伊勢物語 52段:飾り粽 あらすじ・原文・現代語訳

第51段
前栽の菊
伊勢物語
第二部
第52段
飾り粽
第53段
あひがたき女

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 
 

あらすじ

 
 
 男が、人から飾られた粽餅を送られて、歌と雉(鳥)を送る。

 菖蒲刈り 君は沼にぞ まどひける 我は野に出でて かるぞわびしき

 

 刈りと狩と雉をかけたのは当然。しかし、文面をなぞるだけでは意味不明。
 チマキをもらって草刈の話をしてどうしようと。これは言葉を当てている。
 この段の歌はそのままでは味えない。粽は剥かないと味わえない。さらにここでは「飾り」。
 

 この歌の心は、
 端午の節句と飾で、飾の武者人形。
 そこから、13段の武蔵鐙(あぶみ=馬具。鐙から鎧)で、そこで尻にしかれ足蹴にされた人物と解き、16段で妻に逃げられた紀有常。
 いざ有常、尋常にショウブ(菖蒲)とかけた歌。
 「君は沼にぞまどひける」は挑発。
 

 お団子もらっても子分じゃないよ。
 雉がいて、君は居ぬ、わたしはそのうちサル丸。(女)主いなくて寂しいね。
 
 二人(有常とむかし男)は、常にこうしたやり鳥をする間柄(16段でも常常連発「世の常の」×2)。 

 子供の日に合わせた、子供のような心の歌。
 
 なんでもすぐ色恋というのは違います。浅くないですか?
 確かに業平はそういう評判ですが。でも伊勢はそういうレベルの話ではありません。だから在五は伊勢の主人公ではありません。
 そもそも在五はまだ一度も出てきてすらいない。遠い63段の話。そこでは当然のごとく女の話で、けぢめつけれないと著者に非難される話。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第52段 飾り粽(かざりちまき)
   
 むかし、男ありけり。  むかし、おとこありけり。  むかしおとこありけり。
  人のもとより、 人のもとより 人のもとより。
  かざり粽おこせたりける返り事に、 かざりちまきをゝこせたりける返ごとに かざりちまきをこせたる返事に。
       

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 菖蒲刈り
 君は沼にぞまどひける
 あやめかり
 きみはぬまにぞまどひける
 葛蒲かり
 君は沼にそ惑ひける
  我は野に出でて
  かるぞわびしき
  我は野にいでゝ
  かるぞわびしき
  我は野に出て
  かくそをゝしき
       
  とて、雉子をなむやりける。 とて、きじをなむやりける。 とて。きじをなんやりける。
   

現代語訳

 
 

むかし、男ありけり。
人のもとより、かざり粽おこせたりける返り事に、
 
菖蒲刈り 君は沼にぞ まどひける
 我は野に出でて かるぞわびしき
 
とて、雉子をなむやりける。

 
 
むかし男ありけり
 むかし男がいた。
 

人のもとより
 とある人のもとから
 

かざり粽おこせたりける返り事に
 飾りつき粽モチをよこしてきた返事に、
 

 飾粽(かざりちまき)
 :端午の節句用に、色糸で巻いて飾ったちまき。
 

 ちまき 【粽・茅巻】
 :米粉をこねて蒸し、笹などの葉で巻いた餠。
 

 端午の節句=菖蒲の節供
 

菖蒲(あやめ)刈り
 (私は)菖蒲を刈る
 

 あやめ・しょうぶ【菖蒲】
 :乾燥した草地に生える花。葉は剣状。
 

君は沼にぞ まどひける
 君は沼で 惑っているのか
 

我は野に出でて
 私は沼でなく野にでて
 

かるぞわびしき
 一人で刈して帰るのは寂しい。
 

とて雉子(きじ)をなむやりける
 といって、刈りを狩にかけて、季節はずれの春の雉をやった。(つまりずっと待っているという意味)
 

 端午の節句の飾り物の武者人形を、さすがのヘタレ武蔵鐙(13段)=紀有常(16段)とかけ、いざ有常尋常にショウブと解く。
 その心は、雉がいて、君は隠れているイヌ(居ぬ)か、そうこうしているうちに、私はサルよ。主? いないっすね~。
 この歌の心、わかりますかと。
 これを普通、試し合いという。つまり試合。
 

 こういう面倒なことをいつもしていたのが、この友達の仲(16段)。
 そして有常は結構歌がわかったようだ。それが13段の「さすがにかけて」。
 「親王歌をかへすがへす誦じ給うて返しえし給はず。紀有常御供に仕うまつれり。それがかへし」(82段・渚の院)
 つまり、主人達はつかえない人達ばかりなのである。そういうのに仕えている、という意識を共有している友達。
 それへの皮肉が16段冒頭の「三代の帝に仕うまつりて」。今風にいう京のたしなみ。その元祖。