源氏物語 31帖 真木柱:あらすじ・目次・原文対訳

藤袴 源氏物語
第一部
第31帖
真木柱
梅枝

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 真木柱(まきばしら)のあらすじ

 光源氏37歳の冬から38歳の初春の話。

 尚侍として出仕を控えていた玉鬘だったが、その直前に髭黒が女房の手引きで強引に契りを交わしてしまう。若く美しい玉鬘を得て有頂天の髭黒を、源氏は内心の衝撃を押し隠して丁重に婿としてもてなしたが、無骨で雅さに欠ける髭黒と心ならずも結婚することになった当の玉鬘はすっかりしおれきり、恥ずかしさに源氏とも顔を合わせられない。一方で実父の内大臣〔かつての頭中将〕は、姉妹の弘徽殿女御冷泉帝の寵を争うよりはよいとこの縁談を歓迎、源氏の計らいに感謝した。

 髭黒はその後玉鬘を迎えるために邸の改築に取り掛かるが、その様子に今はすっかり見捨てられた北の方は絶望し、父親の式部卿宮も実家に戻らせようと考える。髭黒もさすがにそれは世間体も悪いと引き止めたものの、いざ玉鬘のところへ出発しようとした矢先、突然狂乱した北の方に香炉の灰を浴びせられる。

 この事件で完全に北の方に愛想を尽かした髭黒は玉鬘の下に入り浸り、とうとう業を煮やした式部卿宮は、髭黒の留守の間に北の方と子供たちを迎えにやる。一人髭黒の可愛がっていた娘(真木柱)だけは父の帰りを待つと言い張ったが、別れの歌を邸の柱に残して泣く泣く連れられていった。後でそれを知った髭黒も涙し、宮家を訪れて対面を願ったが、返されたのは息子たちだけだった。

 明けて新年、相変わらず塞ぎこんでいる玉鬘に髭黒もようやく出仕を許す気になり、玉鬘は華々しく参内する。早速訪れた冷泉帝は噂以上の玉鬘の美しさに魅了されて熱心に想いを訴え、それに慌てた髭黒は退出をせきたててそのまま玉鬘を自邸へ連れ帰ってしまった。まんまと玉鬘を奪われた源氏は悔しさを噛みしめ、なおも未練がましく幾度か文を送ったが、それも髭黒に隔てられて思うに任せない。やがて玉鬘は男子を出産し、その後は出仕することもなく髭黒の正室として家庭に落ち着いた。

(以上Wikipedia真木柱より。色づけと〔〕は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#真木柱(21首:別ページ)
主要登場人物
 
第31帖 真木柱(まきばしら)
 光る源氏の太政大臣時代
 三十七歳冬十月から
 三十八歳十一月までの物語
 
第一章 玉鬘、鬚黒大将と結婚
第二章 鬚黒大将家 北の方、乱心騒動
第三章 鬚黒大将家 北の方、実家に帰る
第四章 玉鬘 宮中出仕から鬚黒邸へ
第五章 鬚黒大将家と内大臣家 玉鬘と近江の君
 
 
第一章 玉鬘の物語
 玉鬘、鬚黒大将と結婚
 第一段 鬚黒、玉鬘を得る
 第二段 内大臣、源氏に感謝
 第三段 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活
 第四段 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す
 
第二章 鬚黒大将家の物語
 北の方、乱心騒動
 第一段 鬚黒の北の方の嘆き
 第二段 鬚黒、北の方を慰める(一)
 第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)
 第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする
 第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける
 第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る
 第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う
 
第三章 鬚黒大将家の物語
 北の方、子供たちを連れて実家に帰る
 第一段 式部卿宮、北の方を迎えに来る
 第二段 母君、子供たちを諭す
 第三段 姫君、柱の隙間に和歌を残す
 第四段 式部卿宮家の悲憤慷慨
 第五段 鬚黒、式部卿宮家を訪問
 第六段 鬚黒、男子二人を連れ帰る
 
第四章 玉鬘の物語
 宮中出仕から鬚黒邸へ
 第一段 玉鬘、新年になって参内
 第二段 男踏歌、貴顕の邸を回る
 第三段 玉鬘の宮中生活
 第四段 帝、玉鬘のもとを訪う
 第五段 玉鬘、帝と和歌を詠み交す
 第六段 玉鬘、鬚黒邸に退出
 第七段 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る
 第八段 源氏、玉鬘の返書を読む
 第九段 三月、源氏、玉鬘を思う
 
第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語
 玉鬘と近江の君
 第一段 北の方、病状進む
 第二段 十一月に玉鬘、男子を出産
 第三段 近江の君、活発に振る舞う
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
三十七歳から三十八歳
呼称:太政大臣・大臣・六条殿・大殿・大臣の君・殿
夕霧(ゆうぎり)
光る源氏の長男
呼称:宰相中将
玉鬘(たまかづら)
内大臣の娘
呼称:尚侍の君・女君・君
内大臣(ないだいじん)
呼称:内大臣・父大臣・二条の大臣・大臣
柏木(かしわぎ)
呼称:頭中将
紫の上(むらさきのうえ)
呼称:大殿の北の方・春の上
弘徽殿女御(こきでんのにょうご)
呼称:女御
冷泉帝(れいぜいてい)
呼称:帝・主上・内裏
秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)
呼称:中宮
鬚黒大将(ひげくろだいしょう)
呼称:大将・大将殿・大将の君・父君・殿・男
蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)
呼称:兵部卿宮・宮
承香殿女御(しょうきょうでんのにょうご)
呼称:春宮の女御
鬚黒の北の方(ひげくろのきたのかた)
呼称:もとの北の方・母君・女君
真木柱(まきばしら)
呼称:姫君
式部卿宮(しきぶきょうのみや)
呼称:父親王・父宮・宮、真木柱の母方の祖父
式部卿宮の北の方(しきぶきょうのみやのきたのかた)
呼称:母北の方
木工の君(もくのきみ)
呼称:木工の君
中将の御許(ちゅうじょうのおもと)
呼称:中将の御許
近江君(おうみのきみ)
呼称:君

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  真木柱(まきばしら)
 
 

第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚

 
 

第一段 鬚黒、玉鬘を得る

 
   「内裏に聞こし召さむこともかしこし。
 しばし人にあまねく漏らさじ」と諌めきこえたまへど、さしもえつつみあへたまはず。
 ほど経れど、いささかうちとけたる御けしきもなく、「思はずに憂き宿世なりけり」と、思ひ入りたまへるさまのたゆみなきを、「いみじうつらし」と思へど、おぼろけならぬ契りのほど、あはれにうれしく思ふ。
 
 「帝がお聞きあそばすことも恐れ多い。
 少しの間は広く世間には知らせまい」とご注意申し上げなさるが、そう隠してもお隠しきれになれない。
 何日かたったが、少しもお心を開くご様子もなく、「思いの他の不運な身の上だわ」と、思い詰めていらっしゃる様子がいつまでも続くので、「ひどく恨めしい」と思うが、浅からぬご縁、しみじみと嬉しく思う。
 
   見るままにめでたく、思ふさまなる御容貌、ありさまを、「よそのものに見果ててやみなましよ」と思ふだに胸つぶれて、石山の仏をも、弁の御許をも、並べて頂かまほしう思へど、女君の、深くものしと疎みにければ、え交じらはで籠もりゐにけり。
 
 見れば見るほどにご立派で、理想的なご器量、様子を、「他人のものにしてしまうところであったよ」と思うだけでも胸がどきどきして、石山寺の観音も、弁の御許も並べて拝みたく思うが、女君がほんとうに不愉快だと嫌ったので、出仕もせずに自宅に引き籠もっているのであった。
 
   げに、そこら心苦しげなることどもを、とりどりに見しかど、心浅き人のためにぞ、寺の験も現はれける。
 
 なるほど、たくさんお気の毒な例を、いろいろと見て来たが、思慮の浅い人のために、お寺の霊験が現れたのであった。
 
   大臣も、「心ゆかず口惜し」と思せど、いふかひなきことにて、「誰れも誰れもかく許しそめたまへることなれば、引き返し許さぬけしきを見せむも、人のためいとほしう、あいなし」と思して、儀式いと二なくもてかしづきたまふ。
 
 大臣も「不満足で残念だ」とお思いになるが、今さら言ってもしかたのないことなので、「誰も彼もこのようにご承知なさったことなので、今さら態度を変えるのも、相手のためにたいそうお気の毒であり、筋違いである」とお考えになって、結婚の儀式をたいそうまたとなく立派にお世話なさる。
 
   いつしかと、わが殿に渡いたてまつらむことを思ひいそぎたまへど、軽々しくふとうちとけ渡りたまはむに、かしこに待ち取りて、よくも思ふまじき人のものしたまふなるが、いとほしさにことづけたまひて、  一日も早く、自分の邸にお迎え申し上げることをご準備なさるが、軽率にひょいとお移りなさる場合、あちらに待ち受けて、きっと好ましく思うはずのない人がいらっしゃるらしいのが、気の毒なことにかこつけなさって、
   「なほ、心のどかに、なだらかなるさまにて、音なく、いづ方にも、人のそしり恨みなかるべくをもてなしたまへ」  「やはり、ゆっくりと、波風を立てないようにして、騒がれないで、どこからも人の非難や妬みを受けないよう、お振る舞いなさい」
   とぞ聞こえたまふ。
 
 とお申し上げなさる。
 
 
 

第二段 内大臣、源氏に感謝

 
   父大臣は、  父内大臣は、
   「なかなかめやすかめり。
 ことにこまかなる後見なき人の、なまほの好いたる宮仕へに出で立ちて、苦しげにやあらむとぞ、うしろめたかりし。
 心ざしはありながら、女御かくてものしたまふをおきて、いかがもてなさまし」
 「かえって無難であろう。
 格別親身に世話してくれる後見のない人が、なまじっかの色めいた宮仕えに出ては、辛いことであろうと、不安に思っていた。
 大切にしたい気持ちはあるが、女御がこのようにいらっしゃるのを差し置いて、どうして世話できようか」
   など、忍びてのたまひけり。
 げに、帝と聞こゆとも、人に思し落とし、はかなきほどに見えたてまつりたまひて、ものものしくももてなしたまはずは、あはつけきやうにもあべかりけり。
 
 などと、内々におっしゃっているのであった。
 なるほど、帝だと申しても、人より軽くおぼし召し、時たまお目にかかりなさって、堂々としたお扱いをなさらなかったら、軽率な出仕ということになりかねないのであった。
 
   三日の夜の御消息ども、聞こえ交はしたまひけるけしきを伝へ聞きたまひてなむ、この大臣の君の御心を、「あはれにかたじけなく、ありがたし」とは思ひきこえたまひける。
 
 三日の夜のお手紙を、取り交わしなさった様子を伝え聞きなさって、こちらの大臣のお気持ちを、「ほんとうにもったいなく、ありがたい」と感謝申し上げなさるのであった。
 
   かう忍びたまふ御仲らひのことなれど、おのづから、人のをかしきことに語り伝へつつ、次々に聞き洩らしつつ、ありがたき世語りにぞささめきける。
 内裏にも聞こし召してけり。
 
 このように隠れたご関係であるが、自然と、世間の人がおもしろい話として語り伝えては、次から次へと漏れ聞いて、めったにない世間話として言いはやすのであった。
 帝におかれてもお聞きあそばしたのであった。
 
   「口惜しう、宿世異なりける人なれど、さ思しし本意もあるを。
 宮仕へなど、かけかけしき筋ならばこそは、思ひ絶えたまはめ」
 「残念にも、縁のなかった人であるが、あのように望んでいられた願いもあるのだから。
 宮仕えなど、妃の一人としてでは、お諦めになるのもよかろうが」
   などのたまはせけり。
 
 などと仰せられるのであった。
 
 
 

第三段 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活

 
   霜月になりぬ。
 神事などしげく、内侍所にもこと多かるころにて、女官ども、内侍ども参りつつ、今めかしう人騒がしきに、大将殿、昼もいと隠ろへたるさまにもてなして、籠もりおはするを、いと心づきなく、尚侍の君は思したり。
 
 十一月になった。
 神事などが多く、内侍所にも仕事の多いころなので、女官連中、内侍連中が参上しては、はなやかに騒々しいので、大将殿は、昼もたいそう隠れたようにして籠もっていらっしゃるのを、たいそう気にくわなく、尚侍の君はお思いになっていた。
 
   宮などは、まいていみじう口惜しと思す。
 兵衛督は、妹の北の方の御ことをさへ、人笑へに思ひ嘆きて、とり重ねもの思ほしけれど、「をこがましう、恨み寄りても、今はかひなし」と思ひ返す。
 
 兵部卿宮などは、それ以上に残念にお思いになる。
 兵衛督は、妹の北の方の事までを外聞が悪いと嘆いて、重ね重ね憂鬱であったが、「馬鹿らしく、恨んでみても今はどうにもならない」と考え直す。
 
   大将は、名に立てるまめ人の、年ごろいささか乱れたるふるまひなくて過ぐしたまへる、名残なく心ゆきて、あらざりしさまに好ましう、宵暁のうち忍びたまへる出で入りも、艶にしなしたまへるを、をかしと人びと見たてまつる。
 
 大将は、有名な堅物で、長年少しも浮気沙汰もなくて過ごしてこられたのが、すっかり変わってご満悦で、別人のようなご様子で、夜や早朝の人目を忍んでいらっしゃる出入りも、恋人らしく振る舞っていらっしゃるのを、おもしろいと女房たちは拝する。
 
   女は、わららかににぎははしくもてなしたまふ本性も、もて隠して、いといたう思ひ結ぼほれ、心もてあらぬさまはしるきことなれど、「大臣の思すらむこと、宮の御心ざまの、心深う、情け情けしうおはせし」などを思ひ出でたまふに、「恥づかしう、口惜しう」のみ思ほすに、もの心づきなき御けしき絶えず。
 
 女は、陽気にはなやかにお振る舞いなさるご性分も表に出さず、とてもひどくふさぎ込んで、自分から求めて一緒になったのでないことは誰の目からも明らかであるが、「大臣がどうお思いであろうか、兵部卿宮のお気持ちの深くやさしくいらっしゃったこと」などを思い出しなさると、「恥ずかしく、残念だ」とばかりお思いになると、何かと気に入らないご様子が絶えない。
 
 
 

第四段 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す

 
   殿も、いとほしう人びとも思ひ疑ひける筋を、心きよくあらはしたまひて、「わが心ながら、うちつけにねぢけたることは好まずかし」と、昔よりのことも思し出でて、紫の上にも、  殿も、気の毒だと女房たちも疑っていたことに、潔白であることを証明なさって、「自分の心中でも、その場限りの間違ったことは好まないのだ」と、昔からのこともお思い出しになって、紫の上にも、
   「思し疑ひたりしよ」  「お疑いでしたね」
   など聞こえたまふ。
 「今さらに人の心癖もこそ」と思しながら、ものの苦しう思されし時、「さてもや」と、思し寄りたまひしことなれば、なほ思しも絶えず。
 
 などと申し上げなさる。
 「今さら、厄介な癖が出ても困る」とお思いになる一方で、何かたまらなくお思いになった時、「いっそ自分の物にしてしまおうか」と、お考えになったこともあるので、やはりご愛情も切れない。
 
   大将のおはせぬ昼つ方渡りたまへり。
 女君、あやしう悩ましげにのみもてないたまひて、すくよかなる折もなくしをれたまへるを、かくて渡りたまへれば、すこし起き上がりたまひて、御几帳にはた隠れておはす。
 
 大将のおいでにならない昼ころ、お渡りになった。
 女君は、不思議なほど悩ましそうにばかりお振る舞いになって、さわやかな気分の時もなく萎れていらっしゃったが、このようにしてお越しになると、少し起き上がりなさって、御几帳に隠れてお座りになる。
 
   殿も、用意ことに、すこしけけしきさまにもてないたまひて、おほかたのことどもなど聞こえたまふ。
 すくよかなる世の常の人にならひては、まして言ふ方なき御けはひありさまを見知りたまふにも、思ひのほかなる身の、置きどころなく恥づかしきにも、涙ぞこぼれける。
 
 殿も、改まった態度で、少し他人行儀にお振る舞いになって、世間一般の話などを申し上げなさる。
 真面目な普通の人を夫として迎えるようになってからは、今まで以上に言いようのないご様子や有様をお分りになるにつけ、意外な運命の身の、置き所もないような恥ずかしさにも、涙がこぼれるのであった。
 
   やうやう、こまやかなる御物語になりて、近き御脇息に寄りかかりて、すこしのぞきつつ、聞こえたまふ。
 いとをかしげに面痩せたまへるさまの、見まほしう、らうたいことの添ひたまへるにつけても、「よそに見放つも、あまりなる心のすさびぞかし」と口惜し。
 だんだんと、情のこもったお話になって、近くにある御脇息に寄り掛かって、少し覗き見しながら、お話し申し上げになさる。
 たいそう美しげに面やつれしておいでの様子が、見飽きず、いじらしさがお加わりになっているにつけても、「他人に手放してしまうのも、あまりな気まぐれだな」と残念である。
 

407
 「おりたちて 汲みは見ねども 渡り川
 人の瀬とはた 契らざりしを
 「あなたと立ち入った深い関係はありませんでしたが、三途の川を渡る時、
  他の男に背負われて渡るようにはお約束しなかったはずなのに
 
   思ひのほかなりや」  思ってもみなかったことです」
   とて、鼻うちかみたまふけはひ、なつかしうあはれなり。
 
 と言って、鼻をおかみになる様子、やさしく心を打つ風情である。
 
   女は顔を隠して、  女は顔を隠して、
 

408
 「みつせ川 渡らぬさきに いかでなほ
 涙の澪の 泡と消えなむ」
 「三途の川を渡らない前に何とかしてやはり
  涙の流れに浮かぶ泡のように消えてしまいたいものです」
 
   「心幼なの御消えどころや。
 さても、かの瀬は避き道なかなるを、御手の先ばかりは、引き助けきこえてむや」と、ほほ笑みたまひて、
 「幼稚なお考えですね。
 それにしても、あの三途の川の瀬は避けることのできない道だそうですから、お手先だけは、引いてお助け申しましょうか」と、ほほ笑みなさって、
   「まめやかには、思し知ることもあらむかし。
 世になき痴れ痴れしさも、またうしろやすさも、この世にたぐひなきほどを、さりともとなむ、頼もしき」
 「真面目な話、お分かりになることもあるでしょう。
 世間にまたといない馬鹿さ加減も、また一方で安心できるのも、この世に類のないくらいなのを、いくら何でもと、頼もしく思っています」
   と聞こえたまふを、いとわりなう、聞き苦しと思いたれば、いとほしうて、のたまひ紛らはしつつ、  と申し上げなさるのを、ほんとうにどうすることもできず、聞き苦しいとお思いでいらっしゃるので、お気の毒になって、話をおそらしになりながら、
   「内裏にのたまはすることなむいとほしきを、なほ、あからさまに参らせたてまつらむ。
 おのがものと領じ果てては、さやうの御交じらひもかたげなめる世なめり。
 思ひそめきこえし心は違ふさまなめれど、二条の大臣は、心ゆきたまふなれば、心やすくなむ」
 「帝が仰せになることがお気の毒なので、やはり、ちょっとでも出仕おさせ申しましょう。
 自分の物と家の中に閉じ込めてしまってからでは、そのようなお勤めもできにくいお身の上となりましょう。
 当初の考えとは違ったかっこうですが、二条の大臣は、ご満足のようなので、安心です」
   など、こまかに聞こえたまふ。
 あはれにも恥づかしくも聞きたまふこと多かれど、ただ涙にまつはれておはす。
 いとかう思したるさまの心苦しければ、思すさまにも乱れたまはず、ただ、あるべきやう、御心づかひを教へきこえたまふ。
 かしこに渡りたまはむことを、とみにも許しきこえたまふまじき御けしきなり。
 
 などと、こまごまとお話し申し上げなさる。
 ありがたくも気恥ずかしくもお聞きになることが多いけれど、ただ涙に濡れていらっしゃる。
 たいそうこんなにまで悩んでおいでの様子がお気の毒なので、お思いのままに無体な振る舞いはなさらず、ただ、心得や、ご注意をお教え申し上げなさる。
 あちらにお移りになることを、直ぐにはお許し申し上げなさらないご様子である。
 
 
 

第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動

 
 

第一段 鬚黒の北の方の嘆き

 
   内裏へ参りたまはむことを、やすからぬことに大将思せど、そのついでにや、まかでさせたてまつらむの御心つきたまひて、ただあからさまのほどを許しきこえたまふ。
 かく忍び隠ろへたまふ御ふるまひも、ならひたまはぬ心地に苦しければ、わが殿のうち修理ししつらひて、年ごろは荒らし埋もれ、うち捨てたまへりつる御しつらひ、よろづの儀式を改めいそぎたまふ。
 
 宮中に参内なさることを、心配なことと大将はお思いになるが、その機会に、そのまま退出おさせ申そうかとのお考えを思いつかれて、ただちょっとの暇のお許しを申し上げなさる。
 このように人目を忍んでお通いになることも、お慣れにならない感じで辛いので、ご自分の邸内の修理し整えて、長年荒れさせ埋もれ、放って置かれたお部屋飾り、すべての飾りつけを立派にしてご準備なさる。
 
   北の方の思し嘆くらむ御心も知りたまはず、かなしうしたまひし君達をも、目にもとめたまはず、なよびかに情け情けしき心うちまじりたる人こそ、とざまかうざまにつけても、人のため恥がましからむことをば、推し量り思ふところもありけれ、ひたおもむきにすくみたまへる御心にて、人の御心動きぬべきこと多かり。
 
 北の方がお嘆きになろうお気持ちもお考えにならず、かわいがっていらっしゃったお子たちにも、お目もくれなさらず、やさしく情け深い気持ちのある人ならば、何かのことにつけても、女にとって恥になるようなことには、考え及ぶところもあろうが、一徹で融通のきかないご性分なので、人のお気に障るようなことが多いのであった。
 
   女君、人に劣りたまふべきことなし。
 人の御本性も、さるやむごとなき父親王の、いみじうかしづきたてまつりたまへるおぼえ、世に軽からず、御容貌なども、いとようおはしけるを、あやしう、執念き御もののけにわづらひたまひて、この年ごろ、人にも似たまはず、うつし心なき折々多くものしたまひて、御仲もあくがれてほど経にけれど、やむごとなきものとは、また並ぶ人なく思ひきこえたまへるを、めづらしう御心移る方の、なのめにだにあらず、人にすぐれたまへる御ありさまよりも、かの疑ひおきて、皆人の推し量りしことさへ、心きよくて過ぐいたまひけるなどを、ありがたうあはれと、思ひましきこえたまふも、ことわりになむ。
 
 女君は、人にひけをお取りになるようなところはない。
 お人柄も、あのような高貴な父親王がたいそう大切にお育て申された世間の評判、けっして軽々しくなく、ご器量なども、たいそう素晴らしくいらっしゃったが、妙に、しつこい物の怪をお患いになって、ここ数年来、普通の人とはお変わりになって、正気のない時々が多くおありになって、ご夫婦仲も疎遠になって長くなったが、れっきとした本妻としては、また並ぶ人もなくお思い申し上げていらっしゃったが、珍しくお心惹かれる方が、一通りどころの方でなく、人より勝れていらっしゃるご様子よりも、あの疑いを持って皆が想像していたことさえ、潔白の身でお過ごしになっていらしたことなどを、めったにない立派な態度だと、ますます深くお思い申し上げなさるのも、もっともなことである。
 
   式部卿宮聞こし召して、  式部卿宮がお聞きになって、
   「今は、しか今めかしき人を渡して、もてかしづかむ片隅に、人悪ろくて添ひものしたまはむも、人聞きやさしかるべし。
 おのがあらむこなたは、いと人笑へなるさまに従ひなびかでも、ものしたまひなむ」
 「今は、あのような若い女を迎えて、大切にするだろう片隅で、みっともなく連れ添っていらっしゃるのも、外聞も痩せるほど恥ずかしいだろう。
 自分が生きているうちは、まことに世間に恥をさらして言いなりにならなくても、お過ごしになられよう」
   とのたまひて、宮の東の対を払ひしつらひて、「渡したてまつらむ」と思しのたまふを、「親の御あたりといひながら、今は限りの身にて、たち返り見えたてまつらむこと」と、思ひ乱れたまふに、いとど御心地もあやまりて、うちはへ臥しわづらひたまふ。
 
 とおっしゃって、宮邸の東の対を掃除し整えて、「お迎え申そう」とお考えになっておっしゃるのを、「親の御家と言っても、夫に捨てられた身の上で、再び実家に戻ってお顔を合わせ申すのも」と、思い悩みなさると、ますますご気分も悪くなって、ずっと病床にお臥せりになる。
 
   本性は、いと静かに心よく、子めきたまへる人の、時々、心あやまりして、人に疎まれぬべきことなむ、うち混じりたまひける。
 
 生まれつきは、たいそう静かで気立てもよく、おっとりとしていらっしゃる方で、時々、気がおかしくなって、人から嫌われてしまうようなことが、時たまおありなのであった。
 
 
 

第二段 鬚黒、北の方を慰める(一)

 
   住まひなどの、あやしうしどけなく、もののきよらもなくやつして、いと埋れいたくもてなしたまへるを、玉を磨ける目移しに、心もとまらねど、年ごろの心ざしひき替ふるものならねば、心には、いとあはれと思ひきこえたまふ。
 
 お住まいなどが、とんでもなく乱雑で、綺麗さもなく汚れて、たいそう塞ぎ込んでいらっしゃるのを、玉を磨いたような所を見て来た目には、気に入らないが、長年連れ添ってきた愛情が急に変わるものでもないので、心中では、たいそう気の毒にとお思い申し上げる。
 
   「昨日今日の、いと浅はかなる人の御仲らひだに、よろしき際になれば、皆思ひのどむる方ありてこそ見果つなれ。
 いと身も苦しげにもてなしたまひつれば、聞こゆべきこともうち出で聞こえにくくなむ。
 
 「昨日今日の、たいそう浅い夫婦仲でさえ、悪くはない身分の人となれば、皆我慢することがあって添い遂げるものだ。
 たいそう身体も苦しそうにしていらっしゃったので、申し上げなければならないこともお話し申し上げにくくてね。
 
   年ごろ契りきこゆることにはあらずや。
 世の人にも似ぬ御ありさまを、見たてまつり果てむとこそは、ここら思ひしづめつつ過ぐし来るに、えさしもあり果つまじき御心おきてに、思し疎むな。
 
 長年添い遂げ申して来た仲ではありませんか。
 世間の人と違ったご様子を、最後までお世話申そうと、ずいぶんと我慢して過ごして来たのに、とてもそうは行かないようなお考えで、お嫌いなさるのですね。
 
   幼き人びともはべれば、とざまかうざまにつけて、おろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ。
 ひとわたり見果てたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、まかせてこそ、今しばし御覧じ果てめ。
 
 幼い子どもたちもいますので、何かにつけて、いいかげんにはしまいとずっと存じ上げてきたのに、女心の考えなさから、このように恨み続けていらっしゃる。
 最後まで見届けないうちは、そうかも知れないことですが、信頼してこそ、もう少し御覧になっていてください。
 
   宮の聞こし召し疎みて、さはやかにふと渡したてまつりてむと思しのたまふなむ、かへりていと軽々しき。
 まことに思しおきつることにやあらむ、しばし勘事したまふべきにやあらむ」
 式部卿宮がお聞きになりお疎みになって、はっきりとすぐにお迎え申そうとお考えになっておっしゃっているのが、かえってたいそう軽率です。
 ほんとうに決心なさったことなのか、暫く懲らしめなさろうというのでしょうか」
   と、うち笑ひてのたまへる、いとねたげに心やまし。
 
 と、ちょっと笑っておっしゃる、たいそう憎らしくおもしろくない。
 
 
 

第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)

 
   御召人だちて、仕うまつり馴れたる木工の君、中将の御許などいふ人びとだに、ほどにつけつつ、「やすからずつらし」と思ひきこえたるを、北の方は、うつし心ものしたまふほどにて、いとなつかしううち泣きてゐたまへり。
 
 殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君、中将の御許などという女房たちでさえ、身分相応につけて、「おもしろくなく辛い」と思い申し上げているのだから、まして北の方は、正気でいらっしゃる時なので、たいそうしおらしく泣いていらっしゃった。
 
   「みづからを、ほけたり、ひがひがし、とのたまひ、恥ぢしむるは、ことわりなることになむ。
 宮の御ことをさへ取り混ぜのたまふぞ、漏り聞きたまはむはいとほしう、憂き身のゆかり軽々しきやうなる。
 耳馴れにてはべれば、今はじめていかにもものを思ひはべらず」
 「わたしを、惚けている、僻んでいる、とおっしゃって、馬鹿にするのは、けっこうなことです。
 父宮のことまでを引き合いに出しておっしゃるのは、もし、お耳に入ったらお気の毒だし、つたないわが身の縁から軽々しいようです。
 耳馴れていますから、今さら何とも思いません」
   とて、うち背きたまへる、らうたげなり。
 
 と言って、横を向いていらっしゃる、いじらしい。
 
   いとささやかなる人の、常の御悩みに痩せ衰へ、ひはづにて、髪いとけうらにて長かりけるが、わけたるやうに落ち細りて、削ることもをさをさしたまはず、涙にまつはれたるは、いとあはれなり。
 
 たいそう小柄な人で、いつものご病気で痩せ衰え、ひ弱で、髪はとても清らかに長かったが、半分にしたように抜け落ちて細くなって、櫛梳ることもほとんどなさらず、涙で固まっているのは、とてもお気の毒である。
 
   こまかに匂へるところはなくて、父宮に似たてまつりて、なまめいたる容貌したまへるを、もてやつしたまへれば、いづこのはなやかなるけはひかはあらむ。
 
 つややかに美しいところはなくて、父宮にお似申して、優美な器量をなさっていたが、身なりを構わないでいられるので、どこに華やかな感じがあろうか。
 
   「宮の御ことを、軽くはいかが聞こゆる。
 恐ろしう、人聞きかたはになのたまひなしそ」とこしらへて、
 「宮の御事を、軽んじたりどうして思い申そう。
 恐ろしい、人聞きの悪いおっしゃりようをなさいますな」となだめて、
   「かの通ひはべる所の、いとまばゆき玉の台に、うひうひしう、きすくなるさまにて出で入るほども、かたがたに人目たつらむと、かたはらいたければ、心やすく移ろはしてむと思ひはべるなり。
 
 「あの通っております所の、たいそう眩しい玉の御殿に、もの馴れない、生真面目な恰好で出入りしているのも、あれこれ人目に立つだろうと、気がひけるので、気楽に迎えてしまおうと考えているのです。
 
   太政大臣の、さる世にたぐひなき御おぼえをば、さらにも聞こえず、心恥づかしう、いたり深うおはすめる御あたりに、憎げなること漏り聞こえば、いとなむいとほしう、かたじけなかるべき。
 
 太政大臣が、ああした世に比べるものもないご声望を、今さら申し上げるまでもなく、恥ずかしくなるほど、行き届いていらっしゃるお邸に、よくない噂が漏れ聞こえては、たいそうお気の毒であるし、恐れ多いことでしょう。
 
   なだらかにて、御仲よくて、語らひてものしたまへ。
 宮に渡りたまへりとも、忘るることははべらじ。
 とてもかうても、今さらに心ざしの隔たることはあるまじけれど、世の聞こえ人笑へに、まろがためにも軽々しうなむはべるべきを、年ごろの契り違へず、かたみに後見むと、思せ」
 穏やかにして、お二人仲を好くして、親しく付き合ってください。
 宮邸にお渡りになっても、忘れることはございませんでしょう。
 いずれにせよ、今さらわたしの気持ちが遠ざかることはあるはずはないのですが、世間の噂や物笑いに、わたしにとっても軽々しいことでございましょうから、長年の約束を違えず、お互いに力になり合おうと、お考えください」
   と、こしらへ聞こえたまへば、  と、とりなし申し上げなさると、
   「人の御つらさは、ともかくも知りきこえず。
 世の人にも似ぬ身の憂きをなむ、宮にも思し嘆きて、今さらに人笑へなることと、御心を乱りたまふなれば、いとほしう、いかでか見えたてまつらむ、となむ。
 
 「あなたのお仕打ちは、どうこうと申しません。
 世間の人と違った身の病を、父宮におかれてもお嘆きになって、今さら物笑いになることと、お心を痛めていらっしゃるとのことなので、お気の毒で、どうしてお目にかかれましょう、と思うのです。
 
   大殿の北の方と聞こゆるも、異人にやはものしたまふ。
 かれは、知らぬさまにて生ひ出でたまへる人の、末の世に、かく人の親だちもてないたまふつらさをなむ、思ほしのたまふなれど、ここにはともかくも思はずや。
 もてないたまはむさまを見るばかり」
 大殿の北の方と申し上げる方も、他人でいらっしゃいましょうか。
 あの方は、知らない状態で成長なさった方で、後になって、このように人の親のように振る舞っていらっしゃる辛さを考えて、お口になさるようですが、わたしの方では何とも思っていませんわ。
 なさりよう見ているばかりです」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「いとようのたまふを、例の御心違ひにや、苦しきことも出で来む。
 大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず。
 いつき女のやうにてものしたまへば、かく思ひ落とされたる人の上までは知りたまひなむや。
 人の御親げなくこそものしたまふべかめれ。
 かかることの聞こえあらば、いとど苦しかるべきこと」
 「たいそう良いことをおっしゃるが、いつものご乱心では、困ったことも起こるでしょう。
 大殿の北の方がご存知になることでもございません。
 箱入り娘のようでいらっしゃっるので、このように軽蔑された人の身の上まではご存知のはずがありません。
 あの人の親らしくなくおいでのようです。
 このようなことが耳に入ったら、ますます困ることでしょう」
   など、日一日入りゐて、語らひ申したまふ。
 
 などと、一日中お側で、お慰め申し上げなさる。
 
 
 

第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする

 
   暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで出でなむと思ほすに、雪かきたれて降る。
 かかる空にふり出でむも、人目いとほしう、この御けしきも、憎げにふすべ恨みなどしたまはば、なかなかことつけて、われも迎ひ火つくりてあるべきを、いとおいらかに、つれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦しければ、いかにせむ、と思ひ乱れつつ、格子などもさながら、端近ううち眺めてゐたまへり。
 
 日が暮れたので、気もそぞろになって、何とか出かけたいとお思いになるが、雪がまっくらにして降っている。
 このような天候にあえて出かけるのも、人目に立ってお気の毒であるし、このご様子も憎らしく嫉妬して恨みなどなさるならば、かえってそれを口実にして、自分も対抗して出て行くのだが、たいそうおっとりと、気にかけていらっしゃらない様子が、たいそうお気の毒なので、どうしようか、と迷いながら、格子なども上げたまま、端近くに物思いに耽っていらっしゃった。
 
   北の方けしきを見て、  北の方がその様子を見て、
   「あやにくなめる雪を、いかで分けたまはむとすらむ。
 夜も更けぬめりや」
 「あいにくな雪ですが、どう踏み分けてお出かけなさろうとするのでしょう。
 夜も更けたようですわ」
   とそそのかしたまふ。
 「今は限り、とどむとも」と思ひめぐらしたまへるけしき、いとあはれなり。
 
 とお促しになる。
 「今はもうおしまいだ、引き止めたところで」と思案なさっている様子、まことに不憫である。
 
   「かかるには、いかでか」  「このような雪では、どうして出かけられようか」
   とのたまふものから、  とおっしゃる一方で、
   「なほ、このころばかり。
 心のほどを知らで、とかく人の言ひなし、大臣たちも、左右に聞き思さむことを憚りてなむ、とだえあらむはいとほしき。
 思ひしづめて、なほ見果てたまへ。
 ここになど渡しては、心やすくはべりなむ。
 かく世の常なる御けしき見えたまふ時は、ほかざまに分くる心も失せてなむ、あはれに思ひきこゆる」
 「やはり、ここ当分の間だけは。
 わたしの気持ちを知らないで、何かと人が噂し、大臣たちもあれこれとお耳になさろうことを憚って、途絶えを置くのは気の毒です。
 落ち着いて、やはりわたしの気持ちをお見届けください。
 こちらになど迎えたら、気がねもなくなるでしょう。
 このように普通のご様子をしていらっしゃる時は、他の女に心を移すこともなくなって、いとおしくお思い申し上げます」
   など、語らひたまへば、  などと、お慰めなさると、
   「立ちとまりたまひても、御心のほかならむは、なかなか苦しうこそあるべけれ。
 よそにても、思ひだにおこせたまはば、袖の氷も解けなむかし」
 「お止まりになっても、お心が他に行っているのなら、かえってつらいことでございましょう。
 他の所にいても、せめて思い出してくだされば、涙に濡れた袖の氷もきっと解けることでしょう」
   など、なごやかに言ひゐたまへり。
 
 などと、穏やかにおっしゃっていられる。
 
 
 

第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける

 
   御火取り召して、いよいよ焚きしめさせたてまつりたまふ。
 みづからは、萎えたる御衣ども、うちとけたる御姿、いとど細う、か弱げなり。
 しめりておはする、いと心苦し。
 御目のいたう泣き腫れたるぞ、すこしものしけれど、いとあはれと見る時は、罪なう思して、
 御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせてお上げになる。
 自分自身は、皺になったお召物類で、身なりを構わないお姿が、ますますほっそりとか弱げである。
 沈んでいらっしゃるのは、たいそうお気の毒である。
 お目をたいそう泣き腫らしているのは、少し疎ましいが、しみじみといとおしいと見る時は、咎める気もお消えになって、
   「いかで過ぐしつる年月ぞ」と、「名残なう移ろふ心のいと軽きぞや」とは思ふ思ふ、なほ心懸想は進みて、そら嘆きをうちしつつ、なほ装束したまひて、小さき火取り取り寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり。
 
 「どうして今まで疎遠にしてきたのか」と、「すっかり心変わりした自分が何とも軽薄だ」とは思いながらも、やはり気持ちははやって、溜息をつきながら、やはりお召物を整えなさって、小さい香炉を取り寄せて、袖に入れてたきしめていらっしゃった。
 
   なつかしきほどに萎えたる御装束に、容貌も、かの並びなき御光にこそ圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、ただ人と見えず、心恥づかしげなり。
 
 やさしいほどに着馴れたお召物で、器量も、あの並ぶ人のないお方には圧倒されるが、たいそうすっきりした男性らしい感じで、普通の人とは見えず、気おくれするほど立派である。
 
   侍に、人びと声して、  侍所で、供人たちが声立てて、
   「雪すこし隙あり。
 夜は更けぬらむかし」
 「雪が小止みです。
 夜が更けてしまいましょう」
   など、さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、声づくりあへり。
 
 などと、それでもあらわには言わないで、お促し申して、咳払いをし合っている。
 
   中将、木工など、「あはれの世や」などうち嘆きつつ、語らひて臥したるに、正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへり、と見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふほど、人のややみあふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ。
 
 中将の君や、木工の君などは、「おいたわしいことだわ」などと嘆きながら、話し合って臥しているが、ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる。
 
   さるこまかなる灰の、目鼻にも入りて、おぼほれてものもおぼえず。
 払ひ捨てたまへど、立ち満ちたれば、御衣ども脱ぎたまひつ。
 
 あのような細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼうっとして何も分からない。
 払い除けなさるが、立ちこめているので、お召物をお脱ぎになった。
 
   うつし心にてかくしたまふぞと思はば、またかへりみすべくもあらずあさましけれど、  正気でこのようなことをなさると思ったら、二度と見向く気にもなれず驚くほかないが、
   「例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」  「例の物の怪が、人から嫌われるようにしようとしていることだ」
   と、御前なる人びとも、いとほしう見たてまつる。
 
 と、お側の女房たちもお気の毒に拝し上げる。
 
   立ち騷ぎて、御衣どもたてまつり替へなどすれど、そこらの灰の、鬢のわたりにも立ちのぼり、よろづの所に満ちたる心地すれば、きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参うでたまふべきにもあらず。
 
 大騒ぎになって、お召物をお召し替えなどするが、たくさんの灰が鬢のあたりにも舞い上がり、すべての所にいっぱいの気がするので、善美を尽くしていらっしゃる所に、このまま参上なさることはできない。
 
   「心違ひとはいひながら、なほめづらしう、見知らぬ人の御ありさまなりや」と爪弾きせられ、疎ましうなりて、あはれと思ひつる心も残らねど、「このころ、荒立てては、いみじきこと出で来なむ」と思ししづめて、夜中になりぬれど、僧など召して、加持参り騒ぐ。
 呼ばひののしりたまふ声など、思ひ疎みたまはむにことわりなり。
 
 「気が違っているとはいっても、やはり珍しい、見たこともないご様子だ」と愛想も尽き、疎ましくなって、いとしいと思っていた気持ちも消え失せたが、「今、事を荒立てたら、大変なことになるだろう」と心を鎮めて、夜中になったが、僧などを呼んで、加持をさせる騷ぎとなる。
 わめき叫んでいらっしゃる声など、お嫌いになるのもごもっともである。
 
 
 

第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る

 
   夜一夜、打たれ引かれ、泣きまどひ明かしたまひて、すこしうち休みたまへるほどに、かしこへ御文たてまつれたまふ。
 
 一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて夜をお明かしになって、少しお静かになっているころに、あちらへお手紙を差し上げなさる。
 
   「昨夜、にはかに消え入る人のはべしにより、雪のけしきもふり出でがたく、やすらひはべしに、身さへ冷えてなむ。
 御心をばさるものにて、人いかに取りなしはべりけむ」
 「昨夜、急に意識を失った人が出まして、雪の降り具合も出掛けにくく、ためらっておりましたところ、身体までが冷えてしまいました。
 あなたのお気持ちはもちろんのこと、周囲の人はどのように取り沙汰したことでございましょう」
   と、きすくに書きたまへり。  と、生真面目にお書きになっている。
 

409
 「心さへ 空に乱れし 雪もよに
 ひとり冴えつる 片敷の袖
 「心までが中空に思い乱れましたこの雪に
  独り冷たい片袖を敷いて寝ました
 
   堪へがたくこそ」  耐えられませんでした」
   と、白き薄様に、つつやかに書いたまへれど、ことにをかしきところもなし。
 手はいときよげなり。
 才かしこくなどぞものしたまひける。
 
 と、白い薄様に、重々しくお書きになっているが、格別風情のあるところもない。
 筆跡はたいそうみごとである。
 漢学の才能は高くいらっしゃるのであった。
 
   尚侍の君、夜がれを何とも思されぬに、かく心ときめきしたまへるを、見も入れたまはねば、御返りなし。
 男、胸つぶれて、思ひ暮らしたまふ。
 
 尚侍の君は、夜離れを何ともお思いなさらないので、このように心はやっていらっしゃるのを、御覧にもならないので、お返事もない。
 男は、落胆して、一日中物思いをなさる。
 
   北の方は、なほいと苦しげにしたまへば、御修法など始めさせたまふ。
 心のうちにも、「このころばかりだに、ことなく、うつし心にあらせたまへ」と念じたまふ。
 「まことの心ばへのあはれなるを見ず知らずは、かうまで思ひ過ぐすべくもなきけ疎さかな」と、思ひゐたまへり。
 
 北の方は、依然としてたいそう苦しそうになさっているので、御修法などを始めさせなさる。
 心の中でも、「せめてもう暫くの間だけでも、何事もなく、正気でいらっしゃってください」とお祈りになる。
 「ほんとうの気立てが優しいのを知らなかったら、こんなにまで我慢できない気味悪さだ」と、思っていらっしゃった。
 
 
 

第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う

 
   暮るれば、例の、急ぎ出でたまふ。
 御装束のことなども、めやすくしなしたまはず、世にあやしう、うちあはぬさまにのみむつかりたまふを、あざやかなる御直衣なども、え取りあへたまはで、いと見苦し。
 
 日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる。
 お召物のことなども、体裁よく整えなさらず、まことに奇妙で身にそぐわないとばかり不機嫌でいらっしゃるが、立派な御直衣などは、間に合わせることがおできになれず、たいそう見苦しい。
 
   昨夜のは、焼けとほりて、疎ましげに焦れたるにほひなども、ことやうなり。
 御衣どもに移り香もしみたり。
 ふすべられけるほどあらはに、人も倦じたまひぬべければ、脱ぎ替へて、御湯殿など、いたうつくろひたまふ。
 
 昨夜のは、焼け穴があいて、気味悪く焦げた匂いがするのも異様である。
 御下着にまでその匂いが染みていた。
 嫉妬された跡がはっきりして、相手もお嫌いになるに違いないので、脱ぎ替えて、御湯殿などで、たいそう身繕いをなさる。
 
   木工の君、御薫物しつつ、  木工の君、お召物に香をたきしめながら、
 

410
 「ひとりゐて 焦がるる胸の 苦しきに
 思ひあまれる 炎とぞ見し
 「北の方が独り残されて、思い焦がれる胸の苦しさが
  思い余って炎となったその跡と拝見しました
 
   名残なき御もてなしは、見たてまつる人だに、ただにやは」  すっかり変わったお仕打ちは、お側で拝見する者でさえも、平気でいられましょうか」
   と、口おほひてゐたる、まみ、いといたし。
 されど、「いかなる心にて、かやうの人にものを言ひけむ」などのみぞおぼえたまひける。
 情けなきことよ。
 と、口もとをおおっている、目もとは、たいそう魅力的である。
 けれども、「どのような気持ちからこのような女に情けをかけたのだろう」などとだけ思われなさるのであった。
 薄情なことであるよ。
 

411
 「憂きことを 思ひ騒げば さまざまに
 くゆる煙ぞ いとど立ちそふ
 「嫌なことを思って心が騒ぐので、あれこれと
  後悔の炎がますます立つのだ
 
   いとことのほかなることどもの、もし聞こえあらば、中間になりぬべき身なめり」  まったくとんでもない事が、もし先方の耳に入ったら、宙ぶらりな身の上となるだろう」
   と、うち嘆きて出でたまひぬ。
 
 と、溜息ついてお出かけになった。
 
   一夜ばかりの隔てだに、まためづらしう、をかしさまさりておぼえたまふありさまに、いとど心を分くべくもあらずおぼえて、心憂ければ、久しう籠もりゐたまへり。
 
 一夜会わなかっただけなのに、改めて珍しいほどに、美しさが増して見えなさるご様子に、ますます心を他の女に分けることもできないように思われて、憂鬱なので、長い間居続けていらっしゃった。
 
 
 

第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る

 
 

第一段 式部卿宮、北の方を迎えに来る

 
   修法などし騒げど、御もののけこちたくおこりてののしるを聞きたまへば、「あるまじき疵もつき、恥ぢがましきこと、かならずありなむ」と、恐ろしうて寄りつきたまはず。
 
 修法などを盛んにしたが、物の怪がうるさく起こってわめいているのをお聞きになると、「あってはならない不名誉なことにもなり、外聞の悪いことが、きっと出てこよう」と、恐ろしくて寄りつきなさらない。
 
   殿に渡りたまふ時も、異方に離れゐたまひて、君達ばかりをぞ呼び放ちて見たてまつりたまふ。
 女一所、十二、三ばかりにて、また次々、男二人なむおはしける。
 近き年ごろとなりては、御仲も隔たりがちにてならはしたまへれど、やむごとなう、立ち並ぶ方なくてならひたまへれば、「今は限り」と見たまふに、さぶらふ人びとも、「いみじう悲し」と思ふ。
 
 邸にお帰りになる時も、別の部屋に離れていらして、子どもたちだけを呼び出してお会い申しなさる。
 女の子が一人、十二、三歳ほどで、またその下に、男の子が二人いらっしゃるのであった。
 最近になって、ご夫婦仲も離れがちでいらっしゃるが、れっきとした方として、肩を並べる人もなくて暮らして来られたので、「いよいよ最後だ」とお考えになると、お仕えしている女房たちも「ひどく悲しい」と思う。
 
   父宮、聞きたまひて、  父宮が、お聞きになって、
   「今は、しかかけ離れて、もて出でたまふらむに、さて、心強くものしたまふ、いと面なう人笑へなることなり。
 おのがあらむ世の限りは、ひたぶるにしも、などか従ひくづほれたまはむ」
 「今は、あのように別居して、はっきりした態度をとっておいでだというのに、それにしても、辛抱していらっしゃる、たいそう不面目な物笑いなことだ。
 自分が生きている間は、そう一途に、どうして相手の言いなりに従っていらっしゃることがあろうか」
   と聞こえたまひて、にはかに御迎へあり。
 
 と申し上げなさって、急にお迎えがある。
 
   北の方、御心地すこし例になりて、世の中をあさましう思ひ嘆きたまふに、かくと聞こえたまへれば、  北の方は、ご気分が少し平常になって、夫婦仲を情けなく思い嘆いていらっしゃると、このようにお申し上げになっているので、
   「しひて立ちとまりて、人の絶え果てむさまを見果てて、思ひとぢめむも、今すこし人笑へにこそあらめ」  「無理して立ち止まって、すっかり見捨てられるのを見届けて、諦めをつけるのも、さらに物笑いになるだろう」
   など思し立つ。
 
 などと、ご決心なさる。
 
   御兄弟の君達、兵衛督は、上達部におはすれば、ことことしとて、中将、侍従、民部大輔など、御車三つばかりしておはしたり。
 「さこそはあべかめれ」と、かねて思ひつることなれど、さしあたりて今日を限りと思へば、さぶらふ人びとも、ほろほろと泣きあへり。
 
 ご兄弟の公達、兵衛督は、上達部でいらっしゃるので、仰々しいというので、中将、侍従、民部大輔など、お車三台程でいらっしゃった。
 「きっとそうなるだろう」と、以前から思っていたことであるが、目の前に、今日がその終わりと思うと、仕えている女房たちも、ぽろぽろと涙をこぼし泣き合っていた。
 
   「年ごろならひたまはぬ旅住みに、狭くはしたなくては、いかでかあまたはさぶらはむ。
 かたへは、おのおの里にまかでて、しづまらせたまひなむに」
 「長年ご経験のないよそでのお住まいで、手狭で気の置ける所では、どうして大勢の女房が仕えられようか。
 何人かは、それぞれ実家に下がって、落ち着きになられてから」
   など定めて、人びとおのがじし、はかなきものどもなど、里に払ひやりつつ、乱れ散るべし。
 御調度どもは、さるべきは皆したため置きなどするままに、上下泣き騒ぎたるは、いとゆゆしく見ゆ。
 
 などと決めて、女房たちはそれぞれ、ちょっとした荷物など、実家に運び出したりして、散り散りになるのであろう。
 お道具類は、必要な物は皆荷作りなどしながら、上の者や下の者が泣き騒いでいるのは、たいそう不吉に見える。
 
 
 

第二段 母君、子供たちを諭す

 
   君たちは、何心もなくてありきたまふを、母君、皆呼び据ゑたまひて、  お子様たちは、無心に歩き回っていられるのを、母君、皆を呼んで座らせなさって、
   「みづからは、かく心憂き宿世、今は見果てつれば、この世に跡とむべきにもあらず、ともかくもさすらへなむ。
 生ひ先遠うて、さすがに、散りぼひたまはむありさまどもの、悲しうもあべいかな。
 
 「わたしは、このようにつらい運命を、今は見届けてしまったので、この世に生き続ける気もありません。
 どうなりとなって行くことでしょう。
 将来があるのに、何といっても、散り散りになって行かれる様子が、悲しいことです。
 
   姫君は、となるともかうなるとも、おのれに添ひたまへ。
 なかなか、男君たちは、えさらず参うで通ひ見えたてまつらむに、人の心とどめたまふべくもあらず、はしたなうてこそただよはめ。
 
 姫君は、どうなるにせよ、わたしについていらっしゃい。
 かえって、男の子たちは、どうしてもお父様のもとに参上してお会いしなければならないでしょうが、構ってもくださらないでしょうし、どっちつかずの頼りない生活になるでしょう。
 
   宮のおはせむほど、形のやうに交じらひをすとも、かの大臣たちの御心にかかれる世にて、かく心おくべきわたりぞと、さすがに知られて、人にもなり立たむこと難し。
 さりとて、山林に引き続きまじらむこと、後の世までいみじきこと」
 父宮が生きていらっしゃるうちは、型通りに宮仕えはしても、あの大臣たちのお心のままの世の中ですから、あの気を許せない一族の者よと、やはり目をつけられて、立身することも難しい。
 それだからといって、山林に続いて入って出家することも、来世まで大変なこと」
   と泣きたまふに、皆、深き心は思ひ分かねど、うちひそみて泣きおはさうず。
 
 とお泣きになると、皆、深い事情は分からないが、べそをかいて泣いていらっしゃる。
 
   「昔物語などを見るにも、世の常の心ざし深き親だに、時に移ろひ、人に従へば、おろかにのみこそなりけれ。
 まして、形のやうにて、見る前にだに名残なき心は、かかりどころありてももてないたまはじ」
 「昔物語などを見ても、世間並の愛情深い親でさえ、時勢に流され、人の言うままになって、冷たくなって行くものです。
 まして、形だけの親のようで、見ている前でさえすっかり変わってしまったお心では、頼りになるようなお扱いをなさるまい」
   と、御乳母どもさし集ひて、のたまひ嘆く。
 
 と、乳母たちも集まって、おっしゃり嘆く。
 
 
 

第三段 姫君、柱の隙間に和歌を残す

 
   日も暮れ、雪降りぬべき空のけしきも、心細う見ゆる夕べなり。
 
 日も暮れ、雪も降って来そうな空模様も、心細く見える夕方である。
 
   「いたう荒れはべりなむ。
 早う」
 「ひどく荒れて来ましょう。
 お早く」
   と、御迎への君達そそのかしきこえて、御目おし拭ひつつ眺めおはす。
 姫君は、殿いとかなしうしたてまつりたまふならひに、
 と、お迎えの公達はお促し申し上げるが、お目を拭いながら物思いに沈んでいらっしゃる。
 姫君は、殿がたいそうかわいがって、懐いていらっしゃっるので、
   「見たてまつらではいかでかあらむ。
 『今』なども聞こえで、また会ひ見ぬやうもこそあれ」
 「お目にかからないではどうして行けようか。
 『これで』などと挨拶しないで、再び会えないことになるかもしれない」
   と思ほすに、うつぶし伏して、「え渡るまじ」と思ほしたるを、  とお思いになると、突っ伏して、「とても出かけられない」とお思いでいるのを、
   「かく思したるなむ、いと心憂き」  「そのようなお考えでいらっしゃるとは、とても情けない」
   など、こしらへきこえたまふ。
 「ただ今も渡りたまはなむ」と、待ちきこえたまへど、かく暮れなむに、まさに動きたまひなむや。
 
 などと、おなだめ申し上げなさる。
 「今すぐにも、お父様がお帰りになってほしい」とお待ち申し上げなさるが、このように日が暮れようとする時、あちらをお動きなさろうか。
 
   常に寄りゐたまふ東面の柱を、人に譲る心地したまふもあはれにて、姫君、桧皮色の紙の重ね、ただいささかに書きて、柱の干割れたるはさまに、笄の先して押し入れたまふ。
 
 いつも寄りかかっていらっしゃる東面の柱を、他人に譲る気がなさるのも悲しくて、姫君、桧皮色の紙を重ねたのに、ほんのちょっと書いて、柱のひび割れた隙間に、笄の先でお差し込みなさる。
 
 

412
 「今はとて 宿かれぬとも 馴れ来つる
 真木の柱は われを忘るな」
 「今はもうこの家を離れて行きますが、わたしが馴れ親しんだ
  真木の柱はわたしを忘れないでね」
 
   えも書きやらで泣きたまふ。
 母君、「いでや」とて、
 最後まで書き終わることもできずお泣きになる。
 母君、「いえ、なんの」と言って、
 

413
 「馴れきとは 思ひ出づとも 何により
 立ちとまるべき 真木の柱ぞ」
 「長年馴れ親しんで来た真木柱だと思い出しても
  どうしてここに止まっていられましょうか」
 
   御前なる人びとも、さまざまに悲しく、「さしも思はぬ木草のもとさへ恋しからむこと」と、目とどめて、鼻すすりあへり。
 
 お側に仕える女房たちも、それぞれに悲しく、「それほどまで思わなかった木や草のことまで、恋しいことでしょう」と、目を止めて、鼻水をすすり合っていた。
 
   木工の君は、殿の御方の人にてとどまるに、中将の御許、  木工の君は、殿の女房として留まるので、中将の御許は、
 

414
 「浅けれど 石間の水は 澄み果てて
 宿もる君や かけ離るべき
 「浅い関係のあなたが残って、邸を守るはずの北の方様が
  出て行かれることがあってよいものでしょうか
 
   思ひかけざりしことなり。
 かくて別れたてまつらむことよ」
 思いもしなかったことです。
 こうしてお別れ申すとは」
   と言へば、木工、  と言うと、木工の君は、
 

415
 「ともかくも 岩間の水の 結ぼほれ
 かけとむべくも 思ほえぬ世を
 「どのように言われても、わたしの心は悲しみに閉ざされて
  いつまでここに居られますことやら
 
   いでや」  いや、そのような」
   とてうち泣く。
 
 と言って泣く。
 
   御車引き出でて返り見るも、「またはいかでかは見む」と、はかなき心地す。
 梢をも目とどめて、隠るるまでぞ返り見たまひける。
 君が住むゆゑにはあらで、ここら年経たまへる御住みかの、いかでか偲びどころなくはあらむ。
 
 お車を引き出して振り返って見るのも、「再び見ることができようか」と、心細い気がする。
 梢にも目を止めて、見えなくなるまで振り返って御覧になるのであった。
 君が住んでいるからではなく、長年お住まいになった所が、どうして名残惜しくないことがあろうか。
 
 
 

第四段 式部卿宮家の悲憤慷慨

 
   宮には待ち取り、いみじう思したり。
 母北の方、泣き騷ぎたまひて、
 宮邸では待ち受けて、たいそうお悲しみである。
 母の北の方、泣き騷ぎなさって、
   「太政大臣を、めでたきよすがと思ひきこえたまへれど、いかばかりの昔の仇敵にかおはしけむとこそ思ほゆれ。
 
 「太政大臣を、結構なご親戚とお思い申し上げていらっしゃるが、どれほどの昔からの仇敵でいらっしゃったのだろうと思われます。
 
   女御をも、ことに触れ、はしたなくもてなしたまひしかど、それは、御仲の恨み解けざりしほど、思ひ知れとにこそはありけめと思しのたまひ、世の人も言ひなししだに、なほ、さやはあるべき。
 
 女御にも、何かにつけて、冷淡なお仕打ちをなさったが、それは、お二人の間の恨み事が解けなかったころ、思い知れということであったであろうと、思ったりおっしゃったりもし、世間の人もそう言っていたのでさえ、やはり、そあってよいことでしょうか。
 
   人一人を思ひかしづきたまはむゆゑは、ほとりまでもにほふ例こそあれと、心得ざりしを、まして、かく末に、すずろなる継子かしづきをして、おのれ古したまへるいとほしみに、実法なる人のゆるぎどころあるまじきをとて、取り寄せもてかしづきたまふは、いかがつらからぬ」  一人を大切になさるのであれば、その周辺までもお蔭を蒙るという例はあるものだと、納得行きませんでしたが、まして、このような晩年になって、わけの分からない継子の世話をして、自分が飽きたのを気の毒に思って、律儀者で浮気しそうのない人をと思って、婿に迎えて大切になさるのは、どうして辛くないことでしょうか」
   と、言ひ続けののしりたまへば、宮は、  と、大声で言い続けなさるので、宮は、
   「あな、聞きにくや。
 世に難つけられたまはぬ大臣を、口にまかせてなおとしめたまひそ。
 かしこき人は、思ひおき、かかる報いもがなと、思ふことこそはものせられけめ。
 さ思はるるわが身の不幸なるにこそはあらめ。
 
 「ああ、聞き苦しい。
 世間から非難されることのおありでない大臣を、口から出任せに悪くおっしゃるものではありませんよ。
 賢明な方は、かねてから考えていて、このような報復をしようと、思うことがおありだったのだろう。
 そのように思われるわが身の不幸なのだろう。
 
   つれなうて、皆かの沈みたまひし世の報いは、浮かべ沈め、いとかしこくこそは思ひわたいたまふめれ。
 おのれ一人をば、さるべきゆかりと思ひてこそは、一年も、さる世の響きに、家よりあまることどももありしか。
 それをこの生の面目にてやみぬべきなめり」
 なにげないふうで、すべてあの苦しみなさった報復は、引き上げたり落としたり、たいそう賢く考えていらっしゃるようだ。
 わたし一人は、しかるべき親戚だと思って、先年も、あのような世間の評判になるほどに、わが家には過ぎたお祝賀があった。
 そのことを生涯の名誉と思って、満足すべきなのだろう」
   とのたまふに、いよいよ腹立ちて、まがまがしきことなどを言ひ散らしたまふ。
 この大北の方ぞ、さがな者なりける。
 
 とおっしゃると、ますます腹が立って、不吉な言葉を言い散らしなさる。
 この大北の方は、性悪な人だったのである。
 
   大将の君、かく渡りたまひにけるを聞きて、  大将の君は、このようにお移りになってしまったことを聞いて、
   「いとあやしう、若々しき仲らひのやうに、ふすべ顔にてものしたまひけるかな。
 正身は、しかひききりに際々しき心もなきものを、宮のかく軽々しうおはする」
 「まことに妙な、年若い夫婦のように、やきもちを焼いたようなことをなさったものだなあ。
 ご本人には、そのようなせっかちできっぱりした性分もないのに、宮があのように軽率でいらっしゃる」
   と思ひて、君達もあり、人目もいとほしきに、思ひ乱れて、尚侍の君に、  と思って、御子息もあり、世間体も悪いので、いろいろと思案に困って、尚侍の君に、
   「かくあやしきことなむはべる。
 なかなか心やすくは思ひたまへなせど、さて片隅に隠ろへてもありぬべき人の心やすさを、おだしう思ひたまへつるに、にはかにかの宮ものしたまふならむ。
 人の聞き見ることも情けなきを、うちほのめきて、参り来なむ」
 「こんな妙なことがございましたようです。
 かえって気楽に存じられますが、そのまま邸の片隅に引っ込んでいてもよい気楽な人と、安心しておりましたのに、急にあの宮がなさったのでしょう。
 世間が見たり聞いたりことも薄情なので、ちょっと顔を出して、すぐに戻ってまいりましょう」
   とて出でたまふ。
 
 と言って、お出になる。
 
   よき上の御衣、柳の下襲、青鈍の綺の指貫着たまひて、引きつくろひたまへる、いとものものし。
 「などかは似げなからむ」と、人びとは見たてまつるを、尚侍の君は、かかることどもを聞きたまふにつけても、身の心づきなう思し知らるれば、見もやりたまはず。
 
 立派な袍のお召物に、柳の下襲、青鈍色の綺の指貫をお召しになって、身なりを整えていらっしゃる、まことに堂々としている。
 「どうして不似合いなところがあろうか」と、女房たちは拝見するが、尚侍の君は、このようなことをお聞きになるにつけても、わが身が情けなく思わずにはいらっしゃれないので、見向きもなさらない。
 
 
 

第五段 鬚黒、式部卿宮家を訪問

 
   宮に恨み聞こえむとて、参うでたまふままに、まづ、殿におはしたれば、木工の君など出で来て、ありしさま語りきこゆ。
 姫君の御ありさま聞きたまひて、男々しく念じたまへど、ほろほろとこぼるる御けしき、いとあはれなり。
 
 宮に苦情を申し上げようと思って、参上なさるついでに、先に、自邸にいらっしゃると、木工の君などが出てきて、その時の様子をお話し申し上げる。
 姫君のご様子をお聞きになって、男らしく堪えていらっしゃるが、ぽろぽろと涙がこぼれるご様子、たいそうお気の毒である。
 
   「さても、世の人にも似ず、あやしきことどもを見過ぐすここらの年ごろの心ざしを、見知りたまはずありけるかな。
 いと思ひのままならむ人は、今までも立ちとまるべくやはある。
 よし、かの正身は、とてもかくても、いたづら人と見えたまへば、同じことなり。
 幼き人びとも、いかやうにもてなしたまはむとすらむ」
 「それにしても、世間の人と違い、おかしな振る舞いの数々を大目に見てきた長年の気持ちを、ご理解なさらなかったのかな。
 ひどくわがままな人は、今までも一緒にいただろうか。
 まあよい、あの本人は、どうなったところで、廃人にお見えになるから、同じことだ。
 子どもたちも、どうなさろうというのだろうか」
   と、うち嘆きつつ、かの真木柱を見たまふに、手も幼けれど、心ばへのあはれに恋しきままに、道すがら涙おしのごひつつ参うでたまへれば、対面したまふべくもあらず。
 
 と、嘆息しながら、あの真木の柱を御覧になると、筆跡も幼稚だが、気立てがしみじみといじらしくて、道すがら、涙を押し拭い押し拭い参上なさると、お会いになれるはずもない。
 
   「何か。
 ただ時に移る心の、今はじめて変はりたまふにもあらず。
 年ごろ思ひうかれたまふさま、聞きわたりても久しくなりぬるを、いづくをまた思ひ直るべき折とか待たむ。
 いとどひがひがしきさまにのみこそ見え果てたまはめ」
 「何の。
 ただ時勢におもねる心が、今初めてお変わりになったのではない。
 年来うつつを抜かしていらっしゃる様子を、長いこと聞いてはいたが、いつを再び改心する時かと待てようか。
 ますます、奇妙な姿を現すばかりで終わることにおなりになろう」
   と諌め申したまふ、ことわりなり。
 
 とご意見申される、もっともなことである。
 
   「いと、若々しき心地もしはべるかな。
 思ほし捨つまじき人びともはべればと、のどかに思ひはべりける心のおこたりを、かへすがへす聞こえてもやるかたなし。
 今はただ、なだらかに御覧じ許して、罪さりどころなう、世人にもことわらせてこそ、かやうにももてないたまはめ」
 「まったく、大人げない気がしますな。
 お見捨てになるはずもない子供たちもいますのでと、のんきに構えておりましたわたしの不行届を、繰り返しお詫び申しても、お詫びの申しようがありません。
 今はただ、穏便に大目に見て下さって、罪は免れがたく、世間の人にも分からせた上で、このようにもなさるのがよい」
   など、聞こえわづらひておはす。
 「姫君をだに見たてまつらむ」と聞こえたまへれど、出だしたてまつるべくもあらず。
 
 などと、説得申すのに苦慮していらっしゃる。
 「せめて姫君にだけでもお会いしたい」と申し上げなさっているが、お出し申すはずもない。
 
   男君たち、十なるは、殿上したまふ。
 いとうつくし。
 人にほめられて、容貌などようはあらねど、いとらうらうじう、ものの心やうやう知りたまへり。
 
 男の子たち、十歳になるのは、童殿上なさっている。
 とてもかわいらしい。
 人からほめられて、器量など優れてはいないが、たいそう利発で、物の道理をだんだんお分りになっていらした。
 
   次の君は、八つばかりにて、いとらうたげに、姫君にもおぼえたれば、かき撫でつつ、  次の君は、八歳ほどで、とても可憐で、姫君にも似ているので、撫でながら、
   「あこをこそは、恋しき御形見にも見るべかめれ」  「おまえを恋しい姫君のお形見と思って見ることにしよう」
   など、うち泣きて語らひたまふ。
 宮にも、御けしき賜はらせたまへど、
 などと、涙を流してお話しなさる。
 宮にも、ご内意を伺ったが、
   「風邪おこりて、ためらひはべるほどにて」  「風邪がひどくて、養生しております時なので」
   とあれば、はしたなくて出でたまひぬ。
 
 と言うので、不体裁な思いで退出なさった。
 
 
 

第六段 鬚黒、男子二人を連れ帰る

 
   小君達をば車に乗せて、語らひおはす。
 六条殿には、え率ておはせねば、殿にとどめて、
 幼い男の子たちを車に乗せて、親しく話しながらお帰りになる。
 六条殿には連れて行くことがおできになれないので、邸に残して、
   「なほ、ここにあれ。
 来て見むにも心やすかるべく」
 「やはり、ここにいなさい。
 会いに来るのにも安心して来られるであろうから」
   とのたまふ。
 うち眺めて、いと心細げに見送りたるさまども、いとあはれなるに、もの思ひ加はりぬる心地すれど、女君の御さまの、見るかひありてめでたきに、ひがひがしき御さまを思ひ比ぶるにも、こよなくて、よろづを慰めたまふ。
 
 とおっしゃる。
 悲しみにくれて、たいそう心細そうに見送っていらっしゃる様子、たいそうかわいそうなので、心配の種が増えたような気がするが、女君のご様子が、見がいがあって立派なので、気違いじみたご様子と比べると、格段の相違で、すべてお慰めになる。
 
   うち絶えて訪れもせず、はしたなかりしにことづけ顔なるを、宮には、いみじうめざましがり嘆きたまふ。
 
 さっぱり途絶えてお便りもせず、体裁の悪かったことを口実にしているふうなのを、宮におかれて、ひどく不愉快にお嘆きになる。
 
   春の上も聞きたまひて、  春の上もお聞きになって、
   「ここにさへ、恨みらるるゆゑになるが苦しきこと」  「わたしまで、恨まれる原因になるのがつらいこと」
   と嘆きたまふを、大臣の君、いとほしと思して、  とお嘆きになるので、大臣の君は、気の毒だとお思いになって、
   「難きことなり。
 おのが心ひとつにもあらぬ人のゆかりに、内裏にも心おきたるさまに思したなり。
 兵部卿宮なども、怨じたまふと聞きしを、さいへど、思ひやり深うおはする人にて、聞きあきらめ、恨み解けたまひにたなり。
 おのづから人の仲らひは、忍ぶることと思へど、隠れなきものなれば、しか思ふべき罪もなし、となむ思ひはべる」
 「難しいことだ。
 自分の一存だけではどうすることもできない人の関係で、帝におかせられても、こだわりをお持ちになっていらっしゃるようだ。
 兵部卿宮なども、お恨みになっていらっしゃると聞いたが、そうは言っても、思慮深くいらっしゃる方なので、事情を知って、恨みもお解けになったようだ。
 自然と、男女の関係は、人目を忍んでいると思っても、隠すことのできないものだから、そんなに苦にするほどの責任もない、と思っております」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
 
 

第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ

 
 

第一段 玉鬘、新年になって参内

 
   かかることどもの騷ぎに、尚侍の君の御けしき、いよいよ晴れ間なきを、大将は、いとほしと思ひあつかひきこえて、  このようなことの騒動に、尚侍の君のご気分は、ますます晴れる間もないでいるのを、大将は、お気の毒にとお気づかい申し上げて、
   「この参りたまはむとありしことも、絶え切れて、妨げきこえつるを、内裏にも、なめく心あるさまに聞こしめし、人びとも思すところあらむ。
 公人を頼みたる人はなくやはある」
 「あの参内なさる予定であったことも、沙汰止みになって、お妨げ申したのを、帝におかせられても、快からず何か含むところがあるようにお聞きあそばし、方々もお考えになるところがあるだろう。
 宮仕えの女性を妻にしている男もいないではないが」
   と思ひ返して、年返りて、参らせたてまつりたまふ。
 男踏歌ありければ、やがてそのほどに、儀式いといまめかしく、二なくて参りたまふ。
 
 と思い返して、年が改まってから、参内させ申し上げなさる。
 男踏歌があったので、ちょうどその折に、参内の儀式をたいそう立派に、この上なく整えて参内なさる。
 
   かたがたの大臣たち、この大将の御勢ひさへさしあひ、宰相中将、ねむごろに心しらひきこえたまふ。
 兄弟の君達も、かかる折にと集ひ、追従し寄りて、かしづきたまふさま、いとめでたし。
 
 お二方の大臣たち、この大将のご威勢までが加わり、宰相中将、熱心に気を配ってお世話申し上げなさる。
 兄弟の公達も、このような機会にと集まって、ご機嫌を取りに近づいて、大事になさる様子、たいそう素晴らしい。
 
   承香殿の東面に御局したり。
 西に宮の女御はおはしければ、馬道ばかりの隔てなるに、御心のうちは、遥かに隔たりけむかし。
 御方々、いづれとなく挑み交はしたまひて、内裏わたり、心にくくをかしきころほひなり。
 ことに乱りがはしき更衣たち、あまたもさぶらひたまはず。
 
 承香殿の東面にお局を設けてある。
 西に宮の女御がいらしたので、馬道だけの間隔であるが、お心の中は、遠く離れていらっしゃったであろう。
 御方々は、どの方となく競争なさい合って、宮中では、奥ゆかしくはなやいだ時分である。
 格別家柄の劣った更衣たち、多くも伺候なさっていない。
 
   中宮、弘徽殿女御、この宮の女御、左の大殿の女御などさぶらひたまふ。
 さては、中納言、宰相の御女二人ばかりぞさぶらひたまひける。
 
 中宮、弘徽殿女御、この宮の王女御、左大臣の女御などが伺候していらっしゃる。
 その他には、中納言、宰相の御息女が二人ほどが伺候していらっしゃるのであった。
 
 
 

第二段 男踏歌、貴顕の邸を回る

 
   踏歌は、方々に里人参り、さまことに、けににぎははしき見物なれば、誰も誰もきよらを尽くし、袖口の重なり、こちたくめでたくととのへたまふ。
 春宮の女御も、いとはなやかにもてなしたまひて、宮は、まだ若くおはしませど、すべていと今めかし。
 
 踏歌は、局々に実家の人が参内し、ふだんとは違って、ことに賑やかな見物なので、どなたもどなたも綺羅を尽くし、袖口の色の重なり、うるさいほど立派に整えていらっしゃる。
 春宮の女御も、たいそう華やかになさって、春宮は、まだお若くいらっしゃるが、すべての面でたいそう風流である。
 
   御前、中宮の御方、朱雀院とに参りて、夜いたう更けにければ、六条の院には、このたびは所狭しとはぶきたまふ。
 朱雀院より帰り参りて、春宮の御方々めぐるほどに、夜明けぬ。
 
 帝の御前、中宮の御方、朱雀院と参って、夜がたいそう更けてしまったので、六条院には、今回は仰々しいのでとお取り止めになる。
 朱雀院から帰参して、春宮の御方々を回るうちに、夜が明けた。
 
   ほのぼのとをかしき朝ぼらけに、いたく酔ひ乱れたるさまして、「竹河」謡ひけるほどを見れば、内の大殿の君達は、四、五人ばかり、殿上人のなかに、声すぐれ、容貌きよげにて、うち続きたまへる、いとめでたし。
 
 ほのぼのと美しい夜明けに、たいそう酔い乱れた恰好をして、「竹河」を謡っているところを見ると、内大臣家の御子息が、四、五人ほど、殿上人の中で、声が優れ、器量も美しくて、うち揃っていらっしゃるのが、たいそう素晴らしい。
 
   童なる八郎君は、むかひ腹にて、いみじうかしづきたまふが、いとうつくしうて、大将殿の太郎君と立ち並みたるを、尚侍の君も、よそ人と見たまはねば、御目とまりけり。
 やむごとなくまじらひ馴れたまへる御方々よりも、この御局の袖口、おほかたのけはひ今めかしう、同じものの色あひ、襲なりなれど、ものよりことにはなやかなり。
 
 殿上童の八郎君は、正妻腹の子で、たいそう大切になさっているのが、とてもかわいらしくて、大将殿の太郎君と立ち並んでいるのを、尚侍の君も、他人とはお思いにならないので、お目が止まった。
 高貴な身分で長く宮仕えしていらっしゃる方々よりも、この御局の袖口は、全体の感じが今風で、同じ衣装の色合い、襲なりであるが、他の所より格別華やかである。
 
   正身も女房たちも、かやうに御心やりて、しばしは過ぐいたまはまし、と思ひあへり。
 
 ご本人も女房たちも、このようにご気分を晴らして、暫くの間は宮中でお過ごせになれたら、と思い合っていた。
 
   皆同じごと、かづけわたす綿のさまも、匂ひ香ことにらうらうじうしないたまひて、こなたは水駅なりけれど、けはひにぎははしく、人びと心懸想しそして、限りある御饗などのことどもも、したるさま、ことに用意ありてなむ、大将殿せさせたまへりける。
 
 どこでも同じように、肩にお被けになる綿の様子も、色艶も格別に洗練なさって、こちらは水駅であったが、様子が賑やかで、女房たちが心づかいし過ぎるほどで、一定の作法通りの御饗応など、用意がしてある様子は、特別に気を配って、大将殿がおさせになったのであった。
 
 
 

第三段 玉鬘の宮中生活

 
   宿直所にゐたまひて、日一日、聞こえ暮らしたまふことは、  宿直所にいらっしゃって、一日中、申し上げなさることは、
   「夜さり、まかでさせたてまつりてむ。
 かかるついでにと、思し移るらむ御宮仕へなむ、やすからぬ」
 「夜になったら、ご退出おさせ申そう。
 このような機会にと、急にお考えが変わる宮仕えは安心でない」
   とのみ、同じことを責めきこえたまへど、御返りなし。
 さぶらふ人びとぞ、
 とばかり、同じことをご催促申し上げなさるが、お返事はない。
 伺候している女房たちが、
   「大臣の、『心あわたたしきほどならで、まれまれの御参りなれば、御心ゆかせたまふばかり。
 許されありてを、まかでさせたまへ』と、聞こえさせたまひしかば、今宵は、あまりすがすがしうや」
 「大臣が、『急いで退出することなく、めったにない参内なので、ご満足あそばされるくらいに。
 お許しがあってから、退出なさるよう』と、申し上げていらしたので、今夜は、あまりにも急すぎませんか」
   と聞こえたるを、いとつらしと思ひて、  と申し上げたのを、たいそうつらく思って、
   「さばかり聞こえしものを、さも心にかなはぬ世かな」  「あれほど申し上げたのに、何とも思い通りに行かない夫婦仲だなあ」
   とうち嘆きてゐたまへり。
 
 とお嘆きになっていらっしゃった。
 
   兵部卿宮、御前の御遊びにさぶらひたまひて、静心なく、この御局のあたり思ひやられたまへば、念じあまりて聞こえたまへり。
 大将は、司の御曹司にぞおはしける。
 「これより」とて取り入れたれば、しぶしぶに見たまふ。
 兵部卿宮、御前の管弦の御遊に伺候していらっしゃっても、気が落ち着かず、このお局あたりを思わずにはいらっしゃれないので、堪えきれずにお便りを申し上げなさった。
 大将は、近衛府の御曹司にいらっしゃる時であった。
 「そこから」と言って取り次いだので、しぶしぶと御覧になる。
 

416
 「深山木に 羽うち交はし ゐる鳥の
 またなくねたき 春にもあるかな
 「深山木と仲よくしていらっしゃる鳥が
  またなく疎ましく思われる春ですねえ
 
   さへづる声も耳とどめられてなむ」  鳥の囀る声が耳に止まりまして」
   とあり。
 いとほしう、面赤みて、聞こえむかたなく思ひゐたまへるに、主上渡らせたまふ。
 
 とある。
 お気の毒に思って、顔が赤くなって、お返事のしようもなく思っていらっしゃるところに、主上がお越しあそばす。
 
 
 

第四段 帝、玉鬘のもとを訪う

 
   月の明かきに、御容貌はいふよしなくきよらにて、ただ、かの大臣の御けはひに違ふところなくおはします。
 「かかる人はまたもおはしけり」と、見たてまつりたまふ。
 かの御心ばへは浅からぬも、うたてもの思ひ加はりしを、これは、などかはさしもおぼえさせたまはむ。
 いとなつかしげに、思ひしことの違ひにたる怨みをのたまはするに、面おかむかたなくぞおぼえたまふや。
 顔をもて隠して、御応へもえ聞こえたまはねば、
 月が明るいので、ご容貌は言いようもなくお美しくて、まるで、あの大臣のご様子に違うところなくいらっしゃる。
 「このような方が二人もいらっしゃったのだ」と、拝見なさる。
 あの方のお気持ちは浅くはないが、嫌な物思いをしたけれど、こちらは、どうしてそのように思わせなさろう。
 たいそうやさしそうに、期待していたことと違ってしまった恨み事を仰せられるので、顔のやり場もないほどにお思いなさるよ。
 顔を袖で隠して、お返事も申し上げなさらないので、
   「あやしうおぼつかなきわざかな。
 よろこびなども、思ひ知りたまはむと思ふことあるを、聞き入れたまはぬさまにのみあるは、かかる御癖なりけり」
 「妙に黙っていらっしゃるのですね。
 昇進なども、ご存知であろうと思うことがあるのに、何もお聞き入れなさらない様子でばかりいらっしゃるのは、そのようなご性格なのですね」
   とのたまはせて、  と仰せになって、
 

417
 「などてかく 灰あひがたき 紫を
 心に深く 思ひそめけむ
 「どうしてこう一緒になりがたいあなたを
  深く思い染めてしまったのでしょう
 
   濃くなり果つまじきにや」  これ以上深くはなれないのでしょうか」
   と仰せらるるさま、いと若くきよらに恥づかしきを、「違ひたまへるところやある」と思ひ慰めて、聞こえたまふ。
 宮仕への労もなくて、今年、加階したまへる心にや。
 と仰せになる様子、たいそう若々しく美しくて気恥ずかしいので、「どこが違っていらっしゃろうか」と気を取り直して、お返事申し上げなさる。
 宮仕えの年功もなくて、今年、位を賜ったお礼の気持ちなのであろうか。
 

418
 「いかならむ 色とも知らぬ 紫を
 心してこそ 人は染めけれ
 「どのようなお気持ちからとも存じませんでした
  この紫の色は、深いお情けから下さったものなのですね
 
   今よりなむ思ひたまへ知るべき」  ただ今からはそのように存じましょう」
   と聞こえたまへば、うち笑みて、  と申し上げなさると、ほほ笑みなさって、
   「その、今より染めたまはむこそ、かひなかべいことなれ。
 愁ふべき人あらば、ことわり聞かまほしくなむ」
 「その、今から思って下さろうとしても、何の役にも立たないことです。
 訴えを聞いてくれる人があったら、その判断を聞いてみたいものです」
   と、いたう怨みさせたまふ御けしきの、まめやかにわづらはしければ、「いとうたてもあるかな」とおぼえて、「をかしきさまをも見えたてまつらじ、むつかしき世の癖なりけり」と思ふに、まめだちてさぶらひたまへば、え思すさまなる乱れごともうち出でさせたまはで、「やうやうこそは目馴れめ」と思しけり。
 
 と、たいそうお恨みあそばす御様子が、真面目で厄介なので、「とても嫌だわ」と思われて、「愛想の良い態度をお見せ申すまい、男の方の困った癖だわ」と思うと、真面目になって伺候していらっしゃるので、お思い通りの冗談も仰せになれずに、「だんだんと親しみ馴れて行くことだろう」とお思いあそばすのであった。
 
 
 

第五段 玉鬘、帝と和歌を詠み交す

 
   大将は、かく渡らせたまへるを聞きたまひて、いとど静心なければ、急ぎまどはしたまふ。
 みづからも、「似げなきことも出で来ぬべき身なりけり」と心憂きに、えのどめたまはず、まかでさせたまふべきさま、つきづきしきことづけども作り出でて、父大臣など、かしこくたばかりたまひてなむ、御暇許されたまひける。
 
 大将は、このようにお越しあそばしたのをお聞きになって、ますます心が落ち着かないので、急いでせき立てなさる。
 ご自身も、「身分不相応なことも出て来かねない身の上だなあ」と情けなく思うので、落ち着いていらっしゃれず、退出させなさる段取り、もっともらしい口実を作り出して、父大臣など、うまく取り繕いなさって、御退出を許されなさったのであった。
 
   「さらば。
 物懲りして、また出だし立てぬ人もぞある。
 いとこそからけれ。
 人より先に進みにし心ざしの、人に後れて、けしき取り従ふよ。
 昔のなにがしが例も、引き出でつべき心地なむする」
 「それでは。
 これに懲りて、二度と出仕をさせない人があっては困る。
 たいそうつらい。
 誰より先に望んだ気持ちが、人に先を越されて、その人の御機嫌を伺うことよ。
 昔の誰それの例も、持ち出したい気がします」
   とて、まことにいと口惜しと思し召したり。
 
 と仰せになって、ほんとうに残念だとお思いあそばしていらっしゃった。
 
   聞こし召ししにも、こよなき近まさりを、はじめよりさる御心なからむにてだにも、御覧じ過ぐすまじきを、まいていとねたう、飽かず思さる。
 
 お聞きあそばしていた時よりも、格段に実際に素晴らしいのを、初めからそのような気持ちがないにせよ、お見逃しになれないだろうに、なおさらたいそう悔しく、残念にお思いなさる。
 
   されど、ひたぶるに浅き方に、思ひ疎まれじとて、いみじう心深きさまにのたまひ契りて、なつけたまふも、かたじけなう、「われは、われ、と思ふものを」と思す。
 
 けれども、まったく出来心からと、疎んじられまいとして、たいそう愛情深い程度にお約束なさって、親しみなさるのも、恐れ多く、「わたしは、わたしだわ、と思っているのに」とお思いになる。
 
   御輦車寄せて、こなた、かなたの、御かしづき人ども心もとながり、大将も、いとものむつかしうたち添ひ、騷ぎたまふまで、えおはしまし離れず。
 
 御輦車を寄せて、こちら方、あちら方の、お世話役の人々が待ち遠しがって、大将も、たいそううるさいほどお側を離れず、世話をお焼きになる時まで、お離れあそばされない。
 
   「かういと厳しき近き守りこそむつかしけれ」  「こんなに厳重な付ききりの警護は不愉快だ」
   と憎ませたまふ。  とお憎みあそばす。
 

419
 「九重に 霞隔てば 梅の花
 ただ香ばかりも 匂ひ来じとや」
 「幾重にも霞が隔てたならば、梅の花の香は
  宮中まで匂って来ないのだろうか」
 
   殊なることなきことなれども、御ありさま、けはひを見たてまつるほどは、をかしくもやありけむ。
 
 格別どうという歌ではないが、ご様子、物腰を拝見している時は、結構に思われたのであろうか。
 
   「野をなつかしみ、明かいつべき夜を、惜しむべかめる人も、身をつみて心苦しうなむ。
 いかでか聞こゆべき」
 「野原が懐かしいので、このまま夜明かしをしたいが、そうさせたくないでいる人が、自分の身につまされて気の毒に思う。
 どのようにお便りしたらよいものか」
   と思し悩むも、「いとかたじけなし」と、見たてまつる。  とお悩みあそばすのも、「まことに恐れ多いこと」と、拝する。
 
 

420
 「香ばかりは 風にもつてよ 花の枝に
 立ち並ぶべき 匂ひなくとも」
 「香りだけは風におことづけください
  美しい花の枝に並ぶべくもないわたしですが」
 
   さすがにかけ離れぬけはひを、あはれと思しつつ、返り見がちにて渡らせたまひぬ。
 
 やはり冷たく扱われない様子を、しみじみとお思いになりながら、振り返りがちにお帰りあそばした。
 
 
 

第六段 玉鬘、鬚黒邸に退出

 
   やがて今宵、かの殿にと思しまうけたるを、かねては許されあるまじきにより、漏らしきこえたまはで、  そのまま今夜、あの邸にとお考えになっていたが、前もってはお許しが出ないだろうから、打ち明け申されずに、
   「にはかにいと乱り風邪の悩ましきを、心やすき所にうち休みはべらむほど、よそよそにてはいとおぼつかなくはべらむを」  「急にたいそう風邪で気分が悪くなったものですから、気楽な所で休ませます間、よそに離れていてはたいそう不安でございますから」
   と、おいらかに申しないたまひて、やがて渡したてまつりたまふ。
 
 と、穏やかに申し上げなさって、そのままお移し申し上げなさる。
 
   父大臣、にはかなるを、「儀式なきやうにや」と思せど、「あながちに、さばかりのことを言ひ妨げむも、人の心おくべし」と思せば、  父内大臣は、急なことで、「格式が欠けるようではないか」とお思いになるが、「強引に、そのくらいのことで反対するのも、気を悪くするだろう」とお思いになると、
   「ともかくも。
 もとより進退ならぬ人の御ことなれば」
 「どのようにでも。
 もともとわたしの自由にならないお方のことだから」
   とぞ、聞こえたまひける。
 
 と、申し上げなさるのであった。
 
   六条殿ぞ、「いとゆくりなく本意なし」と思せど、などかはあらむ。
 女も、塩やく煙のなびきけるかたを、あさましと思せど、盗みもて行きたらましと思しなずらへて、いとうれしく心地おちゐぬ。
 
 六条殿は、「あまりに急で不本意だ」とお思いになるが、どうしようもない。
 女も、思ってもみなかった身の上を、情けないとお思いになるが、盗んで来たらと、たいそう嬉しく安心した。
 
   かの、入りゐさせたまへりしことを、いみじう怨じきこえさせたまふも、心づきなく、なほなほしき心地して、世には心解けぬ御もてなし、いよいよけしき悪し。
 
 あの、お入りあそばしたことを、たいそう嫉妬申し上げなさるのも、不愉快で、やはりつまらない人のような気がして、夫婦仲は疎々しい態度で、ますます機嫌が悪い。
 
   かの宮にも、さこそたけうのたまひしか、いみじう思しわぶれど、絶えて訪れず。
 ただ思ふことかなひぬる御かしづきに、明け暮れいとなみて過ぐしたまふ。
 
 あの宮家でも、あのようにきつくおっしゃったが、たいそう後悔なさっているが、まったく音沙汰もない。
 ただ念願が叶ったお世話で、毎日いそしんでお過ごしになる。
 
 
 

第七段 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る

 
   二月にもなりぬ。
 大殿は、
 二月になった。
 大殿は、
   「さても、つれなきわざなりや。
 いとかう際々しうとしも思はで、たゆめられたるねたさを」、
 「それにしても、無愛想な仕打ちだ。
 まったくこのようにきっぱりと自分のものにしようとは思いもかけないで、油断させられたのが悔しい」
   人悪ろく、すべて御心にかからぬ折なく、恋しう思ひ出でられたまふ。
 
 と、体裁悪く、何から何までお気にならない時とてなく、恋しく思い出さずにはいらっしゃれない。
 
   「宿世などいふもの、おろかならぬことなれど、わがあまりなる心にて、かく人やりならぬものは思ふぞかし」  「運命などと言うのも、軽く見てはならないものだが、自分のどうすることもできない気持ちから、このように誰のせいでもなく物思いをするのだ」
   と、起き臥し面影にぞ見えたまふ。
 
 と、寝ても起きても幻のようにまぶたにお見えになる。
 
   大将の、をかしやかに、わららかなる気もなき人に添ひゐたらむに、はかなき戯れごともつつましう、あいなく思されて、念じたまふを、雨いたう降りて、いとのどやかなるころ、かやうのつれづれも紛らはし所に渡りたまひて、語らひたまひしさまなどの、いみじう恋しければ、御文たてまつりたまふ。
 
 大将のような、趣味も、愛想もない人に連れ添っていては、ちょっとした冗談も遠慮されつまらなく思われなさって、我慢していらっしゃるとき、雨がひどく降って、とてものんびりとしたころ、このような所在なさも気の紛らし所にお行きになって、お話しになったことなどが、たいそう恋しいので、お手紙を差し上げなさる。
 
   右近がもとに忍びて遣はすも、かつは、思はむことを思すに、何ごともえ続けたまはで、ただ思はせたることどもぞありける。  右近のもとにこっそりと差し出すのも、一方では、それをどのように思うかとお思いになると、詳しくは書き綴ることがおできになれず、ただ相手の推察に任せた書きぶりなのであった。
 

421
 「かきたれて のどけきころの 春雨に
 ふるさと人を いかに偲ぶや
 「降りこめられてのどやかな春雨のころ
  昔馴染みのわたしをどう思っていらっしゃいますか
 
   つれづれに添へて、うらめしう思ひ出でらるること多うはべるを、いかでか分き聞こゆべからむ」  所在なさにつけても、恨めしく思い出されることが多くございますが、どのようにして分かるように申し上げたらよいのでしょうか」
   などあり。
 
 などとある。
 
   隙に忍びて見せたてまつれば、うち泣きて、わが心にも、ほど経るままに思ひ出でられたまふ御さまを、まほに、「恋しや、いかで見たてまつらむ」などは、えのたまはぬ親にて、「げに、いかでかは対面もあらむ」と、あはれなり。
 
 人のいない間にこっそりとお見せ申し上げると、ほろっと泣いて、自分の心でも、月日のたつにつれて、思い出さずにはいらっしゃれないご様子を、正面きって、「恋しい、何とかしてお目にかかりたい」などとは、おっしゃることのできない親なので、「おっしゃるとおり、どうしてお会いすることができようか」と、もの悲しい。
 
   時々、むつかしかりし御けしきを、心づきなう思ひきこえしなどは、この人にも知らせたまはぬことなれば、心ひとつに思し続くれど、右近は、ほのけしき見けり。
 いかなりけることならむとは、今に心得がたく思ひける。
 
 時々、厄介であったご様子を、気にくわなくお思い申し上げたことなどは、この人にもお知らせになっていないことなので、自分ひとりでお思い続けていらっしゃるが、右近は、うすうす感じ取っていたのであった。
 実際、どんな仲であったのだろうと、今でも納得が行かず思っていたのであった。
 
   御返り、「聞こゆるも恥づかしけれど、おぼつかなくやは」とて、書きたまふ。  お返事は、「差し上げるのも気が引けるが、ご不審に思われようか」と思って、お書きになる。
 

422
 「眺めする 軒の雫に 袖ぬれて
 うたかた人を 偲ばざらめや
 「物思いに耽りながら軒の雫に袖を濡らして
  どうしてあなた様のことを思わずにいられましょうか
 
   ほどふるころは、げに、ことなるつれづれもまさりはべりけり。
 あなかしこ」
 時がたつと、おっしゃるとおり、格別な所在なさも募りますこと。
 あなかしこ」
   と、ゐやゐやしく書きなしたまへり。
 
 と、恭しくお書きになっていた。
 
 
 

第八段 源氏、玉鬘の返書を読む

 
   引き広げて、玉水のこぼるるやうに思さるるを、「人も見ば、うたてあるべし」と、つれなくもてなしたまへど、胸に満つ心地して、かの昔の、尚侍の君を朱雀院の后の切に取り籠めたまひし折など思し出づれど、さしあたりたることなればにや、これは世づかずぞあはれなりける。
 
 手紙を広げて、玉水がこぼれるように思わずにはいらっしゃれないが、「人が見たら、体裁悪いことだろう」と、平静を装っていらっしゃるが、胸が一杯になる思いがして、あの昔の、尚侍の君を朱雀院の母后が無理に逢わせまいとなさった時のことなどをお思い出しになるが、目前のことだからであろうか、こちらは普通と変わって、しみじみと心うつのであった。
 
   「好いたる人は、心からやすかるまじきわざなりけり。
 今は何につけてか心をも乱らまし。
 似げなき恋のつまなりや」
 「色好みの人は、本心から求めて物思いの絶えない人なのだ。
 今は何のために心を悩まそうか。
 似つかわしくない恋の相手であるよ」
   と、さましわびたまひて、御琴掻き鳴らして、なつかしう弾きなしたまひし爪音、思ひ出でられたまふ。
 あづまの調べを、すが掻きて、
 と、冷静になるのに困って、お琴を掻き鳴らして、やさしくしいてお弾きになった爪音が、思い出さずにはいらっしゃれない。
 和琴の調べを、すが掻きにして、
   「玉藻はな刈りそ」  「玉藻はお刈りにならないで」
   と、歌ひすさびたまふも、恋しき人に見せたらば、あはれ過ぐすまじき御さまなり。
 
 と、謡い興じていらっしゃるのも、恋しい人に見せたならば、感動せずにはいられないご様子である。
 
   内裏にも、ほのかに御覧ぜし御容貌ありさまを、心にかけたまひて、  帝におかせられても、わずかに御覧あそばしたご器量ご様子を、お忘れにならず、
   「赤裳垂れ引き去にし姿を」  「赤裳を垂れ引いて去っていってしまった姿を」
   と、憎げなる古事なれど、御言種になりてなむ、眺めさせたまひける。
 御文は、忍び忍びにありけり。
 身を憂きものに思ひしみたまひて、かやうのすさびごとをも、あいなく思しければ、心とけたる御いらへも聞こえたまはず。
 
 と、耳馴れない古歌であるが、お口癖になさって、物思いに耽っておいであそばすのであった。
 お手紙は、そっと時々あるのであった。
 わが身を不運な境遇と思い込みなさって、このような軽い気持ちのお手紙のやりとりも、似合わなくお思いになるので、うち解けたお返事も申し上げなさらない。
 
   なほ、かの、ありがたかりし御心おきてを、かたがたにつけて思ひしみたまへる御ことぞ、忘られざりける。
 
 やはり、あの、またとないほどであったお心配りを、何かにつけて深くありがたく思い込んでいらっしゃるお気持ちが、忘れられないのであった。
 
 
 

第九段 三月、源氏、玉鬘を思う

 
   三月になりて、六条殿の御前の、藤、山吹のおもしろき夕ばえを見たまふにつけても、まづ見るかひありてゐたまへりし御さまのみ思し出でらるれば、春の御前をうち捨てて、こなたに渡りて御覧ず。
 
 三月になって、六条殿の御前の、藤、山吹が美しい夕映えを御覧になるにつけても、まっさきに見る目にも美しい姿でお座りになっていらしたご様子ばかりが思い出さずにはいらっしゃれないので、春の御前を放って、こちらの殿に渡って御覧になる。
 
   呉竹の籬に、わざとなう咲きかかりたるにほひ、いとおもしろし。
 
 呉竹の籬に、自然と咲きかかっている色艶が、たいそう美しい。
 
   「色に衣を」  「色に衣を」
   などのたまひて、  などとおっしゃって、
 

423
 「思はずに 井手の中道 隔つとも
 言はでぞ恋ふる 山吹の花
 「思いがけずに二人の仲は隔てられてしまったが
  心の中では恋い慕っている山吹の花よ
 
   顔に見えつつ」  面影に見え見えして」
   などのたまふも、聞く人なし。
 かく、さすがにもて離れたることは、このたびぞ思しける。
 げに、あやしき御心のすさびなりや。
 
 などとおっしゃっても、聞く人もいない。
 このように、さすがに諦めていることは、今になってお分かりになるのであった。
 なるほど、妙なおたわむれの心であるよ。
 
   かりの子のいと多かるを御覧じて、柑子、橘などやうに紛らはして、わざとならずたてまつれたまふ。
 御文は、「あまり人もぞ目立つる」など思して、すくよかに、
 鴨の卵がたいそうたくさんあるのを御覧になって、柑子や、橘などのように見せて、何気ないふうに差し上げなさる。
 お手紙は、「あまり人目に立っては」などとお思いになって、そっけなく、
   「おぼつかなき月日も重なりぬるを、思はずなる御もてなしなりと恨みきこゆるも、御心ひとつにのみはあるまじう聞きはべれば、ことなるついでならでは、対面の難からむを、口惜しう思ひたまふる」  「お目にかからない月日がたちましたが、思いがけないおあしらいだとお恨み申し上げるのも、あなたお一人のお考えからではなく聞いておりますので、特別の場合でなくては、お目にかかることの難しいことを、残念に存じております」
   など、親めき書きたまひて、  などと、親めいてお書きになって、
 

424
 「同じ巣に かへりしかひの 見えぬかな
 いかなる人か 手ににぎるらむ
 「せっかくわたしの所でかえった雛が見えませんね
  どんな人が手に握っているのでしょう
 
   などか、さしもなど、心やましうなむ」  どうして、こんなにまでもなどと、おもしろくなくて」
   などあるを、大将も見たまひて、うち笑ひて、  などとあるのを、大将も御覧になって、ふと笑って、
   「女は、まことの親の御あたりにも、たはやすくうち渡り見えたてまつりたまはむこと、ついでなくてあるべきことにあらず。
 まして、なぞ、この大臣の、をりをり思ひ放たず、恨み言はしたまふ」
 「女性は、実の親の所にも、簡単に行ってお会いなさることは、適当な機会がなくてはなさるべきではない。
 まして、どうして、この大臣は、度々諦めずに、恨み言をおっしゃるのだろう」
   と、つぶやくも、憎しと聞きたまふ。
 
 と、ぶつぶつ言うのも、憎らしいとお聞きになる。
 
   「御返り、ここにはえ聞こえじ」  「お返事は、わたしは差し上げられません」
   と、書きにくくおぼいたれば、  と、書きにくくお思いになっているので、
   「まろ聞こえむ」  「わたしがお書き申そう」
   と代はるも、かたはらいたしや。
 
 と代わるのも、はらはらする思いである。
 
 

425
 「巣隠れて 数にもあらぬ かりの子を
 いづ方にかは 取り隠すべき
 「巣の片隅に隠れて子供の数にも入らない雁の子を
 どちらの方に取り隠そうとおっしゃるのでしょうか
 
   よろしからぬ御けしきにおどろきて。
 すきずきしや」
 不機嫌なご様子にびっくりしまして。
 懸想文めいていましょうか」
   と聞こえたまへり。
 
 とお返事申し上げた。
 
   「この大将の、かかるはかなしごと言ひたるも、まだこそ聞かざりつれ。
 めづらしう」
 「この大将が、このような風流ぶった歌を詠んだのも、まだ聞いたことがなかった。
 珍しくて」
   とて、笑ひたまふ。
 心のうちには、かく領じたるを、いとからしと思す。
 
 と言って、お笑いになる。
 心中では、このように一人占めにしているのを、とても憎いとお思いになる。
 
 
 

第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君

 
 

第一段 北の方、病状進む

 
   かの、もとの北の方は、月日隔たるままに、あさましと、ものを思ひ沈み、いよいよ呆け疾れてものしたまふ。
 大将殿のおほかたの訪らひ、何ごとをも詳しう思しおきて、君達をば、変はらず思ひかしづきたまへば、えしもかけ離れたまはず、まめやかなる方の頼みは、同じことにてなむものしたまひける。
 
 あの、もとの北の方は、月日のたつにしたがって、あまりな仕打ちだと、物思いに沈んで、ますます気が変になっていらっしゃる。
 大将殿の一通りのお世話、どんなことでも細かくご配慮なさって、男の子たちは、変わらずかわいがっていらっしゃるので、すっかり縁を切っておしまいにならず、生活上の頼りだけは、同様にしていらっしゃるのであった。
 
   姫君をぞ、堪へがたく恋ひきこえたまへど、絶えて見せたてまつりたまはず。
 若き御心のうちに、この父君を、誰れも誰れも、許しなう恨みきこえて、いよいよ隔てたまふことのみまされば、心細く悲しきに、男君たちは、常に参り馴れつつ、尚侍の君の御ありさまなどをも、おのづからことにふれてうち語りて、
 姫君を、たまらなく恋しくお思い申し上げなさるが、全然お会わせ申し上げなさらない。
 子供心にも、この父君を、誰もが、みな許すことなくお恨み申し上げて、ますます遠ざけることばかりが増えて行くので、心細く悲しいが、男の子たちは、いつも一緒に行き来しているので、尚侍の君のご様子などを、自然と何かにつけて話し出して、
   「まろらをも、らうたくなつかしうなむしたまふ。
 明け暮れをかしきことを好みてものしたまふ」
 「わたしたちをも、かわいがってやさしくして下さいます。
 毎日おもしろいことばかりして暮らしていらっしゃいます」
   など言ふに、うらやましう、かやうにても安らかに振る舞ふ身ならざりけむを嘆きたまふ。
 あやしう、男女につけつつ、人にものを思はする尚侍の君にぞおはしける。
 
 などと言うと、羨ましくなって、このようにして自由に振る舞える男の身に生まれてこなかったことをお嘆きになる。
 妙に、男にも女にも物思いをさせる尚侍の君でいらっしゃるのであった。
 
 
 

第二段 十一月に玉鬘、男子を出産

 
   その年の十一月に、いとをかしき稚児をさへ抱き出でたまへれば、大将も、思ふやうにめでたしと、もてかしづきたまふこと、限りなし。
 そのほどのありさま、言はずとも思ひやりつべきことぞかし。
 父大臣も、おのづから思ふやうなる御宿世と思したり。
 
 その年の十一月に、たいそうかわいい赤子までお生みになったので、大将も、願っていたようにめでたいと、大切にお世話なさること、この上ない。
 その時の様子、言わなくても想像できることであろう。
 父大臣も、自然に願っていた通りのご運命だとお思いになっていた。
 
   わざとかしづきたまふ君達にも、御容貌などは劣りたまはず。
 頭中将も、この尚侍の君を、いとなつかしきはらからにて、睦びきこえたまふものから、さすがなる御けしきうちまぜつつ、
 特別に大切にお世話なさっているお子様たちにも、ご器量などは劣っていらっしゃらない。
 頭中将も、この尚侍の君を、たいそう仲の好い姉弟として、お付き合い申し上げていらっしゃるものの、やはりすっきりしない御そぶりを時々は見せながら、
   「宮仕ひに、かひありてものしたまはましものを」  「入内なさって、その甲斐あってのご出産であったらよかったのに」
   と、この若君のうつくしきにつけても、  と、この若君のかわいらしさにつけても、
   「今まで皇子たちのおはせぬ嘆きを見たてまつるに、いかに面目あらまし」  「今まで皇子たちがいらっしゃらないお嘆きを拝見しているので、どんなに名誉なことであろう」
   と、あまりのことをぞ思ひてのたまふ。
 
 と、あまりに身勝手なことを思っておっしゃる。
 
   公事は、あるべきさまに知りなどしつつ、参りたまふことぞ、やがてかくてやみぬべかめる。
 さてもありぬべきことなりかし。
 
 公務は、しかるべく取り仕切っているが、参内なさることは、このままこうして終わってしまいそうである。
 それもやむをえないことである。
 
 
 

第三段 近江の君、活発に振る舞う

 
   まことや、かの内の大殿の御女の、尚侍のぞみし君も、さるものの癖なれば、色めかしう、さまよふ心さへ添ひて、もてわづらひたまふ。
 女御も、「つひに、あはあはしきこと、この君ぞ引き出でむ」と、ともすれば、御胸つぶしたまへど、大臣の、
 そうそう、あの内の大殿のご息女で、尚侍を望んでいた女君も、ああした類の人の癖として、色気まで加わって、そわそわし出して、持て余していらっしゃる。
 女御も、「今に、軽率なことが、この君はきっとしでかすだろう」と、何かにつけ、はらはらしていらっしゃるが、大臣が、
   「今は、なまじらひそ」  「今後は、人前に出てはいけません」
   と、制しのたまふをだに聞き入れず、まじらひ出でてものしたまふ。
 
 と、戒めておっしゃるのさえ聞き入れず、人中に出て仕えていらっしゃる。
 
   いかなる折にかありけむ、殿上人あまた、おぼえことなる限り、この女御の御方に参りて、物の音など調べ、なつかしきほどの拍子打ち加へてあそぶ。
 秋の夕べのただならぬに、宰相中将も寄りおはして、例ならず乱れてものなどのたまふを、人びとめづらしがりて、
 どのような時であったろうか、殿上人が大勢、立派な方々ばかりが、この女御の御方に参上して、いろいろな楽器を奏して、くつろいだ感じの拍子を打って遊んでいる。
 秋の夕方の、どことなく風情のあるところに、宰相中将もお寄りになって、いつもと違ってふざけて冗談をおっしゃるのを、女房たちは珍しく思って、
   「なほ、人よりことにも」  「やはり、どの人よりも格別だわ」
   とめづるに、この近江の君、人びとの中を押し分けて出でゐたまふ。
 
 と誉めると、この近江の君、女房たちの中を押し分けて出ていらっしゃる。
 
   「あな、うたてや。
 こはなぞ」
 「あら、嫌だわ。
 これはどうなさるおつもり」
   と引き入るれど、いとさがなげににらみて、張りゐたれば、わづらはしくて、  と引き止めるが、たいそう意地悪そうに睨んで、目を吊り上げているので、厄介になって、
   「あうなきことや、のたまひ出でむ」  「軽率なことを、おっしゃらないかしら」
   と、つき交はすに、この世に目馴れぬまめ人をしも、  と、お互いにつつき合っていると、この世にも珍しい真面目な方を、
   「これぞな、これぞな」  「この人よ、この人よ」
   とめでて、ささめき騒ぐ声、いとしるし。
 人びと、いと苦しと思ふに、声いとさはやかにて、
 と誉めて、小声で騷ぎ立てる声、まことにはっきり聞こえる。
 女房たち、とても困ったと思うが、声はとてもはっきりした調子で、
 

426
 「沖つ舟 よるべ波路に 漂はば
 棹さし寄らむ 泊り教へよ
 「沖の舟さん。
 寄る所がなくて波に漂っているなら
  わたしが棹さして近づいて行きますから、行く場所を教えてください
 
   棚なし小舟漕ぎ返り、同じ人をや。
 あな、悪や」
 棚なし小舟みたいに、いつまでも一人の方ばかり思い続けていらっしゃるのね。
 あら、ごめんなさい」
   と言ふを、いとあやしう、  と言うので、たいそう不審に思って、
   「この御方には、かう用意なきこと聞こえぬものを」と思ひまはすに、「この聞く人なりけり」  「こちらの御方には、このようなぶしつけなこと、聞かないのに」と思いめぐらすと、「あの噂の姫君であったのか」
   と、をかしうて、  と、おもしろく思って、
 

427
 「よるべなみ 風の騒がす 舟人も
 思はぬ方に 磯伝ひせず」
 「寄る所がなく風がもてあそんでいる舟人でも
  思ってもいない所には磯伝いしません」
 
   とて、はしたなかめり、とや。
 
 とおっしゃったので、引っ込みがつかなかったであろう、とか。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 思ひつつ寝泣くに明くる冬の夜の袖の氷は解けずもあるかな(後撰集冬-四八一 読人しらず)(戻)  
  出典2 君が住む宿の梢の行く行くと隠るるまでに顧みしはや(拾遺集別-三五一 菅原道真)(戻)  
  出典3 百千鳥さへづる春は物ごとに改まれども我ぞ古り行く(古今集春上-二八 読人しらず)(戻)  
  出典4 春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(古今六帖六-三九一六)(戻)  
  出典5 須磨の海人の塩焼く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり(古今集恋四-七〇八 読人しらず)(戻)  
  出典6 君見ずて程のふるやの庇には逢ふことなしの草ぞ生ひける(新勅撰集恋五-九四五 読人しらず)(戻)  
  出典7 雨止まぬ軒の玉水数知らず恋しき事のまさるころかな(後撰集恋一-五七八 平兼盛)(戻)  
  出典8 鴛鴦 たかべ 鴨さへ来居る 藩良の池の や 玉藻は真根な刈りそ や 生ひも継ぐがに や 生ひも継ぐがに(風俗歌-鴛鴦)(戻)  
  出典9 立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅の赤裳垂れ引きいにし姿を(古今六帖五-三三三三)(戻)  
  出典10 くちなしの色に心を染めしより言はで心にものをこそ思へ(古今六帖五-三五一〇)(戻)  
  出典11 夕されば野辺に鳴くてふ顔鳥の顔に見えつつ忘られなくに(古今六帖六-四四八八)(戻)  
  出典12 秋はなほ夕まぐれこそただならぬ荻の上風萩の下露(和漢朗詠上-二二九 藤原義孝)(戻)  
  出典13 堀江漕ぐ棚無し小舟漕ぎ帰り同じ人にや恋ひ渡りなむ(古今集恋四-七三二 読人しらず)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 思ふ--思ひ(ひ/$<朱>)(戻)  
  校訂2 引き返し--ひきかつ(つ/$へ<朱>)し(戻)  
  校訂3 三日--三る(る/$日<朱>)(戻)  
  校訂4 絶え--たへ(へ/$え<朱>)(戻)  
  校訂5 あらぬ--*あかぬ(戻)  
  校訂6 ことども--こと(と/+と<朱>)も(戻)  
  校訂7 いと--は(は/$い<朱>)と(戻)  
  校訂8 たまへる--給つ(つ/$へ<朱>)う(戻)  
  校訂9 なりや--なれ(れ/$り<朱>)や(戻)  
  校訂10 過ぐい--すく(く/&く、=すイ<朱>)い(戻)  
  校訂11 べし--つ(つ/$へ<朱>)し(戻)  
  校訂12 たまひつれば--給へ(へ/$つ<朱>)れは(戻)  
  校訂13 みづからを--身つからは(は/#を)(戻)  
  校訂14 容貌--かたち(ち/$ち<朱>)(戻)  
  校訂15 までは--さ(さ/$ま<朱>)ては(戻)  
  校訂16 しめゐ--*しゐ(戻)  
  校訂17 圧さるれ--おさな(な/$る<朱>)れ(戻)  
  校訂18 たまへれど--(/+給)へれと(戻)  
  校訂19 あべかめれ」と--あへる(る/$か<朱>)めれと(と/&と)(戻)  
  校訂20 桧皮色--ひは(は/$<朱>)わた色(戻)  
  校訂21 たまへれど--給つ(つ/$へ<朱>)れと(戻)  
  校訂22 ゆるぎ--*ゆき(戻)  
  校訂23 たまへれば--給つ(つ/$へ<朱>)れは(戻)  
  校訂24 こそ--こう(う/$<朱>)そ(戻)  
  校訂25 たまへれど--給つ(つ/$へ<朱>)れと(戻)  
  校訂26 見むにも--み(み/=んイ<朱>)にも(戻)  
  校訂27 たまはむと--給はむこ(こ/#)と(戻)  
  校訂28 さまに--ま(ま/$さ)まに(戻)  
  校訂29 にぎははしき--(/+に)きわゝしき(戻)  
  校訂30 所狭し--所を(を/$せ<朱>)し(戻)  
  校訂31 ける--けに(に/$る<朱>)(戻)  
  校訂32 からけれ--かゝ(ゝ/$ら<朱>)けれ(戻)  
  校訂33 面影にぞ--おもかけ(け/+に<朱>)そ(戻)  
  校訂34 添へて--そへても(も/#)(戻)  
  校訂35 いかでか分き聞こゆ--いかてかは(は/&わ)きこ(こ/&ゝ)こゆ(戻)  
  校訂36 かやう--*かや(戻)  
  校訂37 井手の--いて(て/+の<朱>)(戻)  
  校訂38 見えつつ--みゝ(ゝ/$へ<朱>)つゝ(戻)  
  校訂39 親めき--おやめに(に/$き<朱>)(戻)  
  校訂40 取り隠す--とりかへ(へ/#く)す(戻)  
  校訂41 にぞ--にて(て/$そ<朱>)(戻)  
  校訂42 はらからにて--はらから(ら/+に)て(戻)  
  校訂43 皇子たちの--みこたち(ち/+の<朱>)(戻)  
  校訂44 ものの--*をゝ(戻)  
  校訂45 押し分けて--(/+を)しわけて(戻)  
  校訂46 これぞなこれぞな--これそなゝ(戻)  
  校訂47 棚なし--(/+た)なゝし(戻)  
  校訂48 悪や--はるやい(い/#)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。