徒然草93段 牛を売る者あり:原文

ある人弓射る 徒然草
第三部
93段
牛を売る者
常盤井相国

 
 「牛を売る者あり。買ふ人、あすその価をやりて牛を取らむといふ。夜の間に牛死ぬ。買はむとする人に利あり、売らむとする人に損あり」と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者のいはく、「牛の主まことに損ありといへども、また大きなる利あり。そのゆゑは、生あるもの、死の近きことを知らざること、牛すでにしかなり。人また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存せり。一日の命、万金よりも重し。牛の価、鵝毛よりも軽し。万金を得て一銭を失はむ人、損ありといふべからず」といふに、みな人あざけりて、「そのことわりは牛の主に限るべからず」といふ。
 

 またいはく、「されば、人死をにくまば生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらむや。愚かなる人、この楽しびを求め、この財を忘れて、あやふく他の財をむさぼるには、志満つことなし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、このことわりあるべからず。人みな生を楽しまざるは、死を恐れざるゆゑなり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり。もしまた生死の相にあづからずといはば、まことのことわりを得たりといふべし」といふに、人いよいよあざける。