源氏物語 53帖 手習:あらすじ・目次・原文対訳

蜻蛉 源氏物語
第三部
第53帖
手習
夢浮橋

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 手習(てならい)のあらすじ

 薫27歳から28歳の夏にかけての話。

 匂宮〔今上帝の三宮。源氏の異母兄(朱雀帝)の孫〕薫〔源氏の幼妻と柏木の子・頭中将の孫〕の板ばさみで追い詰められ、自殺を図った浮舟〔読者による通称。八の宮の三女・源氏の姪〕は宇治川沿いの大木の根元に昏睡状態で倒れていた。たまたま通りかかった横川の僧都一行に発見されて救われる。僧都の80余歳になる母尼(ははあま)が、僧都の50余歳になる妹尼(いもうとあま)との初瀬詣で(長谷寺参詣)の帰途に宇治で急病を患ったため、看護のため僧都は山から下りてきていたのである。数年前に娘を亡くした妹尼は、浮舟を初瀬観音からの授かりものと喜び、実の娘のように手厚く看護した。

 比叡山の麓の小野の庵に移されてしばらくたった夏の終わりごろ、浮舟はようやく意識を回復する。しかし、死に損なったことを知ると、「尼になしたまひてよ」と出家を懇願するようになる。世話を焼く妹尼たちの前ではかたくなに心を閉ざし、身の上も語らず、物思いに沈んでは手習にしたためて日を過ごした。

 妹尼の亡き娘の婿だった近衛中将が、妻を偲んで小野の庵を訪れる。妹尼は、この中将と浮舟を娶わせたいと気を揉んでいた。中将は、浮舟の後ろ姿を見て心を動かし、しきりに言い寄るようになったが、浮舟は頑なに拒み続ける。九月、浮舟は、妹尼が初瀬詣での留守中、折りよく下山した僧都に懇願して出家してしまった。帰って来た妹尼は驚き悲しみ、女房尼から知らされた近衛中将は落胆する。尼になった浮舟はようやく心が安らぎを得た思いでいる。

 翌春、浮舟生存の知らせが明石の中宮〔源氏と明石の子〕から中宮に仕える小宰相の君を経て薫に伝わった。薫は(匂宮が隠しているのでは)と疑うが、小宰相から「その心配はいりません」と中宮が、「宮のした事を思うと私の口からは言えない」と気に病んでいた事を打ち明けられ、横川行きを後押しされた。 薫は事実を確かめに、浮舟の異父弟・小君を伴い横川の僧都を訪ねる。

(以上Wikipedia手習(源氏物語)より。色づけは本ページ)
目次
和歌抜粋内訳#手習(28首:別ページ)
主要登場人物
 
第53帖 手習
 薫君の大納言時代
 二十七歳三月末頃から
 二十八歳の夏までの物語
 
第一章 浮舟、入水未遂
第二章 浮舟の小野山荘での生活
第三章 中将、浮舟に和歌を贈る
第四章 浮舟、尼君留守中に出家す
第五章 浮舟、出家後の物語
第六章 薫、浮舟生存を聞き知る
 
 
第一章 浮舟の物語
 浮舟、入水未遂、横川僧都らに助けられる
 第一段 横川僧都の母、初瀬詣での帰途に急病
 第二段 僧都、宇治の院の森で妖しい物に出会う
 第三段 若い女であることを確認し、救出する
 第四段 妹尼、若い女を介抱す
 第五段 若い女生き返るが、死を望む
 第六段 宇治の里人、僧都に葬送のことを語る
 第七段 尼君ら一行、小野に帰る
 
第二章 浮舟の物語
 浮舟の小野山荘での生活
 第一段 僧都、小野山荘へ下山
 第二段 もののけ出現
 第三段 浮舟、意識を回復
 第四段 浮舟、五戒を受く
 第五段 浮舟、素性を隠す
 第六段 小野山荘の風情
 第七段 浮舟、手習して述懐
 第八段 浮舟の日常生活
 
第三章 浮舟の物語
 中将、浮舟に和歌を贈る
 第一段 尼君の亡き娘の婿君、山荘を訪問
 第二段 浮舟の思い
 第三段 中将、浮舟を垣間見る
 第四段 中将、横川の僧都と語る
 第五段 中将、帰途に浮舟に和歌を贈る
 第六段 中将、三度山荘を訪問
 第七段 尼君、中将を引き留める
 第八段 母尼君、琴を弾く
 第九段 翌朝、中将から和歌が贈られる
 
第四章 浮舟の物語
 浮舟、尼君留守中に出家す
 第一段 九月、尼君、再度初瀬に詣でる
 第二段 浮舟、少将の尼と碁を打つ
 第三段 中将来訪、浮舟別室に逃げ込む
 第四段 老尼君たちのいびき
 第五段 浮舟、悲運のわが身を思う
 第六段 僧都、宮中へ行く途中に立ち寄る
 第七段 浮舟、僧都に出家を懇願
 第八段 浮舟、出家す
 
第五章 浮舟の物語
 浮舟、出家後の物語
 第一段 少将の尼、浮舟の出家に気も動転
 第二段 浮舟、手習に心を託す
 第三段 中将からの和歌に返歌す
 第四段 僧都、女一宮に伺候
 第五段 僧都、女一宮に宇治の出来事を語る
 第六段 僧都、山荘に立ち寄り山へ帰る
 第七段 中将、小野山荘に来訪
 第八段 中将、浮舟に和歌を贈って帰る
 
第六章 浮舟の物語
 薫、浮舟生存を聞き知る
 第一段 新年、浮舟と尼君、和歌を詠み交す
 第二段 大尼君の孫、紀伊守、山荘に来訪
 第三段 浮舟、薫の噂など漏れ聞く
 第四段 浮舟、尼君と語り交す
 第五段 薫、明石中宮のもとに参上
 第六段 小宰相、薫に僧都の話を語る
 第七段 薫、明石中宮に対面し、横川に赴く
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

薫(かおる)
源氏の子〔と一般にみなされる柏木の子、頭中将の孫〕
呼称:右大将殿・大将殿・大将・殿
匂宮(におうのみや)
今上帝の第三親王
呼称:兵部卿宮・宮
明石中宮(あかしのちゅうぐう)
源氏の娘
呼称:大宮・后の宮・宮
夕霧(ゆうぎり)
源氏の長男
呼称:右大臣殿・右の大殿
女一の宮(おんないちのみや)
今上帝の第一内親王
呼称:姫宮・一品の宮・宮
女二の宮(おんなにのみや)
今上帝の第二内親王
呼称:姫宮・帝の御女
中君(なかのきみ)
八の宮の二女
呼称:兵部卿宮の北の方・姉君
浮舟(うきふね)
八の宮の三女
呼称:姫君・故八宮の御女・大将殿の御後・御妹
中将の君(ちゅうじょうのきみ)
浮舟の母
呼称:母君・親・母
小君(こぎみ)
浮舟の異父弟
呼称:小君・童・弟の童
浮舟の乳母(うきふねのめのと)
呼称:乳母
母尼(ははのあま)
横川僧都の母
呼称:大尼君・母の尼君
横川僧都(よかわのそうず)
呼称:なにがし僧都・僧都
妹尼(いもうとのあま)
横川僧都の妹
呼称:妹の尼君・尼上・娘の尼君
中将(ちゅうじょう)
妹尼君の娘婿
呼称:中将殿・婿の君・客人・男君
弟子の阿闍梨(でしのあざり)
横川僧都の弟子
呼称:阿闍梨
小宰相の君(こざいしょうのきみ)
〔明石中宮方女房〕
呼称:宰相の君

 
 以上の内容は〔〕以外、以下の原文のリンクから参照。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  手習
 
 

第一章 浮舟の物語 浮舟、入水未遂、横川僧都らに助けられる

 
 

第一段 横川僧都の母、初瀬詣での帰途に急病

 
   そのころ、横川に、なにがし僧都とか言ひて、いと尊き人住みけり。
 八十余りの母、五十ばかりの妹ありけり。
 古き願ありて、初瀬に詣でたりけり。
 
 そのころ、横川に、某僧都とか言って、たいそう尊い人が住んでいた。
 八十歳過ぎの母と、五十歳ほどの妹とがいたのであった。
 昔からの願があって、初瀬に詣でたのであった。
 
   睦ましうやむごとなく思ふ弟子の阿闍梨を添へて、仏経供養ずること行ひけり。
 事ども多くして帰る道に、奈良坂と言ふ山越えけるほどより、この母の尼君、心地悪しうしければ、「かくては、いかでか残りの道をもおはし着かむ」ともて騷ぎて、宇治のわたりに知りたりける人の家ありけるに、とどめて、今日ばかり休めたてまつるに、なほいたうわづらへば、横川に消息したり。
 
 親しく重んじている弟子の阿闍梨を連れて、仏やお経を供養することを行うのであった。
 いろいろなことをたくさんして帰る道中で、奈良坂という山を越えたころから、この母の尼君が、気分が悪くなったので、「こんなでは、どうして帰りの道を行きつけようか」と大騒ぎして、宇治の辺りに知っていた人の家があったので、そこにとどめて、今日一日お休め申したが、依然としてひどく苦しがっているので、横川に消息を出した。
 
   山籠もりの本意深く、今年は出でじと思ひけれど、「限りのさまなる親の、道の空にて亡くやならむ」と驚きて、急ぎものしたまへり。
 惜しむべくもあらぬ人ざまを、みづからも、弟子の中にも験あるして、加持し騒ぐを、家主人聞きて、
 山籠もりの本願が強く、今年は下山しまいと思っていたが、「晩年の状態の母親が、道中で亡くなるのだろうか」と驚いて、急いでいらっしゃった。
 惜しむほどでもない年齢の人だが、自分自身でも、弟子の中でも効験のある者をして、加持し大騒ぎするのを、家の主人が聞いて、
   「御獄精進しけるを、いたう老いたまへる人の、重く悩みたまふは、いかが」  「御嶽精進をしたが、たいそう高齢でおいでの方が、重病でいらっしゃるのは、どうしたものか」
   とうしろめたげに思ひて言ひければ、さも言ふべきことぞ、いとほしう思ひて、いと狭くむつかしうもあれば、やうやう率てたてまつるべきに、中神塞がりて、例住みたまふ方は忌むべかりければ、「故朱雀院の御領にて、宇治の院と言ひし所、このわたりならむ」と思ひ出でて、院守、僧都知りたまへりければ、「一、二日宿らむ」と言ひにやりたまへりければ、  と不安そうに思って言ったので、そうも言うにちがいないことを、気の毒に思って、ひどく狭くむさ苦しい所なので、だんだんお連れ申せるほどになったが、中神の方角が塞がって、いつも住んでいらっしゃる所は避けなければならなかったので、「故朱雀院の御領で、宇治院といった所が、この近辺だろう」と思い出して、院守を、僧都は知っていらっしゃったので、「一、二日泊まりたい」と言いにおやりになったところ、
   「初瀬になむ、昨日皆詣りにける」  「初瀬に、昨日皆詣でてしまいました」
   とて、いとあやしき宿守の翁を呼びて率て来たり。
 
 と言って、ひどくみすぼらしい宿守の老人を呼んで連れて来た。
 
   「おはしまさば、はや。
 いたづらなる院の寝殿にこそはべるめれ。
 物詣での人は、常にぞ宿りたまふ」
 「いらっしゃるなら、早いほうがよい。
 誰も使っていない院の寝殿でございますようです。
 物詣での方は、いつもお泊まりになります」
   と言へば、  と言うので、
   「いとよかなり。
 公所なれど、人もなく心やすきを」
 「実に結構なことだ。
 公の建物だが、誰もいなくて気楽な所だから」
   とて、見せにやりたまふ。
 この翁、例もかく宿る人を見ならひたりければ、おろそかなるしつらひなどして来たり。
 
 と言って、様子を見におやりになる。
 この老人、いつもこのように泊まる人を見慣れていたので、簡略な設営などをして戻って来た。
 
 
 

第二段 僧都、宇治の院の森で妖しい物に出会う

 
   まづ、僧都渡りたまふ。
 「いといたく荒れて、恐ろしげなる所かな」と見たまふ。
 
 まず、僧都がお越しになる。
 「とてもひどく荒れて、恐ろしそうな所だな」と御覧になる。
 
   「大徳たち、経読め」  「大徳たち、読経せよ」
   などのたまふ。
 この初瀬に添ひたりし阿闍梨と同じやうなる、何事のあるにか、つきづきしきほどの下臈法師に、火ともさせて、人も寄らぬうしろの方に行きたり。
 森かと見ゆる木の下を、「疎ましげのわたりや」と見入れたるに、白き物の広ごりたるぞ見ゆる。
 
 などとおっしゃる。
 この初瀬に付いていった阿闍梨と同じような者が、何事があったのか、お供するにふさわしい下臈の法師に、松明を灯させて、人も近寄らない建物の後ろの方に行った。
 森かと見える木の下を、「気持ち悪い所だ」と見ていると、白い物が広がっているのが見える。
 
   「かれは、何ぞ」  「あれは、何だ」
   と、立ち止まりて、火を明くなして見れば、物の居たる姿なり。
 
 と、立ち止まって、松明を明るくして見ると、何かが座っているような格好である。
 
   「狐の変化したる。
 憎し。
 見現はさむ」
 「狐が化けた物だ。
 憎い。
 正体を暴いてやろう」
   とて、一人は今すこし歩み寄る。
 今一人は、
 と言って、一人はもう少し近寄る。
 もう一人は、
   「あな、用な。
 よからぬ物ならむ」
 「まあ、よしなさい。
 よくない物であろう」
   と言ひて、さやうの物退くべき印を作りつつ、さすがになほまもる。
 頭の髪あらば太りぬべき心地するに、この火ともしたる大徳、憚りもなく、奥なきさまにて、近く寄りてそのさまを見れば、髪は長くつやつやとして、大きなる木のいと荒々しきに寄りゐて、いみじう泣く。
 
 と言って、そのような物が引き下がるような印を作りながら、そうは言ってもやはり見つめている。
 頭の髪があったら太くなりそうな気がするが、この松明を灯した大徳は、恐れもせず、深い考えもなく様子で、近寄ってその様子を見ると、髪は長く艶々として、大きな木の根がとても荒々しくある所に寄りかかって、ひどく泣いている。
 
   「珍しきことにもはべるかな。
 僧都の御坊に御覧ぜさせたてまつらばや」
 「珍しいことでございますな。
 僧都の御坊に御覧に入れましょう」
   と言へば、  と言うと、
   「げに、妖しき事なり」  「なるほど、不思議な事だ」
   とて、一人はまうでて、「かかることなむ」と申す。
 
 と言って、一人は参上して、「これこれしかじかです」と申し上げる。
 
   「狐の人に変化するとは昔より聞けど、まだ見ぬものなり」  「狐が人に化けるということは昔から聞いたが、まだ見たことがないものだ」
   とて、わざと下りておはす。
 
 と言って、わざわざ下りていらっしゃる。
 
   かの渡りたまはむとすることによりて、下衆ども、皆はかばかしきは、御厨子所など、あるべかしきことどもを、かかるわたりには急ぐものなりければ、ゐ静まりなどしたるに、ただ四、五人して、ここなる物を見るに、変はることもなし。
 
 あちらにお越しになろうとしたところで、下衆どもで、役に立ちそうな者は皆、御厨子所などで、準備すべきことをいろいろと、こちらではかかりきりでいたので、ひっそりしていたので、わずか四、五人で、ここにいる物を見るが、変化する様子も見えない。
 
   あやしうて、時の移るまで見る。
 「疾く夜も明け果てなむ。
 人か何ぞと、見現はさむ」と、心にさるべき真言を読み、印を作りて試みるに、しるくや思ふらむ、
 不思議に思って、一時の移るまで見る。
 「早く夜も明けてほしい。
 人か何物か、正体を暴こう」と、心中でしかるべき真言を読み、印を作って試みると、はっきり見極めがついたのであろうか、
   「これは、人なり。
 さらに非常のけしからぬ物にあらず。
 寄りて問へ。
 亡くなりたる人にはあらぬにこそあめれ。
 もし死にたりける人を捨てたりけるが、蘇りたるか」
 「これは、人である。
 まったく異常なけしからぬ物ではない。
 近寄って問え。
 死んでいる人ではないようだ。
 もしや死んだ人を捨てたのが、生き返ったのだろうか」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
   「何の、さる人をか、この院の内に捨てはべらむ。
 たとひ、真に人なりとも、狐、木霊やうの物の、欺きて取りもて来たるにこそはべらめと、不便にもはべりけるかな。
 穢らひあるべき所にこそはべめれ」
 「どうして、そのような人を、この院の邸内に捨てましょうか。
 たとい、ほんとうに人であったとしても、狐や木霊のようなものが、たぶらかして連れて来たのでございましょうと、不都合なことでございますなあ。
 穢れのある所のようでございます」
   と言ひて、ありつる宿守の男を呼ぶ。
 山彦の答ふるも、いと恐ろし。
 
 と言って、先程の宿守の男を呼ぶ。
 山彦が答えるのも、まことに恐ろしい。
 
 
 

第三段 若い女であることを確認し、救出する

 
   妖しのさまに、額おし上げて出で来たり。
 
 変な恰好に、烏帽子を額の上に押し上げて出て来た。
 
   「ここには、若き女などや住みたまふ。
 かかることなむある」
 「ここには、若い女などが住んでいるのか。
 このようなことがある」
   とて見すれば、  と言って見せると、
   「狐の仕うまつるなり。
 この木のもとになむ、時々妖しきわざなむしはべる。
 一昨年の秋も、ここにはべる人の子の、二つばかりにはべしを、取りてまうで来たりしかど、見驚かずはべりき」
 「狐がしたことだ。
 この木の下に、時々変なことをします。
 一昨年の秋も、ここに住んでいました人の子で、二歳ほどになったのを、さらって参ったが、驚きもしませんでした」
   「さて、その稚児は死にやしにし」  「それでは、その子は死んでしまったのか」
   と言へば、  と問うと、
   「生きてはべり。
 狐は、さこそは人を脅かせど、ことにもあらぬ奴」
 「生きております。
 狐は、そのように人を脅かすが、何ということもないやつです」
   と言ふさま、いと馴れたり。
 かの夜深き参りものの所に、心を寄せたるなるべし。
 僧都、
 と言う態度は、とても物慣れたさまである。
 あちらの深夜に食事の準備している所に、気を取られているのであろう。
 僧都は、
   「さらば、さやうの物のしたるわざか。
 なほ、よく見よ」
 「それでは、そのような物がしたことかどうか。
 やはり、よく見よ」
   とて、このもの懼ぢせぬ法師を寄せたれば、  と言って、この恐いもの知らずの法師を近づけると、
   「鬼か神か狐か木霊か。
 かばかりの天の下の験者のおはしますには、え隠れたてまつらじ。
 名のりたまへ。
 名のりたまへ」
 「鬼か神か狐か木霊か。
 これほどの天下第一の験者がいらっしゃるのには、隠れ申すことはできまい。
 正体を名のりなさい。
 正体を名のりなさい」
   と、衣を取りて引けば、顔をひき入れていよいよ泣く。
 
 と、衣を取って引くと、顔を隠してますます泣く。
 
   「いで、あな、さがなの木霊の鬼や。
 まさに隠れなむや」
 「さてもまあ、何と、たちの悪い木霊の鬼だ。
 正体を隠しきれようか」
   と言ひつつ、顔を見むとするに、「昔ありけむ目も鼻もなかりける女鬼にやあらむ」と、むくつけきを、頼もしういかきさまを人に見せむと思ひて、衣を引き脱がせむとすれば、うつ臥して声立つばかり泣く。
 
 と言いながら、顔を見ようとすると、「昔いたという目も鼻もなかった女鬼であろうか」と、気味悪いが、頼もしく威勢のよいところを人に見せようと思って、衣を脱がせようとすると、うつ臥して声を立てるほどに泣く。
 
   「何にまれ、かく妖しきこと、なべて、世にあらじ」  「何にあれ、このような不思議なことは、普通、世間にはない」
   とて、見果てむと思ふに、  と言って、見極めようと思っていると、
   「雨いたく降りぬべし。
 かくて置いたらば、死に果てはべりぬべし。
 垣の下にこそ出ださめ」
 「雨がひどく降って来そうだ。
 こ侃しておいたら、死んでしまいましょう。
 築地塀の外に出しましょう」
   と言ふ。
 僧都、
 と言う。
 僧都は、
   「まことの人の形なり。
 その命絶えぬを見る見る捨てむこと、いといみじきことなり。
 池に泳ぐ魚、山に鳴く鹿をだに、人に捕へられて死なむとするを見て、助けざらむは、いと悲しかるべし。
 人の命久しかるまじきものなれど、残りの命、一、二日をも惜しまずはあるべからず。
 鬼にも神にも、領ぜられ、人に逐はれ、人に謀りごたれても、これ横様の死にをすべきものにこそあんめれ、仏のかならず救ひたまふべき際なり。
 
 「ほんとうに人の姿だ。
 その命が今にも絶えてしまいそうなのを見ながら放っておくことは、もっての外のことだ。
 池で泳ぐ魚、山で鳴く鹿でさえ、人に捕えられて死にそうなのを見て、助けないのは、まことに悲しいことだろう。
 人の命は長くはないものだが、残りの命の、一、二日を惜しまないものはない。
 鬼にもあれ神にもあれ、取り憑かれたり、人に追出されたり、人に騙されたりしても、これ顔は横死をするにちがいないものだが、仏が必ずお救いになる艦ずの人である。
 
   なほ、試みに、しばし湯を飲ませなどして、助け試みむ。
 つひに、死なば、言ふ限りにあらず」
 やはり、試みに、しばらく薬湯を飲ませたりして、助けてみよう。
 結局、死んでしまったら、しかたのないことだ」
   とのたまひて、この大徳して抱き入れさせたまふを、弟子ども、  とおっしゃって、この大徳に抱いて中に入れさせなさるのを、弟子どもは、
   「たいだいしきわざかな。
 いたうわづらひたまふ人の御あたりに、よからぬ物を取り入れて、穢らひかならず出で来なむとす」
 「不都合なことだなあ。
 ひどく患っていらっしゃる方のお側近くに、よくないものを近づけて、穢れがきっと出て来よう」
   と、もどくもあり。
 また、
 と、非難する者もいる。
 また、
   「物の変化にもあれ、目に見す見す、生ける人を、かかる雨にうち失はせむは、いみじきことなれば」  「変化の物であれ、目前に見ながら、生きている人を、このような雨に打たれ死なせるのは、よくないことなので」
   など、心々に言ふ。
 下衆などは、いと騒がしく、物をうたて言ひなすものなれば、人騒がしからぬ隠れの方になむ臥せたりける。
 
 などと、思い思いに言う。
 下衆などは、たいそう騒がしく、口さがなく言い立てるものなので、人の大勢いない隠れた所に寝かせたのであった。
 
 
 

第四段 妹尼、若い女を介抱す

 
   御車寄せて降りたまふほど、いたう苦しがりたまふとて、ののしる。
 すこし静まりて、僧都、
 お車を寄せてお下りになる時、ひどくお苦しがりなさると言って、大騒ぎする。
 少し静まって、僧都が、
   「ありつる人、いかがなりぬる」  「先程の人は、どのようになった」
   と問ひたまふ。
 
 とお尋ねになる。
 
   「なよなよとしてもの言はず、息もしはべらず。
 何か、物にけどられにける人にこそ」
 「なよなよとして何も言わず、息もしません。
 いやなに、魔性の物に正体を抜かれた者でしょう」
   と言ふを、妹の尼君聞きたまひて、  と言うのを、妹の尼君がお聞きになって、
   「何事ぞ」  「何事ですか」
   と問ふ。
 
 と尋ねる。
 
   「しかしかのことなむ、六十に余る年、珍かなるものを見たまへつる」  「これこれしかじかの事を、六十歳を過ぎた年齢になって、珍しい物を拝見しました」
   とのたまふ。
 うち聞くままに、
 とおっしゃる。
 それを聞くなり、
   「おのが寺にて見し夢ありき。
 いかやうなる人ぞ。
 まづそのさま見む」
 「わたしが寺で見た夢がありました。
 どのような人ですか。
 早速その様子を見たい」
   と泣きてのたまふ。
 
 と泣いておっしゃる。
 
   「ただこの東の遣戸になむはべる。
 はや御覧ぜよ」
 「ちょうどこの東の遣戸の所におります。
 早く御覧なさい」
   と言へば、急ぎ行きて見るに、人も寄りつかでぞ、捨て置きたりける。
 いと若ううつくしげなる女の、白き綾の衣一襲、紅の袴ぞ着たる。
 香はいみじう香うばしくて、あてなるけはひ限りなし。
 
 と言うので、急いで行って見ると、誰も側近くにおらずに、放置してあった。
 とても若くかわいらしげな女で、白い綾の衣一襲に、紅の袴を着ている。
 香はたいそう芳ばしくて、上品な感じがこの上ない。
 
   「ただ、わが恋ひ悲しむ娘の、帰りおはしたるなめり」  「まるで、わたしが恋い悲しんでいた娘が、帰潅ていらしたようだ」
   とて、泣く泣く御達を出だして、抱き入れさす。
 いかなりつらむとも、ありさま見ぬ人は、恐ろしがらで抱き入れつ。
 生けるやうにもあらで、さすがに目をほのかに見開けたるに、
 と言って、泣きながら年配の女房たちを使って、抱き入れさせる。
 どうしたことかとも、事情を知らない人は、恐がらずに抱き入れた。
 生きているようでもなく、それでも目をわずかに開けたので、
   「もののたまへや。
 いかなる人か、かくては、ものしたまへる」
 「何かおっしゃいなさい。
 どのようなお人か、こうして、いらっしゃるのは」
   と言へど、ものおぼえぬさまなり。
 湯取りて、手づからすくひ入れなどするに、ただ弱りに絶え入るやうなりければ、
 と尋ねるが、何も分からない様子である。
 薬湯を取って、ご自身ですくって飲ませなどするが、ただ弱って死にそうだったので、
   「なかなかいみじきわざかな」とて、「この人亡くなりぬべし。
 加持したまへ」
 「かえって大変な事になりました」と言って、「この人は死にそうです。
 加持をしなさい」
   と、験者の阿闍梨に言ふ。
 
 と、験者の阿闍梨に言う。
 
   「さればこそ。
 あやしき御もの扱ひ」
 「それだから言ったのに。
 つまらないお世話です」
   とは言へど、神などのために経読みつつ祈る。
 
 とは言うが、神などの御ためにお経を読みながら祈る。
 
 
 

第五段 若い女生き返るが、死を望む

 
   僧都もさしのぞきて、  僧都もちょっと覗いて、
   「いかにぞ。
 何のしわざぞと、よく調じて問へ」
 「どうですか。
 何のしわざかと、よく調伏して問え」
   とのたまへど、いと弱げに消えもていくやうなれば、  とおっしゃるが、ひどく弱そうに死んで行きそうなので、
   「え生きはべらじ。
 すぞろなる穢らひに籠もりて、わづらふべきこと」
 「生きられそうにない。
 思いがけない穢れに籠もって、厄介なことになりますこと」
   「さすがに、いとやむごとなき人にこそはべるめれ。
 死に果つとも、ただにやは捨てさせたまはむ。
 見苦しきわざかな」
 「そうは言っても、とても高貴な方でございましょう。
 死んだとしても、普通の人のようにはお捨て置きになることはできまい。
 面倒なことになったな」
   と言ひあへり。
 
 と言い合っていた。
 
   「あなかま。
 人に聞かすな。
 わづらはしきこともぞある」
 「お静かに。
 人に聞かせるな。
 厄介なことでも起こったら大変です」
   など口固めつつ、尼君は、親のわづらひたまふよりも、この人を生け果てて見まほしう惜しみて、うちつけに添ひゐたり。
 知らぬ人なれど、みめのこよなうをかしげなれば、いたづらになさじと、見る限り扱ひ騷ぎけり。
 さすがに、時々、目見開けなどしつつ、涙の尽きせず流るるを、
 などと口封じしながら、尼君は、親が患っていらっしゃるのよりも、この人を生き返らせてみたく惜しんで、もうすっかりこちらに付きっきりになっていた。
 知らない人であるが、顔容姿がこの上なく美しいので、死なせまいと、見る人びとも皆でお世話した。
 そうは言っても、時々、目を開けたりなどして、涙が止まらず流れるのを、
   「あな、心憂や。
 いみじく悲しと思ふ人の代はりに、仏の導きたまへると思ひきこゆるを。
 かひなくなりたまはば、なかなかなることをや思はむ。
 さるべき契りにてこそ、かく見たてまつらめ。
 なほ、いささかもののたまへ」
 「まあ、お気の毒な。
 たいそう悲しいと思う娘の代わりに、仏がお導きなさったとお思い申し上げていたのに。
 亡くなってしまわれたら、かえって悲しい思いが加わることでしょう。
 こうなるはずの宿縁で、こうしてお会い申したのでしょう。
 ぜひ、少しは何とかおっしゃってください」
   と言ひ続くれど、からうして、  と言い続けるが、やっとのことで、
   「生き出でたりとも、あやしき不用の人なり。
 人に見せで、夜この川に落とし入れたまひてよ」
 「生き返ったとしても、つまらない無用の者です。
 誰にも見せないで、夜にこの川に投げ込んでくださいまし」
   と、息の下に言ふ。
 
 と、息の下に言う。
 
   「まれまれ物のたまふをうれしと思ふに、あな、いみじや。
 いかなれば、かくはのたまふぞ。
 いかにして、さる所にはおはしつるぞ」
 「やっとのこと何かおっしゃるのを嬉しいと思ったら、まあ、大変な。
 どうして、そのようなことをおっしゃるのですか。
 なぜ、あのような所にいらっしゃったのですか」
   と問へども、物も言はずなりぬ。
 「身にもし傷などやあらむ」とて見れど、ここはと見ゆるところなくうつくしければ、あさましく悲しく、「まことに、人の心惑はさむとて出で来たる仮のものにや」と疑ふ。
 
 と尋ねるが、何もおっしゃらなくなってしまった。
 「身体にもしやおかしなところなどがあろうか」と思って見たが、これと思える所はなくかわいらしいので、驚き呆れて悲しく、「ほんとうに、人の心を惑わそうとして出て来た仮の姿をした変化の物か」と疑う。
 
 
 

第六段 宇治の里人、僧都に葬送のことを語る

 
   二日ばかり籠もりゐて、二人の人を祈り加持する声絶えず、あやしきことを思ひ騒ぐ。
 そのわたりの下衆などの、僧都に仕まつりける、かくておはしますなりとて、とぶらひ出で来るも、物語などして言ふを聞けば、
 二日ほど籠もっていて、二人の女性を祈り加持する声がひっきりなしで、不思議な事件だと思ってあれこれ言う。
 その近辺の下衆などで、僧都にお仕え申していた者が、こうしてお出でになっていると聞いて、挨拶に出て来たが、世間話などして言うのを聞くと、
   「故八の宮の御女、右大将殿の通ひたまひし、ことに悩みたまふこともなくて、にはかに隠れたまへりとて、騷ぎはべる。
 その御葬送の雑事ども仕うまつりはべりとて、昨日はえ参りはべらざりし」
 「故八の宮の姫君で、右大将殿がお通いになっていた方が、特にご病気になったということもなくて、急にお亡くなりになったと言って、大騒ぎしております。
 そのご葬送の雑事類にお仕え致しますために、昨日は参上することができませんでした」
   と言ふ。
 「さやうの人の魂を、鬼の取りもて来たるにや」と思ふにも、かつ見る見る、「あるものともおぼえず、危ふく恐ろし」と思す。
 人びと、
 と言う。
 「そのような人の魂を、鬼が取って持って来たのであろうか」と思うにも、一方では見ながら、「生きている人とも思えず、危なっかしく恐ろしい」とお思いになる。
 人びとは、
   「昨夜見やられし火は、しかことことしきけしきも見えざりしを」  「昨夜見やられた火は、そのように大げさなふうには見えませんでしたが」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
   「ことさら事削ぎて、いかめしうもはべらざりし」  「格別に簡略にして、盛大ではございませんでした」
   と言ふ。
 穢らひたる人とて、立ちながら追ひ返しつ。
 
 と言う。
 死穢に触れた人だからというので、立ったままで帰らせた。
 
   「大将殿は、宮の御女持ちたまへりしは、亡せたまひて、年ごろになりぬるものを、誰れを言ふにかあらむ。
 姫宮をおきたてまつりたまひて、よに異心おはせじ」
 「大将殿は、宮の姫君をお持ちになっていたのは、お亡くなりになって、何年にもなったが、誰を言うのでしょうか。
 姫宮をさし置き申しては、まさか浮気心はおありでない」
   など言ふ。
 
 などと言う。
 
 
 

第七段 尼君ら一行、小野に帰る

 
   尼君よろしくなりたまひぬ。
 方も開きぬれば、「かくうたてある所に久しうおはせむも便なし」とて帰る。
 
 尼君がよくおなりになった。
 方角も開いたので、「このような嫌な所に長く逗留されるのも不都合である」と言って帰る。
 
   「この人は、なほいと弱げなり。
 道のほどもいかがものしたまはむと、心苦しきこと」
 「この人は、依然としてとても弱々しそうだ。
 道中もいかがでいらっしゃろうかと、おいたわしいこと」
   と言ひ合へり。
 車二つして、老い人乗りたまへるには、仕うまつる尼二人、次のにはこの人を臥せて、かたはらにいま一人乗り添ひて、道すがら行きもやらず、車止めて湯参りなどしたまふ。
 
 と話し合っていた。
 車二台で、老人がお乗りになったのには、お仕えする尼が二人、次のにはこの人を寝かせて、側にもう一人付き添って、道中もはかどらず、車を止めて薬湯などを飲ませなさる。
 
   比叡坂本に、小野といふ所にぞ住みたまひける。
 そこにおはし着くほど、いと遠し。
 
 比叡の坂本で、小野という所にお住みになっていた。
 そこにお着きになるまで、まことに遠い。
 
   「中宿りを設くべかりける」  「休憩所を準備すべきであった」
   など言ひて、夜更けておはし着きぬ。
 
 などと言って、夜が更けてお着きになった。
 
   僧都は、親を扱ひ、娘の尼君は、この知らぬ人をはぐくみて、皆抱き降ろしつつ休む。
 老いの病のいつともなきが、苦しと思ひたまへし遠道の名残こそ、しばしわづらひたまひけれ、やうやうよろしうなりたまひにければ、僧都は登りたまひぬ。
 
 僧都は、母親を世話し、娘の尼君は、この知らない女を介抱して、みな抱いて降ろし降ろしして休む。
 老人の病気はいつということもないが、苦しいと思っていた遠路のせいで、少しお疲れになったが、だんだんとよくおなりになったので、僧都は山にお登りになった。
 
   「かかる人なむ率て来たる」など、法師のあたりにはよからぬことなれば、見ざりし人にはまねばず。
 尼君も、皆口固めさせつつ、「もし尋ね来る人もやある」と思ふも、静心なし。
 「いかで、さる田舎人の住むあたりに、かかる人落ちあふれけむ。
 物詣でなどしたりける人の、心地などわづらひけむを、継母などやうの人の、たばかりて置かせたるにや」などぞ思ひ寄りける。
 
 「このような女を連れて来た」などと、法師の間ではよくないことなので、知らなかった人には事情を話さない。
 尼君も、みな口封じをさせたが、「もしや探しに来る人もいようか」と思うと、気が落ち着かない。
 「何とか、そのような田舎者の住む辺りに、このような方がさまよっていたのだろうか。
 物詣でなどした人で、気分が悪くなったのを、継母などのような人が、だまして置いていったのであろうか」と推測してみるのだった。
 
   「川に流してよ」と言ひし一言より他に、ものもさらにのたまはねば、いとおぼつかなく思ひて、「いつしか人にもなしてみむ」と思ふに、つくづくとして起き上がる世もなく、いとあやしうのみものしたまへば、「つひに生くまじき人にや」と思ひながら、うち捨てむもいとほしういみじ。
 夢語りもし出でて、初めより祈らせし阿闍梨にも、忍びやかに芥子焼くことせさせたまふ。
 
 「川に流してください」と言った一言以外に、何もまったくおっしゃらないので、とても分からなく思って、「はやく人並みの健康にしよう」と思うと、ぐったりとして起き上がる時もなく、まことに心配な容態ばかりしていらっしゃるので、「結局は生きられない人であろうか」と思いながら、放っておくのもお気の毒でたまらない。
 夢の話もし出しては、最初から祈祷させた阿闍梨にも、こっそりと芥子を焼くことをおさせになる。
 
 
 

第二章 浮舟の物語 浮舟の小野山荘での生活

 
 

第一段 僧都、小野山荘へ下山

 
   うちはへかく扱ふほどに、四、五月も過ぎぬ。
 いとわびしうかひなきことを思ひわびて、僧都の御もとに、
 ずっとこうしてお世話するうちに、四月、五月も過ぎた。
 まことに心細く看護の効のないことに困りはてて、僧都のもとに、
   「なほ下りたまへ。
 この人、助けたまへ。
 さすがに今日までもあるは、死ぬまじかりける人を、憑きしみ領じたるものの、去らぬにこそあめれ。
 あが仏、京に出でたまはばこそはあらめ、ここまではあへなむ」
 「もう一度下山してください。
 この人を、助けてください。
 何といっても今日まで生きていたのは、死ぬはずのない運命の人に、取り憑いて離れない物の怪が去らないのにちがいありません。
 どうかあなた様、京にお出になるのは無理でしょうが、ここまでは来てください」
   など、いみじきことを書き続けて、奉りたまへれば、  などと、切なる気持ちを書き綴って、差し上げなさると、
   「いとあやしきことかな。
 かくまでもありける人の命を、やがてとり捨ててましかば。
 さるべき契りありてこそは、我しも見つけけめ。
 試みに助け果てむかし。
 それに止まらずは、業尽きにけりと思はむ」
 「まことに不思議なことだな。
 こんなにまで生きている人の命を、そのまま見捨ててしまったら。
 そうなるはずの縁があって、わたしが見つけたのであろう。
 ためしに最後まで助けてやろう。
 それでだめなら、命数が尽きたのだと思おう」
   とて、下りたまひけり。
 
 と思って、下山なさった。
 
   よろこび拝みて、月ごろのありさまを語る。
 
 喜んで拝して、いく月日の間の様子を話す。
 
   「かく久しうわづらふ人は、むつかしきこと、おのづからあるべきを、いささか衰へず、いときよげに、ねぢけたるところなくのみものしたまひて、限りと見えながらも、かくて生きたるわざなりけり」  「このように長い間患っている人は、見苦しい感じが、自然と出て来るものですが、少しも衰弱せず、とても美しげで、諌ねくれたところもなくいらっしゃって、最期と見えながらも、こうして生きていることです」
   など、おほなおほな泣く泣くのたまへば、  などと、本気になって泣きながらおっしゃるので、
   「見つけしより、珍かなる人のみありさまかな。
 いで」
 「見つけた時から、めったにいないご様子の方であったな。
 さあ」
   とて、さしのぞきて見たまひて、  と言って、さし覗いて御覧になって、
   「げに、いと警策なりける人の御容面かな。
 功徳の報いにこそ、かかる容貌にも生ひ出でたまひけめ。
 いかなる違ひめにて、損はれたまひけむ。
 もし、さにや、と聞き合はせらるることもなしや」
 「なるほど、まことに優れたご容貌の方であるなあ。
 功徳の報恩で、このような器量にお生まれになったのであろう。
 どのような行き違いで、ひどいことにおなりになったのであろう。
 もしや、それか、と思い当たるような噂を聞いたことはありませんか」
   と問ひたまふ。
 
 と尋ねなさる。
 
   「さらに聞こゆることもなし。
 何か、初瀬の観音の賜へる人なり」
 「まったく聞いたことありません。
 何の、初瀬の観音が授けてくださった人です」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「何か。
 それ縁に従ひてこそ導きたまはめ。
 種なきことはいかでか」
 「いや何。
 宿縁によってお導きくださったものでしょう。
 因縁のないことはどうして起ころうか」
   など、のたまふが、あやしがりたまひて、修法始めたり。
 
 などと、おっしゃるのが、不思議がりなさって、修法を始めた。
 
 
 

第二段 もののけ出現

 
   「朝廷の召しにだに従はず、深く籠もりたる山を出でたまひて、すぞろにかかる人のためになむ行ひ騷ぎたまふと、ものの聞こえあらむ、いと聞きにくかるべし」と思し、弟子どもも言ひて、「人に聞かせじ」と隠す。
 僧都、
 「朝廷のお召しでさえお受けせず、深く籠もっている山をお出になって、わけもなくこのような人のために修法をなさっていると、噂が聞こえた時には、まことに聞きにくいことであろう」とお思いになり、弟子どももそう意見して、「人に聞かせまい」と隠す。
 僧都、
   「いで、あなかま。
 大徳たち。
 われ無慚の法師にて、忌むことの中に、破る戒は多からめど、女の筋につけて、まだ誹りとらず、過つことなし。
 六十に余りて、今さらに人のもどき負はむは、さるべきにこそはあらめ」
 「まあ、お静かに。
 大徳たち。
 わたしは破戒無慚の法師で、戒律の中で、破った戒律は多かろうが、女の方面ではまだ非難されたことなく、過ったこともない。
 年齢も六十を過ぎて、今さら人の非難を受けるのは、前世の因縁なのであろう」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「よからぬ人の、ものを便なく言ひなしはべる時には、仏法の瑕となりはべることなり」  「口さがない連中が、何か不都合な事にとりなして言いました時には、仏法の恥となりますことです」
   と、心よからず思ひて言ふ。
 
 と、不機嫌に思って言う。
 
   「この修法のほどにしるし見えずは」  「この修法によって効験が現れなかったら」
   と、いみじきことどもを誓ひたまひて、夜一夜加持したまへる暁に、人に駆り移して、「何やうのもの、かく人を惑はしたるぞ」と、ありさまばかり言はせまほしうて、弟子の阿闍梨、とりどりに加持したまふ。
 月ごろ、いささかも現はれざりつるもののけ、調ぜられて、
 と、非常な決意をなさって、夜一晩中、加持なさった翌早朝に、人に乗り移らせて、「どのような物の怪がこのように人を惑わしていたのであろう」と、様子だけでも言わせたくて、弟子の阿闍梨が、交替で加持なさる。
 何か月もの間、少しも現れなかった物の怪が、調伏されて、
   「おのれは、ここまで参うで来て、かく調ぜられたてまつるべき身にもあらず。
 昔は行ひせし法師の、いささかなる世に恨みをとどめて、漂ひありきしほどに、よき女のあまた住みたまひし所に住みつきて、かたへは失ひてしに、この人は、心と世を恨みたまひて、我いかで死なむ、と言ふことを、夜昼のたまひしにたよりを得て、いと暗き夜、独りものしたまひしを取りてしなり。
 されど、観音とざまかうざまにはぐくみたまひければ、この僧都に負けたてまつりぬ。
 今は、まかりなむ」
 「自分は、ここまで参って、このように調伏され申すべき身ではない。
 生前は、修業に励んだ法師で、わずかにこの世に恨みを残して、中有にさまよっていたときに、よい女が大勢住んでいられた辺りに住み着いて、一人は失わせたが、この人は、自分から世を恨みなさって、自分は何とかして死にたい、ということを、昼夜おっしゃっていたのを手がかりと得て、まことに暗い夜に、一人でいらした時に奪ったのである。
 けれども、観音があれやこれやと加護なさったので、この僧都にお負け申してしまった。
 今は、立ち去ろう」
   とののしる。
 
 と声を立てる。
 
   「かく言ふは、何ぞ」  「こう言うのは、何者だ」
   と問へば、憑きたる人、ものはかなきけにや、はかばかしうも言はず。
 
 と問うが、乗り移らせた人が、力のないせいか、はっきりとも言わない。
 
 
 

第三段 浮舟、意識を回復

 
   正身の心地はさはやかに、いささかものおぼえて見回したれば、一人見し人の顔はなくて、皆、老法師、ゆがみ衰へたる者のみ多かれば、知らぬ国に来にける心地して、いと悲し。
 
 ご本人の気分はさわやかになって、少し意識がはっきりして見回すと、一人も見たことのある顔はなくて、皆、老法師か腰の曲がった者ばかり多いので、知らない国に来たような気がして、実に悲しい。
 
   ありし世のこと思ひ出づれど、住みけむ所、誰れと言ひし人とだに、たしかにはかばかしうもおぼえず。
 ただ、
 以前のことを思い出すが、住んでいた所、何という名前であったかさえ、確かにはっきりとも思い出せない。
 ただ、
   「我は、限りとて身を投げし人ぞかし。
 いづくに来にたるにか」とせめて思ひ出づれば、
 「自分は、最期と思って身を投げた者である。
 どこに来たのか」と無理に思い出すと、
   「いといみじと、ものを思ひ嘆きて、皆人の寝たりしに、妻戸を放ちて出でたりしに、風は烈しう、川波も荒う聞こえしを、独りもの恐ろしかりしかば、来し方行く先もおぼえで、簀子の端に足をさし下ろしながら、行くべき方も惑はれて、帰り入らむも中空にて、心強くこの世に亡せなむと思ひ立ちしを、『をこがましうて人に見つけられむよりは、鬼も何も食ひ失へ』と言ひつつ、つくづくと居たりしを、いときよげなる男の寄り来て、『いざ、たまへ。
 おのがもとへ』と言ひて、抱く心地のせしを、宮と聞こえし人のしたまふ、とおぼえしほどより、心地惑ひにけるなめり。
 知らぬ所に据ゑ置きて、この男は消え失せぬ、と見しを、つひにかく本意のこともせずなりぬる、と思ひつつ、いみじう泣く、と思ひしほどに、その後のことは絶えて、いかにもいかにもおぼえず。
 
 「とてもつらいことよと、悲しい思いを抱いて、皆が寝静まったときに、妻戸を開けて外に出たが、風が烈しく、川波も荒々しく聞こえたが、独りぼっちで恐かったので、過去や将来も分からず、簀子の端に足をさし下ろしながら、行くはずの所も迷って、引き返すのも中途半端で、気強くこの世から消えようと決心したが、『馬鹿らしく人に見つけられるよりは鬼でも何でも喰って亡くしてくれよ』と言いながら、つくづくと座っていたが、とても美しそうな男が近寄って来て、『さあ、いらっしゃい。
 わたしの所へ』と言って、抱く気がしたが、宮様と申し上げた方がなさる、と思われた時から、意識がはっきりしなくなったようだ。
 知らない所に置いて、この男は消えてしまった、と見えたが、とうとうこのように目的も果たせずになってしまった、と思いながら、ひどく泣いている、と思ったときから、その後のことはまったく、何もかも覚えていない。
 
   人の言ふを聞けば、多くの日ごろも経にけり。
 いかに憂きさまを、知らぬ人に扱はれ見えつらむ、と恥づかしう、つひにかくて生き返りぬるか」
 人が言うのを聞くと、たくさんの日数を経てしまった。
 どのように嫌な様子を、知らない人にお世話されたのであろう、と恥ずかしく、とうとうこうして生き返ってしまったのか」
   と思ふも口惜しければ、いみじうおぼえて、なかなか、沈みたまひつる日ごろは、うつし心もなきさまにて、ものいささか参る事もありつるを、つゆばかりの湯をだに参らず。
 
 と思うのも残念なので、ひどく悲しく思われて、かえって、沈んでいらした日ごろは、正気もない様子で、何か食物も少し召し上がることもあったが、露ほどの薬湯でさえお飲みにならない。
 
 
 

第四段 浮舟、五戒を受く

 
   「いかなれば、かく頼もしげなくのみはおはするぞ。
 うちはへぬるみなどしたまへることは冷めたまひて、さはやかに見えたまへば、うれしう思ひきこゆるを」
 「どうして、このように頼りなさそうにばかりいらっしゃるのですか。
 ずっと熱がおありだったのは下がりなさって、さわやかにお見えになるので、嬉しくお思い申し上げていましたのに」
   と、泣く泣く、たゆむ折なく添ひゐて扱ひきこえたまふ。
 ある人びとも、あたらしき御さま容貌を見れば、心を尽くしてぞ惜しみまもりける。
 心には、「なほいかで死なむ」とぞ思ひわたりたまへど、さばかりにて、生き止まりたる人の命なれば、いと執念くて、やうやう頭もたげたまへば、もの参りなどしたまふにぞ、なかなか面痩せもていく。
 いつしかとうれしう思ひきこゆるに、
 と、泣きながら、気を緩めることなく付き添ってお世話申し上げなさる。
 仕える女房たちも、惜しいお姿や容貌を見ると、誠心誠意惜しんで看病したのであった。
 内心では、「やはり何とかして死にたい」と思い続けていらしたが、あれほどの状態で、生き返った人の命なので、とてもねばり強くて、だんだんと頭もお上げになったので、食物を召し上がりなさるが、かえって容貌もひきしまって行く。
 はやく好くなってほしいと嬉しくお思い申し上げていたところ、
   「尼になしたまひてよ。
 さてのみなむ生くやうもあるべき」
 「尼にしてください。
 そうしたら生きて行くようもありましょう」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「いとほしげなる御さまを。
 いかでか、さはなしたてまつらむ」
 「あたら惜しいお身を。
 どうして、そのように致せましょう」
   とて、ただ頂ばかりを削ぎ、五戒ばかりを受けさせたてまつる。
 心もとなけれど、もとよりおれおれしき人の心にて、えさかしく強ひてものたまはず。
 僧都は、
 と言って、ただ頂の髪だけを削いで、五戒だけを受けさせ申し上げる。
 不安であるが、もともとはきはきしない性分で、さし出て強くもおっしゃらない。
 僧都は、
   「今は、かばかりにて、いたはり止めたてまつりたまへ」  「今はもう、このくらいにしておいて、看病して差し上げなさい」
   と言ひ置きて、登りたまひぬ。
 
 と言い置いて、山へ登っておしまいになった。
 
 
 

第五段 浮舟、素性を隠す

 
   「夢のやうなる人を見たてまつるかな」と尼君は喜びて、せめて起こし据ゑつつ、御髪手づから削りたまふ。
 さばかりあさましう、ひき結ひてうちやりたりつれど、いたうも乱れず、解き果てたれば、つやつやとけうらなり。
 一年足らぬ九十九髪多かる所にて、目もあやに、いみじき天人の天降れるを見たらむやうに思ふも、危ふき心地すれど、
 「夢に見たような人をお世話申し上げることだわ」と尼君は喜んで、無理に起こして座らせながら、お髪をご自身でお梳かしになる。
 あのように驚きあきれ、結んでおいたが、ひどくは乱れず、解き放ってみると、つやつやとして美しい。
 白髪の人の多い所なので、目もあざやかに、美しい天人が地上に下りたのを見たように思うのも、不安な気がするが、
   「などか、いと心憂く、かばかりいみじく思ひきこゆるに、御心を立てては見えたまふ。
 いづくに誰れと聞こえし人の、さる所にはいかでおはせしぞ」
 「どうして、とても情けなく、こんなにたいそうお世話申し上げていますのに、強情をはっていらっしゃるのですか。
 どこの誰と申し上げた方が、そのような所にどうしておいでになったのですか」
   と、せめて問ふを、いと恥づかしと思ひて、  と、しいて尋ねるのを、とても恥ずかしいと思って、
   「あやしかりしほどに、皆忘れたるにやあらむ、ありけむさまなどもさらにおぼえはべらず。
 ただ、ほのかに思ひ出づることとては、ただ、いかでこの世にあらじと思ひつつ、夕暮ごとに端近くて眺めしほどに、前近く大きなる木のありし下より、人の出で来て、率て行く心地なむせし。
 それより他のことは、我ながら、誰れともえ思ひ出でられはべらず」
 「意識を失っている間に、すっかり忘れてしまったのでしょうか、以前の様子などもまったく覚えておりません。
 ただ、かすかに思い出すこととしては、ただ、何とかしてこの世から消えたいと思いながら、夕暮になると端近くで物思いをしていたときに、前の近くにある大きな木があった下から、人が出て来て、連れて行く気がしました。
 それ以外のことは、自分自身でも、誰とも思い出すことができません」
   と、いとらうたげに言ひなして、  と、とてもかわいらしげに言って、
   「世の中に、なほありけりと、いかで人に知られじ。
 聞きつくる人もあらば、いといみじくこそ」
 「この世に、やはり生きていたと、何とか人に知られたくない。
 聞きつける人がいたら、とても悲しい」
   とて泣いたまふ。
 あまり問ふをば、苦しと思したれば、え問はず。
 かぐや姫を見つけたりけむ竹取の翁よりも、珍しき心地するに、「いかなるものの隙に消え失せむとすらむ」と、静心なくぞ思しける。
 
 と言ってお泣きになる。
 あまり尋ねるのを、つらいとお思いなので、尋ねることもできない。
 かぐや姫を見つけた竹取の翁よりも、珍しい気がするので、「どのような何かの機会に姿が消え失せてしまうのか」と、落ち着かない気持ちでいた。
 
 
 

第六段 小野山荘の風情

 
   この主人もあてなる人なりけり。
 娘の尼君は、上達部の北の方にてありけるが、その人亡くなりたまひてのち、娘ただ一人をいみじくかしづきて、よき君達を婿にして思ひ扱ひけるを、その娘の君の亡くなりにければ、心憂し、いみじ、と思ひ入りて、形をも変へ、かかる山里には住み始めたりけるなり。
 
 ここの主人も高貴な方であった。
 娘の尼君は、上達部の北の方であったが、その方がお亡くなりになって後、娘をただ一人大切にお世話して、立派な公達を婿に迎えて大切にしていたが、その娘が亡くなってしまったので、情けない、悲しい、と思いつめて、尼姿になって、このような山里に住み始めたのであった。
 
   「世とともに恋ひわたる人の形見にも、思ひよそへつべからむ人をだに見出でてしがな」、つれづれも心細きままに思ひ嘆きけるを、かく、おぼえぬ人の、容貌けはひもまさりざまなるを得たれば、うつつのことともおぼえず、あやしき心地しながら、うれしと思ふ。
 ねびにたれど、いときよげによしありて、ありさまもあてはかなり。
 
 「歳月とともに恋い慕っていた娘の形見にでも、せめて思いよそえられるような人を見つけたい」と、所在ない心細い思いで嘆いていたところ、このように、思いがけない人で、器量や感じも優っているような人を得たので、現実のこととも思われず、不思議な気がしながらも、嬉しいと思う。
 年は召しているが、とても美しそうで嗜みがあり、態度も上品である。
 
   昔の山里よりは、水の音もなごやかなり。
 造りざま、ゆゑある所、木立おもしろく、前栽もをかしく、ゆゑを尽くしたり。
 秋になりゆけば、空のけしきもあはれなり。
 門田の稲刈るとて、所につけたるものまねびしつつ、若き女どもは、歌うたひ興じあへり。
 引板ひき鳴らす音もをかしく、見し東路のことなども思ひ出でられて。
 
 昔の山里よりは、川の音も物やわらかである。
 家の造りは、風流な所の、木立も趣があり、前栽なども興趣あり、風流をし尽くしている。
 秋になって行くと、空の様子もしみじみとしている。
 門田の稲を刈ろうとして、その土地の者の真似をしては、若い女房たちが、民謡を謡いながらおもしろがっていた。
 引板を鳴らす音もおもしろく、かつて見た東国のことなども思い出されて。
 
   かの夕霧の御息所のおはせし山里よりは、今すこし入りて、山に片かけたる家なれば、松蔭茂く、風の音もいと心細きに、つれづれに行ひをのみしつつ、いつとなくしめやかなり。
 
 あの夕霧の御息所がおいでになった山里よりは、もう少し奥に入って、山の斜面に建ててある家なので、松の木蔭が鬱蒼として、風の音もまことに心細いので、することもなく勤行ばかりして、いつとなくひっそりとしている。
 
 
 

第七段 浮舟、手習して述懐

 
   尼君ぞ、月など明き夜は、琴など弾きたまふ。
 少将の尼君などいふ人は、琵琶弾きなどしつつ遊ぶ。
 
 尼君は、月などの明るい夜は、琴などをお弾きになる。
 少将の尼君などという女房は、琵琶を弾いたりして遊ぶ。
 
   「かかるわざはしたまふや。
 つれづれなるに」
 「このようなことはなさいますか。
 何もすることがないので」
   など言ふ。
 昔も、あやしかりける身にて、心のどかに、「さやうのことすべきほどもなかりしかば、いささかをかしきさまならずも生ひ出でにけるかな」と、かくさだ過ぎにける人の、心をやるめる折々につけては、思ひ出づるを、「あさましくものはかなかりける」と、我ながら口惜しければ、手習に、
 などと言う。
 昔も、賤しかった身の上で、のんびりと、「そのようなことをする境遇でもなかったので、少しも風流なところもなく成長したことよ」と、このように盛りを過ぎた人が、心を晴らしているような時々につけては、思い出すが、「何とも言いようのない身の上であった」と、自分ながら残念なので、手習いに、
 

767
 「身を投げし 涙の川の 早き瀬を
 しがらみかけて 誰れか止めし」
 「涙ながらに身を投げたあの川の早い流れを
  堰き止めて誰がわたしを救い上げたのでしょう」
 
   思ひの外に心憂ければ、行く末もうしろめたく、疎ましきまで思ひやらる。
 
 思いがけないことに情けないので、将来も不安で、疎ましいまでに思われる。
 
   月の明かき夜な夜な、老い人どもは艶に歌詠み、いにしへ思ひ出でつつ、さまざま物語などするに、いらふべきかたもなければ、つくづくとうち眺めて、  月の明るい夜毎に、老人たちは優雅に和歌を詠み、昔を思い出しながら、いろいろな話などをするが、答えることもできないので、つくづくと物思いに沈んで、
 

768
 「我かくて 憂き世の中に めぐるとも
 誰れかは知らむ 月の都に」
 「わたしがこのように嫌なこの世に生きているとも
  誰が知ろうか、あの月が照らしている都の人で」
 
   今は限りと思ひしほどは、恋しき人多かりしかど、こと人びとはさしも思ひ出でられず、ただ、  今を最期と思い切ったときは、恋しい人が多かったが、その他の人びとはそれほども思い出されず、ただ、
   「親いかに惑ひたまひけむ。
 乳母、よろづに、いかで人なみなみになさむと思ひ焦られしを、いかにあへなき心地しけむ。
 いづくにあらむ。
 我、世にあるものとはいかでか知らむ」
 「母親がどんなにお嘆きになったろう。
 乳母が、いろいろと、何とか一人前にしようと一生懸命であったが、どんなにがっかりしたろう。
 どこにいるのだろう。
 わたしが、生きていようとはどうして知ろう」
   同じ心なる人もなかりしままに、よろづ隔つることなく語らひ見馴れたりし右近なども、折々は思ひ出でらる。
 
 同じ気持ちの人もいなかったが、何事も隠すことなく相談し親しくしていた右近なども、時々は思い出される。
 
 
 

第八段 浮舟の日常生活

 
   若き人の、かかる山里に、今はと思ひ絶え籠もるは、難きわざなりければ、ただいたく年経にける尼、七、八人ぞ、常の人にてはありける。
 それらが娘孫やうの者ども、京に宮仕へするも、異ざまにてあるも、時々ぞ来通ひける。
 
 若い女で、このような山里に、もうこれまでと思いを断ち切って籠もるのは、難しいことなので、ただひどく年をとった尼、七、八人が、いつも仕えていた人であった。
 その人たちの娘や孫のような者たちで、京で宮仕えするものや、結婚している者が、時々行き来するのであった。
 
   「かやうの人につけて、見しわたりに行き通ひ、おのづから、世にありけりと誰れにも誰れにも聞かれたてまつらむこと、いみじく恥づかしかるべし。
 いかなるさまにてさすらへけむ」
 「このような人がいることにつけて、以前見た近辺に出入りして、自然と、生きていたとどちら様にも聞かれ申すことは、ひどく恥ずかしいことであろう。
 どのような様子でさすらっていていたのだろう」
   など、思ひやり世づかずあやしかるべきを思へば、かかる人びとに、かけても見えず。
 ただ侍従、こもきとて、尼君のわが人にしたりける二人をのみぞ、この御方に言ひ分けたりける。
 みめも心ざまも、昔見し都鳥に似たるはなし。
 何事につけても、「世の中にあらぬ所はこれにや」とぞ、かつは思ひなされける。
 
 などと、想像されて並外れたみすぼらしい有様を思うにちがいないのを思うと、このような人びとに、少しも姿を見せない。
 ただ、侍従と、こもきといって、尼君が私的に使っている二人だけを、この御方に特別に言って分けておいたのだった。
 容貌も気立ても、昔見た都人に似た者はいない。
 何事につけても、「世の中で身を隠す所はここであろうか」と、一方では思われるのであった。
 
   かくのみ、人に知られじと忍びたまへば、「まことにわづらはしかるべきゆゑある人にもものしたまふらむ」とて、詳しきこと、ある人びとにも知らせず。
 
 こうしてばかり、人には知られまいと隠れていらっしゃるので、「ほんとうに厄介な理由のある人でいらっしゃるのだろう」と思って、詳しいことは、仕えている女房にも知らせない。
 
 
 

第三章 浮舟の物語 中将、浮舟に和歌を贈る

 
 

第一段 尼君の亡き娘の婿君、山荘を訪問

 
   尼君の昔の婿の君、今は中将にてものしたまひける、弟の禅師の君、僧都の御もとにものしたまひける、山籠もりしたるを訪らひに、兄弟の君たち常に登りけり。
 
 尼君の亡き娘の婿の君で、今は中将におなりになっていたが、その弟の禅師の君は、僧都のお側にいらっしゃったが、その山籠もりなさっているのを尋ねるために、兄弟の公達がよく山に登るのであった。
 
   横川に通ふ道のたよりに寄せて、中将ここにおはしたり。
 前駆うち追ひて、あてやかなる男の入り来るを見出だして、忍びやかにおはせし人の御さまけはひぞ、さやかに思ひ出でらるる。
 
 横川に通じる道のついでにかこつけて、中将がここにいらした。
 前駆が先払いして、身分高そうな男が入ってくるのを見出して、ひっそりとしていらしたあの方のご様子が、くっきりと思い出される。
 
   これもいと心細き住まひのつれづれなれど、住みつきたる人びとは、ものきよげにをかしうしなして、垣ほに植ゑたる撫子もおもしろく、女郎花、桔梗など咲き始めたるに、色々の狩衣姿の男どもの若きあまたして、君も同じ装束にて、南面に呼び据ゑたれば、うち眺めてゐたり。
 年二十七、八のほどにて、ねびととのひ、心地なからぬさまもてつけたり。
 
 ここもまことに心細い住まいの所在なさであるが、住み馴れた人びとは、どことなくこぎれいに興趣深くして、垣根に植えた撫子が美しく、女郎花や、桔梗などが咲き初めたところに、色とりどりの狩衣姿の男どもの若い人が大勢して、君も同じ装束で、南面に迎えて座らせたので、あたりを眺めていた。
 年齢は二十七、八歳くらいで、すっかり立派になって、嗜みのなくはない態度が身についていた。
 
   尼君、障子口に几帳立てて、対面したまふ。
 まづうち泣きて、
 尼君、襖障子口に几帳を立てて、お会いなさる。
 何より先に泣き出して、
   「年ごろの積もるには、過ぎにし方いとど気遠くのみなむはべるを、山里の光になほ待ちきこえさすることの、うち忘れず止みはべらぬを、かつはあやしく思ひたまふる」  「何年にもなりますと、過ぎ去った当時がますます遠くなるばかりでございますが、山里の光栄としてやはりお待ち申し上げております気持ちが、忘れず続いておりますのが、一方では不思議に存じられます」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「心のうちあはれに、過ぎにし方のことども、思ひたまへられぬ折なきを、あながちに住み離れ顔なる御ありさまに、おこたりつつなむ。
 山籠もりもうらやましう、常に出で立ちはべるを、同じくはなど、慕ひまとはさるる人びとに、妨げらるるやうにはべりてなむ。
 今日は、皆はぶき捨ててものしたまへる」
 「心の中ではしみじみと、過ぎ去った当時のことが、思い出されないことはないが、ひたすら俗世を離れたご生活なので、ついご遠慮申し上げまして。
 山籠もり生活も羨ましく、よく出かけてきますので、同じことならなどと、同行したがる人びとに、邪魔されるような恰好でおりました。
 今日は、すっかり断って参りました」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   「山籠もりの御うらやみは、なかなか今様だちたる御ものまねびになむ。
 昔を思し忘れぬ御心ばへも、世に靡かせたまはざりけると、おろかならず思ひたまへらるる折多く」
 「山籠もり生活のご羨望は、かえって当世風の物真似のようです。
 故人をお忘れにならないお気持ちも、世間の風潮にお染まりにならなかったと、一方ならず厚く存じられます折がたびたびです」
   など言ふ。
 
 などと言う。
 
 
 

第二段 浮舟の思い

 
   人びとに水飯などやうの物食はせ、君にも蓮の実などやうのもの出だしたれば、馴れにしあたりにて、さやうのこともつつみなき心地して、村雨の降り出づるに止められて、物語しめやかにしたまふ。
 
 供の人びとに水飯などのような物を食べさせ、君にも蓮の実などのような物を出したので、昵懇の所なので、そのようなことにも遠慮のいらない気がして、村雨が降り出したのに引き止められて、お話をひっそりとなさる。
 
   「言ふかひなくなりにし人よりも、この君の御心ばへなどの、いと思ふやうなりしを、よそのものに思ひなしたるなむ、いと悲しき。
 など、忘れ形見をだに留めたまはずなりにけむ」
 「亡くなってしまった娘のことよりも、この婿君のお気持ちなどが、実に申し分なかったので、他人と思うのが、とても悲しい。
 どうして、せめて子供だけでもお残しにならなかったのだろう」
   と、恋ひ偲ぶ心なりければ、たまさかにかくものしたまへるにつけても、珍しくあはれにおぼゆべかめる問はず語りもし出でつべし。
 
 と、恋い偲ぶ気持ちなので、たまたまこのようにお越しになったのにつけても、珍しくしみじみと思われるような問わず語りもしてしまいそうである。
 
   姫君は、我は我と、思ひ出づる方多くて、眺め出だしたまへるさま、いとうつくし。
 白き単衣の、いと情けなくあざやぎたるに、袴も桧皮色にならひたるにや、光も見えず黒きを着せたてまつりたれば、「かかることどもも、見しには変はりてあやしうもあるかな」と思ひつつ、こはごはしういららぎたるものども着たまへるしも、いとをかしき姿なり。
 御前なる人びと、
 姫君は、わたしはわたしと、思い出されることが多くて、外を眺めていらっしゃる様子、とても美しい。
 白い単衣で、とても風情もなくさっぱりとしたものに、袴も桧皮色に見倣ったのか、色艶も見えない黒いのをお着せ申していたので、「このようなことなども、昔と違って不思議なことだ」と思いながらも、ごわごわとした肌触りのよくないのを何枚も着重ねていらっしゃるのが、実に風情ある姿なのである。
 御前の女房たちも、
   「故姫君のおはしたる心地のみしはべりつるに、中将殿をさへ見たてまつれば、いとあはれにこそ。
 同じくは、昔のさまにておはしまさせばや。
 いとよき御あはひならむかし」
 「亡き姫君が生き返りなさった気ばかりがしますので、中将殿までを拝見すると、とても感慨無量です。
 同じことなら、昔のようにおいで願いたいものですね。
 とてもお似合いのご夫婦でしょう」
   と言ひ合へるを、  と話し合っているのを、
   「あな、いみじや。
 世にありて、いかにもいかにも、人に見えむこそ。
 それにつけてぞ昔のこと思ひ出でらるべき。
 さやうの筋は、思ひ絶えて忘れなむ」と思ふ。
 
 「まあ、大変な。
 生き残って、どのようなことがあっても、男性と結婚するようなことは。
 それにつけても昔のことが思い出されよう。
 そのようなことは、すっかり断ち切って忘れよう」と思う。
 
 
 

第三段 中将、浮舟を垣間見る

 
   尼君入りたまへる間に、客人、雨のけしきを見わづらひて、少将と言ひし人の声を聞き知りて、呼び寄せたまへり。
 
 尼君が奥にお入りになる間に、客人は、雨の様子に困って、少将といった女房の声を聞き知って、呼び寄せなさった。
 
   「昔見し人びとは、皆ここにものせらるらむや、と思ひながらも、かう参り来ることも難くなりにたるを、心浅きにや、誰れも誰れも見なしたまふらむ」  「昔見た女房たちは、みなここにいられようか、と思いながらも、このようにやって参ることも難しくなってしまったのを、薄情なように、皆がお思いになりましょう」
   などのたまふ。
 仕うまつり馴れにし人にて、あはれなりし昔のことどもも思ひ出でたるついでに、
 などとおっしゃる。
 親しくお世話してくれた女房なので、恋しかった当時のことが思い出される折に、
   「かの廊のつま入りつるほど、風の騒がしかりつる紛れに、簾の隙より、なべてのさまにはあるまじかりつる人の、うち垂れ髪の見えつるは、世を背きたまへるあたりに、誰れぞとなむ見おどろかれつる」  「あの渡廊の端の所で、風が烈しかった騷ぎに、簾の隙間から、並々の器量ではなかった人で、打ち垂れ髪が見えたのは、出家なさった家に、いったい誰なのかと驚かされました」
   とのたまふ。
 「姫君の立ち出でたまへるうしろでを、見たまへりけるなめり」と思ひ出でて、「ましてこまかに見せたらば、心止まりたまひなむかし。
 昔人は、いとこよなう劣りたまへりしをだに、まだ忘れがたくしたまふめるを」と、心一つに思ひて、
 とおっしゃる。
 「姫君が立って出て行かれた後ろ姿を、御覧になったようだ」と思って、「これ以上に詳細に見せたら、きっとお心がお止まりになろう。
 故人は、とても格段に劣っていらっしゃったのさえ、今だに忘れがたく思っていらっしゃるようだから」と、独り決めにして、
   「過ぎにし御ことを忘れがたく、慰めかねたまふめりしほどに、おぼえぬ人を得たてまつりたまひて、明け暮れの見物に思ひきこえたまふめるを、うちとけたまへる御ありさまを、いかで御覧じつらむ」  「亡くなったお方のことを忘れがたく、慰めかねていらっしゃるようだったころ、思いがけない女性をお手に入れ申されて、明け暮れの慰めにお思い申し上げていらっしゃったようですが、寛いでいらっしゃるご様子を、どうして御覧になったのでしょうか」
   と言ふ。
 「かかることこそはありけれ」とをかしくて、「何人ならむ。
 げに、いとをかしかりつ」と、ほのかなりつるを、なかなか思ひ出づ。
 こまかに問へど、そのままにも言はず、
 と言う。
 「このようなことがあるものだ」と興味深くて、「どのような人なのだろう。
 なるほど、実に美しかった」と、ちらっと垣間見たのを、かえって思い出す。
 詳しく尋ねるが、すっかりとは答えず、
   「おのづから聞こし召してむ」  「自然とお分かりになりましょう」
   とのみ言へば、うちつけに問ひ尋ねむも、さま悪しき心地して、  とばかり言うので、急に詮索するのも、体裁の悪い気がして、
   「雨も止みぬ。
 日も暮れぬべし」
 「雨も止んだ。
 日も暮れそうだ」
   と言ふにそそのかされて、出でたまふ。
 
 と言うのに促されて、お帰りになる。
 
 
 

第四段 中将、横川の僧都と語る

 
   前近き女郎花を折りて、「何匂ふらむ」と口ずさびて、独りごち立てり。
 
 お庭先の女郎花を手折って、「どうしてここにいらっしゃるのだろう」と口ずさんで、独り言をいって立っていた。
 
   「人のもの言ひを、さすがに思しとがむるこそ」  「人の噂を、さすがに気になさるとは」
   など、古代の人どもは、ものめでをしあへり。
 
 などと、古風な老人たちは、誉めあっていた。
 
   「いときよげに、あらまほしくもねびまさりたまひにけるかな。
 同じくは、昔のやうにても見たてまつらばや」とて、
 「とても美しげで、理想的にご成人なさったことよ。
 同じことなら、昔のようにお世話したいものだ」と思って、
   「藤中納言の御あたりには、絶えず通ひたまふやうなれど、心も止めたまはず、親の殿がちになむものしたまふ、とこそ言ふなれ」  「藤中納言のお所には、今も通っていらっしゃるようだが、ご執心でもなく、親の邸にいらっしゃりがちだと言っているようだが」
   と、尼君ものたまひて、  と、尼君もおっしゃって、
   「心憂く、ものをのみ思し隔てたるなむ、いとつらき。
 今は、なほ、さるべきなめりと思しなして、晴れ晴れしくもてなしたまへ。
 この五年、六年、時の間も忘れず、恋しく悲しと思ひつる人の上も、かく見たてまつりて後よりは、こよなく思ひ忘られにてはべる。
 思ひきこえたまふべき人びと世におはすとも、今は世に亡きものにこそ、やうやう思しなりぬらめ。
 よろづのこと、さし当たりたるやうには、えしもあらぬわざになむ」
 「情けなく、よそよそしくしてばかりいらっしゃるのが、とてもつらい。
 今はもう、やはり、これも宿縁だとお思いになって、気を晴れやかになさってください。
 この五年、六年、束の間も忘れず、恋しく悲しいと思っていた娘のことも、こうしてお目にかかって後は、すっかり悲しみも忘れております。
 ご心配申し上げなさる方々がいらっしゃっても、今はもう亡くなったのだと、だんだんお諦めになりましょう。
 どのような事でも、その当座のようには、必ずしも思わないものです」
   と言ふにつけても、いとど涙ぐみて、  と言うにつけても、ますます涙ぐんで、
   「隔てきこゆる心は、はべらねど、あやしくて生き返りけるほどに、よろづのこと夢の世にたどられて。
 あらぬ世に生れたらむ人は、かかる心地やすらむ、とおぼえはべれば、今は、知るべき人世にあらむとも思ひ出でず。
 ひたみちにこそ、睦ましく思ひきこゆれ」
 「よそよそしくお思い申し上げる気持ちは、ございませんが、不思議に生き返ったうちに、すべての事が夢のようにはっきり分からなくなりまして。
 違った世界に生まれた人は、このような気がするものだろうか、と思われておりますので、今は、知っている人がこの世に生きていようとも思い出されません。
 ひたすらに、慕わしく存じ上げております」
   とのたまふさまも、げに、何心なくうつくしく、うち笑みてぞまもりゐたまへる。
 
 とおっしゃる様子も、なるほど、無心でかわいらしく、にっこりとして見つめていらっしゃった。
 
   中将は、山におはし着きて、僧都も珍しがりて、世の中の物語したまふ。
 その夜は泊りて、声尊き人に経など読ませて、夜一夜、遊びたまふ。
 禅師の君、こまかなる物語などするついでに、
 中将は、山にお着きになって、僧都も珍しく思って、世間の話をなさる。
 その夜は泊まって、声の尊い僧たちに読経などさせて、一晩中、管弦の遊びをなさる。
 禅師の君が、うちとけた話をした折に、
   「小野に立ち寄りて、ものあはれにもありしかな。
 世を捨てたれど、なほさばかりの心ばせある人は、難うこそ」
 「小野に立ち寄って、しみじみと感慨深いことがあったね。
 世を捨てているが、やはり、あれほど嗜みの深い方は、めったにいらっしゃらないものだ」
   などあるついでに、  などとおっしゃるついでに、
   「風の吹き開けたりつる隙より、髪いと長くをかしげなる人こそ見えつれ。
 あらはなりとや思ひつらむ、立ちてあなたに入りつるうしろで、なべての人とは見えざりつ。
 さやうの所に、よき女は置きたるまじきものにこそあめれ。
 明け暮れ見るものは法師なり。
 おのづから目馴れておぼゆらむ。
 不便なることぞかし」
 「風が吹き上げた御簾の隙間から、髪がたいそう長く、美しそうな女性が見えた。
 人目につくと思ったのだろうか、立ってあちらに入って行く後ろ姿は、並の女性とは見えなかった。
 あのような所に、身分のある女性を住まわせておくべきではないでしょう。
 明け暮れ目にするものは法師だ。
 自然と見慣れてそれが普通と思われよう。
 不都合なことだ」
   とのたまふ。
 禅師の君、
 とおっしゃる。
 禅師の君は、
   「この春、初瀬に詣でて、あやしくて見出でたる人となむ、聞きはべりし」  「この春、初瀬に参詣して、不思議にも発見した女性だ、と聞きました」
   とて、見ぬことなれば、こまかには言はず。
 
 と言って、見てないことなので、詳しくは言わない。
 
   「あはれなりけることかな。
 いかなる人にかあらむ。
 世の中を憂しとてぞ、さる所には隠れゐけむかし。
 昔物語の心地もするかな」
 「興味深い話だね。
 どのような人であろうか。
 世の中を厭って、そのような所に隠れていたのだろう。
 昔物語にあったような気がするね」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
 
 

第五段 中将、帰途に浮舟に和歌を贈る

 
   またの日、帰りたまふにも、「過ぎがたくなむ」とておはしたり。
 さるべき心づかひしたりければ、昔思ひ出でたる御まかなひの少将の尼なども、袖口さま異なれども、をかし。
 いとどいや目に、尼君はものしたまふ。
 物語のついでに、
 翌日、お帰りになる時、「素通りできにくくて」と言っていらっしゃった。
 しかるべき用意などしていたので、昔が思い出されるお世話の少将の尼なども、袖口の色は異なっているが、趣がある。
 ますます涙がちの目で、尼君はいらっしゃる。
 話のついでに、
   「忍びたるさまにものしたまふらむは、誰れにか」  「こっそりと姿を隠していらっしゃるような方は、どなたですか」
   と問ひたまふ。
 わづらはしけれど、ほのかにも見つけてけるを、隠し顔ならむもあやしとて、
 とお尋ねになる。
 厄介なことだが、ちらっと見つけたのを、隠しているようなのも変だと思って、
   「忘れわびはべりて、いとど罪深うのみおぼえはべりつる慰めに、この月ごろ見たまふる人になむ。
 いかなるにか、いともの思ひしげきさまにて、世にありと人に知られむことを、苦しげに思ひてものせらるれば、かかる谷の底には誰れかは尋ね聞かむ、と思ひつつはべるを、いかでかは聞きあらはさせたまへらむ」
 「忘れかねまして、ますます罪深くばかり思われましたその慰めに、ここ数か月お世話している人です。
 どのような理由でか、とても悲しみの深い様子で、この世に生きていると誰からも知られることを、つらいことに思っておいでなので、このような山あいの奥深くまで誰がお尋ね求めよう、と思っておりましたが、どうしてお聞きつけあそばしたのですか」
   といらふ。
 
 と答える。
 
   「うちつけ心ありて参り来むにだに、山深き道のかことは聞こえつべし。
 まして、思しよそふらむ方につけては、ことことに隔てたまふまじきことにこそは。
 いかなる筋に世を恨みたまふ人にか。
 慰めきこえばや」
 「一時の物好きな心があってやって来るのでさえ、山深い道の恨み言は申し上げましょう。
 まして、亡き姫君の代わりとお思いなさっていることでは、まったく関係ないこととお隔てになることでしょうか。
 どのようなことで、この世を厭いなさる人なのでしょうか。
 お慰め申し上げたい」
   など、ゆかしげにのたまふ。
 
 などと、関心深そうにおっしゃる。
 
   出でたまふとて、畳紙に、  お帰りになるに当たって、畳紙に、
 

769
 「あだし野の 風になびくな 女郎花
 我しめ結はむ 道遠くとも」
 「浮気な風に靡くなよ、女郎花
  わたしのものとなっておくれ、道は遠いけれども」
 
   と書きて、少将の尼して入れたり。
 尼君も見たまひて、
 と書いて、少将の尼を介して入れた。
 尼君も御覧になって、
   「この御返り書かせたまへ。
 いと心にくきけつきたまへる人なれば、うしろめたくもあらじ」
 「このお返事をお書きあそばせ。
 とても奥ゆかしいところのおありの方だから、不安なことはありますまい」
   とそそのかせば、  と促すと、
   「いとあやしき手をば、いかでか」  「ひどく醜い筆跡を、どうして」
   とて、さらに聞きたまはねば、  と言って、まったく承知なさらないので、
   「はしたなきことなり」  「体裁の悪きことです」
   とて、尼君、  と言って、尼君が、
   「聞こえさせつるやうに、世づかず、人に似ぬ人にてなむ。
 
 「申し上げましたように、世間知らずで、普通の人とは違っておりますので。
 
 

770
 移し植ゑて 思ひ乱れぬ 女郎花
 憂き世を背く 草の庵に」
  ここに移し植えて困ってしまいました、女郎花です
  嫌な世の中を逃れたこの草庵で」
 
   とあり。
 「こたみは、さもありぬべし」と、思ひ許して帰りぬ。
 
 とある。
 「今回は、きっとそういうことだろう」と大目に見て帰った。
 
 
 

第六段 中将、三度山荘を訪問

 
   文などわざとやらむは、さすがにうひうひしう、ほのかに見しさまは忘れず、もの思ふらむ筋、何ごとと知らねど、あはれなれば、八月十余日のほどに、小鷹狩のついでにおはしたり。
 例の、尼呼び出でて、
 手紙などをわざわざやるのは、何といっても不慣れな感じで、ちらっと見た様子は忘れず、何を悩んでいるのか知らないが、心を惹かれるので、八月十日過ぎに、小鷹狩のついでにいらっしゃった。
 いつものように、尼を呼び出して、
   「一目見しより、静心なくてなむ」  「先日ちらっと見てから、心が落ち着かなくて」
   とのたまへり。
 いらへたまふべくもあらねば、尼君、
 とおっしゃった。
 お答えなさるはずもないので、尼君は、
   「待乳の山、となむ見たまふる」  「待乳の山の、誰か他に思う人がいるように拝します」
   と言ひ出だしたまふ。
 対面したまへるにも、
 と中から言い出させなさる。
 お会いなさっても、
   「心苦しきさまにてものしたまふと聞きはべりし人の御上なむ、残りゆかしくはべりつる。
 何事も心にかなはぬ心地のみしはべれば、山住みもしはべらまほしき心ありながら、許いたまふまじき人びとに思ひ障りてなむ過ぐしはべる。
 世に心地よげなる人の上は、かく屈じたる人の心からにや、ふさはしからずなむ。
 もの思ひたまふらむ人に、思ふことを聞こえばや」
 「お気の毒な様子でいらっしゃると伺いました方のお身の上が、もっと詳しく知りたく存じます。
 何事も思った通りにならない気ばかりがしますので、出家生活をしたい考えはありながら、お許しなさるはずのない方々に妨げられて過ごしております。
 いかにも屈託なげな今の妻のことは、このように沈みがちな身の上のせいか、似合わないのです。
 悩んでいらっしゃるらしい方に、思っている気持ちを申し上げたい」
   など、いと心とどめたるさまに語らひたまふ。
 
 などと、とてもご執心なさってようにお話なさる。
 
   「心地よげならぬ御願ひは、聞こえ交はしたまはむに、つきなからぬさまになむ見えはべれど、例の人にてはあらじと、いとうたたあるまで世を恨みたまふめれば。
 残りすくなき齢どもだに、今はと背きはべる時は、いともの心細くおぼえはべりしものを。
 世をこめたる盛りには、つひにいかがとなむ、見たまへはべる」
 「もの思わしげな方をとのご希望は、いろいろお話し合いなさるに、不似合いではないように見えますが、普通の人のようにはありたくないと、実に嫌に思われるくらい世の中を厭っていらっしゃるようなので。
 残り少ない寿命のわたしでさえ、今を最後と出家します時には、とても何となく心細く思われましたものを。
 将来の長い盛りの時では、最後まで出家生活を送れるかどうかと、心配でおります」
   と、親がりて言ふ。
 入りても、
 と、親ぶって言う。
 奥に入って行っても、
   「情けなし。
 なほ、いささかにても聞こえたまへ。
 かかる御住まひは、すずろなることも、あはれ知るこそ世の常のことなれ」
 「思いやりのないこと。
 やはり、少しでもお返事申し上げなさい。
 このようなお暮らしは、ちょっとしたつまらないことでも、人の気持ちを汲むのは世間の常識というものです」
   など、こしらへても言へど、  などと、なだめすかして言うが、
   「人にもの聞こゆらむ方も知らず、何事もいふかひなくのみこそ」  「人にものを申し上げるすべも知らず、何事もお話にならないわたしで」
   と、いとつれなくて臥したまへり。
 
 と、とてもそっけなく臥せっていらっしゃった。
 
   客人は、  客人は、
   「いづら。
 あな、心憂。
 秋を契れるは、すかしたまふにこそありけれ」
 「どうでしたか。
 何と、情けない。
 秋になったらとお約束したのは、おだましになったのですね」
   など、恨みつつ、  などと、恨みながら、
 

771
 「松虫の 声を訪ねて 来つれども
 また萩原の 露に惑ひぬ」
 「松虫の声を尋ねて来ましたが
  再び萩原の露に迷ってしまいました」
 
   「あな、いとほし。
 これをだに」
 「まあ、お気の毒な。
 せめてこのお返事だけでも」
   など責むれば、さやうに世づいたらむこと言ひ出でむもいと心憂く、また、言ひそめては、かやうの折々に責められむも、むつかしうおぼゆれば、いらへをだにしたまはねば、あまりいふかひなく思ひあへり。
 尼君、早うは今めきたる人にぞありける名残なるべし。
 
 などと責めると、そのような色恋めいた事に返事するのもたいそう嫌で、また一方、いったん返歌をしては、このような折々に責められるのも、厄介に思われるので、返歌をさえなさらないので、あまりにいいようもなく思い合っていた。
 尼君は、出家前は当世風の方であった気が残っているのであろう。
 
 

772
 「秋の野の 露分け来たる 狩衣
 葎茂れる 宿にかこつな
 「秋の野原の露を分けて来たため濡れた狩衣は
  葎の茂ったわが宿のせいになさいますな
 
   となむ、わづらはしがりきこえたまふめる」  と、わずらわしがり申していらっしゃるようです」
   と言ふを、内にも、なほ「かく心より外に世にありと知られ始むるを、いと苦し」と思す心のうちをば知らで、男君をも飽かず思ひ出でつつ、恋ひわたる人びとなれば、  と言うのを、簾中でも、やはり「このように思いの外にこの世に生きていると知られ出したのを、とてもつらい」とお思いになる心中を知らないで、男君のことをも尽きせず思い出しては、恋い慕っている人びとなので、
   「かく、はかなきついでにも、うち語らひきこえたまはむに、心より外に、よにうしろめたくは見えたまはぬものを。
 世の常なる筋には思しかけずとも、情けなからぬほどに、御いらへばかりは聞こえたまへかし」
 「このような、ちょっとした機会にも、お話し合い申し上げなさるのも、お気持ちにそむいて、油断ならないことはなさらない方ですから。
 世間並の色恋とお思いなさらなくても、人情のわかる程度に、お返事を申し上げなさいませ」
   など、ひき動かしつべく言ふ。
 
 などと、引き動かさんばかりに言う。
 
 
 

第七段 尼君、中将を引き留める

 
   さすがに、かかる古代の心どもにはありつかず、今めきつつ、腰折れ歌好ましげに、若やぐけしきどもは、いとうしろめたうおぼゆ。
 
 そうはいっても、このような古風な気質とは不似合いに、当世風に気取っては、下手な歌を詠みたがって、はしゃいでいる様子は、とても不安に思われる。
 
   「限りなく憂き身なりけり、と見果ててし命さへ、あさましう長くて、いかなるさまにさすらふべきならむ。
 ひたぶるに亡き者と人に見聞き捨てられてもやみなばや」
 「この上なく嫌な身の上であった、と見極めた命までが、あきれるくらい長くて、どのようなふうにさまよって行くのだろう。
 ひたすら亡くなった者として誰からもすっかり忘れられて終わりたい」
   と思ひ臥したまへるに、中将は、おほかたもの思はしきことのあるにや。
 いといたううち嘆き、忍びやかに笛を吹き鳴らして、
 と思って臥せっていらっしゃるのに、中将は、およそ何か物思いの種があるのだろうか。
 とてもひどく嘆き、ひっそりと笛を吹き鳴らして、
   「鹿の鳴く音に」  「鹿の鳴く声に」
   など独りごつけはひ、まことに心地なくはあるまじ。
 
 などと独り言をいう感じは、ほんとうに弁えのない人ではなさそうである。
 
   「過ぎにし方の思ひ出でらるるにも、なかなか心尽くしに、今はじめてあはれと思すべき人はた、難げなれば、見えぬ山路にもえ思ひなすまじうなむ」  「過ぎ去った昔が思い出されるにつけても、かえって心尽くしに、今初めて慕わしいと思ってくれるはずの人も、またいそうもないので、つらいことのない山奥とは思うことができません」
   と、恨めしげにて出でなむとするに、尼君、  と、恨めしそうにしてお帰りになろうとする時に、尼君が、
   「など、あたら夜を御覧じさしつる」  「どうして、せっかくの素晴らしい夜を御覧になりませぬ」
   とて、ゐざり出でたまへり。
 
 と言って、膝行して出ていらっしゃった。
 
   「何か。
 遠方なる里も、試みはべれば」
 「いえ。
 あちらのお気持ちも、分かりましたので」
   など言ひすさみて、「いたう好きがましからむも、さすがに便なし。
 いとほのかに見えしさまの、目止まりしばかり、つれづれなる心慰めに思ひ出づるを、あまりもて離れ、奥深なるけはひも所のさまにあはずすさまじ」と思へば、帰りなむとするを、笛の音さへ飽かず、いとどおぼえて、
 と軽く言って、「あまり好色めいて振る舞うのも、やはり不都合だ。
 ほんのちらっと見えた姿が、目にとまったほどで、所在ない心の慰めに思い出したが、あまりによそよそしくて、奥ゆかしい感じ過ぎるのも場所柄にも似合わず興醒めな感じがする」と思ので、帰ろうとするのを、笛の音まで物足りなく、ますます思われて、
 

773
 「深き夜の 月をあはれと 見ぬ人や
 山の端近き 宿に泊らぬ」
 「夜更けの月をしみじみと御覧にならない方が
  山の端に近いこの宿にお泊まりになりませんか」
 
   と、なまかたはなることを、  と、どこか整わない歌を、
   「かくなむ、聞こえたまふ」  「このように、申し上げていらっしゃいます」
   と言ふに、心ときめきして、  と言うと、心をときめかして、
 

774
 「山の端に 入るまで月を 眺め見む
 閨の板間も しるしありやと」
 「山の端に隠れるまで月を眺ましょう
  その効あってお目にかかれようかと」
 
   など言ふに、この大尼君、笛の音をほのかに聞きつけたりければ、さすがにめでて出で来たり。
 
 などと言っていると、この大尼君、笛の音をかすかに聞きつけたので、老齢ではいてもやはり心惹かれて出て来た。
 
   ここかしこうちしはぶき、あさましきわななき声にて、なかなか昔のことなどもかけて言はず。
 誰れとも思ひ分かぬなるべし。
 
 話のあちこちで咳をし、呆れるほどの震え声で、かえって昔のことなどは口にしない。
 誰であるかも分からないのであろう。
 
   「いで、その琴の琴弾きたまへ。
 横笛は、月にはいとをかしきものぞかし。
 いづら、御達。
 琴とりて参れ」
 「さあ、その琴の琴をお弾きなさい。
 横笛は、月にはとても趣深いものです。
 どこですか、そなたたち。
 琴を持って参れ」
   と言ふに、それなめりと、推し量りに聞けど、「いかなる所に、かかる人、いかで籠もりゐたらむ。
 定めなき世ぞ」、これにつけてあはれなる。
 盤渉調をいとをかしう吹きて、
 と言うので、母尼君らしい、と推察して聞くが、「どのような所に、このような老人が、どうして籠もっているのだろう。
 無常の世だ」と、このことにつけても感慨無量である。
 盤渉調をたいそう趣深く吹いて、
   「いづら、さらば」  「どうですか。
 さあ」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   娘尼君、これもよきほどの好き者にて、  娘尼君は、この方も相当な風流人なので、
   「昔聞きはべりしよりも、こよなくおぼえはべるは、山風をのみ聞き馴れはべりにける耳からにや」とて、「いでや、これもひがことになりてはべらむ」  「昔聞きましたときよりも、この上なく素晴らしく思われますのは、山風ばかりを聞き馴れていました耳のせいでしょうか」と言って、「それでは、わたしのはでたらめになっていましょう」
   と言ひながら弾く。
 今様は、をさをさなべての人の、今は好まずなりゆくものなれば、なかなか珍しくあはれに聞こゆ。
 松風もいとよくもてはやす。
 吹きて合はせたる笛の音に、月もかよひて澄める心地すれば、いよいよめでられて、宵惑ひもせず、起き居たり。
 
 と言いながら弾く。
 当世風では、ほとんど普通の人は、今は好まなくなって行くものなので、かえって珍しくしみじみと聞こえる。
 松風も実によく調和する。
 吹き合わせた笛の音に、月も調子を合わせて澄んでいる気がするので、ますます興趣が乗って、眠気も催さず、起きていた。
 
 
 

第八段 母尼君、琴を弾く

 
   「女は、昔は、東琴をこそは、こともなく弾きはべりしかど、今の世には、変はりにたるにやあらむ。
 この僧都の、『聞きにくし。
 念仏より他のあだわざなせそ』とはしたなめられしかば、何かは、とて弾きはべらぬなり。
 さるは、いとよく鳴る琴もはべり」
 「お婆は、昔は、東琴を、簡単に弾きましたが、今の世では、変わったのでしょうか。
 息子の僧都が『聞きにくい。
 念仏以外のつまらないことはするな』と叱られましたので、それならと、もう弾かないのでございます。
 それにしても、とてもよい響きの琴もございます」
   と言ひ続けて、いと弾かまほしと思ひたれば、いと忍びやかにうち笑ひて、  と言い続けて、とても弾きたく思っているので、たいそうこっそりとほほ笑んで、
   「いとあやしきことをも制しきこえたまひける僧都かな。
 極楽といふなる所には、菩薩なども皆かかることをして、天人なども舞ひ遊ぶこそ尊かなれ。
 行ひ紛れ、罪得べきことかは。
 今宵聞きはべらばや」
 「まことに変なことをお制止申し上げなさった僧都ですね。
 極楽という所には、菩薩なども皆このようなことをして、天人なども舞い遊ぶのが尊いものだと言います。
 勤行を怠り、罪を得ることだろうか。
 今夜はお聞き致したい」
   とすかせば、「いとよし」と思ひて、  とお世辞を言うと、「とても嬉しい」と思って、
   「いで、主殿のくそ、東取りて」  「さあ、主殿の君さん、東琴を取って」
   と言ふにも、しはぶきは絶えず。
 人びとは、見苦しと思へど、僧都をさへ、恨めしげにうれへて言ひ聞かすれば、いとほしくてまかせたり。
 取り寄せて、ただ今の笛の音をも訪ねず、ただおのが心をやりて、東の調べを爪さはやかに調ぶ。
 皆異ものは声を止めつるを、「これをのみめでたる」と思ひて、
 と言うにも、咳は止まらない。
 女房たちは、見苦しいと思うが、僧都をまで、憎らしく不平を言って聞かせるので、お気の毒なのでそのままにしていた。
 東琴を取り寄せて、今の笛の調子もおかまいなしに、ただ自分勝手に弾いて、東の調子を爪弾きさわやかに調べる。
 他の楽器の演奏をみな止めてしまったので、「これにばかり聞きほれているのだ」と思って、
   「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」  「たけふ、ちちりちちり、たりたんな」
   など、掻き返し、はやりかに弾きたる、言葉ども、わりなく古めきたり。
 
 などと、撥を掻き返し、さっそうと弾いている、その言葉などは、やたらと古めかしい。
 
   「いとをかしう、今の世に聞こえぬ言葉こそは、弾きたまひけれ」  「実に素晴らしく、今の世には聞かれぬ歌を、お弾きになりました」
   と褒むれば、耳ほのぼのしく、かたはらなる人に問ひ聞きて、  と褒めると、耳も遠くなっているので、側にいる女房に尋ね聞いて、
   「今様の若き人は、かやうなることをぞ好まれざりける。
 ここに月ごろものしたまふめる姫君、容貌いとけうらにものしたまふめれど、もはら、かやうなるあだわざなどしたまはず、埋れてなむ、ものしたまふめる」
 「今風の若い人は、このようなことをお好きでないね。
 ここに何か月もいらっしゃる姫君は、容貌はとても美しくいらっしゃるようだが、もっぱら、このようなつまらない遊びはなさらず、引き籠もっていらっしゃるようです」
   と、我かしこにうちあざ笑ひて語るを、尼君などは、かたはらいたしと思す。
 
 と、得意顔に大声で笑って話すのを、尼君などは、聞き苦しいとお思いである。
 
 
 

第九段 翌朝、中将から和歌が贈られる

 
   これに事皆醒めて、帰りたまふほども、山おろし吹きて、聞こえ来る笛の音、いとをかしう聞こえて、起き明かしたる翌朝、  これによってすっかり興醒めして、お帰りになる途中も、山下ろしが吹いて、聞こえて来る笛の音も、とても素晴らしく聞こえて、起き明かしていた翌朝、
   「昨夜は、かたがた心乱れはべりしかば、急ぎまかではべりし。
 
 「昨夜は、あれこれと心が乱れましたので、急いで帰りました。
 
 

775
 忘られぬ 昔のことも 笛竹の
 つらきふしにも 音ぞ泣かれける
  忘れられない昔の人のことやつれない人のことにつけ
  声を立てて泣いてしまいました
 
   なほ、すこし思し知るばかり教へなさせたまへ。
 忍ばれぬべくは、好き好きしきまでも、何かは」
 やはり、もう少し気持ちをご理解いただけるよう説得申し上げてください。
 堪えきれるものでしたら、好色がましい態度にまで、どうして出ましょうか」
   とあるを、いとどわびたるは、涙とどめがたげなるけしきにて、書きたまふ。
 
 とあるので、ますます困っている尼君は、涙を止めがたい様子で、お書きになる。
 
 

776
 「笛の音に 昔のことも 偲ばれて
 帰りしほども 袖ぞ濡れにし
 「笛の音に昔のことも偲ばれまして
  お帰りになった後も袖が濡れました
 
   あやしう、もの思ひ知らぬにや、とまで見はべるありさまは、老い人の問はず語りに、聞こし召しけむかし」  不思議なことに、人の情けも知らないのではないか、と見えました様子は、年寄の問わず語りで、お聞きあそばしたでしょう」
   とあり。
 珍しからぬも見所なき心地して、うち置かれけむ。
 
 とある。
 珍しくもない見栄えのしない気がして、つい読み捨てたことであろう。
 
   荻の葉に劣らぬほどほどに訪れわたる、「いとむつかしうもあるかな。
 人の心はあながちなるものなりけり」と見知りにし折々も、やうやう思ひ出づるままに、
 荻の葉に秋風が訪れるのに負けないくらい頻繁に便りがあるのが、「とても煩わしいことよ。
 男の心はむてっぽうなものだ」と分かった時々のことも、だんだん思い出すにつれて、
   「なほ、かかる筋のこと、人にも思ひ放たすべきさまに、疾くなしたまひてよ」  「やはり、このような方面のことは、相手にも諦めさせるように、早くしてくださいませ」
   とて、経習ひて読みたまふ。
 心の内にも念じたまへり。
 かくよろづにつけて世の中を思ひ捨つれば、「若き人とてをかしやかなることもことになく、結ぼほれたる本性なめり」と思ふ。
 容貌の見るかひあり、うつくしきに、よろづの咎見許して、明け暮れの見物にしたり。
 すこしうち笑ひたまふ折は、珍しくめでたきものに思へり。
 
 と言って、お経を習って読んでいらっしゃる。
 心中でも祈っていらっしゃった。
 このように何かにつけて世の中を捨てているので、「若い女だといっても華やかなところも特になく、陰気な性格なのだろう」と思う。
 器量が見飽きず、かわいらしいので、他の欠点はすべて大目に見て、明け暮れの心の慰めにしていた。
 少しにっこりなさるときには、めったになく素晴らしい方だと思っていた。
 
 
 

第四章 浮舟の物語 浮舟、尼君留守中に出家す

 
 

第一段 九月、尼君、再度初瀬に詣でる

 
   九月になりて、この尼君、初瀬に詣づ。
 年ごろいと心細き身に、恋しき人の上も思ひやまれざりしを、かくあらぬ人ともおぼえたまはぬ慰めを得たれば、観音の御験うれしとて、返り申しだちて、詣でたまふなりけり。
 
 九月になって、この尼君は、初瀬に参詣する。
 長年とても心細い身の上で、恋しい娘の身の上も諦めきれなかったが、このように他人とも思われない女性を心の慰めに得たので、観音のご霊験が嬉しいと、お礼参りのような具合で、参詣なさるのであった。
 
   「いざ、たまへ。
 人やは知らむとする。
 同じ仏なれど、さやうの所に行ひたるなむ、験ありてよき例多かる」
 「さあ、ご一緒に。
 誰に知られたりするものですか。
 同じ仏様ですが、あのような所で勤行するのが、霊験あらたかで、良いことが多いのです」
   と言ひて、そそのかしたつれど、「昔、母君、乳母などの、かやうに言ひ知らせつつ、たびたび詣でさせしを、かひなきにこそあめれ。
 命さへ心にかなはず、たぐひなきいみじきめを見るは」と、いと心憂きうちにも、「知らぬ人に具して、さる道のありきをしたらむよ」と、そら恐ろしくおぼゆ。
 
 と言って促すが、「昔、母君や、乳母などが、このように言って聞かせては、たびたび参詣させたが、何にもその効がなかったようだ。
 死のうと思ったことも思う通りにならず、又とないひどい目を見るとは」と、ひどく厭わしい心中にも、「知らない人と一緒に、そのような遠出をするとは」と、何となく恐ろしく思う。
 
   心ごはきさまには言ひもなさで、  強情なふうにはあえて言わないで、
   「心地のいと悪しうのみはべれば、さやうならむ道のほどにもいかがなど、つつましうなむ」  「気分がとてもすぐれませんので、そのような遠出もどんなものかしらなどと、気がひけまして」
   とのたまふ。
 「物懼ぢはさもしたまふべき人ぞかし」と思ひて、しひても誘はず。
 
 とおっしゃる。
 「恐がる気持ちは、きっとそうなさるにちがいない方だ」と思って、無理にも誘わない。
 
 

777
 「はかなくて 世に古川の 憂き瀬には
 尋ねも行かじ 二本の杉」
 「はかないままにこの世につらい思いをして生きているわが身は
  あの古川に尋ねて行くことはいたしません、二本の杉のある」
 
   と手習に混じりたるを、尼君見つけて、  と手習いに混じっているのを、尼君が見つけて、
   「二本は、またも逢ひきこえむと思ひたまふ人あるべし」  「二本とは、再びお会い申したいと思っていらっしゃる方がいるのでしょう」
   と、戯れごとを言ひ当てたるに、胸つぶれて、面赤めたまへる、いと愛敬づきうつくしげなり。
 
 と、冗談に言い当てたので、胸がどきりとして、顔を赤くなさったのも、とても魅力的でかわいらしげである。
 
 

778
 「古川の 杉のもとだち 知らねども
 過ぎにし人に よそへてぞ見る」
 「あなたの昔の人のことは存じませんが
  わたしはあなたを亡くなった娘と思っております」
 
   ことなることなきいらへを口疾く言ふ。
 忍びて、と言へど、皆人慕ひつつ、ここには人少なにておはせむを心苦しがりて、心ばせある少将の尼、左衛門とてある大人しき人、童ばかりぞ留めたりける。
 
 格別すぐれたのでもない返歌をすばやく言う。
 人目を忍んで、と言うが、皆がお供したがって、こちらが人少なにおなりになることを気の毒がって、気の利いた少将の尼と左衛門という大人の女房と、童女だけを残したのであった。
 
 
 

第二段 浮舟、少将の尼と碁を打つ

 
   皆出で立ちけるを眺め出でて、あさましきことを思ひながらも、「今はいかがせむ」と、「頼もし人に思ふ人一人ものしたまはぬは、心細くもあるかな」と、いとつれづれなるに、中将の御文あり。
 
 皆が出立したのを見送って、わが身のやりきれなさを思いながらも、「今さらどうしようもない」と、「頼りに思う人が一人もいらっしゃらないのは、心細いことだわ」と、とても所在ないところに、中将からのお手紙がある。
 
   「御覧ぜよ」と言へど、聞きも入れたまはず。
 いとど人も見えず、つれづれと来し方行く先を思ひ屈じたまふ。
 
 「御覧ください」と言うが、聞き入れなさらない。
 いっそう女房も少なくて、何もするこなく過去や将来を考え沈み込んでいらっしゃる。
 
   「苦しきまでも眺めさせたまふかな。
 御碁を打たせたまへ」
 「つらいほど物思いに沈んでいらっしゃること。
 御碁をお打ちなさい」
   と言ふ。
 
 と言う。
 
   「いとあやしうこそはありしか」  「とても下手でした」
   とはのたまへど、打たむと思したれば、盤取りにやりて、我はと思ひて先ぜさせたてまつりたるに、いとこよなければ、また手直して打つ。
 
 とはおっしゃるが、打とうとお思いになったので、碁盤を取りにやって、自分こそはと思って先手をお打たせ申したが、たいそう強いので、また先手後手を変えて打つ。
 
   「尼上疾う帰らせたまはなむ。
 この御碁見せたてまつらむ。
 かの御碁ぞ、いと強かりし。
 僧都の君、早うよりいみじう好ませたまひて、けしうはあらずと思したりしを、いと棋聖大徳になりて、『さし出でてこそ打たざらめ、御碁には負けじかし』と聞こえたまひしに、つひに僧都なむ二つ負けたまひし。
 棋聖が碁には勝らせたまふべきなめり。
 あな、いみじ」
 「尼上が早くお帰りあそばしたらよいに。
 この御碁をお見せ申し上げよう。
 あの方の御碁は、とても強かったわ。
 僧都の君は、若い時からたいそうお好みになって、まんざらではないとお思いになっていたが、ほんと碁聖大徳気取りで、『出しゃばって打つ気はないが、あなたの御碁にはお負けしませんでしょうね』と申し上げなさったが、とうとう僧都が二敗なさった。
 碁聖の碁よりもお強くいらっしゃるようです。
 まあ、強い」
   と興ずれば、さだ過ぎたる尼額の見つかぬに、もの好みするに、「むつかしきこともしそめてけるかな」と思ひて、「心地悪し」とて臥したまひぬ。
 
 とおもしろがるので、盛りを過ぎた尼額が見苦しいのに、遊びに熱中するので、「厄介なことに手を出してしまったわ」と思って、「気分が悪い」と言って横におなりになった。
 
   「時々、晴れ晴れしうもてなしておはしませ。
 あたら御身を。
 いみじう沈みてもてなさせたまふこそ口惜しう、玉に瑕あらむ心地しはべれ」
 「時々は、気分が晴々するようにお振る舞いなさいませ。
 あたら若いお身を。
 ひどく沈んでおいであそばすのは残念で、玉の瑕のような気がいたします」
   と言ふ。
 夕暮の風の音もあはれなるに、思ひ出づることも多くて、
 と言う。
 夕暮の風の音もしみじみとして、思い出すことが多くて、
 

779
 「心には 秋の夕べを 分かねども
 眺むる袖に 露ぞ乱るる」
 「わたしには秋の情趣も分からないが
  物思いに耽るわが袖に露がこぼれ落ちる」
 
 
 

第三段 中将来訪、浮舟別室に逃げ込む

 
   月さし出でてをかしきほどに、昼文ありつる中将おはしたり。
 「あな、うたて。
 こは、なにぞ」とおぼえたまへば、奥深く入りたまふを、
 月が出て美しいころに、昼に手紙のあった中将がおいでになった。
 「まあ、嫌な。
 これは、どうしたことか」と思われなさって、奥深いところにお入りになるのを、
   「さも、あまりにもおはしますものかな。
 御心ざしのほども、あはれまさる折にこそはべるめれ。
 ほのかにも、聞こえたまはむことも聞かせたまへ。
 しみつかむことのやうに思し召したるこそ」
 「そうなさるとは、あまりのお振る舞いでいらっしゃいますわ。
 ご厚志も、ひとしお身にしむときでございましょう。
 ちらっとでも申し上げなさるお言葉をお聞きなさいませ。
 それだけでも深い仲になったようにお思いあそばしているとは」
   など言ふに、いとはしたなくおぼゆ。
 おはせぬよしを言へど、昼の使の、一所など問ひ聞きたるなるべし、いと言多く怨みて、
 などと言うので、とても不安に思われる。
 いらっしゃらない旨を言うが、昼の使者が、一人残っていると尋ね聞いたのであろう、とても長々と恨み言をいって、
   「御声も聞きはべらじ。
 ただ、気近くて聞こえむことを、聞きにくしともいかにとも、思しことわれ」
 「お声も聞かなくて結構です。
 ただ、お側近くで申し上げることを、聞きにくいとも何なりとも、どうぞご判断くださいませ」
   と、よろづに言ひわびて、  と、あれこれ言いあぐねて、
   「いと心憂く。
 所につけてこそ、もののあはれもまされ。
 あまりかかるは」
 「まことに情けない。
 場所に応じてこそ、物のあわれもまさるものです。
 これではあんまりです」
   など、あはめつつ、  などと、非難しながら、
 

780
 「山里の 秋の夜深き あはれをも
 もの思ふ人は 思ひこそ知れ
 「山里の秋の夜更けの情趣を
  物思いなさる方はご存知でしょう
 
   おのづから御心も通ひぬべきを」  自然とお心も通じ合いましょうに」
   などあれば、  などと言うので、
   「尼君おはせで、紛らはしきこゆべき人もはべらず。
 いと世づかぬやうならむ」
 「尼君がいらっしゃらないので、うまく取り繕い申し上げる者もいません。
 とても世間知らずのようでしょう」
   と責むれば、  と責めるので、
 

781
 「憂きものと 思ひも知らで 過ぐす身を
 もの思ふ人と 人は知りけり」
 「情けない身の上とも分からずに暮らしているわたしを
  物思う人だと他人が分かるのですね」
 
   わざといらへともなきを、聞きて伝へきこゆれば、いとあはれと思ひて、  特に返歌というのでもないのを、聞いてお伝え申し上げると、とても感激して、
   「なほ、ただいささか出でたまへ、と聞こえ動かせ」  「もっと、もう少しだけでもお出でください、とお勧め申せ」
   と、この人びとをわりなきまで恨みたまふ。
 
 と、この女房たちを困り果てるまで恨み言をおっしゃる。
 
   「あやしきまで、つれなくぞ見えたまふや」  「変なまでに、冷淡にお見えになることです」
   とて、入りて見れば、例はかりそめにもさしのぞきたまはぬ老い人の御方に入りたまひにけり。
 あさましう思ひて、「かくなむ」と聞こゆれば、
 と言って、奥に入って見ると、いつもは少しもお入りにならない老人のお部屋にお入りになっていたのであった。
 驚きあきれて、「これこれです」と申し上げると、
   「かかる所に眺めたまふらむ心の内のあはれに、おほかたのありさまなども、情けなかるまじき人の、いとあまり思ひ知らぬ人よりも、けにもてなしたまふめるこそ。
 それ物懲りしたまへるか。
 なほ、いかなるさまに世を恨みて、いつまでおはすべき人ぞ」
 「このような所で物思いに耽っていらっしゃる方のご心中がお気の毒で、世間一般の様子などにつけても情けの分からない方ではないはずなのに、まるで情けを分からない人よりも、冷淡なおあしらいなさるようです。
 それも何かひどい経験をなさってのことだろうか。
 やはり、どのようなことで世の中を厭って、いつまでここにいらっしゃる予定の方ですか」
   など、ありさま問ひて、いとゆかしげにのみ思いたれど、こまかなることは、いかでかは言ひ聞かせむ。
 ただ、
 などと、様子を尋ねて、たいそう知りたげにお思いになっているが、詳細なことはどうして申し上げられよう。
 ただ、
   「知りきこえたまふべき人の、年ごろは、疎々しきやうにて過ぐしたまひしを、初瀬に詣であひたまひて、尋ねきこえたまひつる」  「お世話申し上げなさらねばならない方で、長年、疎遠な関係で過していらっしゃったのを、互いに初瀬に参詣なさって、お探し申し上げなさったのです」
   とぞ言ふ。
 
 と言う。
 
 
 

第四段 老尼君たちのいびき

 
   姫君は、「いとむつかし」とのみ聞く老い人のあたりにうつぶし臥して、寝も寝られず。
 宵惑ひは、えもいはずおどろおどろしきいびきしつつ、前にも、うちすがひたる尼ども二人して、劣らじといびき合はせたり。
 いと恐ろしう、「今宵、この人びとにや食はれなむ」と思ふも、惜しからぬ身なれど、例の心弱さは、一つ橋危ふがりて帰り来たりけむ者のやうに、わびしくおぼゆ。
 
 姫君は、「とても気味悪い」とばかり聞いている老人の所に横になって、眠ることもできない。
 夕方から眠くなるのは、何とも言えないほど大きな鼾をしいしい、その前にも、似たような老尼どもが二人横になっていて、負けじ劣らじと鼾をかき合っていた。
 たいそう恐ろしく、「今夜、この人たちに喰われてしまうのではないか」と思うのも、惜しい身の上ではないが、いつもの心弱さは、一本橋を危ながって引き返したという者のように、心細く思われる。
 
   こもき、供に率ておはしつれど、色めきて、このめづらしき男の艶だちゐたる方に帰り去にけり。
 「今や来る、今や来る」と待ちゐたまへれど、いとはかなき頼もし人なりや。
 中将、言ひわづらひて帰りにければ、
 こもきを、供に連れて行かれたが、色気づく年頃で、このめずらしい男性が優雅に振る舞っていらっしゃる方に帰って行ってしまった。
 「今戻って来ようか、今戻って来ようか」と待っていらしたが、まことに頼りないお付であるよ。
 中将は、言いあぐねて帰ってしまったので、
   「いと情けなく、埋れてもおはしますかな。
 あたら御容貌を」
 「まことに情けなく、引き籠もっていらっしゃること。
 あたら惜しいご器量を」
   などそしりて、皆一所に寝ぬ。
 
 などと悪口を言って、一同一緒に寝た。
 
   「夜中ばかりにやなりぬらむ」と思ふほどに、尼君しはぶきおぼほれて起きにたり。
 火影に、頭つきはいと白きに、黒きものをかづきて、この君の臥したまへる、あやしがりて、鼬とかいふなるものが、さるわざする、額に手を当てて、
 「夜半になったか」と思うころに、尼君が咳こんで寝惚けて起き出した。
 灯火の光で、頭の具合はまっ白い上に、黒いものを被って、この君が横になっているのを、変に思って、鼬とかいうものが、そのようなことをする、額に手を当てて、
   「あやし。
 これは、誰れぞ」
 「おや。
 これは、誰ですか」
   と、執念げなる声にて見おこせたる、さらに、「ただ今食ひてむとする」とぞおぼゆる。
 鬼の取りもて来けむほどは、物のおぼえざりければ、なかなか心やすし。
 「いかさまにせむ」とおぼゆるむつかしさにも、「いみじきさまにて生き返り、人になりて、またありしいろいろの憂きことを思ひ乱れ、むつかしとも恐ろしとも、ものを思ふよ。
 死なましかば、これよりも恐ろしげなる者の中にこそはあらましか」と思ひやらる。
 
 と、しつこそうな声で見やっているのが、その上、「今すぐにでも取って喰ってしまおうとする」かのように思われる。
 鬼が取って連れて来た時は、何も考えられなかったので、かえって安心であった。
 「どうするのだろう」と思われる不気味さにも、「みじめな姿で生き返り、人並に戻って、再び以前のいろいろな嫌なことに悩み、厭わしいとか恐ろしいとか、物思いすることよ。
 死んでしまっていたら、これよりも恐ろしそうなものの中にいたことだろうか」と想像される。
 
 
 

第五段 浮舟、悲運のわが身を思う

 
   昔よりのことを、まどろまれぬままに、常よりも思ひ続くるに、  昔からのことを、眠れないままに、いつもよりも思い続けていると、
   「いと心憂く、親と聞こえけむ人の御容貌も見たてまつらず、遥かなる東を返る返る年月をゆきて、たまさかに尋ね寄りて、うれし頼もしと思ひきこえし姉妹の御あたりをも、思はずにて絶え過ぎ、さる方に思ひ定めたまひし人につけて、やうやう身の憂さをも慰めつべききはめに、あさましうもてそこなひたる身を思ひもてゆけば、宮を、すこしもあはれと思ひきこえけむ心ぞ、いとけしからぬ。
 ただ、この人の御ゆかりにさすらへぬるぞ」
 「とても情けなく、父親と申し上げた方のお顔も拝し上げず、遥か遠い東国で代わる代わる年月を過ごして、たまたま探し求めて、嬉しく頼もしくお思い申し上げた姉君のお側を、不本意のままに縁が切れてしまい、しかるべき方面にとお考えくださった方によって、だんだんと身の不運から抜け出そうとした矢先に、驚きあきれたように身を過ったのを考えて行くと、宮を、わずかにいとしいとお思い申し上げた心が、まことに良くないことであった。
 ただ、あの方に巡り合った御縁で流れ流れて来たのだ」
   と思へば、「小島の色をためしに契りたまひしを、などてをかしと思ひきこえけむ」と、こよなく飽きにたる心地す。
 初めより、薄きながらものどやかにものしたまひし人は、この折かの折など、思ひ出づるぞこよなかりける。
 「かくてこそありけれ」と、聞きつけられたてまつらむ恥づかしさは、人よりまさりぬべし。
 さすがに、「この世には、ありし御さまを、よそながらだにいつか見むずる、とうち思ふ、なほ、悪ろの心や。
 かくだに思はじ」など、心一つをかへさふ。
 
 と思うと、「橘の小島の色を例にお誓いなさったのを、どうしてすてきだと思ったのだろう」と、すっかり熱もさめたような気がする。
 初めから、深い愛情ではなかったがゆったりとした方のことは、この折あの折になどと、思い出すことは比べものにならなかった。
 「こうして生きていたのだ」と、お耳にされ申すときの恥ずかしさは、誰よりも一番であろう。
 何といっても、「この世では、以前のご様子を他人ながらでもいつかは見ようと、ふと思うのは、やはり、悪い考えだ。
 それさえ思うまい」などと、自分独りで思い直す。
 
   からうして鶏の鳴くを聞きて、いとうれし。
 「母の御声を聞きたらむは、ましていかならむ」と思ひ明かして、心地もいと悪し。
 供にて渡るべき人もとみに来ねば、なほ臥したまへるに、いびきの人は、いと疾く起きて、粥などむつかしきことどもをもてはやして、
 やっとのことで鶏が鳴くのを聞いて、とても嬉しい。
 「母親のお声を聞いた時には、それ以上にどんな気がするだろう」と思って夜を明かして、気分もとても悪い。
 付人としてあちらに行くはずの人もすぐには来ないので、依然として臥せっていらっしゃると、鼾の老婆は、たいそう早く起きて、粥など見向きもしたくない食事を大騒ぎして、
   「御前に、疾く聞こし召せ」  「あなたも、早くお召し上がれ」
   など寄り来て言へど、まかなひもいとど心づきなく、うたて見知らぬ心地して、  などと寄って来て言うが、給仕役もまこと気に入らず、嫌な見知らない気がするので、
   「悩ましくなむ」  「気分が悪いので」
   と、ことなしびたまふを、しひて言ふもいとこちなし。
 
 と、さりげなく断りなさるのを、無理に勧めるのもとても気がきかない。
 
 
 

第六段 僧都、宮中へ行く途中に立ち寄る

 
   下衆下衆しき法師ばらなどあまた来て、  身分の低いらしい法師どもなどが大勢来て、
   「僧都、今日下りさせたまふべし」  「僧都が、今日下山あそばしますでしょう」
   「などにはかには」  「どうして急に」
   と問ふなれば、  と尋ねるようなので、
   「一品の宮の、御もののけに悩ませたまひける、山の座主、御修法仕まつらせたまへど、なほ、僧都参らせたまはでは験なしとて、昨日、二度なむ召しはべりし。
 右大臣殿の四位少将、昨夜、夜更けてなむ登りおはしまして、后の宮の御文などはべりければ、下りさせたまふなり」
 「一品の宮が、御物の怪にお悩みあそばしたのを、山の座主が、御修法をして差し上げなさったが、やはり、僧都が参上なさらなくては効験がないといって、昨日、二度お召しがございました。
 右大臣殿の四位少将が、昨夜、夜が更けて登山あそばして、后宮のお手紙などがございましたので、下山あそばすのです」
   など、いとはなやかに言ひなす。
 「恥づかしうとも、会ひて、尼になしたまひてよ、と言はむ。
 さかしら人少なくて、よき折にこそ」と思へば、起きて、
 などと、とても得意になって言う。
 「恥ずかしくても、お目にかかって、尼にしてください、と言おう。
 口出しする人も少なくて、ちょうどよい機会だ」と思うと、起きて、
   「心地のいと悪しうのみはべるを、僧都の下りさせたまへらむに、忌むこと受けはべらむとなむ思ひはべるを、さやうに聞こえたまへ」  「気分が悪くばかりいますので、僧都が下山あそばしますときに、受戒をしていただこうと思っておりますが、そのように申し上げてください」
   と語らひたまへば、ほけほけしう、うちうなづく。
 
 と相談なさると、惚けた感じで、ちょっとうなずく。
 
   例の方におはして、髪は尼君のみ削りたまふを、異人に手触れさせむもうたておぼゆるに、手づからはた、えせぬことなれば、ただすこし解き下して、親に今一度かうながらのさまを見えずなりなむこそ、人やりならず、いと悲しけれ。
 いたうわづらひしけにや、髪もすこし落ち細りたる心地すれど、何ばかりも衰へず、いと多くて、六尺ばかりなる末などぞ、いとうつくしかりける。
 筋なども、いとこまかにうつくしげなり。
 
 いつもの部屋のいらして、髪は尼君だけがお梳きになるのを、他人に手を触れさせるのも嫌に思われるが、自分自身では、できないことなので、ただわずかに梳きおろして、母親にもう一度こうした姿をお見せすることがなくなってしまうのは、自分から望んだこととはいえ、とても悲しい。
 ひどく病んだせいだろうか、髪も少し抜けて細くなってしまった感じがするが、それほども衰えていず、たいそう多くて、六尺ほどある末などは、とても美しかった。
 髪の毛などもたいそうこまやかで美しそうである。
 
   「かかれとてしも」  「こうなれと思って髪の世話はしなかったろうに」
   と、独りごちゐたまへり。
 
 と、独り言をおっしゃっていた。
 
   暮れ方に、僧都ものしたまへり。
 南面払ひしつらひて、まろなる頭つき、行きちがひ騷ぎたるも、例に変はりて、いと恐ろしき心地す。
 母の御方に参りたまひて、
 暮れ方に、僧都がおいでになった。
 南面を片づけ準備して、丸い頭の恰好が、あちこち行ったり来たりしてがやがやしているのも、いつもと違って、とても恐ろしい気がする。
 母尼のお側に参上なさって、
   「いかにぞ、月ごろは」  「いかがですか、このごろは」
   など言ふ。
 
 などと言う。
 
   「東の御方は物詣でしたまひにきとか。
 このおはせし人は、なほものしたまふや」
 「東の御方は物詣でをなさったとか。
 ここにいらっしゃった方は、今でもおいでになりますか」
   など問ひたまふ。
 
 などとお尋ねになる。
 
   「しか。
 ここにとまりてなむ。
 心地悪しとこそものしたまひて、忌むこと受けたてまつらむ、とのたまひつる」
 「ええ。
 ここに残っています。
 気分が悪いとおっしゃって、受戒をお授かり申したい、とおっしゃいました」
   と語る。
 
 と話す。
 
 
 

第七段 浮舟、僧都に出家を懇願

 
   立ちてこなたにいまして、「ここにや、おはします」とて、几帳のもとについゐたまへば、つつましけれど、ゐざり寄りて、いらへしたまふ。
 
 立ってこちらにいらして、「ここに、いらっしゃいますか」と言って、几帳の側にお座りになると、遠慮されるが、膝行して近寄って、お返事をなさる。
 
   「不意にて見たてまつりそめてしも、さるべき昔の契りありけるにこそ、と思ひたまへて。
 御祈りなども、ねむごろに仕うまつりしを、法師は、そのこととなくて、御文聞こえ受けたまはむも便なければ、自然になむおろかなるやうになりはべりぬる。
 いとあやしきさまに、世を背きたまへる人の御あたり、いかでおはしますらむ」
 「思いもよらずお目にかかったのも、こうなるはずの前世からの宿縁があったのだ、と存じられまして。
 御祈祷なども、親身にお仕えいたしましたが、法師は、特別の用件もなく、お手紙を差し上げたり頂戴したりするのは不都合なので、自然と御無沙汰が続いてしまいました。
 実に見苦しい様子で、出家をなさっている方のお側に、どのようにしておいででしたか」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   「世の中にはべらじと思ひ立ちはべりし身の、いとあやしくて今まではべりつるを、心憂しと思ひはべるものから、よろづにせさせたまひける御心ばへをなむ、いふかひなき心地にも、思ひたまへ知らるるを、なほ、世づかずのみ、つひにえ止まるまじく思ひたまへらるるを、尼になさせたまひてよ。
 世の中にはべるとも、例の人にてながらふべくもはべらぬ身になむ」
 「この世に生きていまいと決心いたしました身が、とても不思議にも今日まで生きておりましたが、つらいと思います一方で、あれこれとお世話いただいたご厚志を、何とも申し上げようもないわが身ながら、深く存じられますが、やはり、世間並のようには生きて行けず、とうとうこの世になじめそうになく存じられますので、尼にしてくださいませ。
 この世に生きていましても、普通の人のように長生きできない身の上です」
   と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
   「まだ、いと行く先遠げなる御ほどに、いかでかひたみちにしかば、思し立たむ。
 かへりて罪あることなり。
 思ひ立ちて、心を起こしたまふほどは強く思せど、年月経れば、女の御身といふもの、いとたいだいしきものになむ」
 「まだ、たいそう将来の長いお年なのに、どうして一途にそのように、ご決心なさったのですか。
 かえって罪を作ることになります。
 思い立って、決心なさった時は強くお思いになっても、年月がたつと、女のお身の上というものは、まことに不都合なものなのです」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「幼くはべりしほどより、ものをのみ思ふべきありさまにて、親なども、尼になしてや見まし、などなむ思ひのたまひし。
 まして、すこしもの思ひ知りて後は、例の人ざまならで、後の世をだに、と思ふ心深かりしを、亡くなるべきほどのやうやう近くなりはべるにや、心地のいと弱くのみなりはべるを、なほ、いかで」
 「子供の時から、物思いばかりをしているような状態で、母親なども、尼にして育てようか、などと思いおっしゃいました。
 ましてや、少し物心がつきまして後は、普通の人と違って、せめて来世だけでも、と思う考えが深かったが、死ぬ時がだんだん近くなりましたのでしょうか、気分がとても心細くばかりなりましたが、やはり、どうか出家を」
   とて、うち泣きつつのたまふ。
 
 と、泣きながらおっしゃる。
 
 
 

第八段 浮舟、出家す

 
   「あやしく、かかる容貌ありさまを、などて身をいとはしく思ひはじめたまひけむ。
 もののけもさこそ言ふなりしか」と思ひ合はするに、「さるやうこそはあらめ。
 今までも生きたるべき人かは。
 悪しきものの見つけそめたるに、いと恐ろしく危ふきことなり」と思して、
 「不思議な、このような器量とお姿なのに、どうして身を厭わしく思い始めなさったのだろうか。
 物の怪もそのように言っていたようだが」と思い合わせると、「何か深い事情があるのだろう。
 今までも生きているはずもなかった人なのだ。
 悪霊が目をつけ始めたので、とても恐ろしく危険なことだ」とお思いになって、
   「とまれ、かくまれ、思し立ちてのたまふを、三宝のいとかしこく誉めたまふことなり。
 法師にて聞こえ返すべきことにあらず。
 御忌むことは、いとやすく授けたてまつるべきを、急なることにまかんでたれば、今宵、かの宮に参るべくはべり。
 明日よりや、御修法始まるべくはべらむ。
 七日果ててまかでむに、仕まつらむ」
 「ともあれ、かくもあれ、ご決心しておっしゃるのを、三宝がたいそう尊くお誉めになることだ。
 法師の身として反対申し上げるべきことでない。
 御受戒は、実にたやすくお授けいたしましょうが、急ぎの用事で下山したので、今夜は、あちらの宮に参上しなければなりません。
 明日から、御修法が始まる予定です。
 その七日間の修法が終わって帰山する時に、お授け申しましょう」
   とのたまへば、「かの尼君おはしなば、かならず言ひ妨げてむ」と、いと口惜しくて、  とおっしゃると、「あの尼君がおいでになったら、きっと反対するだろう」と、とても残念なので、
   「乱り心地の悪しかりしほどに見たるやうにて、いと苦しうはべれば、重くならば、忌むことかひなくやはべらむ。
 なほ、今日はうれしき折とこそ思ひはべれ」
 「あの気分が悪かったときと同じようで、ひどく悪うございますので、重くなったら、受戒を授かってもその効がなくなりましょう。
 やはり、今日は嬉しい機会だと存じられます」
   とて、いみじう泣きたまへば、聖心にいといとほしく思ひて、  と言って、ひどくお泣きになるので、聖心にもたいそう気の毒に思って、
   「夜や更けはべりぬらむ。
 山より下りはべること、昔はことともおぼえたまはざりしを、年の生ふるままには、堪へがたくはべりければ、うち休みて内裏には参らむ、と思ひはべるを、しか思し急ぐことなれば、今日仕うまつりてむ」
 「夜が更けてしまいましょう。
 下山しますことは、昔は何とも存じませんでしたが、年をとるにつれて、つらく思われましたので、ひと休みして内裏へは参上しよう、と思いましたが、そのようにお急ぎになることならば、今日お授けいたしましょう」
   とのたまふに、いとうれしくなりぬ。
 
 とおっしゃるので、とても嬉しくなった。
 
   鋏取りて、櫛の筥の蓋さし出でたれば、  鋏を取って、櫛の箱の蓋を差し出すと、
   「いづら、大徳たち。
 ここに」
 「どこですか、大徳たち。
 こちらへ」
   と呼ぶ。
 初め見つけたてまつりし二人ながら供にありければ、呼び入れて、
 と呼ぶ。
 最初にお見つけ申した二人がそのままお供していたので、呼び入れて、
   「御髪下ろしたてまつれ」  「お髪を下ろし申せ」
   と言ふ。
 げに、いみじかりし人の御ありさまなれば、「うつし人にては、世におはせむもうたてこそあらめ」と、この阿闍梨もことわりに思ふに、几帳の帷子のほころびより、御髪をかき出だしたまひつるが、いとあたらしくをかしげなるになむ、しばし、鋏をもてやすらひける。
 
 と言う。
 なるほど、あの大変であった方のご様子なので、「普通の人としては、この世に生きていらっしゃるのも嫌なことなのであろう」と、この阿闍梨も道理と思うので、几帳の帷子の隙間から、お髪を掻き出しなさったのが、たいそう惜しく美しいので、しばらくの間、鋏を持ったまま躊躇するのであった。
 
 
 

第五章 浮舟の物語 浮舟、出家後の物語

 
 

第一段 少将の尼、浮舟の出家に気も動転

 
   かかるほど、少将の尼は、兄の阿闍梨の来たるに会ひて、下にゐたり。
 左衛門は、この私の知りたる人にあひしらふとて、かかる所にとりては、皆とりどりに、心寄せの人びとめづらしうて出で来たるに、はかなきことしける、見入れなどしけるほどに、こもき一人して、「かかることなむ」と少将の尼に告げたりければ、惑ひて来て見るに、わが御上の衣、袈裟などを、ことさらばかりとて着せたてまつりて、
 このような間に、少将の尼は、兄の阿闍梨が来ていたのと会って、下の方にいた。
 左衛門は、自分の知り合いに応対するということで、このような所ではと、みなそれぞれに、好意をもっている人たちが久しぶりにやって来たので、簡単なもてなしをし、あれこれ気を配っていたりしたところに、こもきただ一人が、「これこれです」と少将の尼に知らせたので、驚いて来て見ると、ご自分の法衣や、袈裟などを、形式ばかりとお着せ申して、
   「親の御方拝みたてまつりたまへ」  「親のいられる方角をお拝み申し上げなされ」
   と言ふに、いづ方とも知らぬほどなむ、え忍びあへたまはで、泣きたまひにける。
 
 と言うと、どの方角とも分からないので、堪えきれなくなって、泣いてしまわれなさった。
 
   「あな、あさましや。
 など、かく奥なきわざはせさせたまふ。
 上、帰りおはしては、いかなることをのたまはせむ」
 「まあ、何と情けない。
 どうして、このような早まったことをあそばしたのですか。
 尼上が、お帰りあそばしたら、何とおっしゃることでしょう」
   と言へど、かばかりにしそめつるを、言ひ乱るもものしと思ひて、僧都諌めたまへば、寄りてもえ妨げず。
 
 と言うが、これほど進んでしまったところで、とかく言って迷わせるのもよくないと思って、僧都が制止なさるので、近寄って妨げることもできない。
 
   「流転三界中」  「流転三界中」
   など言ふにも、「断ち果ててしものを」と思ひ出づるも、さすがなりけり。
 御髪も削ぎわづらひて、
 などと言うのにも、「既に断ち切ったものを」と思い出すのも、さすがに悲しいのであった。
 お髪も削ぎかねて、
   「のどやかに、尼君たちして、直させたまへ」  「ゆっくりと、尼君たちに、直していただきなさい」
   と言ふ。
 額は僧都ぞ削ぎたまふ。
 
 と言う。
 額髪は僧都がお削ぎになる。
 
   「かかる御容貌やつしたまひて、悔いたまふな」  「このようなご器量を剃髪なさって、後悔なさるなよ」
   など、尊きことども説き聞かせたまふ。
 「とみにせさすべくもあらず、皆言ひ知らせたまへることを、うれしくもしつるかな」と、これのみぞ仏は生けるしるしありてとおぼえたまひける。
 
 などと、有り難いお言葉を説いて聞かせなさる。
 「すぐにも許していただけそうもなく、皆が言い利かせていらしたことを、嬉しいことに果たしたこと」と、このことだけを生きている甲斐があったように思われなさるのであった。
 
 
 

第二段 浮舟、手習に心を託す

 
   皆人びと出で静まりぬ。
 夜の風の音に、この人びとは、
 僧都一行の人びとが出て行って静かになった。
 夜の風の音に、この人びとは、
   「心細き御住まひも、しばしのことぞ。
 今いとめでたくなりたまひなむ、と頼みきこえつる御身を、かくしなさせたまひて、残り多かる御世の末を、いかにせさせたまはむとするぞ。
 老い衰へたる人だに、今は限りと思ひ果てられて、いと悲しきわざにはべる」
 「心細いご生活も、もうしばらくの間のことだ。
 すぐにとても素晴らしい良縁がおありになろう、と期待申していたお身の上を、このようになさって、生い先長いご将来を、どのようになさろうとするのだろうか。
 老いて弱った人でさえ、今は最期と思われて、とても悲しい気がするものでございます」
   と言ひ知らすれど、「なほ、ただ今は、心やすくうれし。
 世に経べきものとは、思ひかけずなりぬるこそは、いとめでたきことなれ」と、胸のあきたる心地ぞしたまひける。
 
 と言って聞かせるが、「やはり、ただ今は、気が楽になって嬉しい。
 この世に生きて行かねばならないと、考えずにすむようになったことは、とても結構なことだ」と、胸がほっとした気がなさるのであった。
 
   翌朝は、さすがに人の許さぬことなれば、変はりたらむさま見えむもいと恥づかしく、髪の裾の、にはかにおぼとれたるやうに、しどけなくさへ削がれたるを、「むつかしきことども言はで、つくろはむ人もがな」と、何事につけても、つつましくて、暗うしなしておはす。
 思ふことを人に言ひ続けむ言の葉は、もとよりだにはかばかしからぬ身を、まいてなつかしうことわるべき人さへなければ、ただ硯に向かひて、思ひあまる折には、手習をのみ、たけきこととは、書きつけたまふ。
 
 翌朝は、何といっても人の認めない出家なので、尼姿を見せるのもとても恥ずかしく、髪の裾が、急にばらばらになったように、しかもだらしなく削がれているのを、「うるさいことを言わないで、繕ってくれる人がいたら」と、何事につけても、気がねされて、あたりをわざと暗くしていらっしゃる。
 思っていることを人に詳しく説明するようなことは、もともと上手でない身なのに、まして親しく事の経緯を説明するにふさわしい人さえいないので、ただ硯に向かって、思い余る時は、手習いだけを、精一杯の仕事として、お書きになる。
 
 

782
 「なきものに 身をも人をも 思ひつつ
 捨ててし世をぞ さらに捨てつる
 「死のうとわが身をも人をも思いながら
  捨てた世をさらにまた捨てたのだ
 
   今は、かくて限りつるぞかし」  今は、こうしてすべてを終わりにしたのだ」
   と書きても、なほ、みづからいとあはれと見たまふ。
 
 と書いても、やはり、自然としみじみと御覧になる。
 
 

783
 「限りぞと 思ひなりにし 世の中を
 返す返すも 背きぬるかな」
 「最期と思い決めた世の中を
  繰り返し背くことになったわ」
 
 
 

第三段 中将からの和歌に返歌す

 
   同じ筋のことを、とかく書きすさびゐたまへるに、中将の御文あり。
 もの騒がしう呆れたる心地しあへるほどにて、「かかること」など言ひてけり。
 いとあへなしと思ひて、
 同じような内容を、あれこれ気の向くまま書いていらっしゃるところに、中将からのお手紙がある。
 何かと騒がしくあきれて動転しているときなので、「これこれしかじかの事でした」などと返事したのだった。
 たいそうがっかりして、
   「かかる心の深くありける人なりければ、はかなきいらへをもしそめじと、思ひ離るるなりけり。
 さてもあへなきわざかな。
 いとをかしく見えし髪のほどを、たしかに見せよと、一夜も語らひしかば、さるべからむ折に、と言ひしものを」
 「このような考えが深くあった人だったので、ちょっとした返事も出すまいと、思い離れていたのだなあ。
 それにしてもがっかりしたなあ。
 たいそう美しく見えた髪を、はっきりと見せてくださいと、先夜も頼んだところ、適当な機会に、と言っていたものを」
   と、いと口惜しうて、立ち返り、  と、たいそう残念で、すぐ折り返して、
   「聞こえむ方なきは、  「何とも申し上げようのない気持ちは、
 

784
 岸遠く 漕ぎ離るらむ 海人舟に
 乗り遅れじと 急がるるかな」
  岸から遠くに漕ぎ離れて行く海人舟に
  わたしも乗り後れまいと急がれる気がします」
 
   例ならず取りて見たまふ。
 もののあはれなる折に、今はと思ふもあはれなるものから、いかが思さるらむ、いとはかなきものの端に、
 いつもと違って取って御覧になる。
 何となくしみじみとした時に、これで終わりと思うのも感慨深いが、どのようにお思いなさったのだろう、とても粗末な紙の端に、
 

785
 「心こそ 憂き世の岸を 離るれど
 行方も知らぬ 海人の浮木を」
 「心は厭わしい世の中を離れたが
  その行く方もわからず漂っている海人の浮木です」
 
   と、例の、手習にしたまへるを、包みてたてまつる。
 
 と、いつもの、手習いなさっていたのを、包んで差し上げる。
 
   「書き写してだにこそ」  「せめて書き写して」
   とのたまへど、  とおっしゃるが、
   「なかなか書きそこなひはべりなむ」  「かえって書き損じましょう」
   とてやりつ。
 めづらしきにも、言ふ方なく悲しうなむおぼえける。
 
 と言って送った。
 珍しいにつけても、何とも言いようなく悲しく思われるのだった。
 
   物詣での人帰りたまひて、思ひ騒ぎたまふこと、限りなし。
 
 物詣での人はお帰りになって、悲しみ驚きなさること、この上ない。
 
   「かかる身にては、勧めきこえむこそは、と思ひなしはべれど、残り多かる御身を、いかで経たまはむとすらむ。
 おのれは、世にはべらむこと、今日、明日とも知りがたきに、いかでうしろやすく見たてまつらむと、よろづに思ひたまへてこそ、仏にも祈りきこえつれ」
 「このような尼の身としては、お勧め申すのこそが本来だ、と思っていますが、将来の長いお身の上を、どのようにお過ごしなさるのでしょうか。
 わたしが、この世に生きておりますことは、今日、明日とも分からないのに、何とか安心してお残し申してゆこうと、いろいろと考えまして、仏様にもお祈り申し上げておりましたのに」
   と、伏しまろびつつ、いといみじげに思ひたまへるに、まことの親の、やがて骸もなきものと、思ひ惑ひたまひけむほど推し量るるぞ、まづいと悲しかりける。
 例の、いらへもせで背きゐたまへるさま、いと若くうつくしげなれば、「いとものはかなくぞおはしける御心なれ」と、泣く泣く御衣のことなど急ぎたまふ。
 
 と、泣き臥し倒れながら、ひどく悲しげに思っていらっしゃるので、実の母親が、あのまま亡骸さえないものよと、お嘆き悲しみなさったろうことが推量されるのが、まっさきにとても悲しかった。
 いつものように、返事もしないで背を向けていらっしゃる様子、とても若々しくかわいらしいので、「とても頼りなくいらっしゃるお心だこと」と、泣きながら御法衣のことなど準備なさる。
 
   鈍色は手馴れにしことなれば、小袿、袈裟などしたり。
 ある人びとも、かかる色を縫ひ着せたてまつるにつけても、「いとおぼえず、うれしき山里の光と、明け暮れ見たてまつりつるものを、口惜しきわざかな」
 鈍色の法衣は手馴れたことなので、小袿や、袈裟などを仕立てた。
 仕えている女房たちも、このような色を縫ってお着せ申し上げるにつけても、「まことに思いがけず、嬉しい山里の光明だと、明け暮れ拝しておりましたものを、残念なことだわ」
   と、あたらしがりつつ、僧都を恨み誹りけり。
 
 と惜しがりながら、僧都を恨み非難するのであった。
 
 
 

第四段 僧都、女一宮に伺候

 
   一品の宮の御悩み、げに、かの弟子の言ひしもしるく、いちじるきことどもありて、おこたらせたまひにければ、いよいよいと尊きものに言ひののしる。
 名残も恐ろしとて、御修法延べさせたまへば、とみにもえ帰り入らでさぶらひたまふに、雨など降りてしめやかなる夜、召して、夜居にさぶらはせたまふ。
 
 一品の宮のご病気は、なるほど、あの弟子が言っていたとおりに、はっきりした効験があって、ご平癒あそばしたので、ますますまことに尊い方だと大騒ぎする。
 病後も油断ならないとして、御修法を延長させなさったので、すぐにも帰山することができず伺候なさっていたが、雨などが降って、ひっそりとした夜、お召しがあって、夜居に伺候させなさる。
 
   日ごろいたうさぶらひ極じたる人は、皆休みなどして、御前に人少なにて、近く起きたる人少なき折に、同じ御帳におはしまして、  何日もの看病に疲れた女房は、みな休みをとって、御前には人少なで、近くに起きている女房も少ないときに、一品の宮と同じ御帳台においであそばして、
   「昔より頼ませたまふなかにも、このたびなむ、いよいよ、後の世もかくこそはと、頼もしきことまさりぬる」  「昔からご信頼申し上げていらっしゃる中でも、今度のことでは、ますます来世もこのように救ってくれるものと、頼もしさが一段と増しました」
   などのたまはす。
 
 などと仰せになる。
 
   「世の中に久しうはべるまじきさまに、仏なども教へたまへることどもはべるうちに、今年、来年、過ぐしがたきやうになむはべれば、仏を紛れなく念じつとめはべらむとて、深く籠もりはべるを、かかる仰せ言にて、まかり出ではべりにし」  「この世に長く生きていられそうにないように、仏もお諭しになっていることどもがございます中で、今年、来年は、過ごしがたいようでございますので、仏を一心にお祈り申しっましょうと思って、深く籠もっておりましたが、このような仰せ言で、下山して参りました」
   など啓したまふ。
 
 などと申し上げなさる。
 
 
 

第五段 僧都、女一宮に宇治の出来事を語る

 
   御もののけの執念きことを、さまざまに名のるが恐ろしきことなどのたまふついでに、  御物の怪の執念深いことや、いろいろと正体を明かすのが恐ろしいことなどをおっしゃるついでに、
   「いとあやしう、希有のことをなむ見たまへし。
 この三月に、年老いてはべる母の、願ありて初瀬に詣でてはべりし、帰さの中宿りに、宇治の院と言ひはべる所にまかり宿りしを、かくのごと、人住まで年経ぬる大きなる所は、よからぬものかならず通ひ住みて、重き病者のため悪しきことども、と思ひたまへしも、しるく」
 「まことに不思議な、珍しいことを拝見しました。
 この三月に、年老いております母が、願があって初瀬に参詣しましたが、その帰りの休憩所に、宇治院といいます所に泊まりましたが、あのように、人が住まなくなって何年もたった大きな邸は、けしからぬものが必ず通い住んで、重病の者にとっては不都合なことが、と存じておりましたのも、そのとおりで」
   とて、かの見つけたりしことどもを語りきこえたまふ。
 
 と言って、あの見つけた女のことなどをお話し申し上げなさる。
 
   「げに、いとめづらかなることかな」  「なるほど、まことに珍しいこと」
   とて、近くさぶらふ人びと皆寝入りたるを、恐ろしく思されて、おどろかさせたまふ。
 大将の語らひたまふ宰相の君しも、このことを聞きけり。
 おどろかさせたまふ人びとは、何とも聞かず。
 僧都、懼ぢさせたまへる御けしきを、「心もなきこと啓してけり」と思ひて、詳しくもそのほどのことをば言ひさしつ。
 
 と言って、近くに伺候する女房たちがみな眠っているので、恐ろしくお思いになって、お起こしあそばす。
 大将が親しくなさっている宰相の君がおりしも、このことを聞いたのであった。
 目を覚まさせた女房たちは、何の関心も示さない。
 僧都は、恐がっておいであそばすご様子なので、「つまらないことを申し上げてしまった」と思って、詳しくその時のことを申し上げることは言い止めた。
 
   「その女人、このたびまかり出ではべりつるたよりに、小野にはべりつる尼どもあひ訪ひはべらむとて、まかり寄りたりしに、泣く泣く、出家の志し深きよし、ねむごろに語らひはべりしかば、頭下ろしはべりにき。
 
 「その女人は、今度下山しました機会に、小野におります僧尼たちを訪ねようと思って、立ち寄ったところ、泣く泣く出家の念願の強い旨を、熱心に頼まれましたので、髪を下ろしてやりました。
 
   なにがしが妹、故衛門督の妻にはべりし尼なむ、亡せにし女子の代りにと、思ひ喜びはべりて、随分に労りかしづきはべりけるを、かくなりたれば、恨みはべるなり。
 げにぞ、容貌はいとうるはしくけうらにて、行ひやつれむもいとほしげになむはべりし。
 何人にかはべりけむ」
 わたしの妹は、故衛門督の妻でございました尼で、亡くなった娘の代わりにと、思って喜びまして、随分大切にお世話しましたが、このように出家してしまったので、恨んでいるのでございます。
 なるほど、器量はまことによく整って美しくて、勤行のため身をやつすのもお気の毒でございました。
 どのような人であったのでしょうか」
   と、ものよく言ふ僧都にて、語り続け申したまへば、  と、よくしゃべる僧都なので、話し続けて申し上げなさるので、
   「いかで、さる所に、よき人をしも取りもて行きけむ。
 さりとも、今は知られぬらむ」
 「どうして、そのような所に、身分のある人を連れて行ったのでしょうか。
 いくら何でも、今では素性は知られたでしょう」
   など、この宰相の君ぞ問ふ。
 
 などと、この宰相の君が尋ねる。
 
   「知らず。
 さもや、語らひたまふらむ。
 まことにやむごとなき人ならば、何か、隠れもはべらじをや。
 田舎人の娘も、さるさましたるこそははべらめ。
 龍の中より、仏生まれたまはずはこそはべらめ。
 ただ人にては、いと罪軽きさまの人になむはべりける」
 「分かりません。
 でもそのように、ひそかに打ち明けているかも知れません。
 ほんとうに高貴な方ならば、どうして、分からないままでいましょうか。
 田舎者の娘も、そのような恰好をした者はございましょう。
 龍の中から、仏がお生まれにならないことがございましょうか。
 普通の人としては、まことに前世の罪障が軽いと思われる人でございました」
   など聞こえたまふ。
 
 などと申し上げなさる。
 
   そのころ、かのわたりに消え失せにけむ人を思し出づ。
 この御前なる人も、姉の君の伝へに、あやしくて亡せたる人とは聞きおきたれば、「それにやあらむ」とは思ひけれど、定めなきことなり。
 僧都も、
 そのころ、あの近辺で消えていなくなった人をお思い出しになる。
 この御前に伺候する女房も、姉君の伝聞で、不思議に亡くなった人とは聞いていたので、「その人であろうか」とは思ったが、はっきりしないことである。
 僧都も、
   「かかる人、世にあるものとも知られじと、よくもあらぬ敵だちたる人もあるやうにおもむけて、隠し忍びはべるを、事のさまのあやしければ、啓しはべるなり」  「あの人は、この世に生きていると知られまいと、よからぬ敵のような人でもいるようにほのめかして、こっそり隠れておりますのを、事の様子が異常なので、申し上げたのです」
   と、なま隠すけしきなれば、人にも語らず。
 宮は、
 と、何か隠している様子なので、誰にも話さない。
 中宮は、
   「それにもこそあれ。
 大将に聞かせばや」
 「その人であろうか。
 大将に聞かせたい」
   と、この人にぞのたまはすれど、いづ方にも隠すべきことを、定めてさならむとも知らずながら、恥づかしげなる人に、うち出でのたまはせむもつつましく思して、やみにけり。
 
 と、この人におっしゃったが、どちらの方も隠しておきたいはずのことを、確かにそうとも分からないうちに、気恥ずかしい方に、話し出すのも気がひけて思われなさって、そのままになった。
 
 
 

第六段 僧都、山荘に立ち寄り山へ帰る

 
   姫宮おこたり果てさせたまひて、僧都も登りぬ。
 かしこに寄りたまへれば、いみじう恨みて、
 姫宮がすっかりよくおなりになったので、僧都も帰山なさった。
 あちらにお寄りになると、ひどく恨んで、
   「なかなか、かかる御ありさまにて、罪も得ぬべきことを、のたまひもあはせずなりにけることをなむ、いとあやしき」  「かえって、このようなお姿になっては、罪障を受くることになりましょうに、ご相談もなさらずじまいだったとは、何ともおかしなこと」
   などのたまへど、かひもなし。
 
 などとおっしゃるが、どうにもならない。
 
   「今は、ただ御行ひをしたまへ。
 老いたる、若き、定めなき世なり。
 はかなきものに思しとりたるも、ことわりなる御身をや」
 「今はもう、ひたすらお勤めをなさいませ。
 老人も、若い人も、生死は無常の世です。
 はかないこの世とお悟りになっているのも、ごもっともなお身の上ですから」
   とのたまふにも、いと恥づかしうなむおぼえける。
 
 とおっしゃるにつけても、たいそう恥ずかしく思われるのであった。
 
   「御法服新しくしたまへ」  「御法服を新しくなさい」
   とて、綾、羅、絹などいふもの、たてまつりおきたまふ。
 
 と言って、綾、羅、絹などという物を、差し上げ置きなさる。
 
   「なにがしがはべらむ限りは、仕うまつりなむ。
 なにか思しわづらふべき。
 常の世に生ひ出でて、世間の栄華に願ひまつはるる限りなむ、所狭く捨てがたく、我も人も思すべかめることなめる。
 かかる林の中に行ひ勤めたまはむ身は、何事かは恨めしくも恥づかしくも思すべき。
 このあらむ命は、葉の薄きがごとし」
 「拙僧が生きております間は、お世話いたしましょう。
 何をご心配なさることがありましょう。
 この世に生まれ来て、俗世の栄華を願い執着している限りは、不自由で世を捨てがたく、誰も彼もお思いのことのようです。
 このような林の中でお勤めなさる身の上は、何事に不満を抱いたり引けめを感じることがありましょうか。
 人の寿命は、葉の薄いようなものです」
   と言ひ知らせて、  と説教して、
   「松門に暁到りて月徘徊す」  「松の門に暁となって月が徘徊す」
   と、法師なれど、いとよしよししく恥づかしげなるさまにてのたまふことどもを、「思ふやうにも言ひ聞かせたまふかな」と聞きゐたり。
 
 と、法師であるが、たいそう風流で気恥ずかしい態度におっしゃることどもを、「期待していたとおりにおっしゃってくださることだ」と聞いていた。
 
 
 

第七段 中将、小野山荘に来訪

 
   今日は、ひねもすに吹く風の音もいと心細きに、おはしたる人も、  今日は、一日中吹いている風の音もとても心細いうえに、お立ち寄りになった僧都も、
   「あはれ、山伏は、かかる日にぞ、音は泣かるなるかし」  「ああ、山伏は、このような日には、声を出して泣けるということだ」
   と言ふを聞きて、「我も今は山伏ぞかし。
 ことわりに止まらぬ涙なりけり」と思ひつつ、端の方に立ち出でて見れば、遥かなる軒端より、狩衣姿色々に立ち混じりて見ゆ。
 山へ登る人なりとても、こなたの道には、通ふ人もいとたまさかなり。
 黒谷とかいふ方よりありく法師の跡のみ、まれまれは見ゆるを、例の姿見つけたるは、あいなくめづらしきに、この恨みわびし中将なりけり。
 
 と言うのを聞いて、「わたしも今では山伏と同じである。
 もっともなことで涙が止まらないのだ」と思いながら、端の方に立ち出て見ると、遥か遠く軒端から、狩衣姿が色とりどりに混じって見える。
 山へ登って行く人だといっても、こちらの道は、行き来する人もたまにしかいないのである。
 黒谷とかいう方面から歩いて来る法師の道だけが、まれには見られるが、俗世の人の姿を見つけたのは、場違いに珍しいが、あの恨みあぐねていた中将なのであった。
 
   かひなきことも言はむとてものしたりけるを、紅葉のいとおもしろく、他の紅に染めましたる色々なれば、入り来るよりぞものあはれなりける。
 「ここに、いと心地よげなる人を見つけたらば、あやしくぞおぼゆべき」など思ひて、
 今さら言ってもはじまらないことを言おうと思ってやって来たのだが、紅葉がたいそう美しく、他の紅葉よりいっそう色染めているのが色鮮やかなので、入って来るなり感慨深いのであった。
 「ここに、とても屈託なさそうな人を見つけたら、奇妙な気がするだろう」などと思って、
   「暇ありて、つれづれなる心地しはべるに、紅葉もいかにと思ひたまへてなむ。
 なほ、立ち返りて旅寝もしつべき木の下にこそ」
 「暇があって、何もすることのない気がしましたので、紅葉もどのようなものかしらと存じまして。
 やはり、昔に返って泊まって行きたい紅葉の木の下ですね」
   とて、見出だしたまへり。
 尼君、例の、涙もろにて、
 と言って、外を見やっていらっしゃる。
 尼君が、例によって、涙もろくて、
 

786
 「木枯らしの 吹きにし山の 麓には
 立ち隠すべき 蔭だにぞなき」
 「木枯らしが吹いた山の麓では
  もう姿を隠す場所さえありません」
 
   とのたまへば、  とおっしゃると、
 

787
 「待つ人も あらじと思ふ 山里の
 梢を見つつ なほぞ過ぎ憂き」
 「待っている人もいないと思う山里の
  梢を見ながらもやはり素通りしにくいのです」
 
   言ふかひなき人の御ことを、なほ尽きせずのたまひて、  言ってもはじまらないお方のことを、やはり諦めきれずにおっしゃって、
   「さま変はりたまへらむさまを、いささか見せよ」  「出家なさった姿を、少し見せよ」
   と、少将の尼にのたまふ。
 
 と、少将の尼におっしゃる。
 
   「それをだに、契りししるしにせよ」  「せめてそれだけでも、以前の約束の証とせよ」
   と責めたまへば、入りて見るに、ことさら人にも見せまほしきさましてぞおはする。
 薄き鈍色の綾、中に萱草など、澄みたる色を着て、いとささやかに、様体をかしく、今めきたる容貌に、髪は五重の扇を広げたるやうに、こちたき末つきなり。
 
 と責めなさるので、入って見ると、わざわざとでも人に見せてやりたいほどの美しいお姿をしていらっしゃる。
 薄鈍色の綾、その下には萱草などの、澄んだ色を着て、とても小柄な感じで、姿形が美しく、はなやかなお顔だちで、髪は五重の扇を広げたように、豊かな裾である。
 
   こまかにうつくしき面様の、化粧をいみじくしたらむやうに、赤く匂ひたり。
 行ひなどをしたまふも、なほ数珠は近き几帳にうち懸けて、経に心を入れて読みたまへるさま、絵にも描かまほし。
 
 こまやかに美しい顔だちで、化粧をたいそうしたように、明るくかがやいていた。
 お勤めなどをなさるにも、やはり数珠は近くの几帳にちょっと懸けて、お経を一心に読んでいらっしゃる様子は、絵にも描きたいほどである。
 
   うち見るごとに涙の止めがたき心地するを、「まいて心かけたまはむ男は、いかに見たてまつりたまはむ」と思ひて、さるべき折にやありけむ、障子の掛金のもとに開きたる穴を教へて、紛るべき几帳など押しやりたり。
 
 ちらっと見るたびに涙が止めがたい気がするのを、「まして懸想をなさっている男は、どのように拝見なさっていようか」と思って、ちょうどよい機会だったのか、障子の掛金の側に開いている穴を教えて、邪魔になる几帳などを取り除けた。
 
   「いとかくは思はずこそありしか。
 いみじく思ふさまなりける人を」と、我がしたらむ過ちのやうに、惜しく悔しう悲しければ、つつみもあへず、もの狂はしきまで、けはひも聞こえぬべければ、退きぬ。
 
 「とてもこれほど美しい人だとは思わなかった。
 ひどく物思いに沈んでいるような人であったが」と、自分が出家させた過ちのように、惜しく悔しく悲しいので、抑えることもできず、気も狂わんばかりの、気持ちを感づかれては困るので、引き下がった。
 
 
 

第八段 中将、浮舟に和歌を贈って帰る

 
   「かばかりのさましたる人を失ひて、尋ねぬ人ありけむや。
 また、その人かの人の娘なむ、行方も知らず隠れにたる、もしはもの怨じして、世を背きにけるなど、おのづから隠れなかるべきを」など、あやしう返す返す思ふ。
 
 「これほどの器量をした人を失って、探さない人があったりしようか。
 また、誰それの人の娘が、行く方知れずに見えなくなったとか、もしくは何か恨んで、出家してしまったなど、自然と知れてしまうものだが」などと、不思議と繰り返し思う。
 
   「尼なりとも、かかるさましたらむ人はうたてもおぼえじ」など、「なかなか見所まさりて心苦しかるべきを、忍びたるさまに、なほ語らひとりてむ」と思へば、まめやかに語らふ。
 
 「尼であっても、このような様子をしたような人は嫌な感じもするまい」などと、「かえって一段と見栄えがしてお気の毒なはずが、人目を忍んでいる様子なので、やはり自分の物にしてしまおう」と思うと、真剣に話しかける。
 
   「世の常のさまには思し憚ることもありけむを、かかるさまになりたまひにたるなむ、心やすう聞こえつべくはべる。
 さやうに教へきこえたまへ。
 来し方の忘れがたくて、かやうに参り来るに、また、今一つ心ざしを添へてこそ」
 「普通の人の時にはご遠慮なさることもあったでしょうが、このような尼姿におなりになっては、気がねなく申し上げられそうでございます。
 そのようにお諭し申し上げてください。
 過去のことが忘れがたくて、このようにやって参ったのですが、さらにまた、もう一つの気持ちも加わりまして」
   などのたまふ。
 
 などとおっしゃる。
 
   「いと行く末心細く、うしろめたきありさまにはべるに、まめやかなるさまに思し忘れず訪はせたまはむ、いとうれしうこそ、思ひたまへおかめ。
 はべらざらむ後なむ、あはれに思ひたまへらるべき」
 「まことに将来が心細く、不安な様子でございますので、真剣な態度でお忘れにならずお訪ねくださることは、とても嬉しく、存じておきましょう。
 亡くなりました後は、不憫に存じられましょう」
   とて、泣きたまふに、「この尼君も離れぬ人なるべし。
 誰れならむ」と心得がたし。
 
 と言って、お泣きになるので、「この尼君も遠縁に当たる人なのであろう。
 誰なのだろう」と思い当たらない。
 
   「行く末の御後見は、命も知りがたく頼もしげなき身なれど、さ聞こえそめはべるなれば、さらに変はりはべらじ。
 尋ねきこえたまふべき人は、まことにものしたまはぬか。
 さやうのことのおぼつかなきになむ、憚るべきことにははべらねど、なほ隔てある心地しはべるべき」
 「将来のご後見は、寿命も分からず頼りない身ですが、このように申し上げました以上は、けっして変わりません。
 お探し申し上げなさるはずの方は、本当にいらっしゃらないのですか。
 そのようなことがはっきりしませんので、気がねすべきことでもございませんが、やはり水くさい気がしてなりません」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「人に知らるべきさまにて、世に経たまはば、さもや尋ね出づる人もはべらむ。
 今は、かかる方に、思ひきりつるありさまになむ。
 心のおもむけも、さのみ見えはべりつるを」
 「人に知られるような恰好で、暮らしていらっしゃったら、もしや探し出す人もございましょう。
 今は、このような生活を、決意した様子です。
 気持ちの向きも、そのようにばかり見えます」
   など語らひたまふ。
 
 などとお話しになる。
 
   こなたにも消息したまへり。
 
 こちらにも言葉をお掛けになった。
 
 

788
 「おほかたの 世を背きける 君なれど
 厭ふによせて 身こそつらけれ」
 「一般の俗世間をお捨てになったあなた様ですが
  わたしをお厭いなさるのにつけ、つらく存じられます」
 
   ねむごろに深く聞こえたまふことなど、言ひ伝ふ。
 
 心をこめて親切に申し上げなさることなどを、たくさん取り次ぐ。
 
   「兄妹と思しなせ。
 はかなき世の物語なども聞こえて、慰めむ」
 「兄弟とお考えください。
 ちょっとした世間話なども申し上げて、お慰めしましょう」
   など言ひ続く。
 
 などと言い続ける。
 
   「心深からむ御物語など、聞き分くべくもあらぬこそ口惜しけれ」  「むつかしいお話など、分かるはずもないのが残念です」
   といらへて、この厭ふにつけたるいらへはしたまはず。
 「思ひよらずあさましきこともありし身なれば、いとうとまし。
 すべて朽木などのやうにて、人に見捨てられて止みなむ」ともてなしたまふ。
 
 と答えて、この嫌っているということへの返事はなさらない。
 「思いもかけなかった情ないことのあった身の上なので、ほんとうに厭わしい。
 まったく枯木などのようになって、世間から忘れられて終わりたい」とおあしらいになる。
 
   されば、月ごろたゆみなく結ぼほれ、ものをのみ思したりしも、この本意のことしたまひてより、後すこし晴れ晴れしうなりて、尼君とはかなく戯れもし交はし、碁打ちなどしてぞ、明かし暮らしたまふ。
 行ひもいとよくして、法華経はさらなり。
 異法文なども、いと多く読みたまふ。
 雪深く降り積み、人目絶えたるころぞ、げに思ひやる方なかりける。
 
 だから、今まで鬱々とふさぎこんで、物思いばかりしていらしたのも、出家の念願がお叶いになって後は、少し気分が晴れ晴れとして、尼君とちょっと冗談を言い交わし、碁を打ったりなどして、毎日お暮らしになっている。
 お勤めも実に熱心に行って、法華経は言うまでもない。
 他の教典なども、とてもたくさんお読みになる。
 雪が深く降り積もって、人目もなくなったころは、ほんとうに心のやりばがなかった。
 
 
 

第六章 浮舟の物語 薫、浮舟生存を聞き知る

 
 

第一段 新年、浮舟と尼君、和歌を詠み交す

 
   年も返りぬ。
 春のしるしも見えず、凍りわたれる水の音せぬさへ心細くて、「君にぞ惑ふ」とのたまひし人は、心憂しと思ひ果てにたれど、なほその折などのことは忘れず。
 
 年が改まった。
 春の兆しも見えず、氷が張りつめた川の水が音を立てないのまでが心細くて、「あなたに迷っています」とおっしゃった方は、嫌だとすっかり思い捨てていたが、やはりその当時のことなどは忘れなていない。
 
 

789
 「かきくらす 野山の雪を 眺めても
 降りにしことぞ 今日も悲しき」
 「降りしきる野山の雪を眺めていても
  昔のことが今日も悲しく思い出される」
 
   など、例の、慰めの手習を、行ひの隙にはしたまふ。
 「我世になくて年隔たりぬるを、思ひ出づる人もあらむかし」など、思ひ出づる時も多かり。
 若菜をおろそかなる籠に入れて、人の持て来たりけるを、尼君見て、
 などと、いつもの、慰めの手習いを、お勤めの合間になさる。
 「わたしがいなくなって、年も変わったが、思い出す人もきっといるだろう」などと、思い出す時も多かった。
 若菜を粗末な籠に入れて、人が持って来たのを、尼君が見て、
 

790
 「山里の 雪間の若菜 摘みはやし
 なほ生ひ先の 頼まるるかな」
 「山里の雪の間に生えた若菜を摘み祝っては
  やはりあなたの将来が期待されます」
 
   とて、こなたにたてまつれたまへりければ、  と言って、こちらに差し上げなさったので、
 

791
 「雪深き 野辺の若菜も 今よりは
 君がためにぞ 年も摘むべき」
 「雪の深い野辺の若菜も今日からは
  あなた様のために長寿を祈って摘みましょう」
 
 
   とあるを、「さぞ思すらむ」とあはれなるにも、「見るかひあるべき御さまと思はましかば」と、まめやかにうち泣いたまふ。
 
 とあるのを、「きっとそのようにお思いであろう」と感慨深くなるのも、「これがお世話しがいのあるお姿と思えたら」と、本気でお泣きになる。
 
   閨のつま近き紅梅の色も香も変はらぬを、「春や昔の」と、異花よりもこれに心寄せのあるは、飽かざりし匂ひのしみにけるにや。
 後夜に閼伽奉らせたまふ。
 下臈の尼のすこし若きがある、召し出でて花折らすれば、かことがましく散るに、いとど匂ひ来れば、
 寝室の近くの紅梅が色も香も昔と変わらないのを、「春や昔の」と、他の花よりもこの花に愛着を感じるのは、はかなかった宮のことが忘れられなかったからあろうか。
 後夜に閼伽を奉りなさる。
 身分の低い尼で少し若いのがいるのを、呼び出して折らせると、恨みがましく散るにつけて、ますます匂って来るので、
 

792
 「袖触れし 人こそ見えね 花の香の
 それかと匂ふ 春のあけぼの」
 「袖を触れ合った人の姿は見えないが、花の香が
  あの人の香と同じように匂って来る、春の夜明けよ」
 
 
 

第二段 大尼君の孫、紀伊守、山荘に来訪

 
   大尼君の孫の紀伊守なりける、このころ上りて来たり。
 三十ばかりにて、容貌きよげに誇りかなるさましたり。
 
 大尼君の孫で紀伊守であった者が、このころ上京して来た。
 三十歳ほどで、容貌も美しげで誇らしい様子をしていた。
 
   「何ごとか、去年、一昨年」  「いかがでしたか、去年や、一昨年は」
   など問ふに、ほけほけしきさまなれば、こなたに来て、  などとお尋ねになるが、耄碌した様子なので、こちらに来て、
   「いとこよなくこそ、ひがみたまひにけれ。
 あはれにもはべるかな。
 残りなき御さまを、見たてまつること難くて、遠きほどに年月を過ぐしはべるよ。
 親たちものしたまはで後は、一所をこそ、御代はりに思ひきこえはべりつれ。
 常陸の北の方は、訪れきこえたまふや」
 「とてもすっかり、耄碌しておしまいになった。
 お気の毒なことですね。
 残り少ないご様子を、拝し上げることもむずかしくて、遠い所で年月を過ごしておりますことよ。
 両親がお亡くなりになって以後は、祖母お一方を、親代わりにお思い申し上げておりました。
 常陸介の北の方は、お便り差し上げなさいますか」
   と言ふは、いもうとなるべし。
 
 と言うのは、その妹なのであろう。
 
   「年月に添へては、つれづれにあはれなることのみまさりてなむ。
 常陸は、久しう訪れきこえたまはざめり。
 え待ちつけたまふまじきさまになむ見えたまふ」
 「年月のたつにつれて、することもないままに悲しいことばかりが増えて。
 常陸は、長いことお便り申し上げなさらないようです。
 お待ち申し上げることもできないようにお見えになります」
   とのたまふに、「わが親の名」と、あいなく耳止まれるに、また言ふやう、  とおっしゃるので、「自分の親の名前だ」と、無関係ながらも耳にとまったが、また言うことには、
   「まかり上りて日ごろになりはべりぬるを、公事のいとしげく、むつかしうのみはべるにかかづらひてなむ。
 昨日もさぶらはむと思ひたまへしを、右大将殿の宇治におはせし御供に仕うまつりて、故八の宮の住みたまひし所におはして、日暮らしたまひし。
 
 「上京して何日にもなりましたが、公務がたいそう忙しくて、面倒なことばかりにかかずらっておりまして。
 昨日もお伺いしようと存じておりましたのに、右大将殿が宇治へお出かけになるお供にお仕えしまして、故八の宮がお住まいになっていた所にいらして、一日中お過ごしになりました。
 
   故宮の御女に通ひたまひしを、まづ一所は一年亡せたまひにき。
 その御おとうと、また忍びて据ゑたてまつりたまへりけるを、去年の春また亡せたまひにければ、その御果てのわざせさせたまはむこと、かの寺の律師になむ、さるべきことのたまはせて、なにがしも、かの女の装束一領、調じはべるべきを、せさせたまひてむや。
 織らすべきものは、急ぎせさせはべりなむ」
 故宮の娘にお通いになっていたが、まずお一方は先年お亡くなりになりました。
 その妹に、再びこっそりと住まわせ申していらしたが、去年の春またお亡くなりになったので、その一周忌のご法事をあそばしますことを、あの寺の律師に、しかるべき事柄をお命じになって、わたしも、その女装束一領を、調製しなければならないのですが、こちらで作ってくださいませんでしょうか。
 織る材料は、急いで準備させましょう」
   と言ふを聞くに、いかでかあはれならざらむ。
 「人やあやしと見む」とつつましうて、奥に向ひてゐたまへり。
 尼君、
 と言うのを聞くと、どうして胸を打たないことがあろう。
 「人が変だと見るだろう」と気がひけて、奥の方を向いて座っていた。
 尼君が、
   「かの聖の親王の御女は、二人と聞きしを、兵部卿宮の北の方は、いづれぞ」  「あの聖の親王の姫君は、お二方と聞いていたが、兵部卿宮の北の方は、どちらですか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「この大将殿の御後のは、劣り腹なるべし。
 ことことしうももてなしたまはざりけるを、いみじう悲しびたまふなり。
 初めのはた、いみじかりき。
 ほとほと出家もしたまひつべかりきかし」
 「この大将殿の二人目の方は、妾腹なのでしょう。
 特に表立った扱いをしなかったのですが、ひどくお悲しみになっているのです。
 最初の方は、また大変なお悲しみようでした。
 もう少しのところで出家なさってしまいそうなところでした」
   など語る。
 
 などと話す。
 
 
 

第三段 浮舟、薫の噂など漏れ聞く

 
   「かのわたりの親しき人なりけり」と見るにも、さすが恐ろし。
 
 「あの方の親しい人であった」と見るにつけても、やはり恐ろしい。
 
   「あやしく、やうのものと、かしこにてしも亡せたまひけること。
 昨日も、いと不便にはべりしかな。
 川近き所にて、水をのぞきたまひて、いみじう泣きたまひき。
 上にのぼりたまひて、柱に書きつけたまひし、
 「不思議と、二人も同じように、あそこでお亡くなりなったことだ。
 昨日も、たいそうおいたわしゅうございました。
 宇治川に近い所で、川の水を覗き込みなさって、ひどくお泣きになった。
 上の部屋にお上りになって、柱にお書きつけなさった、
 

793
 見し人は 影も止まらぬ 水の上に
 落ち添ふ涙 いとどせきあへず
  あの人は跡形もとどめず、身を投げたその川の面に
  いっしょに落ちるわたしの涙がますます止めがたいことよ
 
   となむはべりし。
 言に表はしてのたまふことは少なけれど、ただ、けしきには、いとあはれなる御さまになむ見えたまひし。
 女は、いみじくめでたてまつりぬべくなむ。
 若くはべりし時より、優におはしますと見たてまつりしみにしかば、世の中の一の所も、何とも思ひはべらず、ただ、この殿を頼みきこえてなむ、過ぐしはべりぬる」
 とございました。
 言葉に現しておっしゃることは少ないが、ただ、態度には、まことにおいたわしいご様子にお見えでした。
 女は、たいそう賞賛するにちがいないほどでした。
 若うございました時から、ご立派でいらっしゃるとすっかり拝見していましたので、世の中の第一の権力者のところも、何とも思いませんで、ただ、この殿だけを信頼申し上げて、過ごして参りました」
   と語るに、「ことに深き心もなげなるかやうの人だに、御ありさまは見知りにけり」と思ふ。
 尼君、
 と話すので、「特別に深い思慮もなさそうなこのような人でさえ、ご様子はお分かりになったのだ」と思う。
 尼君は、
   「光君と聞こえけむ故院の御ありさまには、並びたまはじとおぼゆるを、ただ今の世に、この御族ぞめでられたまふなる。
 右の大殿と」
 「光る君と申し上げた故院のご様子には、お並びになることはできまいと思われますが、ただ今の世で、この一族が賞賛されているそうですね。
 右の大殿とはどうですか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「それは、容貌もいとうるはしうけうらに、宿徳にて、際ことなるさまぞしたまへる。
 兵部卿宮ぞ、いといみじうおはするや。
 女にて馴れ仕うまつらばや、となむおぼえはべる」
 「あの方は、器量もまことに凛々しく美しくて、貫祿があって、身分が格別なようでいらっしゃいます。
 兵部卿宮が、たいそう美しくいらっしゃいますね。
 女の身として親しくお仕えいたしたい、と思われます」
   など、教へたらむやうに言ひ続く。
 あはれにもをかしくも聞くに、身の上もこの世のことともおぼえず。
 とどこほることなく語りおきて出でぬ。
 
 などと、誰かが教えたように言い続ける。
 感慨深く興味深くも聞くにつけ、わが身の上もこの世のことと思われない。
 すっかり話しおいて出て行った。
 
 
 

第四段 浮舟、尼君と語り交す

 
   「忘れたまはぬにこそは」とあはれに思ふにも、いとど母君の御心のうち推し量らるれど、なかなか言ふかひなきさまを見え聞こえたてまつらむは、なほつつましくぞありける。
 かの人の言ひつけしことどもを、染め急ぐを見るにつけても、あやしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず。
 裁ち縫ひなどするを、
 「お忘れになっていないのだ」としみじみと思うが、ますます母君のご心中が推し量られるが、かえって何とも言いようのない姿をお見せ申し上げるのは、やはりとても気がひけるのであった。
 あの人が言ったことなど、衣装の染める準備をするのを見るにつけても、不思議な有りえないような気がするが、とても口にはお出しになれない。
 物を裁ったり縫ったりなどするのを、
   「これ御覧じ入れよ。
 ものをいとうつくしうひねらせたまへば」
 「これを手伝ってください。
 とても上手に折り曲げなされるから」
   とて、小袿の単衣たてまつるを、うたておぼゆれば、「心地悪し」とて、手も触れず臥したまへり。
 尼君、急ぐことをうち捨てて、「いかが思さるる」など思ひ乱れたまふ。
 紅に桜の織物の袿重ねて、
 と言って、小袿の単衣をお渡し申すのを、嫌な気がするので、「気分が悪い」と言って、手も触れず横になっていらっしゃった。
 尼君は、急ぐことを放って、「どのようなお加減か」などと心配なさる。
 紅に桜の織物の袿を重ねて、
   「御前には、かかるをこそ奉らすべけれ。
 あさましき墨染なりや」
 「御前様には、このような物をお召しになるのがよいでしょうに。
 あさましい墨染ですこと」
   と言ふ人あり。
 
 と言う女房もいる。
 
 

794
 「尼衣 変はれる身にや ありし世の
 形見に袖を かけて偲ばむ」
 「尼衣に変わった身の上で、昔の形見として
  この華やかな衣装を身につけて、今さら昔を偲ぼうか」
 
   と書きて、「いとほしく、亡くもなりなむ後に、物の隠れなき世なりければ、聞きあはせなどして、疎ましきまでに隠しけるなどや思はむ」など、さまざま思ひつつ、  と書いて、「お気の毒に、亡くなった後に、隠し通すこともできない世の中なので、聞き合わせたりなどして、疎ましいまでに隠していた、と思うだろうか」などと、いろいろと思いながら、
   「過ぎにし方のことは、絶えて忘れはべりにしを、かやうなることを思し急ぐにつけてこそ、ほのかにあはれなれ」  「過ぎ去ったことは、すっかり忘れてしまいましたので、このようなことをお急ぎになることにつけ、何かしらしみじみと感じられるのです」
   とおほどかにのたまふ。
 
 とおっとりとおっしゃる。
 
   「さりとも、思し出づることは多からむを、尽きせず隔てたまふこそ心憂けれ。
 身には、かかる世の常の色あひなど、久しく忘れにければ、なほなほしくはべるにつけても、昔の人あらましかば、など思ひ出ではべる。
 しか扱ひきこえたまひけむ人、世におはすらむ。
 やがて、亡くなして見はべりしだに、なほいづこにあらむ、そことだに尋ね聞かまほしくおぼえはべるを、行方知らで、思ひきこえたまふ人びとはべるらむかし」
 「そうはおっしゃっても、お思い出しになることは多くありましょうが、いつまでもお隠しになっているのが情けないですわ。
 わたしは、このような世俗の人の着る色合いなどは、長いこと忘れてしまったので、平凡にしかできませんので、亡くなった娘が生きていたら、などと思い出されます。
 そのようにお世話申し上げなさった母君は、この世においでですか。
 そのまま、娘を亡くした母でさえ、やはりどこかに生きていようか、その居場所だけでも尋ね聞きたく思われますのに、その行く方も分からず、ご心配申し上げていらっしゃる方々がございましょう」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「見しほどまでは、一人はものしたまひき。
 この月ごろ亡せやしたまひぬらむ」
 「俗世にいた時は、片親ございました。
 ここ数か月の間にお亡くなりなったかも知れません」
   とて、涙の落つるを紛らはして、  と言って、涙が落ちるのを紛らわして、
   「なかなか思ひ出づるにつけて、うたてはべればこそ、え聞こえ出でね。
 隔ては何ごとにか残しはべらむ」
 「かえって思い出しますことにつけて、嫌に思われますので、申し上げることができません。
 隠し事はどうしてございましょうか」
   と、言少なにのたまひなしつ。
 
 と、言葉少なにおっしゃった。
 
 
 

第五段 薫、明石中宮のもとに参上

 
   大将は、この果てのわざなどせさせたまひて、「はかなくて、止みぬるかな」とあはれに思す。
 かの常陸の子どもは、かうぶりしたりしは、蔵人になして、わが御司の将監になしなど、労りたまひけり。
 「童なるが、中にきよげなるをば、近く使ひ馴らさむ」とぞ思したりける。
 
 大将は、この一周忌の法事なをおさせにになって、「あっけなくて、終わってしまったな」としみじみとお思いになる。
 あの常陸の子どもは、元服した者は、蔵人にして、ご自分の近衛府の将監に就けたりなど、面倒を見ておやりになった。
 「童であるが、中に小綺麗なのを、お側近くに召し使おう」とお思いになっていたのであった。
 
   雨など降りてしめやかなる夜、后の宮に参りたまへり。
 御前のどやかなる日にて、御物語など聞こえたまふついでに、
 雨などが降ってひっそりとした夜に、后の宮に参上なさった。
 御前はのんびりとした日なので、お話などを申し上げるついでに、
   「あやしき山里に、年ごろまかり通ひ見たまへしを、人の誹りはべりしも、さるべきにこそはあらめ。
 誰れも心の寄る方のことは、さなむある、と思ひたまへなしつつ、なほ時々見たまへしを、所のさがにやと、心憂く思ひたまへなりにし後は、道も遥けき心地しはべりて、久しうものしはべらぬを、先つころ、もののたよりにまかりて、はかなき世のありさまとり重ねて思ひたまへしに、ことさら道心起こすべく造りおきたりける、聖の住処となむおぼえはべりし」
 「辺鄙な山里に、何年も通っておりましたところ、人の非難もございましたが、そのようになるはずの運命であったのでしょう。
 誰でも気に入った向きのことは、同じなのだ、と納得させながら、やはり時々逢っておりましたところ、場所柄のせいかと、嫌に思うことがございまして以後は、道のりも遠くに感じられまして、長いこと通わないでいましたが、最近、ある機会に行きまして、はかないこの世の有様を重ね重ね存じられましたので、ことさらにわが道心を起こすために造っておかれた、聖の住処のように思われました」
   と啓したまふに、かのこと思し出でて、いといとほしければ、  と申し上げなさるので、あのことをお思い出しになって、とてもお気の毒なので、
   「そこには、恐ろしき物や住むらむ。
 いかやうにてか、かの人は亡くなりにし」
 「そこには、恐ろしいものが住んでいるのでしょうか。
 どのようにして、その方は亡くなったのですか」
   と問はせたまふを、「なほ、続きを思し寄る方」と思ひて、  とお尋ねあそばすのを、「やはり、引き続いての死去をお考えになってか」と思って、
   「さもはべらむ。
 さやうの人離れたる所は、よからぬものなむかならず住みつきはべるを。
 亡せはべりにしさまもなむ、いとあやしくはべる」
 「そうかも知れません。
 そのような人里離れた所には、けしからぬものがきっと住みついているのでしょうよ。
 亡くなった様子も、まことに不思議でございました」
   とて、詳しくは聞こえたまはず。
 「なほ、かく忍ぶる筋を、聞きあらはしけり」と思ひたまはむが、いとほしく思され、宮の、ものをのみ思して、そのころは病になりたまひしを、思し合はするにも、さすがに心苦しうて、「かたがたに口入れにくき人の上」と思し止めつ。
 
 と言って、詳しくは申し上げなさらない。
 「やはり、このように隠している事柄を、すっかり聞き出してるのだわ」とお思いなさるようなのが、実に気の毒にお思いになり、宮が、物思いに沈んで、その当時病気におなりになったのを、思い合わせなさると、やはり何といっても心が痛んで、「どちらの立場からも口出しにくい方の話だ」とおやめになった。
 
   小宰相に、忍びて、  小宰相に、こっそりと、
   「大将、かの人のことを、いとあはれと思ひてのたまひしに、いとほしうて、うち出でつべかりしかど、それにもあらざらむものゆゑと、つつましうてなむ。
 君ぞ、ことごと聞き合はせける。
 かたはならむことはとり隠して、さることなむありけると、おほかたの物語のついでに、僧都の言ひしことを語れ」
 「大将は、あの人のことを、とてもしみじみと思ってお話になったが、お気の毒で、打ち明けてしまいそうだったが、その人かどうかも分からないからと、気がひけてね。
 あなたは、あれこれ聞いていたわね。
 不都合と思われるようなことは隠して、こういうことがあったと、世間話のついでに、僧都が言ったことを話しなさい」
   とのたまはす。
 
 と仰せになる。
 
   「御前にだにつつませたまはむことを、まして、異人はいかでか」  「御前様でさえ遠慮あそばしているようなことを。
 まして、他人のわたしにはお話しできません」
   と聞こえさすれど、  申し上げるが、
   「さまざまなることにこそ。
 また、まろはいとほしきことぞあるや」
 「時と場合によります。
 また、わたしには不都合な事情があるのですよ」
   とのたまはするも、心得て、をかしと見たてまつる。
 
 と仰せになるが、真意を理解して、素晴らしい心遣いだと拝する。
 
 
 

第六段 小宰相、薫に僧都の話を語る

 
   立ち寄りて物語などしたまふついでに、言ひ出でたり。
 珍かにあやしと、いかでか驚かれたまはざらむ。
 「宮の問はせたまひしも、かかることを、ほの思し寄りてなりけり。
 などか、のたまはせ果つまじき」とつらけれど、
 立ち寄ってお話などなさるついでに、言い出した。
 珍しくも不思議なことだと、どうして驚かないことがあろう。
 「宮がお尋ねあそばしたことも、このようなことを、ちらっとお聞きあそばしてのことだったのだ。
 どうして、すっかり話してくださらなかったのだろう」とつらい思いがするが、
   「我もまた初めよりありしさまのこと聞こえそめざりしかば、聞きて後も、なほをこがましき心地して、人にすべて漏らさぬを、なかなか他には聞こゆることもあらむかし。
 うつつの人びとのなかに忍ぶることだに、隠れある世の中かは」
 「自分もまた初めからの様子を申し上げなかったのだから、こうして聞いた後にも、やはり馬鹿らしい気がして、他人には全部話さないのを、かえって他では聞いていることもあろう。
 現実の人びとの中で隠していることでさえ、隠し通せる世の中だろうか」
   など思ひ入りて、「この人にも、さなむありし」など、明かしたまはむことは、なほ口重き心地して、  などと考え込んで、「この人にも、これこれであった」などと、打ち明けなさることは、やはり話にくい気がして、
   「なほ、あやしと思ひし人のことに、似てもありける人のありさまかな。
 さて、その人は、なほあらむや」
 「やはり、不思議に思った女の身の上と、似ていた人の様子ですね。
 ところで、その人は、今も無事でいますか」
   とのたまへば、  とお尋ねになると、
   「かの僧都の山より出でし日なむ、尼になしつる。
 いみじうわづらひしほどにも、見る人惜しみてせさせざりしを、正身の本意深きよしを言ひてなりぬる、とこそはべるなりしか」
 「あの僧都が山から下りた日に、尼にしました。
 ひどく病んでいた時には、世話する人が惜しんでさせなかったが、ご本人が深い念願だと言ってなってしまったのだ、ということでございました」
   と言ふ。
 所も変はらず、そのころのありさまと思ひあはするに、違ふふしなければ、
 と言う。
 場所も違わず、その当時のありさまなどを思い合わせると、違うところがないので、
   「まことにそれと尋ね出でたらむ、いとあさましき心地もすべきかな。
 いかでかは、たしかに聞くべき。
 下り立ちて尋ねありかむも、かたくなしなどや人言ひなさむ。
 また、かの宮も聞きつけたまへらむには、かならず思し出でて、思ひ入りにけむ道も妨げたまひてむかし。
 
 「本当にその女だと探し出したら、とても嫌な気がするだろうな。
 どうしたら、確実なことが聞けようか。
 自分自身で直接訪ねて行くのも、愚かしいなどと人が言ったりしようか。
 また、あの宮が聞きつけなさったら、きっと思い出しなさって、決心なさっていた仏道もお妨げなさることであろう。
 
   さて、『さなのたまひそ』など聞こえおきたまひければや、我には、さることなむ聞きしと、さる珍しきことを聞こし召しながら、のたまはせぬにやありけむ。
 宮もかかづらひたまふにては、いみじうあはれと思ひながらも、さらに、やがて亡せにしものと思ひなしてを止みなむ。
 
 そのようなわけで、『そのようなことをおっしゃるな』などと、申し上げおきなさったせいであろうか、わたしには、そのようなことを聞いたと、そのような珍しいことをお聞きあそばしながら、仰せにならなかったのであろうか。
 宮も関係なさっていては、せつなくいとしいと思いながらも、きっぱりと、そのまま亡くなってしまったものと思い諦めよう。
 
   うつし人になりて、末の世には、黄なる泉のほとりばかりを、おのづから語らひ寄る風の紛れもありなむ。
 我がものに取り返し見むの心地、また使はじ」
 この世の人として立ち戻ったならば、いつの日にか、黄泉のほとりの話を、自然と話し合える時もきっとあろう。
 自分の女として取り戻して世話するような考えは、二度と持つまい」
   など思ひ乱れて、「なほ、のたまはずやあらむ」とおぼゆれど、御けしきのゆかしければ、大宮に、さるべきついで作り出だしてぞ、啓したまふ。
 
 などと思い乱れて、「やはり、仰せにならないだろう」という気はするが、ご様子が気にかかるので、大宮に、適当な機会を作り出して、申し上げなさる。
 
 
 

第七段 薫、明石中宮に対面し、横川に赴く

 
   「あさましうて、失ひはべりぬと思ひたまへし人、世に落ちあぶれてあるやうに、人のまねびはべりしかな。
 いかでか、さることははべらむ、と思ひたまふれど、心とおどろおどろしう、もて離るることははべらずや、と思ひわたりはべる人のありさまにはべれば、人の語りはべしやうにては、さるやうもやはべらむと、似つかはしく思ひたまへらるる」
 「思いがけないことで、亡くなってしまったと存じておりました女が、この世に落ちぶれて生きているように、人が話してくれました。
 どうして、そのようなことがございましょうか、と存じますが、自分から大胆なことをして、離れて行くようなことはしないであろうか、とずっと思い続けていた女の様子でございますので、人の話してくれたような事情では、そのようなこともございましょうかと、似ているように存じられました」
   とて、今すこし聞こえ出でたまふ。
 宮の御ことを、いと恥づかしげに、さすがに恨みたるさまには言ひなしたまはで、
 と言って、もう少し申し上げなさる。
 宮のお身の上の事を、とても憚りあるように、そうはいっても恨んでいるようにはおっしゃらないで、
   「かのこと、またさなむと聞きつけたまへらば、かたくなに好き好きしうも思されぬべし。
 さらに、さてありけりとも、知らず顔にて過ぐしはべりなむ」
 「あのことを、またこれこれとお耳になさいましたら、頑固で好色なようにお思いなさるでしょう。
 まったく、そうして生きていたとしても、知らない顔をして過ごしましょう」
   と啓したまへば、  と申し上げなさると、
   「僧都の語りしに、いともの恐ろしかりし夜のことにて、耳も止めざりしことにこそ。
 宮は、いかでか聞きたまはむ。
 聞こえむ方なかりける御心のほどかな、と聞けば、まして聞きつけたまはむこそ、いと苦しかるべけれ。
 かかる筋につけて、いと軽く憂きものにのみ、世に知られたまひぬめれば、心憂く」
 「僧都が話したことですが、とても気味の悪かった夜のことで、耳も止めなかったことなのです。
 宮は、どうしてご存知でしょう。
 何とも申し上げようのないご料簡だ、と思いますので、ましてその話をお聞きつけなさるのは、まことに困ったことです。
 このようなことにつけて、まことに軽々しく困った方だとばかり、世間にお知られになっているようなので、情けなく思っています」
   などのたまはす。
 「いと重き御心なれば、かならずしも、うちとけ世語りにても、人の忍びて啓しけむことを、漏らさせたまはじ」など思す。
 
 などと仰せになる。
 「とても慎重なお人柄なので、必ずしも、気安い世間話であっても、誰かがこっそりと申し上げたことを、お漏らしあそばすまい」などとお思いになる。
 
   「住むらむ山里はいづこにかはあらむ。
 いかにして、さま悪しからず尋ね寄らむ。
 僧都に会ひてこそは、たしかなるありさまも聞き合はせなどして、ともかくも問ふべかめれ」など、ただ、このことを起き臥し思す。
 
 「その住んでいるという山里はどの辺であろうか。
 どのようにして、体裁悪くなく探し出せようか。
 僧都に会って、確かな様子を聞き合わせたりして、ともかく訪ねるのがよかろう」などと、ただ、このことばかりを寝ても覚めてもお考えになる。
 
   月ごとの八日は、かならず尊きわざせさせたまへば、薬師仏に寄せたてまつるにもてなしたまへるたよりに、中堂に、時々参りたまひけり。
 それよりやがて横川におはせむと思して、かのせうとの童なる、率ておはす。
 「その人びとには、とみに知らせじ。
 ありさまにぞ従はむ」と思せど、うち見む夢の心地にも、あはれをも加へむとにやありけむ。
 さすがに、「その人とは見つけながら、あやしきさまに、形異なる人の中にて、憂きことを聞きつけたらむこそ、いみじかるべけれ」と、よろづに道すがら思し乱れけるにや。
 
 毎月の八日は、必ず仏事をおさせになるので、薬師仏にご寄進申し上げなさろうとお出かけになるついでに、根本中堂には、時々お参りになった。
 そこからそのまま横川においでになろうとお考えになって、あの弟の童である者を、連れておいでになる。
 「その人たちには、すぐには知らせまい。
 その時の状況を見てからにしよう」とお思いになるが、再会した時の夢のような心地の上につけて、しみじみとした感慨を加えようというつもりであったのだろうか。
 そうはいっても、「その人だと分かったものの、みすぼらしい姿で、尼姿の人たちの中に暮らしていて、嫌なことを耳にしたりするのは、ひどくつらいことであろう」と、いろいろと道すがら思い乱れなさったことだろうか。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬ九十九(つくも)髪我を恋ふらし面影に見ゆ(伊勢物語-一一四)(戻)  
  出典2 住みわびぬ今は限りと山里につま木こるべき宿を求めてむ(後撰集雑一-一〇八三 在原業平)(戻)  
  出典3 名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと(古今集羇旅-四一一 在原業平)(戻)  
  出典4 世の中にあらぬ所も得てしかな年ふりにたる形隠さむ(拾遺集雑上-五〇六 読人しらず)(戻)  
  出典5 世の中に身をし変へつる君なれば我は我にもあらずとや思ふ(朝光集-七二)(戻)  
  出典6 ここにしも何匂ふらむ女郎花人のもの言ひさがにくき世に(拾遺集雑秋-一〇九八 僧正遍昭)(戻)  
  出典7 春や来る花や咲くとも知らざりき谷の底なる埋れ木なれば(和泉式部集-七二六)(戻)  
  出典8 移し植ゑば秋なき時や咲かざらむ花こそ散らめ根さへ枯れめや(塗籠本伊勢物語)(戻)  
  出典9 誰をかも待乳の山の女郎花秋と契れる人ぞあるらし(新古今集秋上-三三六 小野小町)(戻)  
  出典10 花と見て折らむとすれば女郎花うたたあるさまの名にこそありけれ(古今集誹諧-一〇一九 読人しらず)(戻)  
  出典11 山里は秋こそことに侘しけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ(古今集秋上-二一四 壬生忠岑)(戻)  
  出典12 世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(後撰集雑下-九五五 物部吉名)(戻)  
  出典13 あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや(後撰集春下-一〇三 源信明)(戻)  
  出典14 ここにまた我が飽かぬ月を山の端の遠方(をち)の里には遅しとや待つ(古今六帖一-一七四)(戻)  
  出典15 琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒より調べそめけむ(拾遺集雑上-四五一 斎宮女御)(戻)  
  出典16 秋風の吹くにつけても訪はぬかな荻の葉ならば音はしてまし(後撰集恋四-八四六 中務)(戻)  
  出典17 初瀬川古川野辺に二本ある杉年を経てもまたも逢ひ見む二本ある杉(古今集旋頭歌-一〇〇九 読人しらず)(戻)  
  出典18 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ(玉葉集釈教歌-二六二七 行基)(戻)  
  出典19 たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪を撫でずやありけむ(後撰集雑三-一二四〇 僧正遍昭)(戻)  
  出典20 流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者(法苑珠林)(戻)  
  出典21 顔色如花命如葉 命如葉薄将奈何<顔色は花の如く命は葉の如し 命は葉の如く薄し、将に奈何(いかむ)せむ>(白氏文集巻四-一六一「陵園妻」)(戻)  
  出典22 松門到暁月徘徊 柏城尽日風蕭瑟<松門に暁到りて月徘徊す 柏城に尽日風蕭瑟たり>(白氏文集巻四-一六一「陵園妻」)(戻)  
  出典23 雪降りて人も通はぬ道なれやあとはかもなく思ひ消ゆらむ(古今集冬-三二九 凡河内躬恒)(戻)  
  出典24 君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ(古今集春上-二一 光孝天皇)(戻)  
  出典25 月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして(古今集恋五-七四七 在原業平)(戻)  
  出典26 飽かざりし君が匂ひの恋しさに梅の花をぞ今朝は折りつる(拾遺集雑春-一〇〇五 具平親王)(戻)  
  出典27 色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも(古今集春上-三三 読人しらず)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 御厨子所--みつゝ(ゝ/$し<朱>)所(戻)  
  校訂2 見現はさむ--みあらは(は/+さ)む(戻)  
  校訂3 見開けたるに--見あけたるも(も/#に)(戻)  
  校訂4 とは言へど--とは(は/+いへと)(戻)  
  校訂5 事削ぎ--(/+事<朱>)そき(戻)  
  校訂6 年ごろ--としうち(うち/$ころ<朱>)(戻)  
  校訂7 見回し--見まほ(ほ/$は<朱>)し(戻)  
  校訂8 いかなれば--いかなれ(れ/+は)(戻)  
  校訂9 松蔭--*まつかせ(戻)  
  校訂10 声を--こゑ(ゑ/+を<朱>)(戻)  
  校訂11 心地して--心ちし(し/+て<朱>)(戻)  
  校訂12 止み--やみみ(み<前出>/$<朱>)(戻)  
  校訂13 言ふに--いふ(ふ/+に)(戻)  
  校訂14 あるにや--あるにやと(と$<朱>)(戻)  
  校訂15 出で来たり--いそ(そ/#て)きたり(戻)  
  校訂16 弾きはべりしか--ひきはつ(つ/$へ<朱>、+り)しか(戻)  
  校訂17 弾かまほし--(/+ひ<朱>)かまほし(戻)  
  校訂18 おはせで--おか(か/$は)せて(戻)  
  校訂19 聞こゆれば--(/+きこゆれは)(戻)  
  校訂20 言ひ--(/+いひ)(戻)  
  校訂21 親なども、尼になしてや見まし、など--おやなと(と/+もあまになしてやみましなと<朱>)(戻)  
  校訂22 老い衰へ--(/+おひ<朱>)おとろへ(戻)  
  校訂23 人もがな」と、何事につけても、つつましくて、暗うしなしておはす。
 思ふことを人に--人も(も/+かなとなに事につけてもつゝましくてくらうしなしておはす思ふ事を人に<朱>)(戻)
 
  校訂24 こそは--こそ(そ/+は<朱>)(戻)  
  校訂25 姫宮--姫君(君/#宮)(戻)  
  校訂26 ありく--ありくかよふ(かよふ/$)(戻)  
  校訂27 いとおもしろく--(/+いと<朱>)おもしろく(戻)  
  校訂28 命も--いのちの(の/#も)(戻)  
  校訂29 大尼君--おほおほ(おほ<後出>/$<朱>)あま君(戻)  
  校訂30 はべる--はつ(つ/$へ<朱>)る(戻)  
  校訂31 隠れなき世--かくれなきに(に/$世<朱>)(戻)  
  校訂32 隔てたまふ--へたてゝ(ゝ/#<朱>)給(戻)  
  校訂33 さるべきに--さるへきと(と/$に<朱>)(戻)  
  校訂34 さて--さても(も/#<朱>)(戻)  
  校訂35 八日--いひ(いひ/$<朱>八日)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。