古事記 神功皇后の神がかり・歸神~原文対訳

宮と系譜 古事記
中巻⑦
14代 仲哀天皇
神功皇后の神がかり
1 歸神(トランス)
神の怒りで天皇死亡
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
其大后
息長帶日賣命者。
 その太后
息長帶日賣の命は、
 皇后の
オキナガタラシ姫の命
(神功皇后)は
當時歸神。 當時そのかみ
神歸よせしたまひき。
神懸かみがかりを
なさつた方でありました。
故天皇坐
筑紫之
訶志比宮。
かれ天皇
筑紫の訶志比かしひの宮にましまして
天皇が
筑紫の香椎の宮においでになつて
將撃熊曾國之時。 熊曾の國を撃たむとしたまふ時に、 熊曾の國を撃とうとなさいます時に、
天皇。
控御琴而。
天皇
御琴を控ひかして、
天皇が
琴をお彈ひきになり、
建内宿禰大臣。 建内の宿禰の大臣 タケシウチの宿禰が
居於沙庭。 沙庭さにはに居て、 祭の庭にいて
請神之命。 神の命を請ひまつりき。 神の仰せを伺いました。
     
於是大后
歸神。
ここに太后、
神歸よせして、
ここに皇后に神懸りして
言教覺詔者。 言教へ覺さとし詔りたまひつらくは、 神樣がお教えなさいましたことは、
西方有國。 「西の方に國あり。 「西の方に國があります。
金銀爲本。 金くがね銀しろがねをはじめて、 金銀をはじめ
目之炎耀。 目耀まかがやく 目の輝く
種種珍寶。 種種くさぐさの珍寶うづたから 澤山の寶物が
多在其國。 その國に多さはなるを、 その國に多くあるが、
吾今歸賜其國。 吾あれ今その國を。歸よせたまはむ」
と詔りたまひつ
わたしが今その國をお授け申そう」
と仰せられました。
     
爾天皇答白。 ここに天皇、答へ白したまはく、 しかるに天皇がお答え申されるには、
登高地見西方者。 「高き地ところに登りて西の方を見れば、 「高い處に登つて西の方を見ても、
不見國土。 國は見えず、 國が見えないで、
唯有大海。 ただ大海のみあり」と白して、 ただ大海のみだ」と言われて、
謂爲詐神而。 詐いつはりせす神と思ほして、 詐いつわりをする神だとお思いになつて、
押退御琴。 御琴を押し退そけて、 お琴を押し退けて
不控。 控きたまはず、 お彈きにならず
默坐。 默もだいましき。 默つておいでになりました。
宮と系譜 古事記
中巻⑦
14代 仲哀天皇
神功皇后の神がかり
1 歸神(トランス)
神の怒りで天皇死亡

神がかりの系譜

 
 
 妻に憑依し、夫が拒絶し、第三の男が質問(審尋・審神・サニワ)するという構図は、大和の中山みきの構図と同様。

 息長帶比賣(おきながらたらし姫)と中山みき。名前は微妙だが、情況はよく掛かっている。
 息長(おきながら)は彼女の享年100歳を意味し、中山みきも115年生きれると言いつつ、数え90歳まで生きた。

 

 みきがトランス状態で従わないと、この家を粉にすると言い、夫(中山善兵衛)が抵抗しつつ従ったのは、次の段とリンクする(啓示を無視し天皇死亡)。
 一般的な説明でみきが嫁いだ「中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家」とされるのは、次の段の神託「ここにその神いたく忿りて詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝の知らすべき國にあらず、汝は一道に向ひたまへ」 と詔りたまひき」に対応している。
 

 みきは御神楽歌(みかぐら歌)なるものをおろしたが、神功皇后の歌は、酒楽歌(さかぐら歌)。
 古事記で神楽にかかる歌はこれが初めて。歌を記した教祖というのも珍しいのではないか。
 

 みきおろして曰く「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり」とされるが、元の神(最初の神)が日本の片田舎の屋敷に因縁あるというのは全く不相応なので、これは物理的な屋敷ではなく、家・ファミリー(家系)という意味に見る。それが彼女の言語野では屋敷に変換されたと。
 こう見ると、その大和の家のあり方はかつての大和ファミリーの象徴的意味があり、「家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払ったと言われる」とされるのはその償いといえる(カルマの清算)。
 
 してみると、邪馬台国(やまたいこく・やまとのくに)のひみことも、何となく掛かっている。邪馬台国の所在は畿内説と九州説とがあるらしいが、いずれにしても問題ない。