまひてこそ」
 「どうしてか、そう長くはないわたしを捨てて、そのようにお考えになったのですか。
 やはり、もう暫く心を落ち着けなさって、御薬湯を上がり、食べ物を召し上がりなさい。
 尊い事ではあるが、お身体が弱くては、勤行もおできになれようか。
 ともかくも、養生なさってから」
   と聞こえたまへど、頭ふりて、いとつらうのたまふと思したり。
 つれなくて、恨めしと思すこともありけるにやと見たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。
 とかく聞こえ返さひ、思しやすらふほどに、夜明け方になりぬ。
 
 と申し上げなさるが、頭を振って、とても辛いことをおっしゃると思っておいでである。
 表面ではさりげなく振る舞っているが、心中恨めしいとお思いになっていらしたことがあったのかと拝見なさると、不憫でおいたわしい。
 あれやこれやと反対を申して、ためらっていらっしゃるうちに、夜明け近くなってしまいまった。
 
 
 

第四段 朱雀院、夜明け方に山へ帰る

 
   帰り入らむに、道も昼ははしたなかるべしと急がせたまひて、御祈りにさぶらふ中に、やむごとなう尊き限り召し入れて、御髪下ろさせたまふ。
 いと盛りにきよらなる御髪を削ぎ捨てて、忌むこと受けたまふ作法、悲しう口惜しければ、大殿はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ。
 
 山に帰って行くのに、道中が昼間では不体裁であろうとお急がせあそばして、御祈祷に伺候している中で、位が高く有徳の僧だけを召し入れて、お髪を下ろさせなさる。
 まことに女盛りで美しいお髪を削ぎ落として、戒をお受けになる儀式、悲しく残念なので、大殿は堪えることがおできになれず、ひどくお泣きになる。
 
   院はた、もとより取り分きてやむごとなう、人よりもすぐれて見たてまつらむと思ししを、この世には甲斐なきやうにないたてまつるも、飽かず悲しければ、うちしほたれたまふ。
 
 院は院で、もとから特別大切に、誰よりも幸福にしてさし上げたいとお思いになっていたのだが、この世ではその甲斐もないようにおさせ申し上げるのも、どんなに考えても悲しいので、涙ぐみなさる。
 
   「かくても、平かにて、同じうは念誦をも勤めたまへ」  「こうした姿にしたが、健康になって、同じことなら念仏誦経をもお勤めなさい」
   と聞こえ置きたまひて、明け果てぬるに、急ぎて出でさせたまひぬ。
 
 と申し上げなさって、夜が明けてしまうので、急いでお帰りになった。
 
   宮は、なほ弱う消え入るやうにしたまひて、はかばかしうもえ見たてまつらず、ものなども聞こえたまはず。
 大殿も、
 宮は、今も弱々しく息も絶えそうでいらっしゃって、はっきりともお顔も拝見なさらず、ご挨拶も申し上げなさらない。
 大殿も、
   「夢のやうに思ひたまへ乱るる心惑ひに、かう昔おぼえたる御幸のかしこまりをも、え御覧ぜられぬらうがはしさは、ことさらに参りはべりてなむ」  「夢のように存じられて心が乱れておりますので、このように昔を思い出させます御幸のお礼を、御覧に入れられない御無礼は、後日改めて参上致しまして」
   と聞こえたまふ。
 御送りに人びと参らせたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 お帰りのお供に家臣を差し上げなさる。
 
   「世の中の、今日か明日かにおぼえはべりしほどに、また知る人もなくて、漂はむことの、あはれに避りがたうおぼえはべしかば、御本意にはあらざりけめど、かく聞こえつけて、年ごろは心やすく思ひたまへつるを、もしも生きとまりはべらば、さま異に変りて、人しげき住まひはつきなかるべきを、さるべき山里などにかけ離れたらむありさまも、またさすがに心細かるべくや。
 さまに従ひて、なほ、思し放つまじく」
 「わたしの寿命も、今日か明日かと思われました時に、また他に面倒を見る人もなくて、寄るべもなく暮らすことが、気の毒で放っておけないように思われましたので、あなたの本意ではなかったでしょうが、このようにお願い申して、今まではずっと安心しておりましたが、もしも宮が命を取り留めましたら、普通とは変わった尼姿で、人の大勢いる中で生活するのは不都合でしょうが、適当な山里などに離れ住む様子も、またそうはいっても心細いことでしょう。
 尼の身の上相応に、やはり、今まで通りお見捨てなさらずに」
   など聞こえたまへば、  などとお頼み申し上げなさると、
   「さらにかくまで仰せらるるなむ、かへりて恥づかしう思ひたまへらるる。
 乱り心地、とかく乱れはべりて、何事もえわきまへはべらず」
 「改めてこのようにまで仰せ下さいましたことが、かえってこちらが恥ずかしく存じられます。
 乱れ心地に、何やかやと思い乱れまして、何事も判断がつきかねております」
   とて、げに、いと堪へがたげに思したり。
 
 と答えて、なるほど、とても辛そうに思っていらっしゃった。
 
   後夜の御加持に、御もののけ出で来て、  後夜の御加持に、御物の怪が現れ出て、
   「かうぞあるよ。
 いとかしこう取り返しつと、一人をば思したりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなむ、日ごろさぶらひつる。
 今は帰りなむ」
 「それごらん。
 みごとに取り返したと、一人はそうお思いになったのが、まことに悔しかったので、この辺に、気づかれないようにして、ずっと控えていたのだ。
 今はもう帰ろう」
   とて、うち笑ふ。
 いとあさましう、
 と言って、ちょっと笑う。
 まことに驚きあきれて、
   「さは、このもののけのここにも、離れざりけるにやあらむ」  「それでは、この物の怪がここにも、離れずにいたのか」
   と思すに、いとほしう悔しう思さる。
 宮、すこし生き出でたまふやうなれど、なほ頼みがたげに見えたまふ。
 さぶらふ人びとも、いといふかひなうおぼゆれど、「かうても、平かにだにおはしまさば」と、念じつつ、御修法また延べて、たゆみなく行なはせなど、よろづにせさせたまふ。
 
 とお思いになると、お気の毒に悔しく思わずにはいらっしゃれない。
 宮は、少し生き返ったようだが、やはり頼りなさそうにお見えになる。
 伺候する女房たちも、まことに何とも言いようもなく思われるが、「こうしてでも、せめてご無事でいらっしゃったならば」と、祈りながら、御修法をさらに延長して、休みなく行わせたりなど、いろいろとおさせになる。
 
 
 

第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去

 
 

第一段 柏木、権大納言となる

 
   かの衛門督は、かかる御事を聞きたまふに、いとど消え入るやうにしたまひて、むげに頼む方少なうなりたまひにたり。
 女宮のあはれにおぼえたまへば、ここに渡りたまはむことは、今さらに軽々しきやうにもあらむを、上も大臣も、かくつと添ひおはすれば、おのづからとりはづして見たてまつりたまふやうもあらむに、あぢきなしと思して、
 あの衛門督は、このような御事をお聞きになって、ますます死んでしまいそうな気がなさって、まるきり回復の見込みもなさそうになってしまわれた。
 女宮がしみじみと思われなさるので、こちらにお越しになることは、今さら軽々しいようにも思われますが、母上も大臣もこのようにぴったり付き添っていらっしゃるので、何かの折にうっかりお顔を拝見なさるようなことがあっては、困るとお思いになって、
   「かの宮に、とかくして今一度参うでむ」  「あちらの宮邸に、何とかしてもう一度参りたい」
   とのたまふを、さらに許しきこえたまはず。
 
 とおっしゃるが、まったくお許し申し上げなさらない。
 
   誰にも、この宮の御ことを聞こえつけたまふ。
 はじめより母御息所は、をさをさ心ゆきたまはざりしを、この大臣の居立ちねむごろに聞こえたまひて、心ざし深かりしに負けたまひて、院にも、いかがはせむと思し許しけるを、二品の宮の御こと思ほし乱れけるついでに、
 皆にも、この宮の御事をお頼みなさる。
 最初から母御息所は、あまりお気が進みでなかったのだが、この大臣自身が奔走して熱心に懇請申し上げなさって、そのお気持ちの深いことにお折れになって、院におかれても、しかたないとお許しになったのだが、二品の宮の御事にお心をお痛めになっていた折に、
   「なかなか、この宮は行く先うしろやすく、まめやかなる後見まうけたまへり」  「かえって、この宮は将来安心で、実直な夫をお持ちになったことだ」
   と、のたまはすと聞きたまひしを、かたじけなう思ひ出づ。
 
 と、仰せられたとお聞きになったのを、恐れ多いことだと思い出す。
 
   「かくて、見捨てたてまつりぬるなめりと思ふにつけては、さまざまにいとほしけれど、心よりほかなる命なれば、堪へぬ契り恨めしうて、思し嘆かれむが、心苦しきこと。
 御心ざしありて訪らひものせさせたまへ」
 「こうして、後にお残し申し上げてしまうようだと思うにつけても、いろいろとお気の毒だが、思う通りには行かない命なので、添い遂げられない夫婦の仲が恨めしくて、お嘆きになるだろうことがお気の毒なこと。
 どうか気をつけてお世話してさし上げて下さい」
   と、母上にも聞こえたまふ。
 
 と、母上にもお頼み申し上げなさる。
 
   「いで、あなゆゆし。
 後れたてまつりては、いくばく世に経べき身とて、かうまで行く先のことをばのたまふ」
 「まあ、何と縁起でもないことを。
 あなたに先立たれては、どれほど生きていられるわたしだと思って、こうまで先々の事をおっしゃるの」
   とて、泣きにのみ泣きたまへば、え聞こえやりたまはず。
 右大弁の君にぞ、大方の事どもは詳しう聞こえたまふ。
 
 と言って、ただもうお泣きになるばかりなので、十分にお頼み申し上げになることができない。
 右大弁の君に、一通りの事は詳しくお頼み申し上げなさる。
 
   心ばへののどかによくおはしつる君なれば、弟の君たちも、まだ末々の若きは、親とのみ頼みきこえたまへるに、かう心細うのたまふを、悲しと思はぬ人なく、殿のうちの人も嘆く。
 
 気性が穏やかでよくできたお方なので、弟の君たちも、まだ下の方の幼い君たちは、まるで親のようにお頼り申していらっしゃったのに、このように心細くおっしゃるのを、悲しいと思わない人はなく、お邸中の人達も嘆いている。
 
   公も、惜しみ口惜しがらせたまふ。
 かく限りと聞こし召して、にはかに権大納言になさせたまへり。
 よろこびに思ひ起こして、今一度も参りたまふやうもやあると、思しのたまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、苦しきなかにも、かしこまり申したまふ。
 大臣も、かく重き御おぼえを見たまふにつけても、いよいよ悲しうあたらしと思し惑ふ。
 
 帝も、惜しがり残念がりあそばす。
 このように最期とお聞きあそばして、急に権大納言にお任じあそばした。
 喜びに気を取り戻して、もう一度参内なさるようなこともあろうかと、お考えになって仰せになったが、一向に病気が好くおなりにならず、苦しい中ながら、丁重にお礼申し上げなさる。
 大臣も、このようにご信任の厚いのを御覧になるにつけても、ますます悲しく惜しいとお思い乱れなさる。
 
 
 

第二段 夕霧、柏木を見舞う

 
   大将の君、常にいと深う思ひ嘆き、訪らひきこえたまふ。
 御喜びにもまづ参うでたまへり。
 このおはする対のほとり、こなたの御門は、馬、車たち込み、人騒がしう騷ぎ満ちたり。
 今年となりては、起き上がることもをさをさしたまはねば、重々しき御さまに、乱れながらは、え対面したまはで、思ひつつ弱りぬること、と思ふに口惜しければ、
 大将の君、いつも大変に心配して、お見舞い申し上げなさる。
 ご昇進のお祝いにも早速参上なさった。
 このいらっしゃる対の屋の辺り、こちらの御門は、馬や、車がいっぱいで、人々が騒がしいほど混雑しあっていた。
 今年になってからは、起き上がることもほとんどなさらないので、重々しいご様子に、取り乱した恰好では、お会いすることがおできになれないで、そう思いながら会えずに衰弱してしまったこと、と思うと残念なので、
   「なほ、こなたに入らせたまへ。
 いとらうがはしきさまにはべる罪は、おのづから思し許されなむ」
 「どうぞ、こちらへお入り下さい。
 まことに失礼な恰好でおりますご無礼は、何とぞお許し下さい」
   とて、臥したまへる枕上の方に、僧などしばし出だしたまひて、入れたてまつりたまふ。
 
 と言って、臥せっていらっしゃる枕元に、僧たちを暫く外にお出しになって、お入れ申し上げなさる。
 
   早うより、いささか隔てたまふことなう、睦び交はしたまふ御仲なれば、別れむことの悲しう恋しかるべき嘆き、親兄弟の御思ひにも劣らず。
 今日は喜びとて、心地よげならましをと思ふに、いと口惜しう、かひなし。
 
 幼少のころから、少しも分け隔てなさることなく、仲好くしていらっしゃったお二方なので、別れることの悲しく恋しいに違いない嘆きは、親兄弟の思いにも負けない。
 今日はお祝いということで、元気になっていたらどんなによかろうと思うが、まことに残念に、その甲斐もない。
 
   「などかく頼もしげなくはなりたまひにける。
 今日は、かかる御喜びに、いささかすくよかにもやとこそ思ひはべりつれ」
 「どうしてこんなにお弱りになってしまわれたのですか。
 今日は、このようなお祝いに、少しでも元気になったろうかと思っておりましたのに」
   とて、几帳のつま引き上げたまへれば、  と言って、几帳の端を引き上げなさったところ、
   「いと口惜しう、その人にもあらずなりにてはべりや」  「まことに残念なことに、本来の自分ではなくなってしまいましたよ」
   とて、烏帽子ばかりおし入れて、すこし起き上がらむとしたまへど、いと苦しげなり。
 白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、衾ひきかけて臥したまへり。
 御座のあたりものきよげに、けはひ香うばしう、心にくくぞ住みなしたまへる。
 
 と言って、烏帽子だけを押し入れるように被って、少し起き上がろうとなさるが、とても苦しそうである。
 白い着物で、柔らかそうなのをたくさん重ね着して、衾を引き掛けて臥していらっしゃる。
 御座所の辺りをこぎれいにしていて、あたりに香が薫っていて、奥ゆかしい感じにお過ごしになっていた。
 
   うちとけながら、用意ありと見ゆ。
 重く患ひたる人は、おのづから髪髭も乱れ、ものむつかしきけはひも添ふわざなるを、痩せさらぼひたるしも、いよいよ白うあてなるさまして、枕をそばだてて、ものなど聞こえたまふけはひ、いと弱げに、息も絶えつつ、あはれげなり。
 
 くつろいだままながら、嗜みがあると見える。
 重病人というものは、自然と髪や髭も乱れ、むさくるしい様子がするものだが、痩せてはいるが、かえって、ますます白く上品な感じがして、枕を立ててお話を申し上げなさる様子、とても弱々しそうで、息も絶え絶えで、見ていて気の毒そうである。
 
 
 

第三段 柏木、夕霧に遺言

 
   「久しう患ひたまへるほどよりは、ことにいたうもそこなはれたまはざりけり。
 常の御容貌よりも、なかなかまさりてなむ見えたまふ」
 「長らくご病気でいらっしゃったわりには、ことにひどくもやつれていらっしゃらないね。
 いつものご容貌よりも、かえって素晴らしくお見えになります」
   とのたまふものから、涙おし拭ひて、  とおっしゃるものの、涙を拭って
   「後れ先立つ隔てなくとこそ契りきこえしか。
 いみじうもあるかな。
 この御心地のさまを、何事にて重りたまふとだに、え聞き分きはべらず。
 かく親しきほどながら、おぼつかなくのみ」
 「後れたり先立ったりすることなく死ぬ時は一緒にとお約束申していたのに。
 ひどいことだな。
 このご病気の様子を、何が原因でこうもご重態になられたのかと、それさえ伺うことができないでおります。
 こんなに親しい間柄ながら、もどかしく思うばかりです」
   などのたまふに、  などとおっしゃると、
   「心には、重くなるけぢめもおぼえはべらず。
 そこどころと苦しきこともなければ、たちまちにかうも思ひたまへざりしほどに、月日も経で弱りはべりにければ、今はうつし心も失せたるやうになむ。
 
 「わたし自身には、いつから重くなったのか分かりません。
 どこといって苦しいこともありませんで、急にこのようになろうとは思ってもおりませんでしたうちに、月日を経ずに衰弱してしまいましたので、今では正気も失せたような有様で。
 
   惜しげなき身を、さまざまにひき留めらるる祈り、願などの力にや、さすがにかかづらふも、なかなか苦しうはべれば、心もてなむ、急ぎ立つ心地しはべる。
 
 惜しくもない身を、いろいろとこの世に引き止められる祈祷や、願などの力でしょうか、そうはいっても生き永らえるのも、かえって苦しいものですから、自分から進んで、早く死出の道へ旅立ちたく思っております。
 
   さるは、この世の別れ、避りがたきことは、いと多うなむ。
 親にも仕うまつりさして、今さらに御心どもを悩まし、君に仕うまつることも半ばのほどにて、身を顧みる方、はた、ましてはかばかしからぬ恨みを留めつる大方の嘆きをば、さるものにて。
 
 そうは言うものの、この世の別れに、捨て難いことが数多くあります。
 親にも孝行を十分せずに、今になって両親にご心配をおかけし、主君にお仕えすることも中途半端な有様で、わが身の立身出世を顧みると、また、なおさら大したこともない恨みを残すような世間一般の嘆きは、それはそれとして。
 
   また心の内に思ひたまへ乱るることのはべるを、かかる今はのきざみにて、何かは漏らすべきと思ひはべれど、なほ忍びがたきことを、誰にかは愁へはべらむ。
 これかれあまたものすれど、さまざまなることにて、さらにかすめはべらむも、あいなしかし。
 
 また、心中に思い悩んでおりますことがございますが、このような臨終の時になって、どうして口に出そうかと思っておりましたが、やはり堪えきれないことを、あなたの他に誰に訴えられましょう。
 誰彼と兄弟は多くいますが、いろいろと事情があって、まったく仄めかしたところで、何にもなりません。
 
   六条院にいささかなる事の違ひ目ありて、月ごろ、心の内にかしこまり申すことなむはべりしを、いと本意なう、世の中心細う思ひなりて、病づきぬとおぼえはべしに、召しありて、院の御賀の楽所の試みの日参りて、御けしきを賜はりしに、なほ許されぬ御心ばへあるさまに、御目尻を見たてまつりはべりて、いとど世にながらへむことも憚り多うおぼえなりはべりて、あぢきなう思ひたまへしに、心の騷ぎそめて、かく静まらずなりぬるになむ。
 
 六条院にちょっとした不都合なことがありまして、ここ幾月、心中密かに恐縮申していることがございましたが、まことに不本意なことで、世の中に生きて行くのも心細くなって、病気になったと思われたのですが、お招きがあって、朱雀院の御賀の楽所の試楽の日に参上して、ご機嫌を伺いましたところ、やはりお許しなさらないお気持ちの様子に、御目差しを拝見致しまして、ますますこの世に生き永らえることも憚り多く思われまして、どうにもならなく存じられましたが、魂がうろうろ離れ出しまして、このように鎮まらなくなってしまいました。
 
   人数には思し入れざりけめど、いはけなうはべし時より、深く頼み申す心のはべりしを、いかなる讒言などのありけるにかと、これなむ、この世の愁へにて残りはべるべければ、論なうかの後の世の妨げにもやと思ひたまふるを、ことのついではべらば、御耳留めて、よろしう明らめ申させたまへ。
 
 一人前とはお考え下さいませんでしたでしょうが、幼うございました時から、深くお頼り申す気持ちがございましたが、どのような中傷などがあったのかと、このことが、この世の恨みとして残りましょうから、きっと来世への往生の妨げになろうかと存じますので、何かの機会がございましたら、お耳に止めて下さって、よろしく申し開きなさって下さい。
 
   亡からむ後ろにも、この勘事許されたらむなむ、御徳にはべるべき」  死んだ後にも、このお咎めが許されたらば、あなたのお蔭でございましょう」
   などのたまふままに、いと苦しげにのみ見えまされば、いみじうて、心の内に思ひ合はすることどもあれど、さして確かには、えしも推し量らず。
 
 などとおっしゃるうちに、たいそう苦しそうになって行くばかりなので、おいたわしくて、心中に思い当たることもいくつかあるが、どうしたことなのか、はっきりとは推量できない。
 
   「いかなる御心の鬼にかは。
 さらに、さやうなる御けしきもなく、かく重りたまへる由をも聞きおどろき嘆きたまふこと、限りなうこそ口惜しがり申したまふめりしか。
 など、かく思すことあるにては、今まで残いたまひつらむ。
 こなたかなた明らめ申すべかりけるものを。
 今はいふかひなしや」
 「どのような良心の呵責なのでしょうか。
 全然、そのようなご様子もなく、このように重態になられた由を聞いて驚きお嘆きになっていること、この上もなく残念がり申されていたようでした。
 どうして、このようにお悩みになることがあって、今まで打ち明けて下さらなかったのでしょうか。
 こちらとあちらとの間に立って弁解して差し上げられたでしょうに。
 今となってはどうしようもありません」
   とて、取り返さまほしう悲しく思さる。
 
 と言って、昔を今に取り戻したくお思いになる。
 
   「げに、いささかも隙ありつる折、聞こえうけたまはるべうこそはべりけれ。
 されど、いとかう今日明日としもやはと、みづからながら知らぬ命のほどを、思ひのどめはべりけるもはかなくなむ。
 このことは、さらに御心より漏らしたまふまじ。
 さるべきついではべらむ折には、御用意加へたまへとて、聞こえおくになむ。
 
 「おっしゃる通り、少しでも具合の良い時に、申し上げてご意見を承るべきでございました。
 けれども、ほんとうに今日か明日かの命になろうとは、自分ながら分からない寿命のことを、悠長に考えておりましたのも、はかないことでした。
 このことは、決してあなた以外にお漏らしなさらないで下さい。
 適当な機会がございました折には、ご配慮戴きたいと申し上げて置くのです。
 
   一条にものしたまふ宮、ことに触れて訪らひきこえたまへ。
 心苦しきさまにて、院などにも聞こし召されたまはむを、つくろひたまへ」
 一条の邸にいらっしゃる宮を、何かの折にはお見舞い申し上げて下さい。
 お気の毒な様子で、父院などにおかれても御心配あそばされるでしょうが、よろしく計らって上げて下さい」
   などのたまふ。
 言はまほしきことは多かるべけれど、心地せむかたなくなりにければ、
 などとおっしゃる。
 言いたいことは多くあるに違いないようだが、気分がどうにもならなくなってきたので、
   「出でさせたまひね」  「お出になって下さい」
   と、手かききこえたまふ。
 加持参る僧ども近う参り、上、大臣などおはし集りて、人びとも立ち騒げば、泣く泣く出でたまひぬ。
 
 と、手真似で申し上げなさる。
 加持を致す僧たちが近くに参って、母上、大臣などがお集まりになって、女房たちも立ち騒ぐので、泣く泣くお立ちになった。
 
 
 

第四段 柏木、泡の消えるように死去

 
   女御をばさらにも聞こえず、この大将の御方などもいみじう嘆きたまふ。
 心おきての、あまねく人のこのかみ心にものしたまひければ、右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、睦ましきものに思ひきこえたまひければ、よろづに思ひ嘆きたまひて、御祈りなど取り分きてせさせたまひけれど、やむ薬ならねば、かひなきわざになむありける。
 女宮にも、つひにえ対面しきこえたまはで、泡の消え入るやうにて亡せたまひぬ。
 
 女御は申し上げるまでもなく、この大将の御方などもひどくお嘆きになる。
 思ひやりが、誰に対しても兄としての面倒見がよくていらっしゃったので、右の大殿の北の方も、この君だけを親しい人とお思い申し上げていらしたので、万事にお嘆きになって、ご祈祷などを特別におさせになったが、薬では治らない病気なので、何の役にも立たないことであった。
 女宮にも、とうとうお目にかかることがおできになれないで、泡が消えるようにしてお亡くなりになった。
 
   年ごろ、下の心こそねむごろに深くもなかりしか、大方には、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、気なつかしう、心ばへをかしう、うちとけぬさまにて過ぐいたまひければ、つらき節もことになし。
 ただ、
 長年の間、心底から真心こめて愛していたのではなかったが、表面的には、まことに申し分なく大事にお世話申し上げて、素振りもお優しく、気立てもよく、礼節をわきまえてお過ごしになられたので、辛いと思った事も特にない。
 ただ、
   「かく短かりける御身にて、あやしくなべての世すさまじう思ひたまへけるなりけり」  「このように短命なお方だったので、不思議なことに普通の生活を面白くなくお思いであったのだわ」
   と思ひ出でたまふに、いみじうて、思し入りたるさま、いと心苦し。
 
 とお思い出されると、悲しくて、沈み込んでいらっしゃる様子、ほんとうにおいたわしい。
 
   御息所も、「いみじう人笑へに口惜し」と、見たてまつり嘆きたまふこと、限りなし。
 
 母御息所も、「大変に外聞が悪く残念だ」と、拝見しお嘆きになること、この上もない。
 
   大臣、北の方などは、ましていはむかたなく、  大臣や、北の方などは、それ以上に何とも言いようがなく、
   「我こそ先立ため。
 世のことわりなうつらいこと」
 「自分こそ先に死にたいものだ。
 世間の道理もあったものでなく辛いことよ」
   と焦がれたまへど、何のかひなし。
 
 と恋い焦がれなさったが、何にもならない。
 
   尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世に長かれとしも思さざりしを、かくなむと聞きたまふは、さすがにいとあはれなりかし。
 
 尼宮は、大それた恋心も不愉快なこととばかりお思いなされて、長生きして欲しいともお思いではなかったが、このように亡くなったとお聞きになると、さすがにかわいそうな気がした。
 
   「若君の御ことを、さぞと思ひたりしも、げに、かかるべき契りにてや、思ひのほかに心憂きこともありけむ」と思し寄るに、さまざまもの心細うて、うち泣かれたまひぬ。
 
 「若君のご誕生を、自分の子だと思っていたのも、なるほど、こうなるはずの運命であってか、思いがけない辛い事もあったのだろう」とお考えいたると、あれこれと心細い気がして、お泣きになった。
 
 
 

第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い

 
 

第一段 三月、若君の五十日の祝い

 
   弥生になれば、空のけしきもものうららかにて、この君、五十日のほどになりたまひて、いと白ううつくしう、ほどよりはおよすけて、物語などしたまふ。
 大殿渡りたまひて、
 三月になると、空の様子もどことなく麗かな感じがして、この若君、五十日のほどにおなりになって、とても色白くかわいらしくて、日数の割に大きくなって、おしゃべりなどなさる。
 大殿がお越しになって、
   「御心地は、さはやかになりたまひにたりや。
 いでや、いとかひなくもはべるかな。
 例の御ありさまにて、かく見なしたてまつらましかば、いかにうれしうはべらまし。
 心憂く、思し捨てけること」
 「ご気分は、さっぱりなさいましたか。
 いやもう、何とも張り合いのないことだな。
 普通のお姿で、このようにお祝い申し上げるのであるならば、どんなにか嬉しいことであろうに。
 残念なことに、ご出家なさったことよ」
   と、涙ぐみて怨みきこえたまふ。
 日々に渡りたまひて、今しも、やむごとなく限りなきさまにもてなしきこえたまふ。
 
 と、涙ぐんでお恨み申し上げなさる。
 毎日お越しになって、今になって、この上なく大切にお世話申し上げなさる。
 
   御五十日に餅参らせたまはむとて、容貌異なる御さまを、人びと、「いかに」など聞こえやすらへど、院渡らせたまひて、  五十日の御祝いに餅を差し上げなさろうとして、尼姿でいられるご様子を、女房たちは、「どうしたものか」とお思い申して躊躇するが、院がお越しあそばして、
   「何か。
 女にものしたまはばこそ、同じ筋にて、いまいましくもあらめ」
 「何のかまうことはない。
 女の子でいらっしゃったら、同じ事で、縁起でもなかろうが」
   とて、南面に小さき御座などよそひて、参らせたまふ。
 御乳母、いとはなやかに装束きて、御前のもの、いろいろを尽くしたる籠物、桧破籠の心ばへどもを、内にも外にも、もとの心を知らぬことなれば、取り散らし、何心もなきを、「いと心苦しうまばゆきわざなりや」と思す。
 
 と言って、南面に小さい御座所などを設定して、差し上げなさる。
 御乳母は、とても派手に衣装を着飾って、御前の物、色々な色彩を尽くした籠物、桧破子の趣向の数々を、御簾の中でも外でも、本当の事は知らないことなので、とり散らかして、無心にお祝いしているのを、「まことに辛く目を背けたい」とお思いになる。
 
 
 

第二段 源氏と女三の宮の夫婦の会話

 
   宮も起きゐたまひて、御髪の末の所狭う広ごりたるを、いと苦しと思して、額など撫でつけておはするに、几帳を引きやりてゐたまへば、いと恥づかしうて背きたまへるを、いとど小さう細りたまひて、御髪は惜しみきこえて、長う削ぎたりければ、後ろは異にけぢめも見えたまはぬほどなり。
 
 宮もお起きなさって、御髪の裾がいっぱいに広がっているのを、とてもうるさくお思いになって、額髪などを撫でつけていらっしゃる時に、御几帳を引き動かしてお座りになると、とても恥ずかしい思いで顔を背けていらっしゃるが、ますます小さく痩せ細りなさって、御髪は惜しみ申されて、長くお削ぎになってあるので、後姿は格別普通の人と違ってお見えにならない程である。
 
   すぎすぎ見ゆる鈍色ども、黄がちなる今様色など着たまひて、まだありつかぬ御かたはらめ、かくてしもうつくしき子どもの心地して、なまめかしうをかしげなり。
 
 次々と重なって見える鈍色の袿に、黄色みのある今流行の紅色などをお召しになって、まだ尼姿が身につかない御横顔は、こうなっても可憐な少女のような気がして、優雅で美しそうである。
 
   「いで、あな心憂。
 墨染こそ、なほ、いとうたて目もくるる色なりけれ。
 かやうにても、見たてまつることは、絶ゆまじきぞかしと、思ひ慰めはべれど、古りがたうわりなき心地する涙の人悪ろさを、いとかう思ひ捨てられたてまつる身の咎に思ひなすも、さまざまに胸いたう口惜しくなむ。
 取り返すものにもがなや」
 「まあ、何と情けない。
 墨染の衣は、やはり、まことに目の前が暗くなる色だな。
 このようになられても、お目にかかることは変わるまいと、心を慰めておりますが、相変わらず抑え難い心地がする涙もろい体裁の悪さを、実にこのように見捨てられ申したわたしの悪い点として思ってみますにつけても、いろいろば胸が痛く残念です。
 昔を今に取り返すことができたらな」
   と、うち嘆きたまひて、  とお嘆きになって、
   「今はとて思し離れば、まことに御心と厭ひ捨てたまひけると、恥づかしう心憂くなむおぼゆべき。
 なほ、あはれと思せ」
 「もうこれっきりとお見限りなさるならば、本当に本心からお捨てになったのだと、顔向けもできず情けなく思われることです。
 やはり、いとしい者と思って下さい」
   と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
   「かかるさまの人は、もののあはれも知らぬものと聞きしを、ましてもとより知らぬことにて、いかがは聞こゆべからむ」  「このような出家の身には、もののあわれもわきまえないものと聞いておりましたが、ましてもともと知らないことなので、どのようにお答え申し上げたらよいでしょうか」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「かひなのことや。
 思し知る方もあらむものを」
 「情けないことだ。
 お分りになることがおありでしょうに」
   とばかりのたまひさして、若君を見たてまつりたまふ。
 
 とだけ途中までおっしゃって、若君を拝見なさる。
 
 
 

第三段 源氏、老後の感懐

 
   御乳母たちは、やむごとなく、めやすき限りあまたさぶらふ。
 召し出でて、仕うまつるべき心おきてなどのたまふ。
 
 御乳母たちは、家柄が高く、見た目にも無難な人たちばかりが大勢伺候している。
 お呼び出しになって、お世話申すべき心得などをおっしゃる。
 
   「あはれ、残り少なき世に、生ひ出づべき人にこそ」  「ああかわいそうに、残り少ない晩年に、ご成人して行くのだな」
   とて、抱き取りたまへば、いと心やすくうち笑みて、つぶつぶと肥えて白ううつくし。
 大将などの稚児生ひ、ほのかに思し出づるには似たまはず。
 女御の御宮たち、はた、父帝の御方ざまに、王気づきて気高うこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうしもおはせず。
 
 と言って、お抱きになると、とても人見知りせずに笑って、まるまると太っていて色白でかわいらしい。
 大将などが幼い時の様子、かすかにお思い出しなさるのには似ていらっしゃらない。
 明石女御の宮たちは、それはそれで、父帝のお血筋を引いて、皇族らしく高貴ではいらっしゃるが、特別優れて美しいというわけでもいらっしゃらない。
 
   この君、いとあてなるに添へて、愛敬づき、まみの薫りて、笑がちなるなどを、いとあはれと見たまふ。
 思ひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。
 ただ今ながら、眼居ののどかに恥づかしきさまも、やう離れて、薫りをかしき顔ざまなり。
 
 この若君、とても上品な上に加えて、かわいらしく、目もとがほんのりとして、笑顔がちでいるのなどを、とてもかわいらしいと御覧になる。
 気のせいか、やはり、とてもよく似ていた。
 もう今から、まなざしが穏やかで人に優れた感じも、普通の人とは違って、匂い立つような美しいお顔である。
 
   宮はさしも思し分かず。
 人はた、さらに知らぬことなれば、ただ一所の御心の内にのみぞ、
 宮はそんなにもお分りにならず、女房たちもまた、全然知らないことなので、ただお一方のご心中だけが、
   「あはれ、はかなかりける人の契りかな」  「ああ、はかない運命の人であったな」
   と見たまふに、大方の世の定めなさも思し続けられて、涙のほろほろとこぼれぬるを、今日は言忌みすべき日をと、おし拭ひ隠したまふ。
 
 とお思いになると、世間一般の無常の世も思い続けられなさって、涙がほろほろとこぼれたのを、今日の祝いの日には禁物だと、拭ってお隠しになる。
 
   「静かに思ひて嗟くに堪へたり」  「静かに思って嘆くことに堪へた」
   と、うち誦うじたまふ。
 五十八を十取り捨てたる御齢なれど、末になりたる心地したまひて、いとものあはれに思さる。
 「汝が爺に」とも、諌めまほしう思しけむかし。
 
 と、朗誦なさる。
 五十八から十とったお年齢だが、晩年になった心地がなさって、まことにしみじみとお感じになる。
 「おまえの父親に似るな」とでも、お諌めなさりたかったのであろうよ。
 
 
 

第四段 源氏、女三の宮に嫌味を言う

 
   「このことの心知れる人、女房の中にもあらむかし。
 知らぬこそ、ねたけれ。
 烏滸なりと見るらむ」と、安からず思せど、「わが御咎あることはあへなむ。
 二つ言はむには、女の御ためこそ、いとほしけれ」
 「この事情を知って人、女房の中にもきっといることだろう。
 知らないのは、悔しい。
 馬鹿だと思っているだろう」、と穏やかならずお思いになるが、「自分の落度になることは堪えよう。
 二つを問題にすれば、女宮のお立場が、気の毒だ」
   など思して、色にも出だしたまはず。
 いと何心なう物語して笑ひたまへるまみ、口つきのうつくしきも、「心知らざらむ人はいかがあらむ。
 なほ、いとよく似通ひたりけり」と見たまふに、「親たちの、子だにあれかしと、泣いたまふらむにも、え見せず、人知れずはかなき形見ばかりをとどめ置きて、さばかり思ひ上がり、およすけたりし身を、心もて失ひつるよ」
 などとお思いになって、顔色にもお出しにならない。
 とても無邪気にしゃべって笑っていらっしゃる目もとや、口もとのかわいらしさも、「事情を知らない人はどう思うだろう。
 やはり、父親にとてもよく似ている」、と御覧になると、「ご両親が、せめて子供だけでも残してくれていたらと、お泣きになっていようにも、見せることもできず、誰にも知られずはかない形見だけを残して、あれほど高い望みをもって、優れていた身を、自分から滅ぼしてしまったことよ」
   と、あはれに惜しければ、めざましと思ふ心もひき返し、うち泣かれたまひぬ。
 
 と、しみじみと惜しまれるので、けしからぬと思う気持ちも思い直されて、つい涙がおこぼれになった。
 
   人びとすべり隠れたるほどに、宮の御もとに寄りたまひて、  女房たちがそっと席をはずした間に、宮のお側に近寄りなさって、
   「この人をば、いかが見たまふや。
 かかる人を捨てて、背き果てたまひぬべき世にやありける。
 あな、心憂」
 「この子を、どのようにお思いになりますか。
 このような子を見捨てて、出家なさらねばならなかったものでしょうか。
 何とも、情けない」
   と、おどろかしきこえたまへば、顔うち赤めておはす。
 
 と、ご注意をお引き申し上げなさると、顔を赤くしていらっしゃる。
 
 

504
 「誰が世にか 種は蒔きしと 人問はば
 いかが岩根の 松は答へむ
 「いったい誰が種を蒔いたのでしょうと人が尋ねたら
  誰と答えてよいのでしょう、岩根の松は
 
   あはれなり」  不憫なことだ」
   など、忍びて聞こえたまふに、御いらへもなうて、ひれふしたまへり。
 ことわりと思せば、しひても聞こえたまはず。
 
 などと、そっと申し上げなさると、お返事もなくて、うつ臥しておしまいになった。
 もっともなことだとお思いになるので、無理に催促申し上げなさらない。
 
   「いかに思すらむ。
 もの深うなどはおはせねど、いかでかはただには」
 「どうお思いでいるのだろう。
 思慮深い方ではいらっしゃらないが、どうして平静でいられようか」
   と、推し量りきこえたまふも、いと心苦しうなむ。
 
 と、ご推察申し上げなさるのも、とてもおいたわしい思いである。
 
 
 

第五段 夕霧、事の真相に関心

 
   大将の君は、かの心に余りて、ほのめかし出でたりしを、  大将の君は、あの思い余って、ちらっと言い出した事を、
   「いかなることにかありけむ。
 すこしものおぼえたるさまならましかば、さばかりうち出でそめたりしに、いとようけしきは見てましを。
 いふかひなきとぢめにて、折悪しういぶせくて、あはれにもありしかな」
 「どのような事であったのだろうか。
 もう少し意識がはっきりしている状態であったならば、あれほど言い出した事なのだから、十分に事情が察せられたろうに。
 何とも言いようのない最期であったので、折も悪くはっきりしないままで、残念なことであったな」
   と、面影忘れがたうて、兄弟の君たちよりも、しひて悲しとおぼえたまひけり。
 
 と、その面影が忘れることができなくて、兄弟の君たちよりも、特に悲しく思っていらっしゃった。
 
   「女宮のかく世を背きたまへるありさま、おどろおどろしき御悩みにもあらで、すがやかに思し立ちけるほどよ。
 また、さりとも、許しきこえたまふべきことかは。
 
 「女宮がこのように出家なさった様子、大したご病気でもなくて、きれいさっぱりとご決心なさったものよ。
 また、そうだからといって、お許し申し上げなさってよいことだろうか。
 
   二条の上の、さばかり限りにて、泣く泣く申したまふと聞きしをば、いみじきことに思して、つひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを」  二条の上が、あれほど最期に見えて、泣く泣くお願い申し上げなさったと聞いたのは、とんでもないことだとお考えになって、とうとうあのようにお引き留め申し上げなさったものを」
   など、取り集めて思ひくだくに、  などと、あれこれと思案をこらしてみると、
   「なほ、昔より絶えず見ゆる心ばへ、え忍ばぬ折々ありきかし。
 いとようもて静めたるうはべは、人よりけに用意あり、のどかに、何ごとをこの人の心のうちに思ふらむと、見る人も苦しきまでありしかど、すこし弱きところつきて、なよび過ぎたりしけぞかし。
 
 「やはり、昔からずっと抱き続けていた気持ちが、抑え切れない時々があったのだ。
 とてもよく静かに落ち着いた表面は、誰よりもほんとうに嗜みがあり、穏やかで、どのようなことをこの人は考えているのだろうかと、周囲の人も気づまりなほどであったが、少し感情に溺れやすいところがあって、もの柔らか過ぎたためだ。
 
   いみじうとも、さるまじきことに心を乱りて、かくしも身に代ふべきことにやはありける。
 人のためにもいとほしう、わが身はいたづらにやなすべき。
 さるべき昔の契りといひながら、いと軽々しう、あぢきなきことなりかし」
 どんなにせつなく思い込んだとしても、あってはならないことに心を乱して、このように命を引き換えにしてよいことだろうか。
 相手のためにもお気の毒であるし、わが身は滅ぼすことではないか。
 そのようになるはずの前世からの因縁と言っても、まことに軽率で、つまらないことであるぞ」
   など、心一つに思へど、女君にだに聞こえ出でたまはず。
 さるべきついでなくて、院にもまだえ申したまはざりけり。
 さるは、かかることをなむかすめし、と申し出でて、御けしきも見まほしかりけり。
 
 などと、自分独りで思うが、女君にさえ申し上げなさらない。
 適当な機会がなくて、院にもまだ申し上げることができなかった。
 とはいえ、このようなことを小耳にはさみました、と申し出て、ご様子も窺って見てみたい気持ちでもあった。
 
   父大臣、母北の方は、涙のいとまなく思し沈みて、はかなく過ぐる日数をも知りたまはず、御わざの法服、御装束、何くれのいそぎをも、君たち、御方々、とりどりになむ、せさせたまひける。
 
 父大臣と、母北の方は、涙の乾かぬ間なく悲しみにお沈みになって、いつの間にか過ぎて行く日数をもお分かりにならず、ご法要の法服、ご衣装、何やかやの準備も、弟の君たち、姉妹の方々が、それぞれ準備なさるのであった。
 
   経仏のおきてなども、右大弁の君せさせたまふ。
 七日七日の御誦経などを、人の聞こえおどろかすにも、
 経や仏像の指図なども、右大弁の君がおさせになる。
 七日七日ごとの御誦経などを、周囲の人が注意を促すにつけても、
   「我にな聞かせそ。
 かくいみじと思ひ惑ふに、なかなか道妨げにもこそ」
 「わたしに何も聞かせるな。
 このようにひどく悲しい思いに暮れているのに、かえって往生の妨げとなってはいけない」
   とて、亡きやうに思し惚れたり。
 
 と言って、死んだ人のようにぼんやりしていらっしゃる。
 
 
 

第五章 夕霧の物語 柏木哀惜

 
 

第一段 夕霧、一条宮邸を訪問

 
   一条の宮には、まして、おぼつかなうて別れたまひにし恨みさへ添ひて、日ごろ経るままに、広き宮の内、人気少なう心細げにて、親しく使ひ慣らしたまひし人は、なほ参り訪らひきこゆ。
 
 一条宮におかれては、それ以上に、お目にかかれぬままご逝去なさった心残りまでが加わって、日数が過ぎるにつれて、広い宮の邸内も、人数少なく心細げになって、親しく使い馴らしていらした人は、やはりお見舞いに参上する。
 
   好みたまひし鷹、馬など、その方の預りどもも、皆つくところなう思ひ倦じて、かすかに出で入るを見たまふも、ことに触れてあはれは尽きぬものになむありける。
 もて使ひたまひし御調度ども、常に弾きたまひし琵琶、和琴などの緒も取り放ちやつされて、音を立てぬも、いと埋れいたきわざなりや。
 
 お好きであった鷹、馬など、その係の者たちも、皆主人を失ってしょんぼりとして、ひっそりと出入りしているのを御覧になるにつけても、何かにつけてしみじみと悲しみの尽きないものであった。
 お使いになっていらしたご調度類で、いつもお弾きになった琵琶、和琴などの絃も取り外されて、音を立てないのも、あまりにも引き籠もり過ぎていることであるよ。
 
   御前の木立いたう煙りて、花は時を忘れぬけしきなるを眺めつつ、もの悲しく、さぶらふ人びとも、鈍色にやつれつつ、寂しうつれづれなる昼つ方、前駆はなやかに追ふ音して、ここに止まりぬる人あり。
 
 御前の木立がすっかり芽をふいて、花は季節を忘れない様子なのを眺めながら、何となく悲しく、伺候する女房たちも、鈍色の喪服に身をやつしながら、寂しく所在ない昼間に、先払いを派手にする声がして、この邸の前に止まる人がいる。
 
   「あはれ、故殿の御けはひとこそ、うち忘れては思ひつれ」  「ああ、亡くなられた殿のおいでかと、ついうっかり思ってしまいました」
   とて、泣くもあり。
 大将殿のおはしたるなりけり。
 御消息聞こえ入れたまへり。
 例の弁の君、宰相などのおはしたると思しつるを、いと恥づかしげにきよらなるもてなしにて入りたまへり。
 
 と言って、泣く者もいる。
 大将殿がいらっしゃったのであった。
 ご案内を申し入れなさった。
 いつものように弁の君や、宰相などがいらっしゃったものかとお思いになったが、たいそう気おくれのするほど立派な美しい物腰でお入りになった。
 
   母屋の廂に御座よそひて入れたてまつる。
 おしなべたるやうに、人びとのあへしらひきこえむは、かたじけなきさまのしたまへれば、御息所ぞ対面したまへる。
 
 母屋の廂間に御座所を設けてお入れ申し上げなさる。
 普通の客人と同様に、女房たちがご応対申し上げるのでは、恐れ多い感じのなさる方でいらっしゃるので、御息所がご対面なさった。
 
   「いみじきことを思ひたまへ嘆く心は、さるべき人びとにも越えてはべれど、限りあれば、聞こえさせやる方なうて、世の常になりはべりにけり。
 今はのほどにも、のたまひ置くことはべりしかば、おろかならずなむ。
 
 「悲しい気持ちでおりますことは、身内の方々以上のものがございますが、世のしきたりもありますから、お見舞いの申し上げようもなくて、世間並になってしまいました。
 臨終の折にも、ご遺言なさったことがございましたので、いいかげんな気持ちでいたわけではありません。
 
   誰ものどめがたき世なれど、後れ先立つほどのけぢめには、思ひたまへ及ばむに従ひて、深き心のほどをも御覧ぜられにしがなとなむ。
 神事などのしげきころほひ、私の心ざしにまかせて、つくづくと籠もりゐはべらむも、例ならぬことなりければ、立ちながらはた、なかなかに飽かず思ひたまへらるべうてなむ、日ごろを過ぐしはべりにける。
 
 誰でも安心してはいられない人生ですが、生き死にの境目までは、自分の考えが及ぶ限りは、浅からぬ気持ちを御覧いただきたいものだと思っております。
 神事などの忙しいころは、私的な感情にまかせて、家に籠もっておりますことも、例のないことでしたので、立ったままではこれまた、かえって物足りなく存じられましょうと思いまして、日頃ご無沙汰してしまったのです。
 
   大臣などの心を乱りたまふさま、見聞きはべるにつけても、親子の道の闇をばさるものにて、かかる御仲らひの、深く思ひとどめたまひけむほどを、推し量りきこえさするに、いと尽きせずなむ」  大臣などが悲嘆に暮れていらっしゃるご様子、見たり聞いたり致すにつけても、親子の恩愛の情は当然のことですが、ご夫婦の仲では、深いご無念がおありだったでしょうことを、推量致しますと、まことにご同情に堪えません」
   とて、しばしばおし拭ひ、鼻うちかみたまふ。
 あざやかに気高きものから、なつかしうなまめいたり。
 
 と言って、しばしば涙を拭って、鼻をおかみになる。
 きわだって気高い一方で、親しみが感じられ優雅な物腰である。
 
 
 

第二段 母御息所の嘆き

 
   御息所も鼻声になりたまひて、  御息所も鼻声におなりになって、
   「あはれなることは、その常なき世のさがにこそは。
 いみじとても、またたぐひなきことにやはと、年積もりぬる人は、しひて心強うさましはべるを、さらに思し入りたるさまの、いとゆゆしきまで、しばしも立ち後れたまふまじきやうに見えはべれば、すべていと心憂かりける身の、今までながらへはべりて、かくかたがたにはかなき世の末のありさまを見たまへ過ぐすべきにやと、いと静心なくなむ。
 
 「死別の悲しみは、この無常の世の習いでございましょう。
 どんなに悲しいといっても、世間に例のないことではないと、この年寄りは、無理に気強く冷静に致しておりますが、すっかり悲しみに暮れたご様子が、とても不吉なまでに、今にも後を追いなさるように見えますので、すべてまことに辛い身の上であったわたしが、今まで生き永らえまして、このようにそれぞれに無常な世の末の様子を拝見致して行くのかと、まことに落ち着かない気持ちでございます。
 
   おのづから近き御仲らひにて、聞き及ばせたまふやうもはべりけむ。
 初めつ方より、をさをさうけひききこえざりし御ことを、大臣の御心むけも心苦しう、院にもよろしきやうに思し許いたる御けしきなどのはべしかば、さらばみづからの心おきての及ばぬなりけりと、思ひたまへなしてなむ、見たてまつりつるを、かく夢のやうなることを見たまふるに、思ひたまへ合はすれば、みづからの心のほどなむ、同じうは強うもあらがひきこえましを、と思ひはべるに、なほいと悔しう。
 それは、かやうにしも思ひ寄りはべらざりきかし。
 
 自然と親しいお間柄ゆえで、お聞き及んでいらっしゃるようなこともございましたでしょう。
 最初のころから、なかなかご承知申し上げなかったご縁組でしたが、大臣のご意向もおいたわしく、院におかれても結構な縁組のようにお考えであった御様子などがございましたので、それではわたしの考えが至らなかったのだと、自ら思い込ませまして、お迎え申し上げたのですが、このように夢のような出来事を目に致しまして、考え会わせてみますと、自分の考えを、同じことなら強く押し通し反対申せばよかったものを、と思いますと、やはりとても残念で。
 それは、こんなに早くとは思いも寄りませんでした。
 
   皇女たちは、おぼろけのことならで、悪しくも善くも、かやうに世づきたまふことは、え心にくからぬことなりと、古めき心には思ひはべしを、いづかたにもよらず、中空に憂き御宿世なりければ、何かは、かかるついでに煙にも紛れたまひなむは、この御身のための人聞きなどは、ことに口惜しかるまじけれど、さりとても、しかすくよかに、え思ひ静むまじう、悲しう見たてまつりはべるに、いとうれしう、浅からぬ御訪らひのたびたびになりはべめるを、有り難うもと聞こえはべるも、さらば、かの御契りありけるにこそはと、思ふやうにしも見えざりし御心ばへなれど、今はとて、これかれにつけおきたまひける御遺言の、あはれなるになむ、憂きにもうれしき瀬はまじりはべりける」  内親王たちは、並大抵のことでは、よかれあしかれ、このように結婚なさることは、感心しないことだと、老人の考えでは思っていましたが、結婚するしないにかかわらず、中途半端な中空にさまよった辛い運命のお方であったので、いっそのこと、このような時にでも後をお慕い申したところで、このお方にとって外聞などは、特に気にしないでよろしいでしょうが、そうかといっても、そのようにあっさりとも、諦め切れず、悲しく拝し上げておりますが、まことに嬉しいことに、懇ろなお見舞いを重ね重ね頂戴しましたようで、有り難いこととお礼申し上げますが、それでは、あのお方とのお約束があったゆえと、願っていたようには見えなかったお気持ちでしたが、今はの際に、誰彼にお頼みなさったご遺言が、身にしみまして、辛い中にも嬉しいことはあるものでございました」
   とて、いといたう泣いたまふけはひなり。
 
 と言って、とてもひどくお泣きになる様子である。
 
 
 

第三段 夕霧、御息所と和歌を詠み交わす

 
   大将も、とみにえためらひたまはず。
 
 大将も、すぐには涙をお止めになれない。
 
   「あやしう、いとこよなくおよすけたまへりし人の、かかるべうてや、この二、三年のこなたなむ、いたうしめりて、もの心細げに見えたまひしかば、あまり世のことわりを思ひ知り、もの深うなりぬる人の、澄み過ぎて、かかる例、心うつくしからず、かへりては、あざやかなる方のおぼえ薄らぐものなりとなむ、常にはかばかしからぬ心に諌めきこえしかば、心浅しと思ひたまへりし。
 よろづよりも、人にまさりて、げに、かの思し嘆くらむ御心の内の、かたじけなけれど、いと心苦しうもはべるかな」
 「どうしたわけか、実に申し分なく老成していらっしゃった方が、このようになる運命だったからでしょうか、ここ二、三年の間、ひどく沈み込んで、どことなく心細げにお見えになったので、あまりに世の無常を知り、考え深くなった人が、悟りすまし過ぎて、このような例で、心が素直でなくなり、かえって逆に、てきぱきしたところがないように人に思われるものだと、いつも至らない自分ながらお諌め申していたので、思慮が浅いとお思いのようでした。
 何事にもまして、人に優れて、おっしゃる通り、宮のお悲しみのご心中、恐れ多いことですが、まことにおいたわしゅうございます」
   など、なつかしうこまやかに聞こえたまひて、ややほど経てぞ出でたまふ。
 
 などと、優しく情愛こまやかに申し上げなさって、やや長居してお帰りになる。
 
   かの君は、五、六年のほどのこのかみなりしかど、なほ、いと若やかに、なまめき、あいだれてものしたまひし。
 これは、いとすくよかに重々しく、男々しきけはひして、顔のみぞいと若うきよらなること、人にすぐれたまへる。
 若き人びとは、もの悲しさもすこし紛れて見出だしたてまつる。
 
 あの方は、五、六歳くらい年上であったが、それでも、とても若々しく、優雅で、人なつっこいところがおありであった。
 この方は、実にきまじめで重々しく、男性的な感じがして、お顔だけがとても若々しく美しいことは、誰にも勝っていらっしゃった。
 若い女房たちは、もの悲しい気持ちも少し紛れてお見送り申し上げる。
 
   御前近き桜のいとおもしろきを、「今年ばかりは」と、うちおぼゆるも、いまいましき筋なりければ、  御前に近い桜がたいそう美しく咲いているのを、「今年ばかりは」と、ふと思われるのも、縁起でもないことなので、
   「あひ見むことは」  「再びお目にかかれるのは」
   と口ずさびて、  と口ずさみなさって、
 

505
 「時しあれば 変はらぬ色に 匂ひけり
 片枝枯れにし 宿の桜も」
 「季節が廻って来たので変わらない色に咲きました
  片方の枝は枯れてしまったこの桜の木にも」
 
   わざとならず誦じなして立ちたまふに、いととう、  さりげないふうに口ずさんでお立ちになると、とても素早く、
 

506
 「この春は 柳の芽にぞ 玉はぬく
 咲き散る花の 行方知らねば」
 「今年の春は柳の芽に露の玉が貫いているように泣いております
  咲いて散る桜の花の行く方も知りませんので」
 
   と聞こえたまふ。
 いと深きよしにはあらねど、今めかしう、かどありとは言はれたまひし更衣なりけり。
 「げに、めやすきほどの用意なめり」と見たまふ。
 
 と申し上げなさる。
 格別深い情趣があるわけではないが、当世風で、才能があると言われていらした更衣だったのである。
 「なるほど、無難なお心づかいのようだ」と御覧になる。
 
 
 

第四段 夕霧、太政大臣邸を訪問

 
   致仕の大殿に、やがて参りたまへれば、君たちあまたものしたまひけり。
 
 致仕の大殿に、そのまま参上なさったところ、弟君たちが大勢いらっしゃっていた。
 
   「こなたに入らせたまへ」  「こちらにお入りあそばせ」
   とあれば、大臣の御出居の方に入りたまへり。
 ためらひて対面したまへり。
 古りがたうきよげなる御容貌、いたう痩せ衰へて、御髭などもとりつくろひたまはねば、しげりて、親の孝よりも、けにやつれたまへり。
 見たてまつりたまふより、いと忍びがたければ、「あまりにをさまらず乱れ落つる涙こそ、はしたなけれ」と思へば、せめてぞもて隠したまふ。
 
 と言うので、大臣の御客間の方にお入りになった。
 悲しみを抑えてご対面なさった。
 いつまでも若く美しいご容貌、ひどく痩せ衰えて、お髭などもお手入れなさらないので、いっぱい生えて、親の喪に服するよりも憔悴していらっしゃった。
 お会いなさるや、とても堪え切れないので、「あまりだらしなくこぼす涙は体裁が悪い」と思うので、無理にお隠しになる。
 
   大臣も、「取り分きて御仲よくものしたまひしを」と見たまふに、ただ降りに降り落ちて、えとどめたまはず、尽きせぬ御事どもを聞こえ交はしたまふ。
 
 大臣も、「特別仲好くいらしたのに」とお思いになると、ただ涙がこぼれこぼれて、お止めになることができず、語り尽きせぬ悲しみを互いにお話しなさる。
 
   一条の宮に参でたりつるありさまなど聞こえたまふ。
 いとどしう、春雨かと見ゆるまで、軒の雫に異ならず、濡らし添へたまふ。
 畳紙に、かの「柳の芽にぞ」とありつるを、書いたまへるをたてまつりたまへば、「目も見えずや」と、おし絞りつつ見たまふ。
 
 一条宮邸に参上した様子などを申し上げなさる。
 ますます、春雨かと思われるまで、軒の雫と違わないほど、いっそう涙をお流しになる。
 畳紙に、あの「柳の芽に」とあったのを、お書き留めになっていたのを差し上げなさると、「目も見えませんよ」と、涙を絞りながら御覧になる。
 
   うちひそみつつぞ見たまふ御さま、例は心強うあざやかに、誇りかなる御けしき名残なく、人悪ろし。
 さるは、異なることなかめれど、この「玉はぬく」とある節の、げにと思さるるに、心乱れて、久しうえためらひたまはず。
 
 泣き顔をして御覧になるご様子、いつもは気丈できっぱりして、自信たっぷりのご様子もすっかり消えて、体裁が悪い。
 実のところ、特別良い歌ではないようだが、この「玉が貫く」とあるところが、なるほどと思わずにはいらっしゃれないので、心が乱れて、暫くの間、涙を堪えることができない。
 
   「君の御母君の隠れたまへりし秋なむ、世に悲しきことの際にはおぼえはべりしを、女は限りありて、見る人少なう、とあることもかかることもあらはならねば、悲しびも隠ろへてなむありける。
 
 「あなたの母上がお亡くなりになった秋は、本当に悲しみの極みに思われましたが、女性というものはきまりがって、知る人も少なく、あれこれと目立つこともないので、悲しみも表立つことはないのであった。
 
   はかばかしからねど、朝廷も捨てたまはず、やうやう人となり、官位につけて、あひ頼む人びと、おのづから次々に多うなりなどして、おどろき口惜しがるも、類に触れてあるべし。
 
 ふつつかな者でしたが、帝もお見捨てにならず、だんだんと一人前になって、官位も昇るにつれて、頼りとする人々が、自然と次々に多くなってきたりして、驚いたり残念に思う者も、いろいろな関係でいることでしょう。
 
   かう深き思ひは、その大方の世のおぼえも、官位も思ほえず。
 ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、堪へがたく恋しかりけれ。
 何ばかりのことにてか、思ひさますべからむ」
 このように深い嘆きは、その世間一般の評判も、官位のことは考えていません。
 ただ格別人と変わったところもなかった本人の有様だけが、堪え難く恋しいのです。
 いったいどのようにして、この悲しみが忘れられるのでしょう」
   と、空を仰ぎて眺めたまふ。
 
 と言って、空を仰いで物思いに耽っていらっしゃる。
 
   夕暮の雲のけしき、鈍色に霞みて、花の散りたる梢どもをも、今日ぞ目とどめたまふ。
 この御畳紙に、
 夕暮の雲の様子、鈍色に霞んで、花の散った梢々を、今日初めて目をお止めになる。
 さきほどの御畳紙に、
 

507
 「木の下の 雫に濡れて さかさまに
 霞の衣 着たる春かな」
 「木の下の雫に濡れて逆様に
  親が子の喪に服している春です」
 
   大将の君、  大将の君、
 

508
 「亡き人も 思はざりけむ うち捨てて
 夕べの霞 君着たれとは」
 「亡くなった人も思わなかったことでしょう
  親に先立って父君に喪服を着て戴こうとは」
 
   弁の君、  弁の君、
 

509
 「恨めしや 霞の衣 誰れ着よと
 春よりさきに 花の散りけむ」
 「恨めしいことよ、墨染の衣を誰が着ようと思って
  春より先に花は散ってしまったのでしょう」
 
   御わざなど、世の常ならず、いかめしうなむありける。
 大将殿の北の方をばさるものにて、殿は心ことに、誦経なども、あはれに深き心ばへを加へたまふ。
 
 ご法要などは、世間並でなく、立派に催されたのであった。
 大将殿の北の方はもちろんのこと、殿は特別に、誦経なども手厚くご趣向をお加えなさる。
 
 
 

第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問

 
   かの一条の宮にも、常に訪らひきこえたまふ。
 卯月ばかりの卯の花は、そこはかとなう心地よげに、一つ色なる四方の梢もをかしう見えわたるを、もの思ふ宿は、よろづのことにつけて静かに心細う、暮らしかねたまふに、例の渡りたまへり。
 
 あの一条宮邸にも、常にお見舞い申し上げなさる。
 四月ごろの卯の花は、どこそことなく心地よく、一面新緑に覆われた四方の木々の梢が美しく見わたされるが、物思いに沈んでいる家は、何につけてもひっそりと心細く、暮らしかねていらっしゃるところに、いつものように、お越しになった。
 
   庭もやうやう青み出づる若草見えわたり、ここかしこの砂子薄きものの隠れの方に、蓬も所得顔なり。
 前栽に心入れてつくろひたまひしも、心にまかせて茂りあひ、一村薄も頼もしげに広ごりて、虫の音添へむ秋思ひやらるるより、いとものあはれに露けくて、分け入りたまふ。
 
 庭もだんだんと青い芽を出した若草が一面に見えて、あちらこちらの白砂の薄くなった物蔭の所に、雑草がわが物顔に茂っている。
 前栽を熱心に手入れなさっていたのも、かって放題に茂りあって、一むらの薄も思う存分に延び広がって、虫の音が加わる秋が想像されると、もうとても悲しく涙ぐまれて、草を分けてお入りになる。
 
   伊予簾かけ渡して、鈍色の几帳の衣更へしたる透影、涼しげに見えて、よき童女の、こまやかに鈍ばめる汗衫のつま、頭つきなどほの見えたる、をかしけれど、なほ目おどろかるる色なりかし。
 
 伊予簾を一面に掛けて、鈍色の几帳を衣更えした透き影が、涼しそうに見えて、けっこうな童女の、濃い鈍色の汗衫の端、頭の恰好などがちらっと見えているのも、趣があるが、やはりはっとさせられる色である。
 
   今日は簀子にゐたまへば、茵さし出でたり。
 「いと軽らかなる御座なり」とて、例の、御息所おどろかしきこゆれど、このごろ、悩ましとて寄り臥したまへり。
 とかく聞こえ紛らはすほど、御前の木立ども、思ふことなげなるけしきを見たまふも、いとものあはれなり。
 
 今日は簀子にお座りになったので、褥をさし出した。
 「まことに軽々しいお座席です」と言って、いつものように、御息所に応対をお促し申し上げるが、最近、気分が悪いといって物に寄り臥していらっしゃった。
 あれこれと座をお取り持ちする間、御前の木立が、何の悩みもなさそうに茂っている様子を御覧になるにつけても、とてもしみじみとした思いがする。
 
   柏木と楓との、ものよりけに若やかなる色して、枝さし交はしたるを、  柏木と楓とが、他の木々よりも一段と若々しい色をして、枝をさし交わしているのを、
   「いかなる契りにか、末逢へる頼もしさよ」  「どのような前世の縁でか、枝先が繋がっている頼もしさだ」
   などのたまひて、忍びやかにさし寄りて、  などとおっしゃって、目立たないように近寄って、
 

510
 「ことならば 馴らしの枝に ならさなむ
 葉守の神の 許しありきと
 「同じことならばこの連理の枝のように親しくして下さい
  葉守の神の亡き方のお許があったのですからと
 
   御簾の外の隔てあるほどこそ、恨めしけれ」  御簾の外に隔てられているのは、恨めしい気がします」
   とて、長押に寄りゐたまへり。
 
 と言って、長押に寄りかかっていらっしゃった。
 
   「なよび姿はた、いといたうたをやぎけるをや」  「くだけたお姿もまた、とてもたいそうしなやかでいらっしゃること」
   と、これかれつきしろふ。
 この御あへしらひきこゆる少将の君といふ人して、
 と、お互いにつつき合っている。
 お相手を申し上げる少将の君という人を使って、
 

511
 「柏木に 葉守の神は まさずとも
 人ならすべき 宿の梢か
 「柏木に葉守の神はいらっしゃらなくても
  みだりに人を近づけてよい梢でしょうか
 
   うちつけなる御言の葉になむ、浅う思ひたまへなりぬる」  唐突なお言葉で、いい加減なお方と思えるようになりました」
   と聞こゆれば、げにと思すに、すこしほほ笑みたまひぬ。
 
 と申し上げたので、なるほどとお思いになると、少し苦笑なさった。
 
 
 

第六段 夕霧、御息所と対話

 
   御息所ゐざり出でたまふけはひすれば、やをらゐ直りたまひぬ。
 
 御息所のいざり出でなさるご様子がするので、静かに居ずまいを正しなさった。
 
   「憂き世の中を、思ひたまへ沈む月日の積もるけぢめにや、乱り心地も、あやしうほれぼれしうて過ぐしはべるを、かくたびたび重ねさせたまふ御訪らひの、いとかたじけなきに、思ひたまへ起こしてなむ」  「嫌な世の中を、悲しみに沈んで月日を重ねてきたせいでしょうか、気分の悪いのも、妙にぼうっとして過ごしておりますが、このように度々重ねてお見舞い下さるのが、まことにもったいので、元気を奮い起こしまして」
   とて、げに悩ましげなる御けはひなり。
 
 と言って、本当に苦しそうなご様子である。
 
   「思ほし嘆くは、世のことわりなれど、またいとさのみはいかが。
 よろづのこと、さるべきにこそはべめれ。
 さすがに限りある世になむ」
 「お嘆きになるのは、世間の道理ですが、またそんなに悲しんでばかりいられるのもいかがなものかと。
 何事も、前世からの約束事でございましょう。
 何といっても限りのある世の中です」
   と、慰めきこえたまふ。
 
 と、お慰め申し上げなさる。
 
   「この宮こそ、聞きしよりは心の奥見えたまへ、あはれ、げに、いかに人笑はれなることを取り添へて思すらむ」  「この宮は、聞いていたよりも奥ゆかしいところがお見えになるが、お気の毒に、なるほど、どんなにか外聞の悪い事を加えてお嘆きになっていられることだろう」
   と思ふもただならねば、いたう心とどめて、御ありさまも問ひきこえたまひけり。
 
 と思うと心が動くので、たいそう心をこめて、ご様子をもお尋ね申し上げなさった。
 
   「容貌ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、いと見苦しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、見る目により人をも思ひ飽き、また、さるまじきに心をも惑はすべきぞ。
 さま悪しや。
 ただ、心ばせのみこそ、言ひもてゆかむには、やむごとなかるべけれ」と思ほす。
 
 「器量などはとても十人並でいらっしゃるまいけれども、ひどくみっともなくて見ていられない程でなければ、どうして、見た目が悪いといって相手を嫌いになったり、また、大それたことに心を迷わすことがあってよいものか。
 みっともないことだ。
 ただ、気立てだけが、結局は、大切なのだ」とお考えになる。
 
   「今はなほ昔に思ほしなずらへて、疎からずもてなさせたまへ」  「今はやはり故人と同様にお考え下さって、親しくお付き合い下さいませ」
   など、わざと懸想びてはあらねど、ねむごろにけしきばみて聞こえたまふ。
 直衣姿いとあざやかにて、丈だちものものしう、そぞろかにぞ見えたまひける。
 
 などと、特に色めいたおっしゃりようではないが、心を込めて気のある申し上げ方をなさる。
 直衣姿がとても鮮やかで、背丈も堂々と、すらりと高くお見えであった。
 
   「かの大殿は、よろづのことなつかしうなまめき、あてに愛敬づきたまへることの並びなきなり」  「お亡くなりになった殿は、何事にもお優しく美しく、上品で魅力的なところがおありだったことは無類でした」
   「これは、男々しうはなやかに、あなきよらと、ふと見えたまふにほひぞ、人に似ぬや」  「こちらは、男性的で派手で、何と美しいのだろうと、直ぐにお見えになる美しさは、ずば抜けています」
   と、うちささめきて、  と、ささやいて、
   「同じうは、かやうにても出で入りたまはましかば」  「同じことなら、このようにしてお出入りして下さったならば」
   など、人びと言ふめり。
 
 などと、女房たちは言っているようである。
 
   「右将軍が墓に草初めて青し」  「右将軍の墓に草初めて青し」
   と、うち口ずさびて、それもいと近き世のことなれば、さまざまに近う遠う、心乱るやうなりし世の中に、高きも下れるも、惜しみあたらしがらぬはなきも、むべむべしき方をばさるものにて、あやしう情けを立てたる人にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人、女房などの年古めきたるどもさへ、恋ひ悲しびきこゆる。
 まして、上には、御遊びなどの折ごとにも、まづ思し出でてなむ、しのばせたまひける。
 
 と口ずさんで、それも最近の事だったので、あれこれと近頃も昔も、人の心を悲しませるような世の中の出来事に、身分の高い人も低い人も、惜しみ残念がらない者がないのも、もっともらしく格式ばった事柄はそれとして、不思議と人情の厚い方でいらっしゃったので、大したこともない役人、女房などの年取った者たちまでが、恋い悲しみ申し上げた。
 それ以上に、主上におかせられては、管弦の御遊などの折毎に、まっさきにお思い出しになって、お偲びあそばされた。
 
   「あはれ、衛門督」  「ああ、衛門督よ」
   といふ言種、何ごとにつけても言はぬ人なし。
 六条院には、ましてあはれと思し出づること、月日に添へて多かり。
 
 と言う口癖を、何事につけても言わない人はいない。
 六条院におかれては、まして気の毒にとお思い出しになること、月日の経つにつれて多くなっていく。
 
   この若君を、御心一つには形見と見なしたまへど、人の思ひ寄らぬことなれば、いとかひなし。
 秋つ方になれば、この君は、ゐざりなど。
 
 この若君を、お心の中では形見と御覧になるが、誰も知らないことなので、まことに何の張り合いもない。
 秋頃になると、この若君は、這い這いをし出したりなどして。
 
 
 

【出典】

 
 
  出典1 大方の我が身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺集恋五-九五三 紀貫之)(戻)  
  出典2 憂くも世に思ふ心に叶はぬか誰も千年の松ならなくに(古今六帖四-二〇九六)(戻)  
  出典3 夏虫の身をいたづらになすことも一つ思ひによりてなりけり(古今集恋一-五四四 読人しらず)(戻)  
  出典4 独り寝の床にたまれる涙には石の枕も浮きぬべらなり(古今六帖五-三二四一)(戻)  
  出典5 恋ひ侘びて夜よる惑ふ我が魂はなかなか身にも返らざりけり(能宣集-三二八)思ひあまり出でにし魂のあるならむ夜深く見えば魂結びせよ(伊勢物語-一八九)(戻)  
  出典6 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)  
  出典7 末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ(古今六帖一-五九三 僧正遍昭)(戻)  
  出典8 夫孝始於事親 中於事君 終於立身(孝経)(戻)  
  出典9 吾日三省吾身(論語-学而)(戻)  
  出典10 我こそや見ぬ人恋ふる病すれ逢ふ日ならではやむ薬なし(拾遺集恋一-六六五 読人しらず)(戻)  
  出典11 水の泡の消えて憂き身といひながら流れてなほも頼まるるかな(古今集恋五-七九二 紀友則)(戻)  
  出典12 取り返すものにもがなやいにしへを在りしながらの我が身と思はむ(出典未詳-源氏釈所引)(戻)  
  出典13 五十八翁方有後 静思堪喜亦堪嗟(白氏文集二十八-二八二一)(戻)  
  出典14 五十八翁方有後 静思堪喜亦堪嗟(白氏文集二十八-二八二一)(戻)  
  出典15 持盃祝願無他語 慎勿頑愚似汝爺(白氏文集二十八-二八二一)(戻)  
  出典16 梓弓磯辺の小松誰が世によろづ世かねて種を蒔きけむ(古今集雑上-九〇七 読人しらず)(戻)  
  出典17 うれしきも憂きも心は一つにて別れぬ物は涙なりけり(後撰集雑二-一一八八 読人しらず)(戻)  
  出典18 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(古今集哀傷-八三二 上野岑雄)(戻)  
  出典19 春ごとに花の盛りはありなめどあひ見むことは命なりけり(古今集春下-九七 読人しらず)(戻)  
  出典20 より合はせて泣くなる声を糸にして我が涙をば玉にぬかなむ(古今六帖四-二四八〇 伊勢)(戻)  
  出典21 君が植ゑし一村薄虫の音しげき野辺ともなりにけるかな(古今集哀傷-八五三 三春有助)(戻)  
  出典22 楢の葉の葉守の神のましけるを知らで折りし祟りなさるな(後撰集雑二-一一八三 藤原仲平)(戻)  
  出典23 伊勢の海人の朝な夕なにかづくてふみるめに人を飽くよしもがな(古今集恋四-六八三 読人しらず)(戻)  
  出典24 天与善人吾不信 右将軍墓草初秋(本朝秀句-河海抄所引)(戻)  
 
 

【校訂】

 
 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 御産養--御(御/+う)ふやしなひ(戻)  
  校訂2 御粥--*御かゆて(戻)  
  校訂3 さしのぞき--さしのそかせ(かせ/$き)(戻)  
  校訂4 なりにて--て(て/#な)りにて(戻)  
  校訂5 など--△(△/#な)と(戻)  
  校訂6 すまじう--すまし(し/+う)(戻)  
  校訂7 すれど--すれ△(△/#と)も(戻)  
  校訂8 たまはむ--た(た/$)給はむ(戻)  
  校訂9 過ぐさむは--すくさむい(い/#は)(戻)  
  校訂10 心ばへをも--心はへ(へ/+を)も(戻)  
  校訂11 たまはむ--給はら(ら/$)む(戻)  
  校訂12 入りて--ま(ま/$)いりて(戻)  
  校訂13 などをも--なと(と/+を)も(戻)  
  校訂14 返さひ--*かへさむ(戻)  
  校訂15 心地--心ちの(の/$)(戻)  
  校訂16 さるは--さる(る/+は)(戻)  
  校訂17 いはけなう--いま(ま/$は)けなう(戻)  
  校訂18 残い--のこひ(ひ/#い)(戻)  
  校訂19 かなた--か(か/+な)た(戻)  
  校訂20 さすがに--さすか(か/+に)(戻)  
  校訂21 女に--女にて(て/$)(戻)  
  校訂22 のどかに--ゝの(の/$)とかに(戻)  
  校訂23 あへなむ--あへ(あへ/&あへ)なむ(戻)  
  校訂24 見る--みゆ(ゆ/$る)(戻)  
  校訂25 たまひし--給(給/+し)(戻)  
  校訂26 ありける--あ(あ/+り)ける(戻)  
  校訂27 などの--なと(と/+の)(戻)  
  校訂28 たまへれば--*給つれは(戻)  
  校訂29 御宿世--御すくせを(を/$)(戻)  
  校訂30 有り難うもと--ありかたうも(も/+と)(戻)  
  校訂31 おぼえ--*おほく(戻)  
  校訂32 たまへれば--*給つれは(戻)  
  校訂33 たまへる--*給つる(戻)  
  校訂34 官--(/+つかさ)(戻)  
  校訂35 やらるる--やられ(れ/$)るゝ(戻)  
  校訂36 鈍色--にひ(ひ/+い)ろ(戻)  
  校訂37 御前--を(を/#お)まへ(戻)  
  校訂38 たをやぎける--たをや(や/+き)ける(戻)  
  校訂39 そぞろか--*そろゝか(戻)  
  校訂40 ささめき--△△(△△/#さゝ)めき(戻)  
  校訂41 たるども--たる(る/+と)も(戻)  
 

 
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