宇治拾遺物語:信濃国の聖の事

下野武正 宇治拾遺物語
巻第八
8-3 (101)
信濃国の聖
敏行の朝臣

 
 今は昔、信濃国に法師ありけり。さる田舎にて法師になりにければ、まだ受戒もせで、いかで京に上りて、東大寺といふ所にて受戒せんと思ひて、とかくして上りて、受戒してけり。
 

 さてもとの国へ帰らんと思ひけれども、よしなし、さる無仏世界のやうなる所に帰らじ、ここにゐなんと思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候ひて、いづくにか行ひして、のどやかに住みぬべき所あると、よろづの所を見まはしけるに、未申の方に当たりて、山かすかに見ゆ。そこに行ひて住まんと思ひて行きて、山の中に、えもいはず行ひて過ぐすほどに、すずろに小さやかなる厨子仏を、行ひ出したり。毘沙門にてぞおはしましける。
 

 そこに小さき堂を建てて、据ゑ奉りて、えもいはず行ひて、年月経るほどに、この山の麓に、いみじき下種徳人ありけり。そこに聖の鉢は常に飛び行きつつ、物は入れて来けり。
 大きなる校倉のあるをあけて、物取り出すほどに、この鉢飛びて、例の物乞ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。ゆゆしくふくつけき鉢よ」とて、取りて、倉の隅に投げ置きて、とみに物も入れざりければ、鉢は待ち居たりけるほどに、物どもしたため果てて、この鉢を忘れて、物も入れず、取りも出さで、倉の戸をさして、主帰りぬるほどに、とばかりありて、この倉すずろにゆさゆさと揺ぐ。
 「いかにいかに」と見騒ぐほどに、揺ぎ揺ぎて、土より一尺ばかり揺ぎあがる時に、「こはいかなる事ぞ」と、怪しがりて騒ぐ。「まことまこと、ありつる鉢を忘れて取り出でずなりぬる、それがしわざにや」などいふほどに、この鉢、倉より漏り出でて、この鉢に倉乗りて、ただ上りに、空ざまに一二丈ばかり上る。さて飛び行くほどに、人々ののしりあさみ騒ぎ合ひたり。
 倉の主も、さらにすべきやうもなければ、「この倉の行かん所を見ん」とて、尻に立ちて行く。そのわたりの人々もみな走りけり。さて見れば、やうやう飛びて、河内国に、この聖の行ふ山の中に飛び行きて、聖の坊の傍に、どうと落ちぬ。
 

 いとどあさましと思ひて、さりとてあるべきならねば、この倉主、聖のもとに寄りて申すやう、「かかるあさましき事なん候ふ。この鉢の常にまうで来れば、物入れつつ参らするを、今日紛はしく候ひつるほどに、倉にうち置きて忘れて、取りも出さで、錠をさして候ひければ、この倉ただ揺ぎに揺ぎて、ここになん飛びてまうで落ちて候ふ。この倉返し給はり候はん」と申す時に、「まことにあやしき事なれど、飛びて来にければ、倉はえ返し取らせじ。ここにかやうの物もなきに、おのづから物をも置かんによし。中ならん物は、さながら取れ」と宣へば、主のいふやう、「いかにしてか、たちまちに運び取り返さん。千石積みて候ふなり」と言へば、「それはいとやすき事なり。たしかに我運びて取らせん」とて、この鉢に一俵を入れて飛すれば、雁などの続きたるやうに、残りの俵ども続きたる。群雀などのやうに、飛び続きたるを見るに、いとどあさましく貴ければ、主のいふやう、「しばし、皆な遣はしそ。米二三百石は、とどめて使はせ給へ」と言へば、聖、「あるまじき事なり。それここに置きては、何にかはせん」と言へば、「さらば、ただ使はせ給ふばかり、十二十をも奉らん」と言へば、「さまでも、入るべき事のあらばこそ」とて、主の家にたしかにみな落ち居にけり。
 

 かやうに貴く行ひて過ぐすほどに、その頃、延喜の帝、重く煩はせ給ひて、さまざまの御祈りども、御修法、御読経など、よろづにせらるれど、さらに怠らせ給はず。ある人の申すやう、「河内国信貴と申す所に、この年来行ひて、里へ出づる事もせぬ聖候ふなり。それこそいみじく貴く験ありて、鉢を飛し、さて居ながら、よろづありがたき事をし候ふなれ。それを召して、祈りせさせ給はば、怠らせ給ひなんかし」と申せば、「さらば」とて、蔵人を御使にて、召しに遣はす。
 

 行きて見るに、聖のさま殊に貴くめでたし。かうかう宣旨にて召すなり、とくとく参るべきよし言へば、聖、「何しに召すぞ」とて、さらに動きげもなければ、「かうかう、御悩大事におはします。祈り参らせ候はん」と言ふ。
 「さては、もし怠らせおはしましたりとも、いかでか聖の験とは知るべき」と言へば、「それが誰が験といふ事、知らせ給はずとも、御心地だに怠らせ給ひなば、よく候ひなん」と言へば、蔵人、「さるにても、いかでかあまたの御祈の中にもその験と見えんこそよからめ」といふに、「さらば祈り参らせんに、剣の護法を参らせん。おのづから御夢にも、幻にも御覧ぜば、さとは知らせ給へ。剣を編みつつ、衣に着たる護法なり。我はさらに京へはえ出でじ」と言へば、
 勅使帰り参りて、かうかうと申すほどに、三日といふ昼つ方、ちとまどろませ給ふともなきに、きらきらとある物の見えければ、いかなる物にかとて御覧ずれば、あの聖のいひけん剣の護法なりと思し召すより、御心地さはさはとなりて、いささか心苦しき御事もなく、例ざまにならせ給ひぬ。人々悦びて、聖を貴がりめであひたり。
 

 帝も限なく貴く思し召して、人を遣はして、「僧正、僧都にやなるべき。またその寺に、庄などや寄すべき」と仰せつかはす。聖承りて、「僧都、僧正、さらに候ふまじき事なり。またかかる所に、庄など寄りぬれば、別当なにくれなど出で来て、なかなかむつかしく、罪得がましく候ふ。ただかくて候はん」とてやみにけり。
 

 かかるほどに、この聖の姉ぞ一人ありける。この聖受戒せんとて、上りしまま見えぬ、かうまで年ごろ見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上りて、東大寺、山階寺のわたりを、「まうれん小院といふひとやある」と尋ぬれど、「知らず」とのみ言ひて、知りたるとといふ人なし。
 尋ねわびて、いかにせん、これが行く末聞きてこそ帰らめと思ひて、その夜東大寺の大仏の御前にて、「この命蓮があり所、教へさせ給へ」と夜一夜申して、うちまどろみたる夢に、この仏仰せらるるやう、「尋ぬる僧の在所は、これより未申の方に山あり。その山に雲たなびきたる所を、行きて尋ねよ」と仰せらるると見て覚めたれば、暁方になりにけり。
 いつしか、とく夜の明けよかしと思ひて見居たれば、ほのぼのと明け方になりぬ。未申の方を見やりければ、山かすかに見ゆるに、紫の雲たなびきたる、嬉しくて、そなたをさして行きたれば、まことに堂などあり。人ありと見ゆる所へ寄りて、「命蓮小院やいまする」と言へば、「誰そ」とて出でて見れば、信濃なりし我が姉なり。
 「こはいかにして尋ねいましたるぞ。思ひかけず」と言へば、ありつる有様を語る。「さていかに寒くておはしつらん。これを着せ奉らんとて、持たりつる物なり」とて、引き出でたるを見れば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、太き糸して、厚々とこまかに強げにしたるを持て来たり。
 悦びて、取りて着たり。もとは紙衣一重をぞ着たりける。さて、いと寒かりけるに、これを下に着たりければ、暖かにてよかりけり。さて多くの年ごろ行ひけり。さてこの姉の尼君も、もとの国へ帰らずとまりゐて、そこに行ひてぞありける。
 

 さて多くの年ごろ、このふくたいをのみ着て行ひければ、果てには破れ破れと着なしてありけり。鉢に乗りて来たりし倉を、飛倉とぞ言ひける。その倉にぞ、ふくたいの破れなどは納めて、まだあんなり。その破れの端をつゆばかりなど、おのづから縁にふれて得たる人は、守りにしたり。
 その倉も朽ち破れて、いまだあんなり。その木の端をつゆばかり得たる人は、守りにし、毘沙門を造り奉りて持ちたる人は、必ず徳つかぬはなかりけり。されば聞く人縁を尋ねて、その倉の木の端をば買ひとりける。
 

 さて信貴とて、えもいはず験ある所にて、今に人々明け暮れ参る。この毘沙門は、命蓮聖の行ひ出だし奉りけるとか。
 

下野武正 宇治拾遺物語
巻第八
8-3 (101)
信濃国の聖
敏行の朝臣