伊勢物語 117段:住吉行幸 あらすじ・原文・現代語訳

第116段
浜びさし
伊勢物語
第四部
第117段
住吉行幸
第118段
たえぬ心

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  行幸(僥倖の暗示)
 
  岸のひめ松(著者の思い)
 
  御神現形(さらなる本心の暗示)
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし帝が住吉に行幸された。
 (その時に思ったこと)
 

 我見ても ひさしくなりぬ 住吉の 岸のひめ松 いく代へぬらむ
 
 彼岸の姫松(小松で小町)、幾代を経ても久しぶり。
 で、もう忘れてないかな?(→次段に続く)
 

 御神現形し給ひて、
 

 むつまじと 君は白浪 瑞籬の 久しき世より いはひそめてき
 
 建前:君は知らずとも、永らく陰で祝福してます
 (君とは、表面的には帝。背後では小町)
 
 本音:この永い関係をおめー(御前)は知るまじ。むつは陸奥とかかっているからな。
 まっ、こんなことは言わずに忍んで、自らマセガキ(籬)の行楽につきあったるわ。
 (感謝せーよ、とまではいはねーがな)
 
 ~
 

 私(神)が帝にむつまじく思っているのをご存知ないでしょう。
 →はい?
 
 う~わ、ないわあ。きもいわあ。なんで男と睦まじくせなあかんの。いきなり女口調? 伊勢を俗の発想で利用しないように。
 まるっきりどこかの国の発想じゃない。マンセーアゲアゲ、突撃万歳! 耐え難き~?
 耐えてねーよ。死んでるよ。焼け野原だよ。でも神の国ですー。ぼくチンに力ありませんでしたー。心だけ痛めてましたー。害国のせいと言ってましたー。
 いや、じゃあ何のためにいるのって言っても無理。だって二世どころじゃないもん。万世だもん。
 
 責任ない特権ってあると思う。そんなものはない。特権には相応の責任が伴う。それが道理で天道。その責任はどう果たされた? 
 自分達でけじめが一切つけれない文化。下にだけ押し付けて。一番上がそうだから、その周辺が調子乗り続けてるわけ。
 これは霊的な責任。人の法律は関係ない。神道掲げるならそれ位わかるよな。いや、わかってないがな。
 ただの建前。ただの形式儀式。演技。コスプレ。神威を借るための。そうでしょ。
 
 神が親愛の情を抱く根拠は何よ。
 生まれか? 地位か? 肩書か? そんな不公平なわけないだろ。バカなのか。
 神に愛されるに足りる行動、ひたむきで誠実な行動はどこにある。そんなものはない。
 
 神がいればこんなになっていない? おー、実際そうしているのは、神なのかよ。
 全部操作されてんのか? 全部神が動かせばいいのか? 自分らの意志も責任も何もないのかよ。
 じゃあもう畜生以下に戻れって。何のため与えられた自律神経だよ。
 人の尊さ・世の中に責任ある立場を理解できないから人権を馬鹿にする。そいつらは物権相応。他人は奪えないが、自ら放棄はできる。
 
 籬=ませがき。わかります? よめます? 
 神に愛される言う位なら、言霊の意味くらいわかりますね。コトダマ。
 
 だから久しい久しい連発してるの。
 物も知らん、永久も知らん、転生(受肉)も知らない、神もセコい目先の権威付けに利用するしかしない、無礼なハナタレが調子こいてんじゃねーよって。
 この物語で出てくる神は常に怒りを秘め、良い文脈ではない。
 
 「神鳴る騒ぎ」(6段)「つくもがみ(≒憑物神・造物神)」(63段)
 「御手洗川にせしみそぎ 神はうけずも」(65段)
 「ちはやぶる 神のいがきも越えぬべし」
 「ちはやぶる 神のいさなむ 道ならなくに」(71段)
 「神代のことも 思ひいづらめ」(76段)
 「ちはやぶる 神代もきかず」(106段)
 
 したがって、ここで突如祝福する理由は、全くない。
 確実に怒りを秘めて隔てている。それがマセガキ。あなたたちとは違うんです。
 
 なお、久しいを連続させているのは、前段の 
 浪間より 見ゆる小島の浜びさし ひさしくなりぬ 君に逢ひみで116段)と掛けている。
 「ひさしくなりぬ」は本段の歌とまんま符合。だから君とは姫のこと。つまり小町。帝? おまけ。
 
 前段は、男が陸奥から戻る時に、都の思い人、小町を思って詠んだ内容。
 だから帝の歌ではありえない。いいですね。
 な~にが古歌を参照しただよ。テキトーだなおい。古典に対する敬意が全くない。
 古今が伊勢を参照したに決まっているだろ。伊勢が原典。記述している年代が悉く古今以前でしょうが。あほだよな~。
 
 全部都合よく先後を反転させ、自分達の権威付けに利用する。
 それがまんま、神と天皇家の関係。でなければこうはなっていない。
 明らかに都合の悪いことも、全部ねじまげ都合良く見る。だからどんどん曲げようがない状況になる。それが天意。
 口先だけで世を思うだ祈るだじゃない。それただの坊じゃない。神意に適う具体的な行動は何があった。悉く利己的に歪めて。
 
 ここまでの実績・実力を軽んじて、勅撰マンセーなんなんだよ。伊勢以上の実力あるのかって。ないだろ。
 だから内容ではなく、肩書で判断する。
 言葉を軽んじ、勝手に内容を付け足し、勝手に改変する。
 
 白浪を知らないと掛ける? ん~まあそうね。いや、それだけで浪を出すかって。浪ってなんですかー。文字見えますかー。
 浪は涙にきまっとるだろが。なぜ突如出現して祝福して泣くんだよ。嬉しすぎて泣くか? そんな文脈はどこにもない。
 なーんにも知らなさすぎて(アホすぎて)泣きたい、調子こくだけのハナタレどもには、背後の知らぬ涙もわかるまい。
 そういう秘められた嘆きの歌。
 
 神威をもてあそばんで。幼稚な発想に落とし込めないで。理解を深めて。その意味で日本は、神の理解が幾世も遅れている。それが彼我の実力の差。
 口先だけで愛国吹いて、認められるわけがない。全知万能の神が一国だけ都合よく守るわけないだろ。バカだろ。全地のより良い発展を考えてるの。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第117段 住吉に行幸(住吉行幸) 欠落
   
?♂  むかし、帝、  むかし、みかど、  
  住吉に行幸し給ひけり。 すみよしに行幸したまひけり。  
       

198
 我見ても
 ひさしくなりぬ住吉の
 我見ても
 ひさしくなりぬすみよしの
 
  岸のひめ松
  いく代へぬらむ
  きしのひめまつ
  いく世へぬらむ
 
       
  御神現形し給ひて、 おほむ神、げぎやうし給て、  
       

199
 むつまじと
 君は白浪瑞籬の
 むつまじと
 君はしら浪みづがきの
 
  久しき世より
  いはひそめてき
  ひさしき世ゝり
  いはひそめてき
 
   

現代語訳

 
 

行幸

 

むかし、帝、住吉に行幸し給ひけり。

 
 
むかし帝
 
 この帝は流れで言えば、114段の仁和帝(光孝天皇)だが、確定する意味はない。
 そうではなく文脈を読み込むための配置。
 
 つまり、帝はそこにいるだけで、歌は著者が歌っている。
 そして著者は、仁和元号に存在しえない業平でも、その派生の行平でもない。
 
 これは114段の後だからではなく、伊勢は業平を登場させる全ての段で拒絶している。
 (63段「在五…この人は…けぢめ見せぬ」~106段「神代も聞かず」=神の怒り≒「ちはやぶる」)
 
 ちはやぶる 神代もきかず龍田河(106段)
 翁さび(荒び) 人な咎めそ狩衣(114段)
 
 つまりこの「ちはやぶる」は、神が咎めているという意味。
 前(神)代未聞。それが神代も聞かず。つまりありえない。
 
 

住吉に行幸し給ひけり
 
 住吉は住吉。それ以上でもそれ以下でもない。
 住吉は沢山ある。114段の芹川も複数あった。
 神が出てくるから神社とは限らない。
 
 ただ、五条辺りにある住吉神社が和歌の神を祭るというのは、それなりの因縁があるだろう(ただし、伊勢に200年以上遅れる1100年代)。
 しかも同様に和歌の神で祭られるのが、人麻呂(の流れの著者)と衣通姫(の流れの小町)と。
 結局、著者と小町の二人の人格。だからこそ明らかに別格の実績。未だに内容もまともに解読されていない。表面をなぞって満足している。
 だからここでの神の具現も、ただの妄想ではないし天皇翼賛の表現でもない。
 そう思ってもらっても構わないが、違う。それを理解できない人はただの人どまり。
 
 ここでは帝が詠んだなどと書いていない。基本帝に歌の才などない。二世どころか何世ものボンボンだから。
 自分で詠んでも感想文。読むのは他人の作文。
 
 つまり著者の歌。しかもそこでは詠んでいない。
 古今905が詠み人しらずなのは、帝を確定できなかったから。業平のようなテキトーな認定はできないから。
 
 

岸のひめ松

 

我見ても ひさしくなりぬ 住吉の
 岸のひめ松 いく代
へぬらむ

 
 浪間より 見ゆる小島の浜びさし ひさしくなりぬ 君に逢ひみで116段
  

 住吉の 岸のひめ松 人ならは いく世かへしと とはましものを古今906・詠み人知らず
 
 前段からの一連の流れ・符合から、全て著者の歌。
 それをあえて、伊勢がどこかの歌を参照したと解するのは無理。絶対無理。
 
 なぜなら、伊勢は万葉を参照する場合、常に独自の文脈を反映させ、それと分かるように用いている。それが116段の歌。
 (浜久木を浜びさしとし、ひさしで連続させ韻を踏む)
 なのに、なぜそれより後の古今を丸ごとパクらねばならない。理由も動機も全くない。
 
 というか時代的に不可能。905年の古今は参照しようがない。
 伊勢の記述内容は全て800年代。陳腐な左注的付け足しが源の至の39段末尾に付いているが、例外はそれだけ。
 それも、身分秩序・体面を保つためのもので作品とは無関係と容易に言える。
 (源氏の人物を端的に滑稽に描いて多数にさらされることへの防御反応。文章本体と全く相容れない)
 
 逆に古今が伊勢を参照する理由は山ほどある。何より構成がそう。
 1111ある歌のうち、詞書の突出した最長が、筒井筒(古今994・295文字)、次が東下り(古今441・252文字)、これだけでもそう言える。
 どこにこんな話が転がっている? 伊勢がどこかにある話を参照したのか? どこかとはどこだ? 根拠が一切ない。伊勢ではないとする時点で不自然。
 だから古今の業平認定には根拠がない。普通に考えれば他の認定も危ういが、伊勢は匿名で、噂・風評が強力だったのが大きい。というかそれが全て。
 
 
我見ても ひさしくなりぬ住吉の
 我が見ても 久しくなった住吉の
 

岸のひめ松 いく代へぬらむ
 岸の姫松 幾代を経たか
 

 姫松:小さい松。姫小松。
 また、①②も含む(女侍従・待つ人)。
 ①ひめまうちぎみ【姫大夫】行幸のとき、馬に乗って供をした内侍司の女官。唐衣 ・裳 に指貫(裾を括った袴)を着用した。
 ②ないみょうぶ【内命婦】五位以上の女官。特定の職掌はないが、儀式などに参加した。
 
 姫で小松で、前段で暗示した小町のこと。
 そこで小町を見たとき、松の時にかけて思った。
 
 姫は松の美称などではない。
 小松が姫になぜなる。小町にかけているだけ。
 
 

御神現形

 

御神現形し給ひて、
 
むつまじと 君は白浪 瑞籬の
 久しき世より いはひそめてき

 
 我見ても ひさしくなりぬ 住吉の 岸のひめ松 いく代へぬらむ(先ほどの歌)
 浪間より 見ゆる小島の浜びさし ひさしくなりぬ 君に逢ひみで116段


 
御神現形(げぎやう)し給ひて
 お神が具現化されて
 
 「し給ひて」は帝と同じ。だから守るとかじゃない。
 信仰もない。ただの儀式としか思っていない。そんなのを守る道理はない。
 
 

むつまじと 君は白浪
 親しくもない 君など知らない
 
 むつまし 【睦まし】:
 ①親しい。仲がよい。親密である。
 ②②慕わしい。懐かしい。
 

瑞籬(みづがき)の
 しかし自らマセガキの
 

久しき世より いはひそめてき
 永く遠い世より(例はないが)祝い初めに来てやった
 
 有難く思えよ。