古事記~豐玉毘賣命(豊玉姫) 原文対訳

綿津見神之宮 古事記
上巻 第五部
ホデリとホオリの物語
豊玉毘賣命(豊玉姫)
三年滞在
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
故隨教少行。  かれ教へしまにまに、
少し行いでましけるに、
 依よつて教えた通り、
すこしおいでになりましたところ、
備如其言。 つぶさにその言の如くなりき。 すべて言つた通りでしたから、
即登其香木
以坐。
すなはちその香木に
登りてまします。
その桂の木に
登つておいでになりました。
     
爾海神之女。 ここに海わたの神の女 ここに海神の女むすめの
豐玉毘賣
從婢。
豐玉毘賣とよたまびめの
從婢まかだち、
トヨタマ姫の
侍女が
持玉器
將酌水之時。
玉器たまもひを持ちて、
水酌まむとする時に、
玉の器を持つて、
水を汲くもうとする時に、
於井有光。 井に光かげあり。 井に光がさしました。
     
仰見者。 仰ぎ見れば、 仰いで見ると
有麗壯夫。
〈訓壯夫云
遠登古。
下效此〉
麗うるはしき
壯夫
をとこあり。
りつぱな男がおります。
     
以爲甚異奇。 いと奇あやしとおもひき。 不思議に思つていますと、
爾火遠理命。 ここに火遠理の命、 ホヲリの命が、
見其婢。 その婢まかだちを見て、 その侍女に、
乞欲得水。 「水をたまへ」と乞ひたまふ。 「水を下さい」と言われました。
     
婢乃酌水。 婢すなはち水を酌みて、 侍女がそこで水を汲くんで
入玉器
貢進。
玉器たまもひに入れて
貢進たてまつる。
器に入れてあげました。
爾不飮水。 ここに水をば飮まさずして、 しかるに水をお飮みにならないで、
解御頸之 御頸の
璵たまを解かして、
頸くびにお繋けになつていた
珠をお解きになつて
含口。 口に含(ふふ)みて 口に含んで
唾入
玉器
その玉器に
唾つばき入いれたまひき
その器に
お吐き入れなさいました。
     
於是其璵
著器
ここにその璵
器もひに著きて
しかるにその珠が
器について、
婢不得離璵。 婢璵を
え離たず、
女が珠を
離すことが出來ませんでしたので、
故璵任著以。 かれ著きながらにして ついたままに
豐玉毘賣命 豐玉毘賣の命に進りき。 トヨタマ姫にさし上げました。
     
爾見其璵。 ここにその璵を見て そこでトヨタマ姫が珠を見て、
問婢曰。 婢に問ひて曰く、 女に
若人有
門外哉。
「もし門かどの外とに人ありや」
と問ひしかば、
「門の外に人がいますか」
と尋ねられましたから、
答曰。 答へて曰はく、  
有人坐。
我井香木之上。
「我が井の上の香木の上に
人います。
「井の上の桂の上に
人がおいでになります。
甚麗壯夫也。 いと麗しき壯夫なり。 それは大變りつぱな男でいらつしやいます。
益我王而甚貴。 我が王にも益りていと貴し。 王樣にも勝まさつて尊いお方です。
故其人。 かれその人 その人が
乞水故。 水を乞はしつ。 水を求めましたので、
奉水者。 かれ水を奉りしかば、 さし上げましたところ、
不飮水。 水を飮まさずて、 水をお飮みにならないで、
唾入此璵。 この璵を唾き入れつ。 この珠を吐き入れましたが、
是不得離故。 これえ離たざれば、 離せませんので
任入
將來而獻。
入れしまにま
將もち來て獻る」
とまをしき。
入れたままに
持つて來てさし上げたのです」
と申しました。

 

綿津見神之宮 古事記
上巻 第五部
ホデリとホオリの物語
豊玉毘賣命(豊玉姫)
三年滞在

解説

 
 
 この段のような一見おかしな箇所には、高度な暗示が含まれている。
 そういう場合、大抵大勢に対する批判的文脈と思ってもらってまず間違いない。
 
 端的には、綺麗な珠(豊玉)に唾をつけるという象徴表現(俺のもの、他にはやらないという汚いマーキング)。
 一般には、何かを数える時に指を舐める行為がこれに該当する。玉=金。
 
 

 「於是其璵著器(ここにその璵、器もひに著きて)」の部分に、訳者は「水を汲んだ椀に樹上にいた神の靈がついたのである」としている。
 しかし、ついたのは唾でしかない。それは文言からも明白。「唾入其玉器」。それがなぜに神の霊。
 そういう人は、権力が一見明白に汚い行為をしても、きっと深い心があるなどと美化するのだろう。
 しかしホオリのこれまでの言動に深い心はあったか。その系譜はどうであったか。全て反逆の系譜。
 
 唾が霊とかいう霊的な理解はない。ツバを吐くのは霊的な行為か。そういう解釈は、ホオリの言動と一致するか。
 ホオリは途中で放りなげる名前。自ら積極的に作りだした原因、その責任をとらない。これは入念に描写されている。
 親のニニギが石長姫とサクヤを拒絶したことと同様の構図。自らに不都合なことを、ないことにしてしまう。ここでは曲げてしまう。
 

 唾が入った器は、「唾壺(ダコ)」というタコみたいな名称に掛けてみれば、タンツボの話。
 「これを離すことができない(唾入此璵。是不得離)」とは、ネバつくタンから、ネバーリリース。
 玉「を」離すことができないではなく、玉「から」離すことができない。
 水を飲むかと思いつつ、クチュクチュペをした。あのフィンガーボウルを上回った逸話。
 文化を表わしているのではなく汚さ・野蛮度を表わしている。
 
 みみ見てください、こんな汚いことを! あらまあ! この者は作法を全く知らないわ。なので見ないことにする(慈悲)。
 

 しかし何も言わなくても、それで良い訳ではない。
 あの謎の容器は何だろう? どこかから飛んできた、やたら臭い飛沫は何だったのだろう?
 それでも綺麗な国だという。それどころか、その飛沫を神の霊にしてしまう。その神はやはりツバの神だろうか。
 地上を穢いとすると、完全に無視して曲げたり、偽書とか生意気とかいうのも竹取同様の解釈。なのでここでは徹底して行為の描写にとどめている。
 次の段で、玉にも、玉についたのにも豊玉は一切触れない(アンタッチャブル)。
 
 しかし至高の天を想定した視点に対し、なぜそこまで癪にさわるのか。天から見ればそうだろうと思えない。
 一言で言えば、やはりそれが野蛮の習性。この世の有様がそこまで洗練されているのかは、問うまでもない。
 

 は、古代中国、魯(ろ)の国に産した宝玉の名とされる。
 この「魯」を魚に掛けている。
 このことからも、前段で説明したように、豊玉姫が古代の大陸由来(八尋=大陸)ということが一層確実になる。
 
 最後に「香木」とは臭う珊瑚のこと。この段は表現がすべて反転している。
 つまり麗しい大人(麗壯夫)としているが、実は幼稚な男児という暗示。それが内実というのに全く問題ない。しかしそうは書けない。
 我井とは私が居るの意味。井戸ではない。どうして突如井戸が出てくるのか。文字は通るように解釈しなければならない。