宇治拾遺物語:相応和尚、都卒天に上ぼる事 附 染殿の后、祈り奉る事

伊良縁の世恒 宇治拾遺物語
巻第十五
15-8 (193)
相応和尚
仁戒上人

 
 今は昔、叡山無動寺に、相応和尚といふ人おはしけり。
 比良山の西に、葛川の三瀧といふ所にも、通ひて行ひ給ひけり。
 その瀧にて、不動尊の申し給はく、「我を負ひて、都卒の内院、弥勒菩薩の御許に率て行き給へ」と、あながちに申しければ、「極めてかたき事なれど、強ひて申す事なれば、率てゆくべし。其尻をあらへ」と仰せければ、瀧の尻にて、水あみ、尻よくあらひて、明王の頭に乗せて、都卒天にのぼり給ふ。
 

 ここに、内院の門の額に、「妙法蓮華」とかかれたり。
 明王宣はく、「これへ参入の者は、この経を誦して入り、誦せざれば入らず」と宣へば、はるかに見上げて、相応宣はく、「我、この経、読みは読み奉る。誦すること、いまだかなはず」と。
 明王、「さては口惜しき事なり。その儀ならば、参入かなふべからず。帰りて法華経を誦してのち、参り給へ」とて、かき負ひ給ひて、葛川へ帰り給ひければ、泣き悲しみ給ふ事限りなし。
 

 さて本尊の御前にて、経を誦し給ひて後、本意をとげ給ひけりとなん。
 その不動尊は、いまに無動寺におはします等身の像にぞましましける。
 その和尚、かやうに奇特の効験おはしければ、染殿后、物の怪に悩み給ひけるを、或る人申しけるは、「滋覚大師御弟子に、無動寺の相応和尚と申すこそ、いみじき行者にて侍れ」と申しければ、召しにつかはす。
 すなはち御使につれて、参りて、中門にたてり。
 人々見れば、長高き僧の、鬼のごとくなるが、信濃布を衣にき、椙のひらあしだをはきて、大木槵子の念珠を持り。
 「その体、御前に召上ぐべき者にあらず。無下の下種法師にこそ」とて、「ただ簀子の辺に立ちながら、加持申すべし」と、おのおの申して、「御階の高欄のもとにて、たちながら候へ」と仰せ下しければ、御階の東の高欄に立ちながら、押しかかり祈り奉る。
 

 宮は寝殿の母屋にふし給ふ。いとくるしげなる御声、時々、御簾にほかに聞こゆ。和尚、纔に其声をききて、高声に加持し奉る。その声、明王も現じ給ひぬと、御前に候ふ人々、身の毛よだちておぼゆ。しばしあれば、宮、紅の御衣二ばかりに押しつつまれて、鞠のごとく簾中よりころび出させ給うて、和尚の前の簀子になげ置き奉る。人々さわぎて「いと見ぐるし。内へいれ奉りて、和尚も御前に候へ」といへども、和尚、「かかるかたゐの身にて候へば、いかでか、まかりのぼるべき」とて、更にのぼらず。
 はじめ、めし上げられざりしを、やすからず、いきどほり思ひて、ただ簀子にて、宮を四五尺あげて打ち奉る。
 人々、しわびて、御几帳どもをさし出だして、たてかくし、中門をさして、人をはらへども、きはめて顕露なり。
 四五度ばかり、打ち奉りて、投げ入れ投げ入れ、祈りければ、もとのごとく、内へ投げ入れつ。
 その後、和尚まかり出づ。
 「しばし候へ」と、とどむれども、「久しく立ちて、腰いたく候ふ」とて、耳にも聞き入れずして出でぬ。
 

 宮は投げ入れられて後、御物の怪さめて、御心地さはやかになり給ひぬ。
 験徳あらたなりとて、僧都に任ずべきよし、宣下せらるれども、「かやうのかたゐは、何でふ僧坑になるべき」とて、返し奉る。
 その後も、召されけれど、「京は、人をいやしうする所なり」とて、さらに参らざりけるとぞ。
 

伊良縁の世恒 宇治拾遺物語
巻第十五
15-8 (193)
相応和尚
仁戒上人