枕草子93段 無名といふ琵琶の御琴を

内裏は 枕草子
上巻下
93段
無名
上の御局

(旧)大系:93段
新大系:89段、新編全集:89段
(以上全て三巻本系列本。しかし後二本の構成は2/3が一致せず、混乱を招くので、三巻本理論の根本たる『(旧)大系』に準拠すべきと思う)
(旧)全集=能因本:97段
 


 
 無名といふ琵琶の御琴を、上の持てわたらせ給へる、みなどしてかき鳴らしなどする、といへば、弾くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかに」と聞こえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」と宣はせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。
 

 淑景舎などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿の得させ給へりし」と宣ふを、僧都の君、「それは隆円に賜へ。おのがもとにめでたき琴あり。それに代へさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、こと事を宣ふに、いらへさせ奉らむと、あまたたび聞こえ給ふに、なほものも宣はねば、宮の御前の、「いなかへじと思いたるものを」と宣はせたる御けしきの、いみじうをかしきことぞかぎりなき。
 

 この御笛の名を、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただうらめしきとぞ思いためる。これは、職の御曹司におはしまいしほどの事なめり。上の御前に、「いなかへじ」といふ御笛の候ふなり。
 

 御前に候ふものは、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄象、牧馬、井手、渭橋、無名など。また、和琴なども、朽目、塩竃、二貫などぞきこゆる。水龍、小水龍、宇陀の法師、釘打、葉二つ、なにくれなど、おほく聞きしかどわすれにけり。「宜陽殿の一の棚に」といふ言ぐさは、頭の中将こそし給ひしか。