平家物語 巻第九 木曾最期:概要と原文

河原合戦 平家物語
巻第九
木曾最期
きそのさいご
樋口被討罰

〔概要〕
 
 木曾義仲には巴、山吹という側女がいたが、は色白美人ながら一人当千の強者で戦いに引き連れ最後まで生き残る。義仲は乳母兄弟の今井四郎兼平と奇跡的再会を果たし、兼平の手を取り、幼少竹馬の昔の死ぬなら同じ場所という前章の契りを暗黙のうちに確認し、最期の戦いに臨み、共に果てた(粟津の戦い)。

 

 ここで兼平が自分は義仲の「めのと子」と称すが、これを近時の高校教科書は乳母子でなく乳人子(兼平父)とする強い傾向がある。この点、学術書の大系(新134p)・全集(180p)・全評釈(下一65p)は一致して原文は「めのと」で、その解釈では乳母の文字を当てており、つまりこれが「めのと」といえば乳母という第一義的用法だが、平家物語で木曾義仲の出自を説明する巻六の廻文では、兼平父は「めのとの兼遠」(大系・全集、全注釈は傅(めのと))とされるので、平家物語中で一貫させるなら、兼平のいう「めのと」は兼平父ということになる(同じ乳母に育てられたと見ることもできなくはないが)。ただし、文脈で明らかに男のめのと(めのとの兼遠)に乳母を当てるのは字義に反して誤りというべきだろう。

 巴を逃したのは幸せを願ったという評もあるが、随分平和的な説と思う。男の名折れという文脈であるが(木曾の最後の戦に、女を具せられたりなんど、言はれん事こそ口惜しけれ)。逃れて幸せになると思う人なら自分から戦いに向かっていかない。文脈及び文言を一般的な語義に即して意味を通すのが解釈で、自分達目線で想像するのとは違う。周囲が討ち死にするまで連れ添った美女に、最後に幸せを願って別れる根拠が一体どの文言にあるのか。最期まで連れ添うのが一つの男女の幸せのはず(義経は共に東北まで連れて逃れたが、追い込まれて妻子を道連れにしたが、それは義経が野蛮だったからだろうか。妻ならどう思うだろうか)。

 なお、「朝日将軍」とは由来未詳の義仲の自称とされるが、これは(自分こそ日本の正統な)朝廷の将軍、という意味に解すべきものである(独自説。巻八・名虎「朝日将軍といふ院宣」)。またこの木曾最期の戦いを「粟津(あわづ)の戦い」というが、これは最期の最後には会わずと掛けたと解すべきと思う。このように地名と掛かるのも古事記以来の和漢混交文の特徴(会津で会えずと掛けた)。平家は古事記の内容(草薙太刀・天岩戸)を参照している。このような掛かりが神掛かり。

 


 
 木曾は信濃より、巴、山吹とて二人の美女を具せられたり。山吹はいたはりあつて都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長くして、容顔まことに美麗なり。有り難き強弓精兵、弓矢打ち物とつては、いかなる鬼にも神にもあふといふ、一人当千の兵なり。屈強の荒馬乗り、悪所落とし、戦といへば、まづさねよき鎧着せ、大太刀、強弓持たせて、一方の大将に向けられけり。度々の功名、肩を並ぶる者なし。されば今度も多くの者落ち失せ討たれける中に、七騎がうちまでも、巴は討たれざりけり。
 

 木曾は長坂を経て、丹波路へとも聞こゆ。竜華越えにかかつて、また北国へとも聞こえけり。かかりしかども、今井が行方のおぼつかなさに、勢田の方へ落ちゆくほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田を固めたりけるが、その勢わづかに五十騎ばかりに打ちなされ、旗をば巻き、主の行方のおぼつかなさに、都の方へ取つて返して上るほどに、大津の打出の浜にて、木曾殿に行きあひ奉る。中一町ばかりより、互ひにそれと見知つて、主従駒をはやめて寄り合うたり。
 

 木曾殿、今井が手をとつて「義仲六条河原にて、いかにもなるべかりしかども、所々で討たれんより、汝と一所でいかにもならんと思ふ為に、多くの敵に後ろを見せて、これまで逃れたるはいかに」と宣へば、
 今井四郎、「御諚まことにかたじけなく候ふ。兼平も勢田にていかにもなるべう候ひつれども、御行方のおぼつかなさに、これまでのがれ参つて候ふ」と申しければ、
 木曾殿、「さては契りは未だ朽ちせざりけり。義仲が勢、山林にはせ散つて、この辺にも控へたるらん。汝が巻きて持たせたる旗揚げさせよ」と宣へば、今井が旗さし上げたり。都より落つる勢ともなく、また勢田より参る者ともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞ馳せ集まる。
 木曾殿なのめならずに喜び、「この勢あらば、などか最後の戦せざるべき。ここにしぐらうて見ゆるは、誰が手やらん」「甲斐の一条次郎殿の御手とこそ承つて候へ」「勢いかほどあるらん」「六千余騎とこそ聞こえ候へ」「さては互ひによい敵、同じう死ぬるとも、よい敵にあうて、大勢の中にてこそ討ち死にをもせめ」とて、真つ先にぞ進んだる。
 

 木曽左馬頭、その日は赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、いか物づくりの太刀をはき、鍬形うつたる甲の緒をしめ、二十四さいたる石打の矢の、その日の戦に射て、少々残つたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓の真中とつて、木曽の鬼葦毛と聞こゆる名馬に、金覆輪の鞍を置いてぞ乗つたりける。
 鐙ふんばり立ちあがり、大音声を揚げ、「日頃は聞きけんものを、木曽の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守、朝日将軍源義仲ぞや。我と思はん人々は、義仲討つて兵衛佐に見せよや」とてをめいてかく。
 一条次郎、「ただいま名乗るは大将軍ぞ。余すな者ども、もらすな若党、討てや」とて、大勢の中に取りこめて、我討つとらんとぞ進みける。
 

 木曾三百余騎、六千余騎が中へ駆け入り、縦様、横様、蜘蛛手、十文字に懸け破つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりけり。そこを破つてゆくほどに、土肥次郎実平、二千余騎で支へたり。そこをも破つてゆくほどに、あそこにては四五百騎、ここにては二三百騎、百五十騎、百騎ばかりが中を、懸け破り懸け破りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎がうちまでも、巴は討たれざりけり。
 

 木曾殿、巴を召して、「己は女なれば、これよりとうとういづちへも落ちゆけ。義仲は討ち死にをせんずるなり。もし人手にもかからずは、自害をせんずれば、木曾の最後の戦に、女を具せられたりなんど、言はれん事こそ口惜しけれ。とうとう落ちゆけ」と宣へども、なほ落ちもゆかざりけるが、あまりに強う言はれ奉て、「あつぱれよからう敵がな。木曾殿の最後の戦して見せ奉らん」とて、ひかへて敵を待つ所に、武蔵国に聞こえたる大力、恩田八郎師重といふ、三十騎ばかりで出で来たり。
 巴その中へ駆け入り、恩田八郎に押し並べ、むんずととつて引き落とし、我が乗つたりける鞍の前輪に押しつけて、ちつとも働かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。その後巴は物の具脱ぎ棄て、東国の方へ落ちぞゆく。
 手塚太郎討ち死にす。手塚別当落ちにけり。
 

 木曽殿、今井四郎ただ主従二騎になつて宣ひけるは、「日頃は何ともおぼえぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや」と宣へば、今井四郎申しけるは、「それは味方に続く御勢が候はで、臆病でこそさは思し召され候ふらめ。御身もいまだ疲れさせ給ひ候はず、御馬も弱り候はず。何によつてか一領の御着背長は重うは候ふべき。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召され候はずや。射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防ぎ矢つかまつり候はん。あれに見え候ふは、粟津の松原と申す。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静かに御自害候へ」とて、打ちゆくほどに、また新手の武者五十騎ばかりで出で来たり。
 「兼平はこの御敵防ぎ参らせ候はん。君はあの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、義仲、「六条河原にていかにもなるべかりしかども、汝と一所でいかにもなり候はん為にこそ、これまでは逃れたれ。一所でこそ討ち死にをもせめ」とて、馬の鼻を並べ、すでに駆けんとし給へば、
 今井四郎、急ぎ馬より飛びおり、主の馬の口に取り付き、涙をはらはらと流いて申しけるは、「弓矢取りは、年頃日頃いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、長き瑕にて候ふなり。御身もはや疲れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱り候ひぬ。味方に続く御勢はなし。大勢の中に押し隔てられ、いふかひなき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に聞こえさせ給へる木曽殿をば、某が郎等の手にかけて討ち奉たりなんぞ申されん事こそ口惜しう候へ。ただ理を曲げて、あの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、木曽殿、さらばとて、ただ一騎粟津の松原へぞ駆け給ふ。
 

 今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ懸け入り、鐙ふんばり立ちあがり、大音声を揚げて、「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見給へ。木曾殿の乳母子に、今井四郎兼平とて、生年三十三にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉殿までも知ろしめされたるらんぞ。兼平討つて兵衛佐殿の見参に入れよや」とて、八筋の矢を、さしつめひきつめ散々に射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後打物の鞘を外いて散々に切つてまはるに、面を合はする者ぞなき。ただ、「射とれや殿ばら」とて、矢先揃へて、雨の降るやうに差しつめ引きつめ、散々に射けれども、鎧よければ裏かかず、開き間を射ねば手も負はず。
 

 さるほどに、木曾殿はただ一騎、粟津の松原へかけ給ふ。頃は正月二十一日、入相ばかりの事なるに、薄氷は張りたりけり。深田ありとも知らずして、馬をざつと打ちいれたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず。
 今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎為久、おつかかり、よつぴいてひやうど放つ。木曾殿内甲を射させ、痛手なれば、甲の真甲を馬のかしらにあててうつぶし給へる所を、石田が郎等二人落ちあひて、木曾殿の首をば終に給つてんげり。
 太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を揚げて、「この日頃日本国に聞こえさせ給へる木曾殿をば、三浦の石田次郎為久が、討ち奉るぞや」と名乗りければ、今井四郎、戦しけるがこれを聞いて、「今は誰をかばはんとて、戦をばすべき。これ見給へ東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。さてこそ粟津の戦はなかりけれ。
 

河原合戦 平家物語
巻第九
木曾最期
きそのさいご
樋口被討罰