伊勢物語 27段:たらひの影 あらすじ・原文・現代語訳

第26段
もろこし舟
伊勢物語
第一部
第27段
たらひの影
第28段
あふご形見

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 

あらすじ

 
 
 むかし、男が女の所に一夜行って、二度とは行かなくなった話。
 その筋書きはこうである。
 

 女の所にいったのだが、(この女とは、前段からの流れで二条の后。労を労って誘われた。その宴席での話)
 その御手洗いで手を洗おうとしたところ、たらいの水が見えた。そこで一首したためる。

 我ばかり もの思ふ人は またもあらじと 思へば水の 下にもありけり

 

 →こんなに物思っている人は、私だけだろうな(またもあらじ)、とかけて、または来るまい。
 なんて、あらぬ(あらじ)ことを思えば、水の下にもあると解く。その心は。
 下らんしたあいない、と思ったらたらいあり。
 

 なんて他愛ないことを思っていたら、
 来てほしくない人(来ざりける男)が来て、立ち聞きしていて言ってきた(心の声がもれていたか。つまり冗談の段)。

 水口に われや見ゆらむ 蛙さへ 水の下にて もろ声に鳴く
 

 →みな口々に、どこいったか~かえっておいで~と、みんな一緒に泣いています(たらいじゃないなら、帰るです。え、タラヲ…?)。
 

 つまり、著者はそういう大袈裟な、貴族系の宴会とかは性にあってない。カエルの歌をきいてもさ、くわっくわっ、って。
 ちと厳しいですね、だから包んでいる。でもそれは、女の好き嫌いとは全く別の話。違う、そうじゃない(?) そう決めつけられるのも嫌と。
 

 冒頭の「女のもとにひと夜」とは、そういう決めつけを想定した言葉。それは大きな可能性としながらも、本当にそうかは、文脈をよく読んでほしい。
 「又もいかずなり」と「来ざりける」という表現もそう。ちゃんと文脈を読んで欲しいと。と言っても、難しいよね。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第27段 たらひの影
   
 むかし、男、 むかし、おとこ、  昔男。
  女のもとにひと夜いきて、 女のもとにひとよいきて、 人のむすめのもとに一夜ばかりいきて。
  又もいかずなりにければ、 又もいかずなりにければ、 またもいかずなりにければ。
      女のおやはらだちて。
  女の、
手洗ふ所に、
貫簀をうちやりて、
女の
てあらふところに
ぬきすをうちやりて、

手あらふ所に。
ぬきすをとりてなげすてければ。
  たらひのかげに見えけるを、 たらひのかげに見えけるを、 たらひの水に。なくかげのみえけるを。
  みづから、 みづから、 みづから。
       

59
 我ばかり
 もの思ふ人はまたもあらじと
 我許
 物思人は又もあらじと
 我はかり
 物思ふ人は又あらしと
  思へば水の
  下にもありけり
  おもへば水の
  したにもありけり
  思へは水の
  したに有けり
       
  とよむを、 とよむを とよめりけるを。
  来ざりける男、立ち聞きて、 かのこざりけるおとこたちきゝて、 このこざりける おとこきゝて。
       

60
 水口に
 われや見ゆらむ蛙さへ
 みなくちに
 われや見ゆらむかはづさへ
 水口に
 我やみゆらん蛙さへ
  水の下にて
  もろ声に鳴く
  水のしたにて
  もろごゑになく
  水の下にて
  もろこえになく
   

現代語訳

 
 

むかし、男、
女のもとにひと夜いきて、又もいかずなりにければ、

 
 
むかし、男
 むかし男が、
 

女のもとにひと夜いきて、
 女の所に一夜行って
 

 もと(元・許)
 :(人のいる)所。
 

又もいかずなりにければ、
 又も行かなくなったところ、
 
 (その理由は、以下の通りである。
 つまりここまでが全体の結論。そう見ないと通らない。このような構成は、10段でも見られる。
 以下の内容は、主体を明らかに意図的に錯綜させているから、文面だけではない暗示的な意味がある)
 

女の、手洗ふ所に、貫簀(ぬきす)をうちやりて、たらひのかげに見えけるを、

 
 
女の、(△女のおやはらだちて)
 女の、
(前後のつながりとして塗籠は補うが、こういうのは不要。そのまま見て考える)
 

手洗ふ所に、
 お手洗いに、
 

貫簀(ぬきす)をうちやりて、
 すのこの蓋をとって、
 

 ぬきす 【貫簀】
 :たらいの蓋のすのこ。
 

 うちやる 【打ち遣る・うっちゃる】:
 ①遠くにやる。放す。
 ②そのままにする。→これだと意味が通らないので、①。
 

たらひのかげに見えけるを、
 たらいの陰に見えたことを、
 

みづから、
 
 我ばかり もの思ふ人は またもあらじと
  思へば水の 下にもありけり
 
とよむを、

 
 
みづから、
 自ら、
(自分でというのは当り前すぎるが、主体の連続を示し、
 さらに、そこにあるのは「水かな?」とかけ)
 

我ばかり
 私のように
 

 ばかり
 ①〔最上〕…ほど。…ぐらい。(下に打消を伴い)
 ②〔限定〕…だけ。
 

もの思ふ人は
 物を思う人は、
 

またもあらじと
 まずいるまいと。
(→私が一番よく思って=考えている)
 

 また
 ①もまた、同じように。
 ②そのほかに。
 
 

思へば水の
 

下にもありけり
 

とよむを、
 
 水の下にもあるという、それは「たらい」
 たらいあるとかけ、他愛ない。
 下にあるとかけ、下らない。
 
 自分が一番考えていると思うけども、他愛なくて下らないなと。
 

来ざりける男、立ち聞きて、
 
 水口に われや見ゆらむ 蛙さへ
 水の下にて もろ声に鳴く

 
 
(▲この)(△かの)来ざりける男、
 (来なかった男??)
 
 ※完全に意味不明なので注意。
 これは冒頭の表現「又もいかず」と合わせて、明らかに意図している。
 これはこうみるべき。
 会いたくない男。来てほしくない、きたら・アカン・やつ(こ+ざりける+男)。
 

 来る来ない・あるなしの対比、この構図の謎かけは、25段と同じ。
 「あはじともいはざりける女」
 これは、会わないとも淡路とかけた、結局、会いたい人・女との話。
 

 朝と袖とかけ明後日来い(あはじ)だが、
 これと対にになるのは一昨日きやがれ(来るな)
 それで「来ざりける男」。来てほしくない男。
 

 この人に、以下のような内容を言われるから、「女のもとにひと夜いきて、又もいかずなりにけれ」
 だから女が悪いわけではない。そしてこの女は前段を素直にみれば、二条の后。
 だから、ここでは宴会で席を外した文脈のようになっている。
 おそらく前段の続きで、前の西の対の一件(3~6段)で面倒をかけた埋め合わせとして、貴族がワイワイするパーティーに誘われた。
 

立ち聞きて、
 立ち聞きして
 

水口に
 

 みなぐち
 水の出入口。特に水田の取入口。
 
 ここでは、みな口々に、にかけ。
 

われや見ゆらむ 蛙さへ
 私が見るような かえるさえ
 

水の下にて
 水の下で
(水面下で・みえないところで)
 

もろ声に鳴く
 みんな一緒にないている。
 

 もろごゑ 【諸声】
 :諸々が一緒に声を出すこと。
 

 →みんな、(座敷=宴会に)かえっておいでと泣いているよ、というような表現。文面上は。
 

 そう言われるのは、歌の実力があるから。
 しかし人前でワイワイ何かをするのは著者は好きではない。だから初段のように人目を忍ぶことを重視するし、匿名。
 外での遊興を好まず、内省的でないと、ここまでの書物は記さないだろう。